18 / 52
STEP 5 「邪魔されんのムカつくんで」
しおりを挟む
横から覗き込むように見つめられて、胸の音がうるさくなってくる。八城には聞こえていないだろうか。
不安になってしまうくらいに、心臓が激しく動いている気がした。すこし前に八城にされたキスは、強烈に記憶に残っている。初心者すぎたからか、瞼をおろす隙も無かった。
ただ、触れる瞬間に柔らかい感覚が唇に下りてきて、気づけば八城の顔が視界いっぱいに映り込んでいた。
昔経験したファーストキスなんて、たぶんもっと拙かったはずだ。
うまくできるのか、分からない。
もちろんキスなんて練習する方法も知らないから、結局八城にしてもらったことをなぞるしかできない気がする。
覚悟を決めて居住まいを正せば、八城が空気を吐くように小さく笑った。
ジャケットを脱いで、ネクタイを解いてはいるけれど、八城の格好は彼の部屋で見るルームウェア姿とは違って、未だにシャツとスラックスを身に纏った社会人のスタイルだ。
八城の着替えがない私の部屋にいるのだから当たり前だけれど、仕事中の八城を誘惑しているような気分になって、落ち着かない。
「あきなさん?」
「する、します、……する」
「あはは、俺が虐めてるみたいになってない?」
「今から誘惑します、ので、目を閉じてください」
「はは、なんかマジックみたいだな」
「もう、八城さん!」
「はい、ごめんごめん。……閉じました」
綺麗に瞼を下ろした八城の口元が、笑みを浮かべたまま引き結ばれている。笑いをこらえているのだと一目で分かってしまっても、注意をする気にはなれなかった。
腰に回された指先は、しっかりと私の身体にくっついていて、目を瞑ってくれたからと逃げ出そうものならば、すぐに捕まってしまいそうだ。
静かに近づいて、形のよい綺麗な唇に、自分のものを寄せる。
「あ、」
あと数センチで触れる、と思ったところで、軽快なメロディが流れ出した。
私が身体を引く前にぱっちりと姿を覗かせた目が、すこし不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。
睨んでいるのかと思う程、眼光が鋭い。
「お電話、が」
「出る?」
疑問形を投げかけられているはずが「出るな」と言われているように聞こえてしまったのはどうしてだろうか。
ソファの脇に置いた鞄の中に入れっぱなしになっている私のスマホは、そんなに役割の多い器械ではない。珍しい電話だから、緊急の用事の可能性もあると思う。
「出ちゃうんですか」
「……そんな、出てほしくなさそうな」
腰に回った手に、確実に力が込められているのが伝わってくる。わずかに動揺して八城の目を見上げては、止まりそうにない着信音に困り果てている。
「切れない、ので、急ぎかもしれないです」
「ん、じゃあ、そっち優先しなきゃいけなさそうだな」
「八城さん、この、手」
どうにか引き剥がそうと自分の腰に視線を動かして両手で触ってみると、横から低い声が囁き落とされた。
「終わったら、焦らした分も構えよ?」
「焦らしてな、」
「ほら、はやく出ねえと切れんぞ」
「あ、……はい」
ようやく腰から手が離れて、ソファの下にしゃがみこんで脇に置いていたバッグの中からスマホを取り出す。
相手は、二課所属営業社員の中田だ。
「ごめんなさい、中田くんなので、出ますね」
中田から電話が来ることはそう多くない。
もしかすると仕事の話の可能性もある。気持ちを入れ替えて通話を選択しながらスマホを耳にあてれば、後ろからやんわりとした力で腕を引かれて八城の横に座らされてしまった。
すこし前まで座っていた場に舞い戻った身体に吃驚しているうちに、耳から中田の声が聴こえてくる。
『こーみゃ~!』
中田に言葉を返そうとして、ぐっと横から身体を引き込まれる。
一瞬呼吸の仕方を忘れてしまいそうになった。腕を絡めるようにして引き込まれて、八城の胸板に背中の一部がぴったりとくっつく。
慌てて起き上がろうとすれば、指先さえも八城の大きな手にがっちりと呑みこむように握られた。
抵抗する手段は、あっけなく、すべて奪われてしまった。
『こーみーやー? 聞こえてるかあ?』
「……っはい? 中田くん?」
『愛しの中田くんだよ~!』
中田の声色は、電話口からも分かるほど気分がよさそうだ。間違いなく酔っている。
仕事の関係の話ではなかったらしいことに安堵しつつ「どうしたんですか」と聞けば、嬉しそうな声が返ってきた。
話を進めている間にも、八城の指先が動いて、するすると私の手を撫でてくる。
『今さぁ~、同期の堀川と飲んでるんよ~』
