不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

文字の大きさ
11 / 52

STEP 0 「俺を選んでくれた理由を聞いても良いですか」

しおりを挟む
 何とか最終選考会で春採用の人員を満たし、一息吐いたころには、異動日になっていた。

 連日の残業で、ほとんど頭が回っていなかった。ただがむしゃらに、児島の言葉に負けたくなくて、この会社に泥を塗りたくない一心で働き続けていた。可憐に交際相手ができて、採用の仕事は、ようやくすこしうまく行って、新しい仕事に頭はぐちゃぐちゃで、そのころは、部屋に入った瞬間に倒れ込んで眠るような日が続いていた。

 がむしゃらに働き続けて、配属先でも必死になっていた。だからこそ、どうしようもなく、八城の自然な厚意が胸に突き刺さったのだと思う。

『小宮さん? 八城です。これからよろしくお願いします。結構仕事発注しすぎて迷惑かけるかも』
『あれ、また残業?』

 初めから、悪意なく、まっとうに私のことを評価してくれていた。ほんのわずかな不調にも気付くような人だ。

『小宮さんもお疲れ。これ、さっき下で買ったんで、甘いもん嫌いじゃなければ食ってください』
『こいつしつこいから、小宮さんは無視していいよ』

 ――悔しいけれど、本当に、児島の思惑通りになっている。

 もともと、八城には好意があった。

 オフィスで見かければ目で追ってしまうくらいには、あこがれている男性だった。それが近くで、何気なく声をかけてくれる人になったら、気持ちが浮ついてしまうに決まっている。

 八城に声をかけたのは、三か月前に開催された忘年会の日だった。慣れない営業の補佐業務と、最終選考の準備で疲れ切っている身体は、グラス一杯のお酒に口を付けただけで、酔いが回った。

 忘年会でも、営業部一課の明るい男性たちに囲まれている彼をそっと盗み見て、ばっちりと目が合ってしまった。笑って首を傾げられれば、慌てて頭を横に振る。

 私にとっての八城春海とは、くるしい仕事の合間に会える、すてきな人だった。今までの人生のほとんどを女子校で生きてきた私は、児島が言う通り、男性経験のない、枯れた女だと思う。彼に好意を抱かれるようなすてきな女性ではない。

「小宮さん~? 飲んでる?」
「あ、木元さん」
「もっと飲まなきゃ!」
「あ、りがとうございます」

 自分自身が児島の思うような寿退社ができる人間ではなかったことを喜ぶべきなのか、最近は深く考え込んでいる。例えば枯れきった私の初体験を捧げるなら――。

「小宮さん? もう終わりだけど、帰れますか?」
「あ、や、しろさん……?」
「はい、八城です」
「えっ!? もう、皆さん移動したんですか」
「うん、二次会行きたい奴らが率先して出ていきました」
「あ、ごめんなさい、ぼうっとして」
「酔ってないですか」
「はい、ぜんぜん」

 頭に思い浮かべていた男性が目の前に立っていることに衝撃を受けた。慌てて立ち上がろうとすれば、身体が勝手によろけてしまう。

「お、っと」
「あ、ごめん、なさい」
「いえいえ。触っちゃってごめんね」

 きゅっと身体を包むように抱き起されて、一瞬声が喉元に絡まった。至近距離で目が合う。何も言わずに見つめてくる私を、八城は不可思議そうな顔で見下ろしていた。

「小宮さん?」
「すこし、ご相談があるんですが」

 どうしてその時、私の中から『相談』を告げる勇気が出たのか、いまだに分からない。私の言葉にぽかん、と目をまるくした八城が、すこし間を置いて「俺で良いんですか」と問いを立ててくる。嫌がっているわけでも、からかっているわけでもない。こころの底から、自分で役に立てるのか分からないとでも言いたいような思慮深い声だった。

 いつも溌溂として、自信に溢れた声をあげている人とは思えない音が聞こえて、勝手に勇気が顔を出してしまった。

「八城さんが、良いんです」
「……俺で力になるなら?」
「はい。……今からでも、お話できますか」
「かなり酔ってない?」
「よっていても、へっちゃらです」
「へっちゃら?」

 ふ、と優しく微笑んだ八城の声に、勝手に好きがこぼれて、こっそりと胸を押さえた。

 とんでもないことを願い出るから、きっと八城には断られてしまうだろう。未来を知っていても、八城が選んでくれた静かなバーに足を踏み入れて、人影のない席に座った。

 二人きりにはならないけれど、プライバシーは保たれていることが分かるような場所だ。こんなお洒落な店を知っている八城に、私の初体験を貰ってほしいなんて口にするのはおかしなことだ。

