不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 10 「まあ、邪魔する気で来たんだけど」

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 手のひらに刻まれた痕は、毎週八城の部屋で付け直されるようになった。

 ソファに座って映画を観ているときに、さりげなく手を取って、熱心に口づけられる。金曜日ようやく薄くなったあたりで上書きされるから、私の手のひらには常に鬱血痕が残されるようになった。

 手のひらを見られることは滅多にないけれど、自分自身はよく目に入る部分だ。見つけてしまうたびに八城の熱を思い出して落ち着かない。

 八城からは、彼の手のひらにも痕を付けて良いと言われたけれど、どう吸い付いてもうまくつけることができずに困り果ててしまった。

 それに、今になって思えば、八城の身体に私の痕跡を残していいはずもない。

 営業部の会議室で一人、テーブルに残った書類をまとめながら手のひらの痕を見つめて、小さくため息を吐く。八城は今週末から三週間の海外出張だ。

 金曜日である今日が出張前、最後に二人で会える日だったはずが、二日前に営業部で八城を送り出すための飲み会を開催することが決まってしまった。

 総務部には出席の要請もないため、今週は一緒の時間を過ごすことなく、八城を送り出すことになってしまった。今日のために作ろうと考えていた料理は、また今度——。

 今度と思っている自分が、心底可笑しい。

「小宮」
「……花岡くん?」
「お疲れ。手ぇ見てどうした?」
「あ、ううん、ゴミが」
「ああ、なるほど。熱心に手ぇ見てるから、怪我でもしたのかと思った」
「あ……、そっか、丸見えだったね」

 営業部の会議室はガラス張りになっていて、執務スペースから丸見えだ。ブラインドを下ろせばいいのだけれど、会議の片づけをするだけだったから、とくに下ろさずに作業していたことをすっかり忘れていた。

 すでにほとんどの営業社員が外回りへと戻ってしまっているけれど、花岡はコーヒーカップを持っているから、今日は内勤の日なのだろう。

「小宮、最近残業減ったろ」
「……うん、本格的に人事部から離れて、総務部の仕事に集中できるようになって」

 四月一日を迎えると同時に、私の担当部署も正式に総務部一課となった。

 人事部一課の新卒採用担当は、以前まで私と一緒に担当をしてくれていたニ名と育休から復帰した女性社員が配属された。総務部一課の仕事も忙しいけれど、三人体制ならば、毎日残業をして倒れるほどではない。

「よかったな。と言っても今後は俺の補佐になるからまた忙しいだろうけど」
「あはは。それは、もう、頑張るよ」

 総務部一課にも動きがあった。

 長年一課をけん引していた間瀬が課長に昇進し、花岡の補佐業務は、私が引き継ぐ形になった。私が担当を外れてしまうことに中田からはかなりの慰留があったけれど、こればかりは私の力では何ともできない。

 たまに手伝う、と言いかけたところで八城が中田に睨みを利かせてしまって、結局中田も「孤立無援で頑張る」と泣きまねをして去って行った。

 長期の海外出張でなかなか戻ってこられなかった総務部長と一課長は、結局海外事業を担当する新部署の長に抜擢され、総務部二課の新崎が、総務部長のポストについた。

 間瀬を課長に推したのは、新崎だと聞いている。

 長い間総務部門の役職者は、女性がいない状態が続いていた。そのことを疑問視して上層部に掛け合ったところ、間瀬がそのポストに就くことになったらしい。

 熱意が人を変えていく姿を見る瞬間というのは、何度見ても胸が熱くなる気がする。

 課長昇進が決まったときの間瀬の晴れやかな表情に、こころが救われた気がした。木元が泣きながら「間瀬さんの時代ですね! 女舐めんなよ!」と叫んでいたことに、すこし笑えてしまった。この会社が、存在していて良かった。こころから思えるようになった。

 感傷に浸っていれば、横から花岡に顔を覗き込まれた。

「小宮、八城さんの担当じゃなくて、残念だったんじゃないっすかあ?」
「ええ? そ、……なに、それ」
「うわ、動揺してるし」

 まさか、花岡からその話がされるとは思わなかった。

 八城と初めて水曜日にご飯を食べに行った日、八城があながち間違いでもない大胆発言を放り込んでから、一度もそのことに触れられていなかったから、すっかり忘れてくれたのだと思い込んでいた。

