不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 5 「邪魔されんのムカつくんで」

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 横から覗き込むように見つめられて、胸の音がうるさくなってくる。八城には聞こえていないだろうか。

 不安になってしまうくらいに、心臓が激しく動いている気がした。すこし前に八城にされたキスは、強烈に記憶に残っている。初心者すぎたからか、瞼をおろす隙も無かった。

 ただ、触れる瞬間に柔らかい感覚が唇に下りてきて、気づけば八城の顔が視界いっぱいに映り込んでいた。

 昔経験したファーストキスなんて、たぶんもっと拙かったはずだ。

 うまくできるのか、分からない。

 もちろんキスなんて練習する方法も知らないから、結局八城にしてもらったことをなぞるしかできない気がする。

 覚悟を決めて居住まいを正せば、八城が空気を吐くように小さく笑った。

 ジャケットを脱いで、ネクタイを解いてはいるけれど、八城の格好は彼の部屋で見るルームウェア姿とは違って、未だにシャツとスラックスを身に纏った社会人のスタイルだ。

 八城の着替えがない私の部屋にいるのだから当たり前だけれど、仕事中の八城を誘惑しているような気分になって、落ち着かない。

「あきなさん?」
「する、します、……する」
「あはは、俺が虐めてるみたいになってない?」
「今から誘惑します、ので、目を閉じてください」
「はは、なんかマジックみたいだな」
「もう、八城さん!」
「はい、ごめんごめん。……閉じました」

 綺麗に瞼を下ろした八城の口元が、笑みを浮かべたまま引き結ばれている。笑いをこらえているのだと一目で分かってしまっても、注意をする気にはなれなかった。

 腰に回された指先は、しっかりと私の身体にくっついていて、目を瞑ってくれたからと逃げ出そうものならば、すぐに捕まってしまいそうだ。

 静かに近づいて、形のよい綺麗な唇に、自分のものを寄せる。

「あ、」

 あと数センチで触れる、と思ったところで、軽快なメロディが流れ出した。

 私が身体を引く前にぱっちりと姿を覗かせた目が、すこし不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。

 睨んでいるのかと思う程、眼光が鋭い。

「お電話、が」
「出る?」

 疑問形を投げかけられているはずが「出るな」と言われているように聞こえてしまったのはどうしてだろうか。

 ソファの脇に置いた鞄の中に入れっぱなしになっている私のスマホは、そんなに役割の多い器械ではない。珍しい電話だから、緊急の用事の可能性もあると思う。

「出ちゃうんですか」
「……そんな、出てほしくなさそうな」

 腰に回った手に、確実に力が込められているのが伝わってくる。わずかに動揺して八城の目を見上げては、止まりそうにない着信音に困り果てている。

「切れない、ので、急ぎかもしれないです」
「ん、じゃあ、そっち優先しなきゃいけなさそうだな」
「八城さん、この、手」

 どうにか引き剥がそうと自分の腰に視線を動かして両手で触ってみると、横から低い声が囁き落とされた。

「終わったら、焦らした分も構えよ?」
「焦らしてな、」
「ほら、はやく出ねえと切れんぞ」
「あ、……はい」

 ようやく腰から手が離れて、ソファの下にしゃがみこんで脇に置いていたバッグの中からスマホを取り出す。

 相手は、二課所属営業社員の中田だ。

「ごめんなさい、中田くんなので、出ますね」

 中田から電話が来ることはそう多くない。

 もしかすると仕事の話の可能性もある。気持ちを入れ替えて通話を選択しながらスマホを耳にあてれば、後ろからやんわりとした力で腕を引かれて八城の横に座らされてしまった。

 すこし前まで座っていた場に舞い戻った身体に吃驚しているうちに、耳から中田の声が聴こえてくる。

『こーみゃ~!』

 中田に言葉を返そうとして、ぐっと横から身体を引き込まれる。

 一瞬呼吸の仕方を忘れてしまいそうになった。腕を絡めるようにして引き込まれて、八城の胸板に背中の一部がぴったりとくっつく。

 慌てて起き上がろうとすれば、指先さえも八城の大きな手にがっちりと呑みこむように握られた。

 抵抗する手段は、あっけなく、すべて奪われてしまった。

『こーみーやー? 聞こえてるかあ?』
「……っはい? 中田くん?」
『愛しの中田くんだよ~!』

 中田の声色は、電話口からも分かるほど気分がよさそうだ。間違いなく酔っている。

 仕事の関係の話ではなかったらしいことに安堵しつつ「どうしたんですか」と聞けば、嬉しそうな声が返ってきた。

 話を進めている間にも、八城の指先が動いて、するすると私の手を撫でてくる。

『今さぁ~、同期の堀川と飲んでるんよ~』
「堀川くん?」
『そそ~。研修グループ一緒だったんだよね?』
「そうです」
『うん、小宮に会いたいって言ってるからさあ』
「うん? 堀川くんが?」

 長らく会っていない同期の男性社員の顔が一瞬頭に浮かんで、八城の指先が私の指と指の間をなぞるように絡まったら、すべての考えが蒸発してしまった。

『まだ仕事中? 切り上げて一緒に飲まね?』
「お仕事は、」

 もう退勤してしまった。と、口に出す前に、八城につながれていた手が攫われて、見まいとしていたほうへと、視線が向かってしまった。

「あ、」
『小宮?』

 前に、八城の部屋のソファでされた口づけは、本当に可愛らしい遊びだったのだと、思った。

 見せつけるように、八城の目が私を射抜いていた。ゆっくりと開かれた唇の中から、赤い舌が見える。私の手の甲に、食むように唇を寄せて、甘く噛んだ。

「まっ……」
『ん? 来れそう?』

 甘噛みしては、愛でるように舌で舐めとってくる。動揺する私の反応を楽しんでいるみたいな目だった。すこしずつ指先のほうへ唇が触れる箇所をずらして、かぷりと人差し指の関節に齧りついた。

