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STEP 10 「すきになってくれる、はずがない、もんね」
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パンツのポケットを弄った八城が、鍵を取り出して私に差し出してくる。ただ茫然と、八城の手のひらの上に乗せられている鍵を見つめていた。何度か見たことのある鍵だ。
「あの、」
「怖くなった?」
八城を誘惑したのは私だ。
はやく忘れたくて、はやく、この関係を解消したくて、できもしない誘惑を仕掛けた。八城の仕返しに溺れきった身体で、ぼんやりと鍵を見下ろしている。
「明菜」
何も言えずに見つめていれば、八城は一向に動き出さない私の右手を取って、手のひらを天井に向けさせた。
いつも、八城につけられる痕が残っている。
先週の金曜日につけられたものだから、かなり薄くなってはいるけれど、先週、ほとんど消えかけていたのを見た八城が濃く付け直したから、今日ははっきりと残っているほうだ。
愛でるように優しく撫でた八城が、徐に頭を下げて、手のひらに口づける。好きで仕方がないものに懇願する人みたいな仕草だった。
しばらく丁寧に口づけて、痕を上書きされる。
ちらりと私の目を伺い見てくる八城に優しく鍵を握らされて、小さく囁くような声がこぼれる。
「……いきま、す」
蚊の鳴くような声で囁けば、八城が小さく笑って、静かに私の唇に顔を寄せてきた。
優しいキスを贈られて、唇が離れてからゆっくりと瞼を開く。すぐ近くで笑っている八城は、いつものように私の髪を撫でて、たっぷりと甘く囁いていた。
「いいこ」
こうして、八城に甘やかされる日も、もう今日で終わってしまう。
一人感傷的な気分になりながら、「お家で待ってます」と告げれば、満足そうな男性が「はやく帰ります」と囁いて、立ち上がった。
私は今日、片思いの相手に、すべてを捧げることになる。
一人になった会議室で、八城が拾い上げてくれた書類を抱きしめながら、静かに息を吐き下ろした。
八城に抱かれて、すべてを忘れる。
異性を好きになることがなかったから、どうやって忘れるのかもよくわからない。けれど、私が八城を好きでいることは、彼の人生に悪影響を与えてしまう。
私では、八城が望むような、普通の優しい家庭を築くことはできない。はじめからよく、理解していた。
私には、誰かを好きになるとき、必ず考えなければならないことがあった。
「あ、ようやくお昼だ~! 小宮さん、一緒にどう?」
「あ、お昼……」
宙に浮かんでいるような曖昧な気分で仕事をさばいていた。昼休憩のチャイムが鳴って、あちこちから談笑が聞こえてくる。
木元の明るい声に囁かれ、鞄を取り出しながら頷こうとして、スマホに着信が入っていることに気づく。
この時間には、滅多にかけてこない相手からの着信に、首をかしげてしまった。
「ごめんなさい、ちょっと用事があるので、今日は中で食べようかなと」
「あ、了解~! 来週は行こうね」
「うん、木元さん、いってらっしゃい」
「いってき~!」
明るい声を見送って、鳴り続けているスマホを片手に人気のないリフレッシュルームまで走る。
着信の相手は、及川優姫——私の姉だ。
「もしもし、お姉ちゃん?」
『あ~! 明菜ちゃん? よかった。出てくれた』
「うん? どうしたの?」
『お仕事中にごめんね』
「大丈夫だけど……」
『ごめんね、お願いがあってね。朝、佳樹さんから連絡があったのだけれど、携帯をお家に忘れてしまったみたいで』
「え、そうなの?」
『うん。それで、会社の入口まで来たんだけれど、私は入っていいのか分からないし、迷惑だったら困るかと思って、明菜ちゃんに相談を』
「うん、ありがとう。私が今降りるから、少し待ってて」
私の姉は、大学を中退して一度目の結婚をした。及川佳樹は、姉の二度目の婚姻相手になる。
姉は大学中退後、一度も会社勤めをしたことがないため、会社にどうやって入ればいいのかよく分からないのだろう。
慌ててエレベーターを使って一階に下りれば、エントランスにもそれらしき姿は見当たらず、ビルから飛び出したところで、姉の存在を発見した。ビルに入るのも、ためらっていたようだ。
「お姉ちゃん!」
