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しおりを挟む「治ったようだ」
「……ありがとう、ルイス」
テオドールは獣人が魔力を持ちながら魔法を扱うことのできない存在であると言っていたが、もしかすると、ルイスと同じように力の制御が苦手であるが故に扱う方法がわかっていなかっただけなのかもしれない。よく訓練すれば、ルイスのように強大な力を生み出すこともできるだろう。
ソフィアなど霞むほどの偉大な魔術師となりうる大きな可能性を秘めている。彼はもはや、ソフィアの助けなど必要としない。
ソフィアはひっそりとそのことに思い至り、痛む胸を押し隠した。
——もう、英雄ルイス・ブラッドに、ソフィアの力は必要ない。それどころか、彼の輝かしい未来を脅かす邪魔者にしかならないのだ。
「ルイスはすごいわ」
「……またライと同じ扱いか?」
「そうではないけれど」
時は満ちた。
帝王は死に、テオドール・フローレンスも死を待つばかりだろう。悪しき者は排除され、平和が訪れる。
悪しき時代に甘い蜜を啜り続けた悪党は、全てこの時に葬り去られる。ソフィアもまた、そうして時代に葬り去られる一人だ。
別れが近い。すぐ目の前に迫っている。
しかしこれは、全て初めから定められていた別れだ。
悪女の体調に気遣いながら、ルイスがゆったりと歩いて行く。ソフィアは、いまだに彼女の身体を離そうとしない英雄の姿に胸を引き裂かれるような思いで声をあげた。
「……どこへ向かっているの?」
「貴女を知る者がいないところだ」
「なぜ」
「……フィアの命が狙われるからだ」
聡明な騎士が言った。
ソフィアは、彼がユリウスの命を受けているらしいことを悟り、静かに微笑む。
ユリウスは、初めからこの筋書きには異を唱えていた。
「ユリウス様の入れ知恵かしら」
ソフィア・フローレンスは多くの罪を犯しすぎている。
革命を起こすと決めた当初からユリウスとソフィアは、この筋書きを巡って何度も議論を積み重ねていた。
「……そうだ」
ソフィア・フローレンスは稀代の悪女だ。ユリウスが悪しき帝王を廃するとき、必ずもう一つ、行わなくてはならないことがある。
それは、獣人へ残虐な行動を繰り返してきた悪しき者への処罰だ。フローレンス家の者は、そのシンボルにうってつけだった。
新王は、テオドールをはじめとするフローレンス家の者を公正な場で罰したうえで、獣人と人族の協和の道を目指すべきだ。
しかし、強大な魔力を持つテオドール・フローレンスを矢面に出すのは危険が伴う。彼は秘密裏に粛清し、代わりにソフィアが罰せられる者の象徴として立ち、ユリウスに敗れる。
それがソフィアの思い描く物語の結末だ。
「殿下……、いや、ユリウス陛下は、フィアに汚名を着せることを望んでいない」
ユリウスは初めのころ、たびたびこの計画に疑問を唱えていた。ソフィアは残虐な悪女ではない。それを知る彼は、いかなる方法を使ってでもソフィアの名誉を守るべきだと言っていたのだ。
やはり、彼はまだその未来を諦めていなかったようだ。ソフィアはユリウスの優しさに小さく笑いながら、ルイスの頬に手を添えた。
「ルイス」
「……いい子にできないか?」
この道を行けば、ルイスも泥をかぶることになる。
ソフィアは切なげな瞳を浮かべるルイスを記憶に焼き付けるように見つめ、優しく微笑んだ。
彼との日々は、ソフィアにとって、最も愛おしく美しい記憶となった。ソフィアが息絶えるその時に思い出す最も幸福な奇跡となる。
愛のなんと勝手で気まぐれなことか。
ソフィアは決して結ばれるはずのない男の乞うような瞳をかき消そうと彼の頬に、優しく手を触れさせた。