「どうして笑ってるんですか」
「あ、ごめんなさい。なんだか、八城さんと二人で居られるのが、不思議で」
「そう? 嫌じゃなきゃ良いんですが」
「もちろんです」
「……相談は、話したいタイミングで、どうぞ」
「はい」

 八城は一次会でも、散々社員の全員に話しかけられていた。八城自身も、一人ひとりの席に行って、飲み物を注いだりしながら声をかけていた。気遣いのできるすてきな人だ。

 八城が、可憐の仲良しの先輩――絢瀬菫に振られてしまったことは、可憐から聞き知っていた。あの噂は、嘘ではない。だから、本気の八城が、どれだけ情熱的にアプローチを仕掛けられる人なのかも本当は知っている。つまり私は、こんなにも同僚として配慮をして見つめてくれている八城が、私に好意を持っているはずもないことをよく理解していた。

「お願いがあるんです」
「俺に?」
「はい」

 彼女になりたいだなんて言わない。おこがましいことを知っている。だから、一度、思い出をくれるだけでいい。何度か考えていたことみたいに、嘘のシナリオが頭に浮かんだ。

 たぶん、無意識のうちに、八城にアプローチを仕掛ける方法を考えてしまっていたのだと思う。職場の男性社員を性的な目で見ている不埒な自分のことを、こころから恥じた。けれど、ここまで来たら、もう戻れない。

「率直に、言います」
「はい。どうぞ」

 八城にチョイスを任せたお酒を口に含んで、一つ息を吐く。私の様子を見て、同じように八城がグラスに唇をつけた。

「私の初体験を、もらってくれませんか」

 はっきりと口に出して目を見れば、八城は指先で口元を押さえつつ、グラスをテーブルに置き直していた。

「あ、ごめんなさい、おどろかせて」
「……いや、ごめん。想定しない言葉が出てきて、ちょっと」
「突然驚きますよね」
「いや、突然というか、まさか、業務の話じゃないとは思わなくて」
「ごめんなさい」

 青天の霹靂といったところだろう。じっと見つめれば、すぐに混乱の色をひっこめた八城が、考え込むようにテーブルに肘をついて額を押さえた。俯いた角度から、私を見上げてくる。ひどくセクシーな表情に、勝手に胸を掴まれてしまった。

「俺が理解している意味と、間違えてないですよね」

 悩んでいたような体勢をすぐに改めた八城が、椅子に座りなおして私の瞳を見下ろしてくる。

「はい、たぶん。……その、だ、いてほしい、という意味、です」
「……どうしてそんなこと、頼もうと思ったんですか」

 まず間違いなくそれを聞かれることは想定していた。ここで、あなたが好きだからですなんて言ってしまったら、八城は絶対に断ってくるだろう。ずるい考えが浮かんで、口がぺらぺらと動いた。

 人生で、一番上手に嘘がつけた気がする。

「好きな人がいるんです」
「……はい」
「でもその人は、私のお友達が好きで、私は二人のこと、どちらも裏切りたくないんです」
「なるほど」
「はい。だから、もう一生誰かとお付き合いなんて、できなくてもいいと思っているんですが、誰にも女性として愛されたことがないというのも……と、思いまして」
「それで俺?」
「はい」
「俺を選んでくれた理由を聞いても良いですか」

 その理由も、やっぱり、八城が好きだからだ。口から飛び出しかけた本音をアルコールで押し込んで、グラスを置いた。八城はもう、アルコールを摂取する気にはなれないようで、両手を足の上で組んでいる。顔つきは、どちらかというと顰め面に近い。深刻に受け止めてくれていることが分かった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

シンデレラは王子様と離婚することになりました。

及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・ なりませんでした!! 【現代版 シンデレラストーリー】 貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。 はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。 しかしながら、その実態は? 離婚前提の結婚生活。 果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。 絶対に離婚届に判なんて押さないからな」 既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。 まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。 紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転! 純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。 離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。 それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。 このままでは紘希の弱点になる。 わかっているけれど……。 瑞木純華 みずきすみか 28 イベントデザイン部係長 姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点 おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち 後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない 恋に関しては夢見がち × 矢崎紘希 やざきひろき 28 営業部課長 一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長 サバサバした爽やかくん 実体は押しが強くて粘着質 秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~

猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」  突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。  冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。  仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。 「お前を、誰にも渡すつもりはない」  冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。  これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?  割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。  不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。  これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。

課長のケーキは甘い包囲網

花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。            えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。 × 沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。             実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。 大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。 面接官だった彼が上司となった。 しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。 彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。 心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

処理中です...