不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 8 「小宮さんがいないと、スケジュール管理が抜け抜けになるんで」

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 総務部二課の課長である新崎から、面談の申し入れがあったのは一週間ほど前のことだ。

 内々に面談がしたいと言われて、日程を調整していた。新崎とは現在、同じ部には所属しているものの課が違うから、面談の内容には皆目見当がついていなかった。

「小宮さんに対して、日常的にハラスメントが行われているという報告が、数名からあげられているんです」

 あれから、休日のたびに八城に連れられて行くようになったグラウンドで出会う人と、同じ男性とは思えないほどに深刻な顔つきで尋ねられて、思わず目をまるくしてしまった。

 新崎は私がハラスメントを受けている可能性を探っていたらしい。よくよく考えれば、残業の頻度についても何度か尋ねられていた気がする。

「児島人事部長は、四月一日付けで、庶務課への異動が決まっています。もちろん小宮さんのプライバシーは守られるし、部署も離れることになるから、正直に教えてほしい」

 ゆっくりと、伝え漏れがないように話しかけられていた。

 新崎は、総務部でのハラスメント問題の相談窓口だ。今更思い出して、ゆっくりと口を開いた。

「私は——」


 私の答えに釈然としない様子の新崎に、最後は、日程の指示が出ていなかった役員面談の再調整を依頼されて、面談が終了した。

「役員面談も、私は調整が難しければ、なくても大丈夫なのですが……」
「小宮さん、さすがにそういうわけにはいかないですよ。今度何かがあったときは、役員でももちろん私でも、相談してください」
「ありがとうございます」

 最後まで私の答えに納得していない様子の新崎に一礼してその場を辞した。

 面談室のフロアから出ようとエレベーターを待っていたときに、後ろから声をかけられた。

「きみ、すこし来てくれ」

 振り返らずとも、誰の声なのかはっきりと分かってしまう。あまりにも、話がしづらいタイミングだ。

 児島は、私の顔色を気にすることなく歩き出している。その先が人事部のミーティングルームだということを知って、抵抗するすべもなく付き従った。

「何を話していた」

 個室に入った瞬間に刺々しい声が耳に突き刺さる。

 場の空気が重苦しい。

 今すぐに逃げ出してしまいたいほどに苦しい詰問で、わずかに声が喉元で滞ってしまった。私をじっと見据える険のある目から、視線を逸らすことすらできなかった。

「個人的な面談です……」
「その内容を聞いている」

 あきらかに、児島には話すべきではない内容だ。

 児島自身も、自身の進退に関する何事かが水面下で動かされていることが理解できているらしい。この会社において庶務課への異動とは、実質的には左遷と思われるものだ。

 新崎の話を聞いた瞬間に、ここまで華々しい活躍を続けてきた児島にとっては、耐えがたい屈辱になるかもしれないと感じていた。

「黙り込むな。時間の無駄だ」

 児島のこの言葉を聞くに、どう見てとっても庶務課への異動は屈辱的なものに違いない。

 ここで真実を話せば、私だけではなく新崎にも被害が及びそうだ。

「役員面談の再調整について、お話をさせていただきました」
「きみに必要があるのか」
「……全員必須の面談だと聞かされています」
「しらじらしい」

 児島は、何も全員に対してこのような不遜な振る舞いをしているわけではないだろう。単純に、私を追い出したいだけだ。

 新崎にも、はっきりと伝えてきていた。

『私はハラスメントの事実は……、なかったと、思います』
『小宮さん……』
『児島部長の指導は、たしかに度が過ぎていると感じる時も、あります。ですが、児島部長が、私に殊更に厳しくする理由は、はっきりと自覚しています。ですから、これはハラスメントではないと、そう受け取っています』
『そう……、ですか』
『……もちろん、私以外の社員の皆さんへの横柄な振る舞いが見られるのであれば、それは許されざることです。私の想いは……、そんなところです。お時間を使わせてしまって申し訳ありません』
『その、殊更に厳しい理由というのは』
『……申し訳ありません。それは、個人的なことですので』
『そうですか。……わかりました』