「好きよ。ルイス」
心から囁いたソフィアは、目を見張ったルイスの唇に自分のものを重ね、彼の頭を撫でる。
彼はソフィアの意思に反することなく静かに瞼を下ろし、口づけを受け入れた。
優しくも甘い、夢のようなひと時だ。——しかし、夢はいずれ醒める。
ソフィアは、ルイス・ブラッドを受け入れると決めたその時から、この未来が来ることを予測していた。
彼女はユリウスが己を逃がそうとすることも、その相手にルイスを選ぶだろうこともよくわかっていた。だが、彼女は初めから、その計画に乗るつもりがなかった。
「フィア」
「ルイス・ブラッド、貴方は私を嫌いになる」
誰よりも近くで囁いたソフィアは、もう一度ルイスの唇に己のものを重ね合わせた。
対象物からの感情を嫌悪に変える魔法は、至って簡単だ。
特に、相手が術師に心を許していればいるほど、術の行使は容易になる。
ルイスの力のおかげでたっぷりと魔力を回復したソフィアは、難なく精神魔法の魔方陣をルイスの後頭部へ刻んだ。
ソフィアには、人の心を操る類の精神魔法は使わないという己の矜持を破ってでも、大切にしたい一つがあった。
——ルイス・ブラッド。
「貴方は私を誰よりも憎しみ、番であることも、これまでの記憶も、忘れてしまうわ。そう。いい子ね。……貴方はルイス・ブラッド。この世で最も……」
虚ろな目をする男の頬を撫でたソフィアは、不自然に己の声が縺れるのを感じ、ゆっくりと呼吸を落ち着けた。
身体が震えている。何かが頬を滑り落ちる感触を味わったソフィアは、それを押し隠すように息を吸い込んだ。
虚ろにソフィアを見つめるルイスが、無意識に手を差し伸べてくる。しかし、その手がソフィアの涙に触れることはなかった。
「……この世で最も、ソフィア・フローレンスを憎んでいる」
最後まで術を吹き込み終えたソフィアは、己を抱え上げていた腕が離されるのを感じ、地面に零れ落ちた。
痛みはない。ただ、空気が凍り付いたのを感じ、ソフィアは無様に倒れ込んだまま、嘲笑を浮かべる。
後悔はしない。
ソフィアの人生には、眩しすぎる光だった。永遠に抱きしめていたいと思えるような優しい記憶を与えられたことだけでも、ソフィアは胸が詰まって泣き出してしまうほどに幸福だったと思える。
冷えきった音が鳴った。
少し前に己の父の胸を貫いた剣がソフィアの首に突き付けられた音だと気づいた彼女は、泣き出しそうな瞳に力をこめて視線を上げる。
「……お前、なぜここにいる」
変わり果てた声を聞いたソフィアは、努めて下卑た笑いを浮かべた。何度も見た兄たちの笑みをやすやすと浮かべられるらしい自身に嫌悪感を抱きながら、ソフィアは吐き捨てるように言う。
「汚らわしい。獣などに答える必要は……」
「それ以上口を開く必要はない。そうか。……そうだ、お前を王宮へ連行する途中であったな。フローレンス」
「……っ、痛」
後ろから両手を掴みあげられたソフィアは、思わず声をあげ、口を噤んだ。
ソフィアの声で怒れる騎士の行動が止まるはずもない。少し前にソフィアの傷を治したルイスは、あっけなくその腕にもう一度傷を作り、彼女の身体を引き摺って行く。
「放しなさ、い」
「殺されたくなければ黙れ」
「何を……っ」
「フローレンス、俺はお前が憎い。うっかり殺されたくなければ口を縫っておけ」
厳しく言い咎めたルイスに、ソフィアはたまらず息をのんだ。
物のようにソフィアを運んだルイスは、簡素な馬車に彼女を投げ入れ、監視するために入り込んできた。彼の指先は常に剣の柄に添えられている。
ルイスはこの馬車でソフィアと、どこか遠く、誰も知らぬ地へ逃げようとしていたのだろうか。
誰一人答えを持たない問いに嘲笑を浮かべたソフィアは、冷たく睨みつけられる痛みをかき消すように拳を握り続けていた。