「あ、明菜ちゃん! ごめんね。……今はお昼? お休みの時間なのに、本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫だけど……、受付で言えば、たぶん入れたと思うよ?」
「あ、ううん、いいの。佳樹さんにご迷惑になってはいけないから。……ごめんね。明菜ちゃんが届けてくれる?」
「それは、もちろん大丈夫だけど。……佳樹さんもお姉ちゃんに会いたいんじゃない?」
「ふふ、大丈夫。お家でしっかり待っています」
「そう? それならいいけど」
母も、そして姉も、伴侶となる相手にどこまでも尽くす人だった。
私の家系では、それが美徳とされている。
家事全般のことは、料理も、針仕事も、すべてを教えられて、習い事は華道や茶道、バレエやピアノ、ヴァイオリンなど、おおよそ、裕福な家庭の子女が受けさせられるようなものばかりを揃えられた。
徹底的に男性との接触を禁じられて、この歳まで、ほとんどの時間を自分と同じような価値観の女性と過ごすように仕向けられていた。
姉が、男性の一歩後ろを歩く女性に育ったのは、間違いなく我が家庭の教育の賜物だ。
「明菜ちゃん、またお家に遊びに来てね」
「うん、ありがとう」
姉が私に向かって小さく笑って手を振ってくれる。どこからどう見ても裕福な家庭に育った優しげな女性だ。
姉のことが好きで尊敬もしているけれど、自分は姉のようにはなれないと思う。私も、八城と同じく、細やかなしあわせを抱きしめて居られるような相手と人生を共にしたかった。
姉に渡された携帯を手に持って、あまり足を向けることのないフロアへとエレベーターを動かす。姉の二人目の結婚相手は温厚で、たいそう優しい人だ。
それだけが救いだった。一度目のようなことがあれば、私はどんなことになろうとも、父のことを許せずにいただろうから。
役員のみが生息するフロアに降り立って、知らずに詰めていた息を吐き下ろす。
わが社は代表取締役が二人存在する。一人が三島社長で、もう一人が及川副社長だ。及川が副社長に就任すると聞いたとき、社内でも意見が二分した。
もともと及川はわが社の成長に大きく貢献しているやり手の社員だ。八城にとっては、新人時代の尊敬できる先輩営業マンの一人かもしれない。
すばらしい手腕で、傾きかけた会社を立て直した才能あふれる男性だ。
姉の婚約者として出会ったときにも、この人なら姉を大事にしてくれるだろうと留飲を下げた。けれど、姉と及川の婚姻は、一般社員からは、三島のワンマン経営の強化とも思われているだろう。かくいう私も、同じように感じてしまった。三島の経営に反感を持つ役員が居れば、及川は非常に邪魔な存在だ。
何せ、及川優姫の旧姓は——。
「くれぐれも、娘をよろしく頼むよ」
低くしゃがれた声が耳に届いて、思わず給湯室に隠れた。声の主は、歩きながら誰かと会話をしている。
無意識に呼吸を止めていた。暗い給湯室で、一人、じっと息を潜めている。
「はい、もちろんです」
会話の相手の声を聞いて、心音がうるさく響いた。
どうしようもなく、聞きたくない言葉だ。どうしようもなく、胸騒ぎがして、勝手に身体が力をなくしていた。床にへたり込んで、口元を指先で隠した。そうしていなければ、悲鳴が、出てしまいそうだった。
「明菜はあれで、かなり引っ込み思案な娘だ。前々から目をかけてもらっていたが、今後もよろしく頼む」
「はい」
「前回のきみとの面談で、娘の話が聞けて助かった」
及川優姫の旧姓は、三島だ。わが社の現代表取締役社長の長女として生まれ、二度の結婚を経験している。どちらも、いわゆる政略結婚と呼ばれるものだった。一度目の結婚で、ひどく傷ついた姉の姿を忘れたことはない。
「八城くん、今後も期待している」
「身に余るお言葉です」
小宮とは、母の旧姓だった。この会社に入るとき、人事部に「娘であるというだけで特別扱いをされたくはない」と掛け合って、社内にいる間だけでも苗字を変えている。
私の本当の苗字も、当然姉の旧姓と同じく三島だ。
三島明菜——それが、この会社の社長に就く父から与えられた、私の本物の名前だ。
八城は、私が三島の娘であることを、知っていたのか。
うるさい心臓をぎゅっと押さえて、ひどい眩暈が続く世界を見下ろしている。八城が私からの交渉を一度断って、引き受けると言い出すまでの間には、一か月のタイムラグがあった。
営業一課の役員面談はどの部署よりも先に行われた。時期的には、たしかにしっかりと重なっている。
