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STEP 6 「やっとこっち見た」
しおりを挟むどうしてあのとき、軽率に引き止めてしまったのだろうか。
「あきな」
小さく笑いながら持ちかけられた提案に、一緒にお風呂に入るだけで八城が側にいてくれるのなら、と最終的にうなずいてしまった。
「明菜ちゃん?」
今にして思えば、本当にとんでもない決断だ。
八城は私の表情を見下ろして、小さく笑ってから「俺の負けです」とつぶやいていた。宿泊するにも替えの服がないから、すぐ近くの店で買ってくると言われて、夢見心地で頷いていた。
「あーきな?」
ぱたんと閉じられた玄関の扉を見つめながら、はじめて夢から醒めたような気分になった。そうして少し前の私は、ようやく自分がとんでもないことを言ってしまったことを悟ったのだった。
一緒にお風呂に入るという意味が分からずに、呆然としながら浴槽にお湯を溜めて、手持無沙汰でソファへと戻った。
テーブルの上に、すこし前まで八城に食べられていたチョコレートの箱が残っているのを見て、たまらなく顔が熱くなってしまった。
そうして、財布だけを持って、鞄を置いて行った八城を思い返して、もう一度、リビングに持ってきた八城の鞄を確認しては、立ったり座ったりすることを繰り返していた。
「はは、こっち向かない?」
「ひぁっ」
必死に違うことを考えようと頭を働かせていたのに、肌に浮かんだ水滴をなぞるように爪先で甘く触れられ、高い声が鳴ってしまった。焦って口を噤んでも、後ろに座る八城はくつくつと笑うだけだ。
「可愛い声」
耳元に甘く囁かれて、声がうわずった。
「きゅうに、さわるから、」
「こっち向いてくれないんで」
「しんぞう、ばくはつしちゃいます」
「こんなに入浴剤入ってたら見えないって」
ほんの二十分くらいで、八城は本当に私の部屋に戻ってきてしまった。
二十四時間営業の巨大雑貨店の袋を持った八城は、私の今更の「やっぱりやめた」なんて聞いてくれるはずもなく、バスルームへと連行された。
どうにか、目を瞑ってもらっている間に着替えを済ませてお風呂に入り、今までで一番早いスピードで全身を洗った。
「良いって言うまで、入らないでください」という私の願いは、楽しそうに笑う八城が、しっかりと守ってくれた。慌てて湯船に乳白色の入浴剤を大量に入れて、深く身体を沈める。
なるべく、お風呂に入ってくる八城の姿を見ずに、じっと目を瞑って、同じく髪と身体を洗い終えたらしい八城の動く気配で、肩がぴくりと上がってしまった。
壁を向いて一番端で縮こまっていたからか、後ろに座り込んだらしい八城に気づいてほっと息を吐く。
これが、向かい合って座るとなったら、羞恥心で胸が壊れてしまっただろう。そうして密かに安堵していたのに、私の細やかな安寧は簡単に崩れ去る。
端の方で目を瞑って耐えていたのに、八城の手に腕を引かれてあっという間に足の間に抱き込まれた。
視界の両端に、八城の膝が見える。その間に自分の膝がちょこんと浮かんでいて、すべてを八城に支配されているような気分になってしまった。
本当に落ち着かない。
八城の片手が、後ろから私の肩を抱いている。もう片方の手で膝に触れられて、懲りずに動揺で肩が震えた。
すべての震えが、八城に伝わっているだろう。八城の胸にぴったりと背中が触れていた。
「明菜の膝、うまそ」
「たべられない、です」
「マジで? 桃っぽい」
「おいしくないです」
「はは、口はめちゃくちゃ甘かったけど」
さらりとこういうことを口にしてくる。そのたびに動揺する私を見て、満足そうに笑うことを知っている。私の膝に触れる手が、くるりと形を愛でるように皮膚をなぞってくる。
「っん、」
「ん、くすぐったい?」
「くすぐ、った、い」
「はは。ほら、ここ。いつもは白いのに、うっすら赤くなってる」
曖昧な手つきで触れられる。ただそれだけでおかしくなりそうで、体を縮めた。
「あ、ぅ……、さわ、らないでくださ、」
「今度食わせてもらうわ」
「たべられな、い」
「それは俺が決めますんで」
ひとしきり撫でた手が満足したのか、元あったように膝の上に置かれた。