「堀川くん?」
『そそ~。研修グループ一緒だったんだよね?』
「そうです」
『うん、小宮に会いたいって言ってるからさあ』
「うん? 堀川くんが?」
長らく会っていない同期の男性社員の顔が一瞬頭に浮かんで、八城の指先が私の指と指の間をなぞるように絡まったら、すべての考えが蒸発してしまった。
『まだ仕事中? 切り上げて一緒に飲まね?』
「お仕事は、」
もう退勤してしまった。と、口に出す前に、八城につながれていた手が攫われて、見まいとしていたほうへと、視線が向かってしまった。
「あ、」
『小宮?』
前に、八城の部屋のソファでされた口づけは、本当に可愛らしい遊びだったのだと、思った。
見せつけるように、八城の目が私を射抜いていた。ゆっくりと開かれた唇の中から、赤い舌が見える。私の手の甲に、食むように唇を寄せて、甘く噛んだ。
「まっ……」
『ん? 来れそう?』
甘噛みしては、愛でるように舌で舐めとってくる。動揺する私の反応を楽しんでいるみたいな目だった。すこしずつ指先のほうへ唇が触れる箇所をずらして、かぷりと人差し指の関節に齧りついた。
八城の目は、どろどろに熱い。
はっきりと、誘惑されているのだと分かる。八城の唇が、小さく動いていた。
「痕、すぐつきそうだな」
何の痕なのか、と問う勇気はなかった。
「ごめんなさ、い。今日はもう、帰ってきてしまったので」
『え、マジで? めずらしい』
「ごめんなさい、ちょっと、切ります」
『え、おい』
無理矢理通話を終了させて、スマホをじっと見下ろす。
八城を見る勇気が持てずに俯いていれば、私の決心が固まる前に、大きな手がスマホに伸びてきて、簡単に攫ってしまった。
「あ、」
「これはもう終わりな」
「まっ、」
「電源切っていい?」
「でんげん、ですか?」
「ん、邪魔されんのムカつくんで」
むかつくと言う割に、淡々とした落ち着いた声色だった。
私の指先を掴んで離さない人の声とは思えない落ち着きように一瞬肩の力が抜けて、小さく頷く。私の頷きを見た八城は、何のためらいもなくスマホの電源を落とした。
八城が丁寧に私の声を聞いてくれていたのは、電源が落ちたスマホをテーブルの上に乗せたその時までだった。
「やしろさ、」
「焦らすのが上手なんだな」
「なに、」
「明菜の誘惑、手伝ってやろうか」
「てつだうって、」
「どんなキス、仕掛けてくれる予定だったのか、当ててやろうか」
「ま、」
「めちゃくちゃ待っただろ」
私が言葉を挟む隙はない。こちらの声を封じるように唇が寄せられて、中途半端に開いた下唇を甘く食まれる。信じられない感触に、反射で手が八城の胸を突っぱねようとした。
握られた手は、びくとも動かない。空いた片手は、まるで私の力など気にも留めない八城の熱に、抵抗を砕かれてしまった。
どうすることもできずに頭を引きかければ、後頭部に大きな手が触れる。
「っ、ん」
未知の感触に唇を引き結んでぎゅっと瞼を瞑っていれば、私の後頭部に差し込まれた八城の指先がゆるりと動いた。下唇を甘く食んだ唇が、曖昧に離れる。
「こんなやつ?」
ほとんど唇同士が触れかけてしまいそうな距離で問いかけられて、わけもわからずに首を横に振った。こんなものをできるはずがない。
八城は私の回答に笑っていた。
「残念」
言葉と、音の響きが一致しない。八城の声は、どこまでも楽しそうになのに、おかしい。
「や、しろさん」
私の問いかけに答えるつもりのない人が、もう一度唇を寄せてくる。引き結ばれている私の唇の形をなぞるように八城が舌を這わせて、丁寧に舐めた。
唇を舐められる感触に背筋が震えて、もう一度八城の胸を叩く。下唇の形を確かめるように舐めてくる八城の舌の熱で、思考能力が機能しなくなってくる。
どこで八城のスイッチが切り替わったのか、全くわからない。ただ翻弄されて、唇が離れた瞬間に、詰まった息を吐き下ろした。
「こっち?」
「や、しろさん、むり」
「はは、息止めてる?」
「もう、なにがな、んだか」
「明菜がしたことあるキスを当てようと思ってるだけなんだけど」
明らかに嘘だとわかる言葉だ。私に隠すつもりもなさそうだ。
背中をあやすように撫でられて、落ち着かない呼吸をやり過ごしながら、背中を押されるままに八城の胸に額がぶつかった。息を整える暇もなく、どうにか言葉を返している。
「こんな、高度なキス、ではないです」
「どんなやつ?」
「普通の、です」
「ん、じゃあ明菜の普通、教えて」
「まだ、するの?」
「まだ。あきなが上手に息できるようになるまで」
信じられない言葉が囁かれて、頭が混乱してくる。