「……そ、っか」
誠実で真面目で、優しい八城が、こんなおかしな申し出に乗ってくるはずがない。
はじめから思っていたはずなのに、完全に浮かれていた。父に乗せられて権力に誑かされるような人ではない。そうだとすると、残された理由はただ一つだ。
「……ことわれな、かった、かなあ」
優しい人だから、私の今までの処遇を見て、断ることができなかったのかもしれない。父には、私との結婚を迫られているのだろうか。
八城は営業成績のいい優秀な社員だから、父もどうにかしてこの会社に残しておこうと思っているのかもしれない。
もう、何もかも、ぐちゃぐちゃだ。
絶対に、社内の人とは、恋愛をしようとしないようにすると決めていたはずだ。それなのに、どうしても、八城に惹かれてしまった。
私の存在は、どうやっても邪魔になる。父の後ろ盾がある私は、一般社員にはなりきれない。
『お前は所詮、社長の娘だから、失敗しても許されるんだろう』
何度も児島に言われて、どうしても耐えられずに一人で泣いてしまった。すこしでも間違えれば、こうして詰られるだろうことくらい覚悟してこの場所に来た。だから、一度も役員や相談窓口に訴えようなどとは、思いもしなかった。
父には絶対に泣きつかない。
わざわざ父には何も言わずに、一般社員と同じく選考を受けて入社した。父は、何も言わなかった。殴られるかもしれないと決意して入った会社だった。
私が社内の人間と結婚してしまえば、必ずパワーバランスが乱れる。その人に意思がなくとも、勝手に代表権争いのレースに乗ったと思われてしまう。それなのに、どうしても、一度だけ、好きな人に触れてもらいたいと思ってしまった。
すこし前に八城に手渡された鍵に触れて、小さく息を吐く。社長の娘に好かれるなんて、とんだ迷惑だろう。
昏い給湯室に乾いた笑い声が響き渡った。
今日は金曜日で、八城の時間を貰える日だ。八城が、私の願いを叶えてくれる日でもある。
「すきになってくれる、はずがない、もんね」
八城の気持ちがよくわかる。
私も圧倒的な力で場をやり込める権力者が嫌いだ。自分の置かれた立場が強者であればあるほどに、こころから憎らしく思っている。
正当な評価も、細やかな恋愛も、すべてが壊れた世界に立っている。
いらないものばかりが手のひらに注がれる中、八城が残してくれた痕だけが愛おしくて、一人、どうしようもなく泣きたい気持ちを抱きしめていた。
「あの、」
「怖くなった?」
八城を誘惑したのは私だ。
はやく忘れたくて、はやく、この関係を解消したくて、できもしない誘惑を仕掛けた。八城の仕返しに溺れきった身体で、ぼんやりと鍵を見下ろしている。
「明菜」
何も言えずに見つめていれば、八城は一向に動き出さない私の右手を取って、手のひらを天井に向けさせた。
いつも、八城につけられる痕が残っている。
先週の金曜日につけられたものだから、かなり薄くなってはいるけれど、先週、ほとんど消えかけていたのを見た八城が濃く付け直したから、今日ははっきりと残っているほうだ。
愛でるように優しく撫でた八城が、徐に頭を下げて、手のひらに口づける。好きで仕方がないものに懇願する人みたいな仕草だった。
しばらく丁寧に口づけて、痕を上書きされる。
ちらりと私の目を伺い見てくる八城に優しく鍵を握らされて、小さく囁くような声がこぼれる。
「……いきま、す」
蚊の鳴くような声で囁けば、八城が小さく笑って、静かに私の唇に顔を寄せてきた。
優しいキスを贈られて、唇が離れてからゆっくりと瞼を開く。すぐ近くで笑っている八城は、いつものように私の髪を撫でて、たっぷりと甘く囁いていた。
「いいこ」
こうして、八城に甘やかされる日も、もう今日で終わってしまう。
一人感傷的な気分になりながら、「お家で待ってます」と告げれば、満足そうな男性が「はやく帰ります」と囁いて、立ち上がった。
私は今日、片思いの相手に、すべてを捧げることになる。
一人になった会議室で、八城が拾い上げてくれた書類を抱きしめながら、静かに息を吐き下ろした。
八城に抱かれて、すべてを忘れる。
異性を好きになることがなかったから、どうやって忘れるのかもよくわからない。けれど、私が八城を好きでいることは、彼の人生に悪影響を与えてしまう。
私では、八城が望むような、普通の優しい家庭を築くことはできない。はじめからよく、理解していた。