 私の回答に、新崎は苦虫を嚙み潰したような表情を続けていた。

 申し訳のない気持ちになりながらも、どうしても譲れなくて、結局頭を下げて出てきてしまった。

「春から、人事異動がある」

 思い返しているうちに、児島の威圧的な声が響いて、視線をあげた。知らず知らずのうちに俯いてしまっていたらしい。

 私の振る舞いにまた眉を顰めている児島相手に、勝手に背筋が伸びた。

「さ、ようですか」
「聞いたんだろう」
「な、にを、でしょうか」
「しらばっくれるな」

 児島の異動はまだ内示も出ていない段階だ。

 何一つ口に出せないうちに、苛立った児島の拳が、一定間隔で机を叩き始めた。児島が最も苛立っているときに出る癖だ。これが出ると、かなりの確率でひどい叱責を受けることを知っている。

 この会社に入ると決めた時、どんな理不尽にも、どんな偏見にも、どんな不当な評価にも、絶対に屈しないと決めた。

 可憐は、私の無謀な決意を知って、わざわざ入る必要もないのに、一緒にここで働くことを決めてくれていた。ここで、くじけてはいられない。

 後ろ髪をひかれながら去って行った可憐にも、顔向けができない。くじけそうになるたびに、説明会で見た、八城の眩しい瞳の熱を思い返してしまう。

 私も、八城のような笑顔で、この会社を誇りに思う一人でありたい。

 私がここに居る理由は、ただそれだけだ。

「何を指導してもパワハラ、セクハラとごちゃごちゃうるさい世の中になった」
「……ハラスメントの事実があったと、訴えを起こしたわけではありません」
「あ?」
「児島部長のご指導を、ハラスメント行為として相談した事実はありません」
「ではなぜこうなる」

 強い苛立ちからか、捲し立てるように児島が吐き捨てる。

「人事異動については、私には何の権限もありませんので、わかりません。……申し訳ありません」
「……どうせ媚びを売ったんだろう」

 誠心誠意言葉を尽くして、頭を下げたつもりだ。それでも、下げた頭に、無情な声が突き刺さってしまった。

 児島との会話は常に平行線をたどっている。どんなに真剣に向き合っても、色よい返事がなされることはなかった。

「邪魔なものは排除すればいいんだもんな」

 呆れたような、失望の匂いがする声だった。

 どんなに必死で食らいついても、児島には、評価してもらえない。私が女性であるがゆえに、そして何よりも、私であるがゆえに、児島は私を評価しない。

「私は」
「お前は所詮……」

 最も言われたくない言葉がぶつけられる気配があった。どうしても、その言葉だけは口にされたくなくて必死になっていた。

 何度か児島に投げかけられるたびにどうしようもなく悔しくて、化粧室に逃げ込んで、すこし泣いた。強くなれない自分が悔しい。

 気丈に振る舞いたいのに、児島の声で壊れてしまいそうだった。

 その瞬間に、張り詰めた場には不似合いな、素早いリズムの音が三回鳴って声が止まる。私も児島も何の反応もできず、ただ、叩かれたドアが勝手に開かれるさまを見つめていた。

 ドアの先から顔を出した男性が、この場の空気を綺麗に壊して笑っていた。

「お疲れ様です。小宮さん、ちょっとさっきの件で急ぎ聞きたいことがあるんですが」
「あ……、え? 八城さん」
「はい、八城です。すみません。面談中でしたか? ミーティング時間になっても小宮さんが席にいないようだったので、探しに来てしまいました」
「え、ミーティング……?」
「ああ、児島部長、ご無沙汰しています。すみません、私の長期出張の打ち合わせなので、お借りしても良いですか? 小宮さんがいないと、スケジュール管理が抜け抜けになるんで」

 八城の目が回るようなスピードの言葉で、声が出ない。ミーティングをすっぽかしてしまったのだろうか。夕方以降は何の予定もないと思い込んでいたけれど、もしかすると朝礼で聞き忘れていたのかもしれない。

 慌てて頭を下げたら、ドアから顔を覗かせていた八城が、あっさりと私の前に立った。大きな背中に隠されて、児島の顔が見えなくなる。

 どうしようもなく、安堵する自分に気づいた。
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