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STEP 12 「私たちはもう、ただの同僚です」
しおりを挟む夢の終わりは、優しい熱に包まれていた。
あんなにも泣いたのに、どうしてか瞼は腫れていなかった。ちらりとベッドサイドを見たら、保冷材のようなものが乱雑に置かれていた。もしかすると、私が眠った後に瞼を冷やしてくれたのかもしれない。すこしだけ笑えてしまった。
朝起きたら、きっと絶望に包まれていると思っていたけれど、実際の私は、おかしなくらい浮ついていた。一度私のベッドで一緒に眠ったときのように八城の腕が首の下に伸ばされている。後ろから抱きしめられているのだと気づいて、静かに身体を動かした。
八城は静かな寝息を立てて眠っている。
昨日あれだけ見たのに、肩から上がむき出しになっているだけで、すこし気恥ずかしい。いそいそと布団を持ち上げて、すっぽりと身体を埋めた。どんなに夜更かしをしても七時には目が覚めるから、きっとそれくらいの時間だろう。すっぽりと頭から抜け落ちていたけれど、今日から八城は海外出張だ。――なんて都合が良いのだろう。
一人で笑いたくなってしまった。
すてきな思い出をもらった。思い出には、あまりにもはっきりと残りすぎていると思えるくらいに熱い感触だった。終わりの準備は、している。はじめから、最後の日は、どんな言葉を口にするべきか、何度も考えていた。
八城のうつくしい寝顔を見つめて、瞼の裏に焼き付ける。
キスしたいなあ。もう、してはいけないんだろうなあ。一人で考えて、もう泣きたくなってしまった。すこし前には意外に笑えるものだと思っていたはずなのに、感情が忙しい。
情緒が乱れているのだと気づくのに、そんなに時間はかからなかった。
多幸感がある一方で、大きな絶望が肩を撫でている。同居しないはずの感情がせめぎ合って、こころをぐるぐるとかき混ぜているようだ。静かに深呼吸して、そっと、八城の腕から抜け出す。
起きだす様子のない八城にほっと息を吐いて、部屋を出た。
八城は寝起きが良いから、目覚めた時、隣に私が居なければ、すぐに探し出してしまうだろう。探されるわけにはいかないから、鞄に詰めてきた服を着て、すぐに脱衣所に向かった。昨日八城が脱がせてくれた服を鞄に詰め込んで、顔をあげる。
「あ……」
ふいに見た洗面台の上に、パッケージに包まれたままの桃色の歯ブラシが置かれていた。
『俺の部屋にも、明菜ちゃん分の歯ブラシ、買っときます』
嫌な記憶を思い出してしまった。忘れたくて、すぐに視界から追い出してしまった。何事もなかったみたいに別れる。綺麗に忘れると言って、八城にも、些末なこととして忘れてほしいとお願いをする。そうすれば、八城は私の意図を汲んで、忘れたふりをしてくれる。
そのうち私が何も気にしていない素振りを続けるうちに、八城もきっと私のことなど忘れるだろう。時間が解決してくれる。きっと。
喉元が苦しい。風邪の症状だろうか、と一人で考えながら脱衣所から出た。その先のリビングで、スマホを操作している人と目が合った瞬間、ようやく喉の調子の悪さの理由に気づいた。
「明菜」
風邪などではなかった。ただ単に、猛烈に泣いてしまいそうなだけだ。
「……や、しろさん」
八城はきっと、今起きてきたところなのだろう。下着だけを身に着けた姿で私を見つめては、小さく眉を顰めた。
「もう着替えたのか」
「はい。もう、……帰ります。ごめんなさい、眠っているうちにと思ったんですが、起こしてしまいましたね」
用意していた言葉をすらすらと口にして、八城が立ち尽くしているソファにかかったコートに手を伸ばした。コートを掴んで引き寄せようとすると、手首に誰かの手が触れる。
「もう帰んの」
八城の声は、起き抜けを思わせるような低い音がしていた。
数時間前まで私を呼んでいたときの甘い響きを、たっぷりと引きずったような低音だ。胸に反響して、どうしようもなく落ち着かなくさせられる。
「帰ります、よ」
「身体は? おかしいとこない?」
「平気です。……ありがとうございました。助かりました。ちゃんと、忘れるので、八城さんも忘れてください」
身体中が、今にも震えてしまいそうだ。震えが伝わるのを恐れて八城の腕を振り払ったら、簡単に拘束が剥がれた。いつも私を掴む八城の手の力は甘い。
優しく掴まれているから、私が拒絶すれば、簡単に壊れてしまうような檻だったのだと、今更気づかされた。
「ごめんなさい、彼女でもないのに朝からお邪魔しました」
わざと自分の胸を抉るような言葉を出していた。コートを羽織る気力もなく、腕に抱いて、鞄を持ち直す。顔をあげて最後の挨拶を口にしようとしたら、八城が先に声をあげた。
「別に、俺は気にしない」
だからもうすこしここに居てほしい、と言われている気がしてしまう。おかしな勘違いをしてしまいそうだ。八城ならきっと、本心ではなくても、ここに居て良いと言ってくれる。恩を感じている社長の娘なら、義務感ででも、大事にしてくれそうだ。――どうしても、それだけは嫌だ。
泣きたくなるようなものばかりが手のひらに用意されている。いらないものばかりで、いつも突っぱねようと必死になっていた。だから、突っぱねることだけは、上手にできるようになった。