くつくつと笑っていた八城が、耳元で、ふう、と緊張感をほぐすような溜息を吐いた。その息にすらぴくりと身体が痙攣してしまうのだから、どうしようもない。
「身体力入ってんね」
「きんちょう、してるんです」
「仕事中も、肩、いつも力入ってる」
「……そう、ですか?」
「ん、気ぃ張ってんだろうなって」
「ばればれ、ですか」
「そりゃもう」
肩こりはかなりつらいほうだ。確かめるように八城の手が肩に触れて、柔らかくもみほぐしてくる。
「や、しろさ」
「さっきの明菜くらい、力抜いて良いのに」
「う、ん?」
「俺とキスしてるとき、全部の力抜けてて可愛かったから、いつもあれでいいのにって」
「あれは、もうふにゃふにゃでだめです」
「はは、かわいいから気にすることない」
やんわりと肩を揉んで、優しくなぞられる。
膝を撫でていた時とは打って変わって、会社で話している時のようなトーンで八城に言葉を投げかけられている。
さっきのような雰囲気にならないように仕事に近い形で話をされているのだろうか。だとすると、八城の気配りには太刀打ちできない。
八城の思惑通りに、肩からすこしだけ力が抜けてしまった。
「あーきなちゃん」
考え込んでいるうちに左肩の上に八城のあごが乗せられた。八城の両手は私の身体を囲むようにして伸ばされて、白い水面から指先だけを覗かせている。
「風呂で遊んだことある?」
「うん?」
「水鉄砲とか」
「水鉄砲?」
「ほら」
「きゃっ!?」
耳元で小さく囁きながら水面に手を出して、私が身構える前に水を飛ばしてくる。勢いのある水が顔にかかって、慌てて身体を引けば、やんわりと八城の手がお腹に回った。
「はは、ビビらせた?」
「び、っくしりました」
「あきなちゃんもやってみる?」
「どう、やるんですか?」
子どもみたいな遊びを教えてもらって、熱中してしまった。うまく水が飛ばせなくて無意識に後ろを振り返ったら、優しい目をした八城と視線がぶつかった。
「やっとこっち見た」
「あ、」
水に濡れた八城は、いつもの何倍も危険な匂いがする。あんなにも快活な人なのに、どこか憂いのある雰囲気を感じさせられてしまった。髪の先から零れ落ちる水滴が目に入って、慌てて視線を逸らした。
「と思ったらもう目、逸らしちゃうのか」
「……かっこよくて直視できません」
「三十路の男捕まえて、風呂でガキ臭い遊びさせられてもかっこいいなんて言う明菜ちゃん、何者?」
本心から告げたはずが、けらけらと笑われてしまった。困って、いつの間にか私の臍あたりで組まれている八城の手を水の中で握った。
「ん?」
「水鉄砲も、たのしかったです」
「はは。ん、知ってる。めちゃくちゃ楽しそうで、可愛かったわ」
「かわ、いいことはないですけど」
「俺がそう思うのは自由だろ?」
「じゃあ、私が八城さんをかっこいいと思うのも、自由です」
「……明菜、そういう口説き文句はどこで覚えてきてんの?」
「くど、」
口説いたつもりなんてない。口にする前に、八城の声が耳元に触れた。
「もっかいこっち見て」
「ええ?」
「明菜」
「……はい」
ゆっくりと後ろを見上げて、まっすぐなまなざしに視線がぶつかる。
水に濡れる八城はやっぱりいつも以上にかっこいい。これが惚れた弱みなのだとしたら、私はとっくに八城に溺れきってしまっている。
「のぼせてんな」
「うん?」
「あがるか」
「……あ、がる」
「頭、ぼーっとしてんだろ」
「あ、……、そう、かも」
「立てる?」
「は、い」
八城に促されるままふらふらと立ち上がって、身体を抱かれながらバスルームを出る。
あれだけ身体を見せないようにと必死になっていたはずなのに、ぼんやりする意識の中で、しっかりと八城に介抱されて、バスタオルで全身の水気を拭っては着替えを手伝ってもらった。
あまり、思いだしたい記憶ではない。
「まだほっぺた、熱いな」
「ん、大丈夫、です」
よくよく考えれば、八城が身体を洗っているときにはすでに湯船に浸かっていて、そこからずっとお湯の中にいた。これでのぼせないわけがない。
ぐるぐると考えつつ、八城に手渡されたグラスの水を飲んで、ソファにころりと倒れた。
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