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STEP 0 「俺にください」
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予想外のことが起きた。何を言われているのか、まったく理解が追い付かずに、さび付いた玩具のようにぎこちなく八城の顔を見上げる。
あの日の私は、もう、それはもう、一世一代の決心で、口に出した願いを、あっさりと断られてしまったはずだ。ほんの一か月前のことだった。
断られるだろうことを前提に声に出していたから、振られることはわかっていた。それなのに――。
「小宮さん」
「は、い」
「あいつじゃなくて、俺にくれませんか」
何を、と言われなくてもはっきりと分かっている。私の手に触れていた指先がコーヒーを奪って、簡単にプルタブに触って、口を開いて手渡してくる。鮮やかな動きにワンテンポ遅れてから、手を差し出した。
「あ、りがとう、ございます」
「それは俺の提案への返事だと受け取っても良い?」
「え?」
「まだ、空いてるなら、俺がもらいたいんですが、どう?」
圧倒的なスピード感に押されて、何も言えずにただ見つめてしまう。言われている意味が、まったくよく理解できない。どうして、急に、こんな何のメリットもない交渉に乗ろうと思ってくれたのだろうか。
「どういう、心境の変化が」
「言葉の通り、小宮さんが欲しいと思っただけだよ」
私が想像する以上に、ものすごいスピードで答えを用意されてしまった。目を回していれば、小さく笑われてしまう。
「小宮さんの好きな男、花岡?」
「ええっ!?」
答えられないうちに、とんでもない方向へと話が進んでしまう。あの日、ぼんやりと焦点をずらして嘘を吐いたはずが、誰をイメージしていたのか、バレてしまっていたらしい。
実際の私は花岡ではなく八城に好意を抱いているのだけれど、それを口に出すわけにはいかない。言い淀んでいれば、八城が腰を曲げて顔を覗き込んできた。
「それは小宮さん、しんどいな」
「わ、八城さ、ん」
まるで、褒めるような手つきで頭をぽんぽんと撫でられてしまった。一瞬呼吸が止まりかけて、必死に息を繋いでいる。たしかに、我ながらかなり苦しいポジションにいるような嘘を吐いてしまった。実際の私は、可憐と花岡がうまく行くようにかなりのお節介をしたくらい、二人の関係を応援している外野の一人なのだけれど。
真正面から瞳を覗き込まれている。すぐ近くに輝く瞳を見つめて、小さく笑われた。
「俺にください」
「や、しろさんが、もらってくださるんです、か」
願ってもないことだ。ぐるぐると頭が回って、目眩がしそうになる。私のことをしっかり観察した八城が、今度は乱すように私の頭を撫でて、柔らかく笑う。
「条件があるんですが」
営業マンらしい交渉の言葉に、目が点になりかけてしまった。もらってください、じゃあいただきます、で終わりではないようだ。背筋を伸ばして椅子に座りなおしたら、八城はまた楽しそうに微笑んでくる。――そんなふうに、悪戯っぽく笑うのか。
一人で、秘密を見たような気持ちになって、胸のくすぐったさに降参してしまいたくなった。
「しばらくの間、小宮さんの交際相手みたいに振る舞っても良いですか」
「え?」
「小宮さんの誘惑に耐えられなくなったら、抱きます」
「ゆ、うわく」
「できない?」
「え、ええ」
一晩限りのお付き合いをお願いしているつもりが、とんでもない言葉を吹っ掛けられてしまっている気がする。八城がどうしてこんなことをしようと思ったのか、皆目見当もつかない。
「それから、やっぱり嫌だと思うことがあれば、すぐに言うこと」
もらってくださいと言ったのは私の方なのに、どうしてか、私に選択権を与えてくれる。関係性を進めて、やっぱり好きな人でなければできないと思ったときに、八城は手を引いてくれるということなのだろうか。
『好きな相手に、大事にしてもらったほうが良い』
ふいに、八城の声が耳元に思いだされる。
「……やさしいですね」
こころから思って囁いたのに、八城は一度目をまるくして、顔を綻ばせて笑った。
「まさか。俺も、嫌になられないよう、必死で引き留めます」
「ひ、き留めてくれるんですか」
「もちろん。小宮さんみたいな魅力的な女性のはじめてをもらうなんて、男なら誰でも飛びつきますよ」
「え、ええ? じゃあ、誘惑、します」
「あはは。どうぞ。全力で来て」
身体をかがめたまま、八城の優しい指先が乱した髪を整え直して、耳にかけてくれる。丁寧な手つきで触れられるだけで、胸がぎゅっと痺れて止まらなくなる。
――この手に愛してもらえるのだろうか。まったく、想像ができない。この、誰にでも好かれるスマートな男性を、私が誘惑できる日が来るとは思えずに、始まる前から困り果ててしまった。