「いつから付き合ってんの? 全然知らなかったわ」
「あ、ええ? ううん、付き合っているというか」
「ん?」

 困り果てて口を噤めば、花岡があまり人目に触れるべき内容ではないと察したのか、さりげなくブラインドのスイッチを入れた。

「付き合って、ないよ」
「は? え? じゃあ迫られてんの」
「せま……!? そういうことじゃないです」
「明らかに狙われた小動物みたいな顔してたけど」
「小動物みたいな顔……」
「じゃあ何? 遊んでるだけ?」
「遊んでる?」
「いや、小宮に限ってないと思いつつ言ってみただけ。八城さんとセフレはないよな」
「せ……」

 絶句してしまった。こんなにもストレートに聞かれるとは思わない。私の微妙な反応で、花岡の目が見開かれてしまう。

「え、マジ?」
「……そういう、ものでもない、けど」
「どうなってんの?」
「どうにも、なってない、です」
「はあ? どういうことだよ」

 ますます理解ができなくなってしまったらしい花岡に凄まれて、口を噤む。

 こころなしか、壁際に押されている。腕を組んで見下ろしてくる親友の彼氏相手に、とうとうこころが折れてしまった。

 可憐にも、何度か、それとなく花岡に、誘惑の方法を聞いてみようかとは言われていた。まさか可憐にそんな恥ずかしい思いをさせるわけにはいかない。けれど、たしかに私の人生の中で、こういう相談ができて、しかも誰にも話さずにいてくれそうな男性は、花岡くらいだ。

 覚悟を決めて見つめれば、首を傾げられる。

 業務時間中に親友の交際相手に対して不埒な質問をする私を、どうにか見逃してほしい。誰かに言い訳するように胸の内で一人つぶやいて、口を開いた。

「花岡くんは、どうやったら、その」
「ん?」
「その、レンちゃんと」
「うん」
「どうやったらレンちゃんと、えっちしたくなる?」

 どんどん声量が失われていくから最後はほとんど花岡が耳を貸してくれる形になっていた。静かに囁けば、弾かれたように顔をあげた花岡が、目をまるくしている。

「……は?」
「その……、抱いてほしいって、お願いしたんだ」
「……は? え? 八城さん、に?」
「はい」

 八城のプライバシーにも関わることだ。

 一瞬呆けた態度を取っていた花岡に腕を掴まれて、窓際まで連行される。ブラインドが下りているにもかかわらず、もっとも執務スペースから遠ざかったところまでたどり着いて、二人でため息を吐いた。

「……で?」
「あ……、うん。断られたけど、すこししてから、引き受けてくれて」

 ひっそりと囁けば、花岡が眉間を押さえながら俯いてしまった。ここで、花岡相手に話すべきではないことなのは、私も重々承知している。

「こんなこと話してごめんね」と謝れば、可憐がするように肘で腕を突かれた。

「それどんくらい前の話」
「……引き受けてくれたのは三ヶ月半、くらい前」
「は? まだ抱かれてないの?」

 具体的な部分を口に出さなくても、私の質問の意図をしっかりと受け止めて、私と八城の間に起きていることを理解してくれたらしい。はっきりと口に出されて、苦笑してしまった。

「やっぱり、魅力がなさすぎるのかな」

 いくら花岡でも、さすがに魅力がないからだとは言えないだろう。私から答えを提示してみれば、花岡はますます目をまるくしてしまった。

「え? 普通に思考回路そっちいく?」
「そっち?」
「三ヶ月半ほったらかし?」
「ううん。二人でご飯食べたり……、一緒に遊んでもらったり……」
「大事にしてもらってんじゃん」

 私の言葉を聞いて、花岡が安堵の息を吐いた。

 花岡にしてみれば、尊敬する先輩のあれこれを聞いてしまっていることになる。八城の印象を悪くしかねないことをしているのだとあらためて気づいて、胸が痛んだ。花岡以外には相談しないと固く誓って、本音をつぶやいた。

「でもはやく抱かれて終わりたいの」
「終わりたい?」
「もらってくれたら、終わりにするって言ってるから」
「あー、……ああー、なるほどね……、ああ、なるほど」
「……なるほど?」

 深く頷いた花岡にもう一度肘で突かれて同じように肘で打ち返す。私の仕草を見た花岡が小さく笑った。

「んー、まあ普通に言えば? そろそろどうですかって」
「言ってるけど、全然、うまく誘惑できなくて」
「ゆうわく……? 小宮、そんなタイプじゃないだろ……」
「だよね……。でもその気になってもらわないと、ずっと優しくしてもらうだけになりそう」
「別にいいんじゃね? そうしたいって思ってくれてるわけだし」