ユリウスよりも先に大勢の革命軍に顔を見られれば、ユリウスがどれほど拒絶しようとソフィアの断罪は免れられない。
ただ、ルイスの名誉を守るためだけに、彼の人生を幸福のもとに置くためだけに、そして、これまで消えていった命への償いのためだけに、こうして馬鹿馬鹿しくも罰を受けようとするソフィアを、ユリウスはどう思うだろうか。
ユリウスとは、ソフィアの罪を流刑に処することで国民に納得させようと話し合っていた。
「フローレンス、出ろ」
ソフィアは乱雑にとめられた馬車から引き摺るように下ろされ、煌びやかな王宮の地下に投げ込まれる。
冷たく、錆びついた匂いのする牢獄だ。
ソフィアはあの煌びやかな王宮の地下に、このようなおどろおどろしいものがあるとは知りもしなかった。
「……明日、沙汰が言い渡される。それまでお前がおかしな行動を取ろうものなら、真っ先に俺が殺しに来る」
「随分と好かれているようで、うれしいわ」
「ほざいてろ」
はっきりと嫌悪の眼差しを向けられたソフィアは、それ以上悪態をつくこともできず、その場に座り込んでしまった。
「無様だな」
——本当に、その通りだわ。
独り静かに笑ったソフィアは、蠟燭の光だけが映る部屋で自身の身体を抱きしめた。どれほど冷たくなろうと、ソフィアの身体を抱きしめる者はいない。ルイスが今、ソフィアの両腕にくっきりと浮かぶ鬱血に触れ、慈しみながら治そうとすることはない。この先も一生ないだろう。
「でも、それで、いいわ」
流刑を受けた暁には、ソフィアは必ずフェガルシアへ行くことを決めていた。ユリウスにも願い出ていたことだ。ソフィアの願いはただ一つ、ミュリと約束したサクラの木を見に行くことだけだった。それが叶えば、この世界に未練など一つもない。
そうなるはずだった。
——危険があれば必ず呼べ。
——愛している。
——貴女しかいらない。
——貴女のこの先の人生に希望があるのなら、俺はその隣に在りたい。絶望なら、俺が食らい尽くす。フィア。
全て、叶えるにはあまりにも美しすぎる願いだ。
いくつもの死を見た。ソフィアはその死の一つひとつに贖うすべが、ただ一つしか見当たらないのだ。
どこで死んでも構わなかった。死を望んでさえいる。ミュリやあの邸に生きた優しい人たちや、ソフィアの犠牲となって儚く散っていった者たちを思うとき、ソフィアは常に良心の呵責に苛まれ、この道以外を探し当てることができなかった。
フェガルシアの地で眠る。美しいサクラを抱いて、ともに朽ちる。ただ一つ、それだけを願いにして、ソフィアはここまで歩み続けてきた。
誰にも心を許すつもりはなかった。ソフィアは孤独であることを選び続けていた。
己が幸福のうちに生きる事を、自分自身が最も憎んでいたからだ。
「ミュリ……、どうしてこうも、心は難しいのかな」
囁く声は、無様に震えていた。瞼の裏に、美しい思い出ばかりが蘇る。
「私の心に、忘却の魔法をかければよかったわ」
そうすることができない理由には、気付いている。ソフィアは忘れたくなかった。清く優しく温かく、最も愚かしい記憶を、大事に心に抱きしめたまま死に行きたい。
「フローレンスの悪女が、きいて、あきれる」
嘲笑するように囁いたソフィアは、腕に刻まれた鬱血を胸に抱き寄せながら、静かに意識を途切れさせた。
痛みさえ愛おしいのなら、それはもう、ただの愛だろう。
この殺伐とした残酷な世界の片隅に、これほど愛おしいものがある。ソフィアはその奇跡にうっとりと心を癒しながら、優しく温かい夢だけを見続けていた。
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