「……いき、できる気がしないです」
「できるよ。俺もできるから」
「八城さんはすごい人だから、できちゃうんです」
「はは、それ何? マジで可愛いな。調子狂うわ」
きゅっと切なげに眉を顰めた人が、予告なく私のあごを優しく掴んで、顔をあげさせてくる。声を出す間もなく、八城の顔が寄せられる。
唇に優しい熱が降りて、掠れた低音に名前を呼ばれた。
「明菜」
「は、い」
「明菜のキス、くれないんですか」
「……すごく、拙いので」
「誘惑は? してくんねえの」
「キスで、誘惑できるんですか」
「できるだろうな」
ふ、と笑う瞳に囚われて、小さく頷く。ここは私の部屋で、私のほうが落ち着いていられる空間のはずだ。
「明菜?」
このままでは、どんどん好きになってしまう。はやく、——はやく、八城の熱から離れて冷静にならなければならない。
誘惑して、八城に抱かれて、すべてを忘れる。忘れられるのだろうか。
「きす、します」
「ん」
「ゆうわく、がんばります」
「はは、はい」
何も言わなくとも、八城が瞼を下ろして顔を寄せてくれる。小さく深呼吸して、掠めるように一瞬だけ、その唇に触れた。
不安になってしまうくらいに、心臓が激しく動いている気がした。すこし前に八城にされたキスは、強烈に記憶に残っている。初心者すぎたからか、瞼をおろす隙も無かった。
ただ、触れる瞬間に柔らかい感覚が唇に下りてきて、気づけば八城の顔が視界いっぱいに映り込んでいた。
昔経験したファーストキスなんて、たぶんもっと拙かったはずだ。
うまくできるのか、分からない。
もちろんキスなんて練習する方法も知らないから、結局八城にしてもらったことをなぞるしかできない気がする。
覚悟を決めて居住まいを正せば、八城が空気を吐くように小さく笑った。
ジャケットを脱いで、ネクタイを解いてはいるけれど、八城の格好は彼の部屋で見るルームウェア姿とは違って、未だにシャツとスラックスを身に纏った社会人のスタイルだ。
八城の着替えがない私の部屋にいるのだから当たり前だけれど、仕事中の八城を誘惑しているような気分になって、落ち着かない。
「あきなさん?」
「する、します、……する」
「あはは、俺が虐めてるみたいになってない?」
「今から誘惑します、ので、目を閉じてください」
「はは、なんかマジックみたいだな」
「もう、八城さん!」
「はい、ごめんごめん。……閉じました」
綺麗に瞼を下ろした八城の口元が、笑みを浮かべたまま引き結ばれている。笑いをこらえているのだと一目で分かってしまっても、注意をする気にはなれなかった。
腰に回された指先は、しっかりと私の身体にくっついていて、目を瞑ってくれたからと逃げ出そうものならば、すぐに捕まってしまいそうだ。
静かに近づいて、形のよい綺麗な唇に、自分のものを寄せる。
「あ、」
あと数センチで触れる、と思ったところで、軽快なメロディが流れ出した。
私が身体を引く前にぱっちりと姿を覗かせた目が、すこし不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。
睨んでいるのかと思う程、眼光が鋭い。
「お電話、が」
「出る?」
疑問形を投げかけられているはずが「出るな」と言われているように聞こえてしまったのはどうしてだろうか。
ソファの脇に置いた鞄の中に入れっぱなしになっている私のスマホは、そんなに役割の多い器械ではない。珍しい電話だから、緊急の用事の可能性もあると思う。
「出ちゃうんですか」
「……そんな、出てほしくなさそうな」
腰に回った手に、確実に力が込められているのが伝わってくる。わずかに動揺して八城の目を見上げては、止まりそうにない着信音に困り果てている。
「切れない、ので、急ぎかもしれないです」
「ん、じゃあ、そっち優先しなきゃいけなさそうだな」
「八城さん、この、手」
どうにか引き剥がそうと自分の腰に視線を動かして両手で触ってみると、横から低い声が囁き落とされた。
「終わったら、焦らした分も構えよ?」
「焦らしてな、」
「ほら、はやく出ねえと切れんぞ」
「あ、……はい」
ようやく腰から手が離れて、ソファの下にしゃがみこんで脇に置いていたバッグの中からスマホを取り出す。
相手は、二課所属営業社員の中田だ。
「ごめんなさい、中田くんなので、出ますね」
中田から電話が来ることはそう多くない。
もしかすると仕事の話の可能性もある。気持ちを入れ替えて通話を選択しながらスマホを耳にあてれば、後ろからやんわりとした力で腕を引かれて八城の横に座らされてしまった。