私には、誰かを好きになるとき、必ず考えなければならないことがあった。
「あ、ようやくお昼だ~! 小宮さん、一緒にどう?」
「あ、お昼……」
宙に浮かんでいるような曖昧な気分で仕事をさばいていた。昼休憩のチャイムが鳴って、あちこちから談笑が聞こえてくる。
木元の明るい声に囁かれ、鞄を取り出しながら頷こうとして、スマホに着信が入っていることに気づく。
この時間には、滅多にかけてこない相手からの着信に、首をかしげてしまった。
「ごめんなさい、ちょっと用事があるので、今日は中で食べようかなと」
「あ、了解~! 来週は行こうね」
「うん、木元さん、いってらっしゃい」
「いってき~!」
明るい声を見送って、鳴り続けているスマホを片手に人気のないリフレッシュルームまで走る。
着信の相手は、及川優姫——私の姉だ。
「もしもし、お姉ちゃん?」
『あ~! 明菜ちゃん? よかった。出てくれた』
「うん? どうしたの?」
『お仕事中にごめんね』
「大丈夫だけど……」
『ごめんね、お願いがあってね。朝、佳樹さんから連絡があったのだけれど、携帯をお家に忘れてしまったみたいで』
「え、そうなの?」
『うん。それで、会社の入口まで来たんだけれど、私は入っていいのか分からないし、迷惑だったら困るかと思って、明菜ちゃんに相談を』
「うん、ありがとう。私が今降りるから、少し待ってて」
私の姉は、大学を中退して一度目の結婚をした。及川佳樹は、姉の二度目の婚姻相手になる。
姉は大学中退後、一度も会社勤めをしたことがないため、会社にどうやって入ればいいのかよく分からないのだろう。
慌ててエレベーターを使って一階に下りれば、エントランスにもそれらしき姿は見当たらず、ビルから飛び出したところで、姉の存在を発見した。ビルに入るのも、ためらっていたようだ。
「お姉ちゃん!」
「あ、明菜ちゃん! ごめんね。……今はお昼? お休みの時間なのに、本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫だけど……、受付で言えば、たぶん入れたと思うよ?」
「あ、ううん、いいの。佳樹さんにご迷惑になってはいけないから。……ごめんね。明菜ちゃんが届けてくれる?」
「それは、もちろん大丈夫だけど。……佳樹さんもお姉ちゃんに会いたいんじゃない?」
「ふふ、大丈夫。お家でしっかり待っています」
「そう? それならいいけど」
母も、そして姉も、伴侶となる相手にどこまでも尽くす人だった。
私の家系では、それが美徳とされている。
家事全般のことは、料理も、針仕事も、すべてを教えられて、習い事は華道や茶道、バレエやピアノ、ヴァイオリンなど、おおよそ、裕福な家庭の子女が受けさせられるようなものばかりを揃えられた。
徹底的に男性との接触を禁じられて、この歳まで、ほとんどの時間を自分と同じような価値観の女性と過ごすように仕向けられていた。
姉が、男性の一歩後ろを歩く女性に育ったのは、間違いなく我が家庭の教育の賜物だ。
「明菜ちゃん、またお家に遊びに来てね」
「うん、ありがとう」
姉が私に向かって小さく笑って手を振ってくれる。どこからどう見ても裕福な家庭に育った優しげな女性だ。
姉のことが好きで尊敬もしているけれど、自分は姉のようにはなれないと思う。私も、八城と同じく、細やかなしあわせを抱きしめて居られるような相手と人生を共にしたかった。
姉に渡された携帯を手に持って、あまり足を向けることのないフロアへとエレベーターを動かす。姉の二人目の結婚相手は温厚で、たいそう優しい人だ。
それだけが救いだった。一度目のようなことがあれば、私はどんなことになろうとも、父のことを許せずにいただろうから。
役員のみが生息するフロアに降り立って、知らずに詰めていた息を吐き下ろす。
わが社は代表取締役が二人存在する。一人が三島社長で、もう一人が及川副社長だ。及川が副社長に就任すると聞いたとき、社内でも意見が二分した。
もともと及川はわが社の成長に大きく貢献しているやり手の社員だ。八城にとっては、新人時代の尊敬できる先輩営業マンの一人かもしれない。
すばらしい手腕で、傾きかけた会社を立て直した才能あふれる男性だ。