「……もう不安です」
「なんで?」
「だって、八城さんがかっこよくて」
「……うん?」
「誘惑どころか、心臓破裂しちゃうかも」
真剣に胸を手で押さえてつぶやいたのに、八城はまたしても目をまるくしてから声をあげて笑った。
「はは、小宮さんは素で可愛いんだ」
「かわいい?」
「うん。もうちょっとやられかけた」
眩しいくらいにきらきら笑う八城に甘く囁かれて、胸が壊れかける。捻じれて、元に戻らなくなってしまいそうだ。こんなにも甘く囁きかけてくれる人なのだとは知らない。
どうしたら良いのか分からずに無意識に俯いて、視線が足元をうろうろしてしまう。何度考えなおしても、見当もつかない。おずおずと八城に視線を戻して、小さく尋ねてみる。
「今の、その言葉には、なんて言い返せばいいんですか」
困り果ててつぶやいたら、八城はまたたのしそうに目を細めてそっと囁き入れてきた。八城の声だけで、誘惑されっぱなしだ。八城は、私がたっぷりと誘惑されて、怖気づいて逃げ帰るのを待っているのだろうか。
「そのかわいい顔で満点の返しだと思うよ」
「かわいい顔……という、のは、」
「金曜日は、ノー残業デーですね」
「は、い」
突然の話題変更におどろいて頷けば、目の前の人も同じように頷いてくれる。金曜のノー残業デーはもちろん形式的なもので、私のように日常的に残業を余儀なくされている社員もいるけれど、だいたいの社員が、遵守しようと心掛けているものだ。
「じゃあ、毎週金曜は、俺のために、予定を空けてください」
「よてい、です?」
「ん。だから、金曜は、絶対残業禁止」
「それ、は……」
もしかすると、私の残業の多さを見て、この誘いを持ち掛けてくれたのだろうか。本気で、そう思ってしまうような提案だった。
「もし残業になるんなら、俺が手伝いますんで」
「ええ、八城さんが? それはだめです」
「じゃあ、これ以上仕事引き受けないように」
疑似恋愛を持ち掛けられている割に、どうしてか、上司に気遣われているような気分になってしまう。
「できますか」
「……がんばり、ます」
天下の八城春海に、私の仕事を手伝わせるわけにはいかない。それだけは絶対に守らなければならないと誓って、小さく頷く。
この時はまだ、私は本当の意味で八城春海の恐ろしさを知らなかった。知っていたら、疑似恋愛なんて、受け入れもしない。
「よし。いい子」
頼れる兄のような言葉は、今にして思えば、すでにどろどろに甘いカラメルのような瞳で、囁かれていたような気がする。
「よろしくね、小宮さん」
あの日の私は、もう、それはもう、一世一代の決心で、口に出した願いを、あっさりと断られてしまったはずだ。ほんの一か月前のことだった。
断られるだろうことを前提に声に出していたから、振られることはわかっていた。それなのに――。
「小宮さん」
「は、い」
「あいつじゃなくて、俺にくれませんか」
何を、と言われなくてもはっきりと分かっている。私の手に触れていた指先がコーヒーを奪って、簡単にプルタブに触って、口を開いて手渡してくる。鮮やかな動きにワンテンポ遅れてから、手を差し出した。
「あ、りがとう、ございます」
「それは俺の提案への返事だと受け取っても良い?」
「え?」
「まだ、空いてるなら、俺がもらいたいんですが、どう?」
圧倒的なスピード感に押されて、何も言えずにただ見つめてしまう。言われている意味が、まったくよく理解できない。どうして、急に、こんな何のメリットもない交渉に乗ろうと思ってくれたのだろうか。
「どういう、心境の変化が」
「言葉の通り、小宮さんが欲しいと思っただけだよ」
私が想像する以上に、ものすごいスピードで答えを用意されてしまった。目を回していれば、小さく笑われてしまう。
「小宮さんの好きな男、花岡?」
「ええっ!?」
答えられないうちに、とんでもない方向へと話が進んでしまう。あの日、ぼんやりと焦点をずらして嘘を吐いたはずが、誰をイメージしていたのか、バレてしまっていたらしい。
実際の私は花岡ではなく八城に好意を抱いているのだけれど、それを口に出すわけにはいかない。言い淀んでいれば、八城が腰を曲げて顔を覗き込んできた。
「それは小宮さん、しんどいな」
「わ、八城さ、ん」
まるで、褒めるような手つきで頭をぽんぽんと撫でられてしまった。一瞬呼吸が止まりかけて、必死に息を繋いでいる。たしかに、我ながらかなり苦しいポジションにいるような嘘を吐いてしまった。実際の私は、可憐と花岡がうまく行くようにかなりのお節介をしたくらい、二人の関係を応援している外野の一人なのだけれど。
真正面から瞳を覗き込まれている。すぐ近くに輝く瞳を見つめて、小さく笑われた。
「俺にください」
「や、しろさんが、もらってくださるんです、か」
