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STEP 8 「明菜ちゃんに傷つけられたら、マジで許せない」
しおりを挟む「八城か」
「はい。すみません。小宮さんには営業の仕事も手伝ってもらっちゃって。できれば、うちに小宮さんの業務時間の全部を貰いたいくらいなんですが」
「……面談は今終わったところだ」
「それは良かったです。小宮さん、行こう。小宮さんがいないと始まらないから」
明るい声色が笑っていた。
振り返った人が、さりげなく私の肩を叩いて、離席を促してくる。その力に抗うことなく足を踏み出して、児島の姿を振り返り見た。
「……児島部長、申し訳ありません。失礼いたします」
私の言葉に、児島は声を返してくることも、こちらを見ることもなかった。
無言の八城の後ろを歩きながら、すっかり日が暮れてしまっていたことに気づいた。面談から児島と話している間にかなりの時間を使ってしまったらしい。
ミーティングがあるなら、かなり待たせてしまっているだろう。ふと腕時計を見つめて、吃驚してしまった。
「八城さん、ミーティング……ごめんなさい。もう業務時間外です」
エレベーターに乗り込みながら口にすれば、扉が閉まって二人になった瞬間に八城の視線が私へと動かされた。
「それウソ」
「え、……う、そ」
「ん。まるっきりうそ。ビビらせてごめんね」
「え? あ、いえ。大丈夫、です」
さすがに、こんなにも堂々と嘘を吐かれてしまうとは思わなかった。
ぱちぱちと目を瞬かせている間にエレベーターが私たちの所属フロアにたどり着いて、なおもずんずん進んでいく八城の後ろを歩く。
「それは嘘だけど、ちょっとミーティングルーム使って話そうか」
「え? 私は、大丈夫ですけど、八城さん」
「はい、入って」
「あ、はい。ありがとうございます」
すでに業務時間外だ。
八城から私に話があるのも珍しい。ドアを開いた瞬間に人感センサーが作動して、ぱちりと照明が点灯する。指示された通りに個室に入れば、すぐにブラインドが下げられた。
「八城さ……」
ドアを閉じて、鍵をかけた八城がこちらを振り返ってくる。そのまま、席に着く間もなく、全身を隈なく見回された。
検品するような視線に、さすがに狼狽えてしまう。何も言えずに見上げていれば、眉を寄せた八城が口を開いた。
「無事?」
「え?」
「殴られたりしてない?」
「なぐ……?」
「見えないとこ蹴られたりは?」
何も言えずに立ち尽くしていれば、痺れを切らした八城が「すこしごめんね、見せて」と言いながら私の手首を掴んで、軽く袖を捲り上げた。
真剣な顔つきに吃驚して、慌てて声が出る。
「し、してない、です」
小さく叫ぶような声が出た。私の言葉を聞いた八城が手首から手を放して、私の顔を覗き込んでくる。しばらくじっと見つめたかと思えば、今度は強い力で抱きすくめられた。
「わ、やしろさ、」
「……焦った」
耳元に、優しいため息が響く。
慌てて突っぱねようとした手が動かせないくらいにつよく抱き寄せられて、何もできずにただ、八城の名前を呼んだ。
「や、しろさん」
「明菜ちゃん、今後は児島と極力会わないように気をつけて」
完全に仕事モードから外れてしまっている言葉だ。
ブラインドが下げられ、施錠がなされたミーティングルームでは、誰かが私と八城の行動に気づくことはない。それにしても、私と八城が2人でミーティングルームにこもること自体がおかしい。
よくない行動だと理解しているのに、八城の腕に抱きしめられたら注意をする気力がすべて消え去ってしまった。
どうしようもなく、安心してしまう。こわばった身体を慰めるように背中を撫でられて、知らずにこもっていた肩の力がすっと抜けた。
「児島、昔は結構すぐに手が出るタイプだったんだよ。今はもうやらないだろうと思いたいけど、明菜ちゃんに傷つけられたら、マジで許せない」
言葉とともにもう一度強く抱きしめられて、胸が絞られるように甘く疼いた。
多忙な八城が、わざわざ人事部のミーティングルームに来るような用事を持っているわけがない。