 八城の目は、どろどろに熱い。

 はっきりと、誘惑されているのだと分かる。八城の唇が、小さく動いていた。

「痕、すぐつきそうだな」

 何の痕なのか、と問う勇気はなかった。

「ごめんなさ、い。今日はもう、帰ってきてしまったので」
『え、マジで? めずらしい』
「ごめんなさい、ちょっと、切ります」
『え、おい』

 無理矢理通話を終了させて、スマホをじっと見下ろす。

 八城を見る勇気が持てずに俯いていれば、私の決心が固まる前に、大きな手がスマホに伸びてきて、簡単に攫ってしまった。

「あ、」
「これはもう終わりな」
「まっ、」
「電源切っていい?」
「でんげん、ですか?」
「ん、邪魔されんのムカつくんで」

 むかつくと言う割に、淡々とした落ち着いた声色だった。

 私の指先を掴んで離さない人の声とは思えない落ち着きように一瞬肩の力が抜けて、小さく頷く。私の頷きを見た八城は、何のためらいもなくスマホの電源を落とした。

 八城が丁寧に私の声を聞いてくれていたのは、電源が落ちたスマホをテーブルの上に乗せたその時までだった。

「やしろさ、」
「焦らすのが上手なんだな」
「なに、」
「明菜の誘惑、手伝ってやろうか」
「てつだうって、」
「どんなキス、仕掛けてくれる予定だったのか、当ててやろうか」
「ま、」
「めちゃくちゃ待っただろ」

 私が言葉を挟む隙はない。こちらの声を封じるように唇が寄せられて、中途半端に開いた下唇を甘く食まれる。信じられない感触に、反射で手が八城の胸を突っぱねようとした。

 握られた手は、びくとも動かない。空いた片手は、まるで私の力など気にも留めない八城の熱に、抵抗を砕かれてしまった。

 どうすることもできずに頭を引きかければ、後頭部に大きな手が触れる。

「っ、ん」

 未知の感触に唇を引き結んでぎゅっと瞼を瞑っていれば、私の後頭部に差し込まれた八城の指先がゆるりと動いた。下唇を甘く食んだ唇が、曖昧に離れる。

「こんなやつ?」

 ほとんど唇同士が触れかけてしまいそうな距離で問いかけられて、わけもわからずに首を横に振った。こんなものをできるはずがない。

 八城は私の回答に笑っていた。

「残念」

 言葉と、音の響きが一致しない。八城の声は、どこまでも楽しそうになのに、おかしい。

「や、しろさん」

 私の問いかけに答えるつもりのない人が、もう一度唇を寄せてくる。引き結ばれている私の唇の形をなぞるように八城が舌を這わせて、丁寧に舐めた。

 唇を舐められる感触に背筋が震えて、もう一度八城の胸を叩く。下唇の形を確かめるように舐めてくる八城の舌の熱で、思考能力が機能しなくなってくる。

 どこで八城のスイッチが切り替わったのか、全くわからない。ただ翻弄されて、唇が離れた瞬間に、詰まった息を吐き下ろした。

「こっち?」
「や、しろさん、むり」
「はは、息止めてる?」
「もう、なにがな、んだか」
「明菜がしたことあるキスを当てようと思ってるだけなんだけど」

 明らかに嘘だとわかる言葉だ。私に隠すつもりもなさそうだ。

 背中をあやすように撫でられて、落ち着かない呼吸をやり過ごしながら、背中を押されるままに八城の胸に額がぶつかった。息を整える暇もなく、どうにか言葉を返している。

「こんな、高度なキス、ではないです」
「どんなやつ?」
「普通の、です」
「ん、じゃあ明菜の普通、教えて」
「まだ、するの?」
「まだ。あきなが上手に息できるようになるまで」

 信じられない言葉が囁かれて、頭が混乱してくる。

「……いき、できる気がしないです」
「できるよ。俺もできるから」
「八城さんはすごい人だから、できちゃうんです」
「はは、それ何? マジで可愛いな。調子狂うわ」

 きゅっと切なげに眉を顰めた人が、予告なく私のあごを優しく掴んで、顔をあげさせてくる。声を出す間もなく、八城の顔が寄せられる。

 唇に優しい熱が降りて、掠れた低音に名前を呼ばれた。

「明菜」
「は、い」
「明菜のキス、くれないんですか」
「……すごく、拙いので」
「誘惑は? してくんねえの」
「キスで、誘惑できるんですか」
「できるだろうな」

 ふ、と笑う瞳に囚われて、小さく頷く。ここは私の部屋で、私のほうが落ち着いていられる空間のはずだ。

「明菜?」

 このままでは、どんどん好きになってしまう。はやく、——はやく、八城の熱から離れて冷静にならなければならない。

 誘惑して、八城に抱かれて、すべてを忘れる。忘れられるのだろうか。

「きす、します」
「ん」
「ゆうわく、がんばります」
「はは、はい」

 何も言わなくとも、八城が瞼を下ろして顔を寄せてくれる。小さく深呼吸して、掠めるように一瞬だけ、その唇に触れた。
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