願ってもないことだ。ぐるぐると頭が回って、目眩がしそうになる。私のことをしっかり観察した八城が、今度は乱すように私の頭を撫でて、柔らかく笑う。
「条件があるんですが」
営業マンらしい交渉の言葉に、目が点になりかけてしまった。もらってください、じゃあいただきます、で終わりではないようだ。背筋を伸ばして椅子に座りなおしたら、八城はまた楽しそうに微笑んでくる。――そんなふうに、悪戯っぽく笑うのか。
一人で、秘密を見たような気持ちになって、胸のくすぐったさに降参してしまいたくなった。
「しばらくの間、小宮さんの交際相手みたいに振る舞っても良いですか」
「え?」
「小宮さんの誘惑に耐えられなくなったら、抱きます」
「ゆ、うわく」
「できない?」
「え、ええ」
一晩限りのお付き合いをお願いしているつもりが、とんでもない言葉を吹っ掛けられてしまっている気がする。八城がどうしてこんなことをしようと思ったのか、皆目見当もつかない。
「それから、やっぱり嫌だと思うことがあれば、すぐに言うこと」
もらってくださいと言ったのは私の方なのに、どうしてか、私に選択権を与えてくれる。関係性を進めて、やっぱり好きな人でなければできないと思ったときに、八城は手を引いてくれるということなのだろうか。
『好きな相手に、大事にしてもらったほうが良い』
ふいに、八城の声が耳元に思いだされる。
「……やさしいですね」
こころから思って囁いたのに、八城は一度目をまるくして、顔を綻ばせて笑った。
「まさか。俺も、嫌になられないよう、必死で引き留めます」
「ひ、き留めてくれるんですか」
「もちろん。小宮さんみたいな魅力的な女性のはじめてをもらうなんて、男なら誰でも飛びつきますよ」
「え、ええ? じゃあ、誘惑、します」
「あはは。どうぞ。全力で来て」
身体をかがめたまま、八城の優しい指先が乱した髪を整え直して、耳にかけてくれる。丁寧な手つきで触れられるだけで、胸がぎゅっと痺れて止まらなくなる。
――この手に愛してもらえるのだろうか。まったく、想像ができない。この、誰にでも好かれるスマートな男性を、私が誘惑できる日が来るとは思えずに、始まる前から困り果ててしまった。
「……もう不安です」
「なんで?」
「だって、八城さんがかっこよくて」
「……うん?」
「誘惑どころか、心臓破裂しちゃうかも」
真剣に胸を手で押さえてつぶやいたのに、八城はまたしても目をまるくしてから声をあげて笑った。
「はは、小宮さんは素で可愛いんだ」
「かわいい?」
「うん。もうちょっとやられかけた」
眩しいくらいにきらきら笑う八城に甘く囁かれて、胸が壊れかける。捻じれて、元に戻らなくなってしまいそうだ。こんなにも甘く囁きかけてくれる人なのだとは知らない。
どうしたら良いのか分からずに無意識に俯いて、視線が足元をうろうろしてしまう。何度考えなおしても、見当もつかない。おずおずと八城に視線を戻して、小さく尋ねてみる。
「今の、その言葉には、なんて言い返せばいいんですか」
困り果ててつぶやいたら、八城はまたたのしそうに目を細めてそっと囁き入れてきた。八城の声だけで、誘惑されっぱなしだ。八城は、私がたっぷりと誘惑されて、怖気づいて逃げ帰るのを待っているのだろうか。
「そのかわいい顔で満点の返しだと思うよ」
「かわいい顔……という、のは、」
「金曜日は、ノー残業デーですね」
「は、い」
突然の話題変更におどろいて頷けば、目の前の人も同じように頷いてくれる。金曜のノー残業デーはもちろん形式的なもので、私のように日常的に残業を余儀なくされている社員もいるけれど、だいたいの社員が、遵守しようと心掛けているものだ。
「じゃあ、毎週金曜は、俺のために、予定を空けてください」
「よてい、です?」
「ん。だから、金曜は、絶対残業禁止」
「それ、は……」
もしかすると、私の残業の多さを見て、この誘いを持ち掛けてくれたのだろうか。本気で、そう思ってしまうような提案だった。
「もし残業になるんなら、俺が手伝いますんで」
「ええ、八城さんが? それはだめです」
「じゃあ、これ以上仕事引き受けないように」
疑似恋愛を持ち掛けられている割に、どうしてか、上司に気遣われているような気分になってしまう。
「できますか」
「……がんばり、ます」
天下の八城春海に、私の仕事を手伝わせるわけにはいかない。それだけは絶対に守らなければならないと誓って、小さく頷く。
この時はまだ、私は本当の意味で八城春海の恐ろしさを知らなかった。知っていたら、疑似恋愛なんて、受け入れもしない。
「よし。いい子」
頼れる兄のような言葉は、今にして思えば、すでにどろどろに甘いカラメルのような瞳で、囁かれていたような気がする。
「よろしくね、小宮さん」
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