生きてきて初めて、この不格好な特技に感謝している。
「あはは、大丈夫です。はやくお家に帰ってお風呂にも入りたいので、帰ります」
「明菜」
「お邪魔しました」
八城の制止を聞かずに足を進める。玄関にたどり着いて、いっとう気に入っている靴に足を入れた。もう、この部屋に来ることはない。また喉の奥が痛んで、息を呑みこんだ。吐いたら、一緒に涙が出てくる予感がある。
ドアノブに手をかける。その指先が、誰かの手に、優しく掴まれた。ドラマのワンシーンのような、すてきなことをしてくれる。
あまりにも自分に都合のいい熱が触れてくれたせいで、変なことを考えてしまった。振り返り見て、その人の表情を伺う余裕なんて、かけらもない。
「明菜」
「放してください」
追いかけてほしいと思ったら、八城はたぶん、追いかけてくれるのだろう。そういう人だった。抱きしめてほしいと思えばそうしてくれたし、キスがしたいと思えば、いつもしてくれた。八城は、私の目を見て、こころを探し当ててしまう。
いつも正しい答えにたどり着いてしまう。――けれど、今日はダメだ。
「明菜、すこし話したい」
「私は、いやです」
はっきりと口にしたら、私の手に重ねられた八城の指先がぴくりと動いた。八城も動揺することがあるのか、と感心してしまいそうだった。
「……もう、これで終わんの」
「は、い?」
「明菜と恋愛ごっこすんの、本当に今日で終わんの?」
どうしてそんなにも、苦しそうな声が出せるのだろう。
初めから、ここで終わりと決めていた。今、ここで縋り付いたら、八城を汚い世界に巻き込んでしまう。好きだけで、八城の思うしあわせを与えることができるような場所に立っていない。くるしめたくない。
大好きで、大切で、どうしようもなくしあわせでいてほしいから、はじめから求めてはいけなかった。
「おわりです」
「泣くほど嫌な思い出になった?」
静かに問われて、ようやく泣いてしまっているのだと気づいた。昨日何度も流した涙とは違う、冷たい涙だった。悲しみがいくらでも零れ落ちていく。それなのに、『悲しい』は減ってくれなくて、この胸から無限にこみあげて止まらなかった。
「ちが……、い、ます」
しあわせだった。きっと、誰よりもしあわせの中にいた。八城にも、しあわせのなかにいてほしい。
「明菜」
「八城さん」
「……名前、呼んでくれねえの」
「責任とらなきゃなんて、思わないでくださいね」
「明菜」
「ただ、抱いてほしかっただけです。……すぐに、忘れます。ちゃんと、後輩に戻ります。……だからもう、終わりです」
どうしても八城の手を振り払いたくなくて、息が苦しい。もっと触れて居たくて、潤んだ瞳でじっと見つめてしまった。何もできずに、八城を振り返ることもできずに、ただ、ドアノブの上に重ねられた二人の指先を見つめていた。
このまま、振り返って抱きつきたい。名前を呼んで、キスをして、八城に心を捧げてしまいたい。
どこかから、着信音が聞こえた。止まらない音で、鈍りかけていた決意が戻ってくる。
「電話きちゃいましたね」
「……あとでいい」
「土曜日、だから、野球のお誘いですよ、多分」
「今は明菜と話してるだろ」
「出張のことかも」
「かけ直せばいい」
「……出てください。八城さんの大切な誰かが、待ってます。私たちはもう、ただの同僚です」
最後まで言いきって、今度こそ、やんわりと八城の手から自分の手を引き抜いた。
「あきな、」
「お疲れ様でした」
部屋のドアを開いて、振り返らずに足を踏み出す。ぱたん、と閉じられた扉から、すぐに離れた。
もう、泣いているのに、何度でも泣き出したいような気分になっている。しあわせだった。きっとこの世界の誰よりもしあわせのなかにいた。それなのに、八城には、苦しい思い出になっていると思わせてしまったかもしれない。
笑ってお別れできなかった自分の不甲斐なさに泣きながら笑っている。
走ってエレベーターに乗り込んで、近くを通ったタクシーを呼んだ。後部座席に転がり込んで、何度も行ったことのある親友のマンションがある近くの駅名を口遊む。
八城の長期出張があって、本当に良かった。今日会わなければ、三週間は会わなくて済む。三週間もすれば、八城の中から私への罪悪感なんて簡単に消えてくれるだろう。そうだと願っている。
鞄の中を弄って、携帯を探す。可憐に泣きつこうと込めていたのに、どこを探しても見つからずに、ふいにキッチンで一度取り出したことを思い出した。間違いなく、八城の部屋に忘れてきてしまった。馬鹿みたいなミスをしている自分に気づいて、笑えてくる。
もう、解約すればいい。八城には、捨ててもらえばいい。あのスマホに入っている八城からの連絡なんて、消えてしまったほうが良い。
『だから、俺以外、全部忘れて良いよ』
ねえ、それは困る。困るよ、八城さん。
三週間で、八城を忘れる。綺麗に思い出にして、次の週は同僚の顔をして笑いかける。――どうして、始まりの日の私は、それができると思い込んでしまったのだろうか。
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