姉の婚約者として出会ったときにも、この人なら姉を大事にしてくれるだろうと留飲を下げた。けれど、姉と及川の婚姻は、一般社員からは、三島のワンマン経営の強化とも思われているだろう。かくいう私も、同じように感じてしまった。三島の経営に反感を持つ役員が居れば、及川は非常に邪魔な存在だ。
何せ、及川優姫の旧姓は——。
「くれぐれも、娘をよろしく頼むよ」
低くしゃがれた声が耳に届いて、思わず給湯室に隠れた。声の主は、歩きながら誰かと会話をしている。
無意識に呼吸を止めていた。暗い給湯室で、一人、じっと息を潜めている。
「はい、もちろんです」
会話の相手の声を聞いて、心音がうるさく響いた。
どうしようもなく、聞きたくない言葉だ。どうしようもなく、胸騒ぎがして、勝手に身体が力をなくしていた。床にへたり込んで、口元を指先で隠した。そうしていなければ、悲鳴が、出てしまいそうだった。
「明菜はあれで、かなり引っ込み思案な娘だ。前々から目をかけてもらっていたが、今後もよろしく頼む」
「はい」
「前回のきみとの面談で、娘の話が聞けて助かった」
及川優姫の旧姓は、三島だ。わが社の現代表取締役社長の長女として生まれ、二度の結婚を経験している。どちらも、いわゆる政略結婚と呼ばれるものだった。一度目の結婚で、ひどく傷ついた姉の姿を忘れたことはない。
「八城くん、今後も期待している」
「身に余るお言葉です」
小宮とは、母の旧姓だった。この会社に入るとき、人事部に「娘であるというだけで特別扱いをされたくはない」と掛け合って、社内にいる間だけでも苗字を変えている。
私の本当の苗字も、当然姉の旧姓と同じく三島だ。
三島明菜——それが、この会社の社長に就く父から与えられた、私の本物の名前だ。
八城は、私が三島の娘であることを、知っていたのか。
うるさい心臓をぎゅっと押さえて、ひどい眩暈が続く世界を見下ろしている。八城が私からの交渉を一度断って、引き受けると言い出すまでの間には、一か月のタイムラグがあった。
営業一課の役員面談はどの部署よりも先に行われた。時期的には、たしかにしっかりと重なっている。
「……そ、っか」
誠実で真面目で、優しい八城が、こんなおかしな申し出に乗ってくるはずがない。
はじめから思っていたはずなのに、完全に浮かれていた。父に乗せられて権力に誑かされるような人ではない。そうだとすると、残された理由はただ一つだ。
「……ことわれな、かった、かなあ」
優しい人だから、私の今までの処遇を見て、断ることができなかったのかもしれない。父には、私との結婚を迫られているのだろうか。
八城は営業成績のいい優秀な社員だから、父もどうにかしてこの会社に残しておこうと思っているのかもしれない。
もう、何もかも、ぐちゃぐちゃだ。
絶対に、社内の人とは、恋愛をしようとしないようにすると決めていたはずだ。それなのに、どうしても、八城に惹かれてしまった。
私の存在は、どうやっても邪魔になる。父の後ろ盾がある私は、一般社員にはなりきれない。
『お前は所詮、社長の娘だから、失敗しても許されるんだろう』
何度も児島に言われて、どうしても耐えられずに一人で泣いてしまった。すこしでも間違えれば、こうして詰られるだろうことくらい覚悟してこの場所に来た。だから、一度も役員や相談窓口に訴えようなどとは、思いもしなかった。
父には絶対に泣きつかない。
わざわざ父には何も言わずに、一般社員と同じく選考を受けて入社した。父は、何も言わなかった。殴られるかもしれないと決意して入った会社だった。
私が社内の人間と結婚してしまえば、必ずパワーバランスが乱れる。その人に意思がなくとも、勝手に代表権争いのレースに乗ったと思われてしまう。それなのに、どうしても、一度だけ、好きな人に触れてもらいたいと思ってしまった。
すこし前に八城に手渡された鍵に触れて、小さく息を吐く。社長の娘に好かれるなんて、とんだ迷惑だろう。
昏い給湯室に乾いた笑い声が響き渡った。
今日は金曜日で、八城の時間を貰える日だ。八城が、私の願いを叶えてくれる日でもある。
「すきになってくれる、はずがない、もんね」
八城の気持ちがよくわかる。
私も圧倒的な力で場をやり込める権力者が嫌いだ。自分の置かれた立場が強者であればあるほどに、こころから憎らしく思っている。
正当な評価も、細やかな恋愛も、すべてが壊れた世界に立っている。
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