 花岡らしい優しい提案に、甘えてしまいたくなる。

「……これ以上、好きになったらダメなのに、そばに居たら、もう、だめ」
「なんで?」
「忘れられなくなる」

 八城の痕が残る手のひらをぎゅっと握りしめて、ため息を落とした。私の顔を見て、花岡も、私の感情が伝染してしまったみたいに表情を曇らせてしまう。

「そんなに好きなのか」
「どうしよう。なんか、会えば会うほど好きになってる」

 肘打ちをした体勢のまま、隣り合ってつぶやいた。私の声に花岡が何かを言わんと口を開く。その瞬間に後ろからドアを開く音が鳴った。

「——小宮さん?」

 聞き覚えのある声、なんていうレベルのものではない。

「あ、八城さ、ん……、おつかれさま、です」

 花岡と一緒に振り返って、意味もなく花岡から一歩距離を取った。私の行動で、八城の眉が、すこしだけ動いたように見えた。

「八城、さん?」
「明菜」

 珍しく黙り込んだ八城が気になって声をあげれば、横から、一度も呼ばれたことのない呼称で花岡に声をかけられた。振り返って、花岡の満面の笑みに虚を突かれる。

 まるで私と話すのが楽しくて楽しくて仕方が無さそうな表情だ。それは、彼が可憐と話しているときの顔にも似ている気がする。

「う、ん?」
「じゃあ、今度二人で飲み行こ」
「え?」
「いつ暇なの」

『じゃあ』、も何もないのに、脈絡もなく、いきなり話題を変えられて、目が回ってしまう。どうにか花岡に視線を向け直した。

「いつって……」
「ん~、俺は別に、今日でも」

 喉を鳴らすように不敵に笑った花岡が、一歩分空けられていた距離を簡単に詰めて肩に腕を回してくる。

 可憐と私も、ご飯を食べ終わったあとの機嫌のいい帰り道では遊びで肩を組んでは笑ったりしているから、またしても可憐の真似なのだろうと一人でぼんやりと考えていた。

「花岡」

 その、いかにも不機嫌そうな声を発した人が、あっさりと花岡の手を掴んでしまうまでは。

 すこし前まで、八城は会議室の入口に立っていたはずだ。いつの間に、すぐにでも触れられてしまいそうなほど近くに立っている。吃驚して見上げているうちに八城が掴んでいた花岡の腕が私から離れて、2人がまっすぐに見つめあった。

 どうしてか、空気がひんやりと冷たく感じる。まるで、氷点下に放り出されたような気分だ。

「え、八城さんどうしたんすか」
「女性に軽々しく触るな」
「……ういーす、じゃあ明菜、日にち考えといて」

 指摘する八城の目をじっと見つめた花岡が、ふっと目の力を抜いて私を振り返る。

 わけもわからずに小さく頷いたら、満足げな花岡が「じゃあ、失礼しまーす」と間延びした声をあげて会議室から出て行ってしまった。

 花岡が開いたドアが雑な音を立てて閉じられる。呆然と見つめているうちに、八城が花岡と同じように会議室のドアへと歩いていった。

 私への用事は、なくなってしまったのだろうか。ぼんやりと考えているうちに、無言の八城がドアのカギを回した。かちゃりと音を立てて、施錠している。

「え……」

 思わず腑抜けた声が出てしまった。呆然と八城の行動を伺っているうちに、振り返った八城が、私の困惑を気にすることなく歩いてくる。

「や、しろさん……?」
「邪魔しましたか」
「え?」
「好きな男と一緒にいるの、邪魔したかと思って」

 矢継ぎ早の質問に目を回して、じっと鋭く見つめてくる目から視線を逸らした。

 しばらく考え込んで、ようやく八城が言わんとしている『邪魔』というのが、花岡との会話を指していることに気づいた。話の内容が、八城に関するものだっただけに、うまく反応ができない。

 しどろもどろになって意味もなく、逃げるようにテーブルにまとめておいた廃棄の資料を掴んだ。

「いえ、その」

 上手な言い訳も浮かばずに資料を整えていれば、横から大きな手が伸びてくる。

「あ……」

 強い力で右手を引かれて、書類がばらばらと床に散らばった。私の手首を掴む八城の指先が、なめらかに皮膚の上を滑る。八城の指の腹が鬱血痕をなぞったように見えて、背筋に電流のような刺激が走った。

「手、」
「まあ、邪魔する気で来たんだけど」

 指先の熱に動揺しているうちに、屈んで顔を寄せられて、知らぬ間に、耳元に囁き落とされている。

 吃驚して身体を引けば、バランスを崩して倒れかけてしまった。それすらも八城の手に簡単に抱き起されて、八城の胸にぴったりと重なる。逞しい腕に抱き直されて、肩が揺れた。
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