すこし前まで座っていた場に舞い戻った身体に吃驚しているうちに、耳から中田の声が聴こえてくる。
『こーみゃ~!』
中田に言葉を返そうとして、ぐっと横から身体を引き込まれる。
一瞬呼吸の仕方を忘れてしまいそうになった。腕を絡めるようにして引き込まれて、八城の胸板に背中の一部がぴったりとくっつく。
慌てて起き上がろうとすれば、指先さえも八城の大きな手にがっちりと呑みこむように握られた。
抵抗する手段は、あっけなく、すべて奪われてしまった。
『こーみーやー? 聞こえてるかあ?』
「……っはい? 中田くん?」
『愛しの中田くんだよ~!』
中田の声色は、電話口からも分かるほど気分がよさそうだ。間違いなく酔っている。
仕事の関係の話ではなかったらしいことに安堵しつつ「どうしたんですか」と聞けば、嬉しそうな声が返ってきた。
話を進めている間にも、八城の指先が動いて、するすると私の手を撫でてくる。
『今さぁ~、同期の堀川と飲んでるんよ~』
「堀川くん?」
『そそ~。研修グループ一緒だったんだよね?』
「そうです」
『うん、小宮に会いたいって言ってるからさあ』
「うん? 堀川くんが?」
長らく会っていない同期の男性社員の顔が一瞬頭に浮かんで、八城の指先が私の指と指の間をなぞるように絡まったら、すべての考えが蒸発してしまった。
『まだ仕事中? 切り上げて一緒に飲まね?』
「お仕事は、」
もう退勤してしまった。と、口に出す前に、八城につながれていた手が攫われて、見まいとしていたほうへと、視線が向かってしまった。
「あ、」
『小宮?』
前に、八城の部屋のソファでされた口づけは、本当に可愛らしい遊びだったのだと、思った。
見せつけるように、八城の目が私を射抜いていた。ゆっくりと開かれた唇の中から、赤い舌が見える。私の手の甲に、食むように唇を寄せて、甘く噛んだ。
「まっ……」
『ん? 来れそう?』
甘噛みしては、愛でるように舌で舐めとってくる。動揺する私の反応を楽しんでいるみたいな目だった。すこしずつ指先のほうへ唇が触れる箇所をずらして、かぷりと人差し指の関節に齧りついた。
八城の目は、どろどろに熱い。
はっきりと、誘惑されているのだと分かる。八城の唇が、小さく動いていた。
「痕、すぐつきそうだな」
何の痕なのか、と問う勇気はなかった。
「ごめんなさ、い。今日はもう、帰ってきてしまったので」
『え、マジで? めずらしい』
「ごめんなさい、ちょっと、切ります」
『え、おい』
無理矢理通話を終了させて、スマホをじっと見下ろす。
八城を見る勇気が持てずに俯いていれば、私の決心が固まる前に、大きな手がスマホに伸びてきて、簡単に攫ってしまった。
「あ、」
「これはもう終わりな」
「まっ、」
「電源切っていい?」
「でんげん、ですか?」
「ん、邪魔されんのムカつくんで」
むかつくと言う割に、淡々とした落ち着いた声色だった。
私の指先を掴んで離さない人の声とは思えない落ち着きように一瞬肩の力が抜けて、小さく頷く。私の頷きを見た八城は、何のためらいもなくスマホの電源を落とした。
八城が丁寧に私の声を聞いてくれていたのは、電源が落ちたスマホをテーブルの上に乗せたその時までだった。
「やしろさ、」
「焦らすのが上手なんだな」
「なに、」
「明菜の誘惑、手伝ってやろうか」
「てつだうって、」
「どんなキス、仕掛けてくれる予定だったのか、当ててやろうか」
「ま、」
「めちゃくちゃ待っただろ」
私が言葉を挟む隙はない。こちらの声を封じるように唇が寄せられて、中途半端に開いた下唇を甘く食まれる。信じられない感触に、反射で手が八城の胸を突っぱねようとした。
握られた手は、びくとも動かない。空いた片手は、まるで私の力など気にも留めない八城の熱に、抵抗を砕かれてしまった。
どうすることもできずに頭を引きかければ、後頭部に大きな手が触れる。
「っ、ん」
未知の感触に唇を引き結んでぎゅっと瞼を瞑っていれば、私の後頭部に差し込まれた八城の指先がゆるりと動いた。下唇を甘く食んだ唇が、曖昧に離れる。
「こんなやつ?」
ほとんど唇同士が触れかけてしまいそうな距離で問いかけられて、わけもわからずに首を横に振った。こんなものをできるはずがない。
八城は私の回答に笑っていた。
「残念」
言葉と、音の響きが一致しない。八城の声は、どこまでも楽しそうになのに、おかしい。
「や、しろさん」
私の問いかけに答えるつもりのない人が、もう一度唇を寄せてくる。引き結ばれている私の唇の形をなぞるように八城が舌を這わせて、丁寧に舐めた。