出張のミーティングも嘘だった。そうなったら、八城が個人的に私を心配して探し回ってくれたとしか思えない。
八城の身体は熱い。もしかしたら、かなり走り回ってくれたのかもしれない。
「大丈夫です」と言えば、ようやく身体がそっと離される。言葉の真意を覗き込むように、八城の瞳が、私の目をじっと見つめていた。
「ぶじ、です。なにも、ないです」
「何もないは嘘だろ。すっげえ険悪だった」
「それは……、はい。部長には、あまりいい印象を持っていただけていない、ので」
「そういうレベルには見えなかったけど。上に相談を……」
「待ってください」
今すぐにでも相談窓口に問い合わせてしまいそうな八城の腕を掴んで、引き留める。私の力におどろいたらしい八城が、携帯を掴みかけていた手を止めた。
「待って下さい。相談は……、大丈夫です」
「大丈夫って」
「私、気にしていません」
「……肩」
「は、い?」
「児島の近くにいる間、ずっと強張ってる」
真摯な瞳に見据えられて、今更、体が強張っていたことに気づく。
「あ……」
「手のひらをぎゅっと握って、ずっとこぶし作ってるだろ」
八城の腕を掴んでいた私の手を取って、見せつけてくる。曖昧に開いた手のひらには、たしかにつよく握りしめた時にできた爪の痕が残っていた。
たまに爪痕が残っていた理由が、叱責に耐えていた時にできた自傷の痕だとは、知りもしない。
じっと見下ろした八城の眉が、苦しそうに歪んでいる。慰めるように傷口をそっと撫でられて、堰き止めていた言葉がこぼれた。
「ほんとうは、にがてです」
「……ん」
「結構、……すごく、おびえて、います」
「ん」
「また、怒られるかなあとか、話も取り合ってもらえないかなとか、……とても、怖いです」
「あきな、」
「でも……」
震える私の手を、八城の指先が包むように握ってくれる。その熱で、ちっぽけな矜持が、抱きしめられたような気がした。
「でも、きっと。……児島部長も、考え方が違うだけでこの会社のために奮闘されているんです」
日々の仕打ちがどんなに理不尽だと感じても、悔しいと思っても、児島は、私が成功させたことについては何も言わずに受け入れてくれていた。人事部の採用部門という、会社の未来を左右する大役を、私に任せ続けてくれている。
児島は問題のある発言も多い。もちろん、私への行為も褒められるべきものではない。
「どんどん時代が流れて考え方が変わって、でもなかなかそれに追いつけずに、ずっと頑張り続けているうちに、今の時代に合ったやり方がわからなくなるのはそんなに、珍しいことではないと思うんです」
「……ん」
「もちろん、変えていかなきゃいけないんです。でもだからこそ、私と関わることで、児島部長もすこしでも若い社員の気持ちがわかったらいいなって」
児島は新卒からこの会社に起用され、その社会人としての人生のほとんどをこの会社に捧げている。
長年、日本の経済を必死で馬車馬のように働きながらけん引してきた世代の人たちが、入ってきたばかりの若者を、そして女性の社会進出をそう簡単に受け入れられないのは、やはり、珍しいことではない。
「もちろん、嫌な思いはたくさんしましたけど、女だからダメだとか、お前なんてどうせとか。……いつか考えが変わってくれたらと思って、それで……」
新崎にも伝えられなかった言葉が唇から零れ落ちて、どうしようもなく胸が熱くなってくる。
つらく当たられるたびに、一人で閉じこもって、何度も呪文のように唱えてきた。いつか分かってくれる。いつか、気づいてくれる。いつか、きっと、変わってくれる。
何度も思い続けて、必死に自分を鼓舞していた。どうしようもなく泣いてしまいそうで、声が続かなくなる。ぎゅっと両瞼を擦り合わせるように瞑ったら、優しい熱が、頭を撫でた。
「わかった」
真っ直ぐで、温かい声だった。耳に残るような、うつくしい音のように思える。
髪を撫でる指先はやさしくて、一瞬、この世界に自分と八城しかいないような気分になる。ただ、髪を撫でられるだけで、すべてを肯定されたような気さえした。
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