唇を舐められる感触に背筋が震えて、もう一度八城の胸を叩く。下唇の形を確かめるように舐めてくる八城の舌の熱で、思考能力が機能しなくなってくる。
どこで八城のスイッチが切り替わったのか、全くわからない。ただ翻弄されて、唇が離れた瞬間に、詰まった息を吐き下ろした。
「こっち?」
「や、しろさん、むり」
「はは、息止めてる?」
「もう、なにがな、んだか」
「明菜がしたことあるキスを当てようと思ってるだけなんだけど」
明らかに嘘だとわかる言葉だ。私に隠すつもりもなさそうだ。
背中をあやすように撫でられて、落ち着かない呼吸をやり過ごしながら、背中を押されるままに八城の胸に額がぶつかった。息を整える暇もなく、どうにか言葉を返している。
「こんな、高度なキス、ではないです」
「どんなやつ?」
「普通の、です」
「ん、じゃあ明菜の普通、教えて」
「まだ、するの?」
「まだ。あきなが上手に息できるようになるまで」
信じられない言葉が囁かれて、頭が混乱してくる。
「……いき、できる気がしないです」
「できるよ。俺もできるから」
「八城さんはすごい人だから、できちゃうんです」
「はは、それ何? マジで可愛いな。調子狂うわ」
きゅっと切なげに眉を顰めた人が、予告なく私のあごを優しく掴んで、顔をあげさせてくる。声を出す間もなく、八城の顔が寄せられる。
唇に優しい熱が降りて、掠れた低音に名前を呼ばれた。
「明菜」
「は、い」
「明菜のキス、くれないんですか」
「……すごく、拙いので」
「誘惑は? してくんねえの」
「キスで、誘惑できるんですか」
「できるだろうな」
ふ、と笑う瞳に囚われて、小さく頷く。ここは私の部屋で、私のほうが落ち着いていられる空間のはずだ。
「明菜?」
このままでは、どんどん好きになってしまう。はやく、——はやく、八城の熱から離れて冷静にならなければならない。
誘惑して、八城に抱かれて、すべてを忘れる。忘れられるのだろうか。
「きす、します」
「ん」
「ゆうわく、がんばります」
「はは、はい」
何も言わなくとも、八城が瞼を下ろして顔を寄せてくれる。小さく深呼吸して、掠めるように一瞬だけ、その唇に触れた。
1
あなたにおすすめの小説
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜
四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」
度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。
事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。
しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。
楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。
その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。
ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。
その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。
敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。
それから、3年が経ったある日。
日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。
「私は若佐先生の事を何も知らない」
このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。
目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。
❄︎
※他サイトにも掲載しています。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-
プリオネ
恋愛
せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。
ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。
恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる