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STEP 15 「明菜の飯、毎日食う権利。争奪戦エントリーしてます」
しおりを挟む「頑張れとか、期待してるなんて、言ってくれると思わなくて」
皿洗いを終えて、ソファの上で八城の足の間に座り込みながら話をしていれば、その時と同じように八城の手が頭を撫でてくれる。八城が、手に持っていたコーヒーを渡してくれた。
長く一人で話していたから、喉が渇いている。八城に手渡されて気づいてしまうのがおかしかった。一口飲んでいる間に、八城が髪を整えて、耳にかけてくれる。
「良い親父さんじゃん」
八城の言葉には、嫌らしさがない。人を褒める時、いつも本心から口にしているのだと信じさせる力がある。誠実な人だから、無条件に信じてしまうのかもしれない。初めて見た時から、つよく、胸に残る言葉をたくさん分け与えてくれる人だった。
もらったコーヒーを返せば、八城は、私の倍以上のスピードでコーヒーを飲み干して、脇のテーブルに置いてしまった。相変わらず豪快な人だ。片手が空いた八城が私の身体を抱き直して、しっかりとお腹の前で腕を組んでくれる。ぴったりとくっついた身体に安心して、ぽろりと、可憐にしか言ったことのない話をしていた。
「父は昔、私の姉に、強引に見合いを設けて結婚をさせたことがあって」
「え、まじで?」
私が想像する以上に、八城が絶句している。ちらりと振り返ったら、すこし前にいい父だと言ってくれた人とは思えないほど眉を顰めさせた人と目が合った。笑ってしまう。人のこころに寄り添うのが上手な人だ。
「私、ずっとそれが許せなくて、父の会社の都合で人生を狂わされた姉のこと、本当に悔しかったんです。だから父の会社に入るつもりなんてなかった」
「そりゃまた……、じゃあ、なんで」
「気になってたんです。父がそうまでして守りたい会社って何なんだろうって。姉の人生を潰してまで、大事にしたい会社って何かなって」
テレビで見るような汚いことをしている会社なら、絶対に許せないと思っていた。就活中、興味本位で、人で溢れかえっているブースの一番奥の席に座って、じっと見つめていた。
「合同説明会で、たまたま目にして、ふらっとブースに座ったんです。かっこいい若い男性がスーツを着て、きらきらしながらお話してるんです」
「……それ」
答えを口にしなくても、聡い八城なら、私が言いたいことに気づいてくれているようだ。私のお腹に絡んだ腕に力がこもる。その腕に手をそっと重ねて、静かにつぶやいた。
「八城さんって人です。かっこよくて、ああ、こんなに人が輝ける仕事を守るために、父は必死になっていたんだって、すとんと納得できてしまって」
「うん」
「気づいたら、エントリーしてました」
絶対に受けないと決めていたはずなのに、どうしても、八城を見て、こんなふうに人が輝く会社なら、見てみたいと思うようになった。働いてみて、今度は、ここに貢献できる人になりたいと思うようになってしまった。
あんなにももう会いたくないと思っていたのに、いつか、父に認められたいと思うようになって必死になった。
「そっか……」
私が八城のことを、どれだけ前から特別な人だと思っていたか伝わってしまうから、隠しておこうとしていたはずなのに、結局声に出てしまった。
「姉はもうその方とは別れて、別の男性と結婚しましたし、もう良いって言ってるんですけど、……私もようやく、すこしだけ父を許せる気がします。ぜんぶ、春海さんのおかげです」
ここに来た理由も、もう一度父と向き合おうと思えたわけも、結局八城のまっすぐな瞳にある。八城の言葉なら、信じてみたいと思ってしまうから、これはもう、仕方がない。好きだから、そう思うのだと受け入れることにした。
振り返って、私の言葉に放心しているらしい八城の唇に吸い付いてみる。恋人同士のキスに許可はいらないと聞いているから、最近は、すこし頑張って口づけたりしてみている。だいたいは、逆襲に遭ってしまうけれども。
今日の八城は私のキスでようやくこころを取り戻したらしく、私の目をじっと見下ろしてきた。何も言ってくれないから首をかしげてみれば、優しい腕に抱き寄せられる。
「……明菜には敵わねえわ」
「ええ?」
「採用の手伝い、マジでわけわかんないながらにも、やってよかった」
「ふふ、はい。かっこいいです」
「わざわざしんどい選択ができる明菜に惚れ直した」
そんなふうに、思ってくれるとは、考えもしなかった。思わず笑えてしまう。八城は、人の良いところを探すのが本当に上手だ。すてきな生き方だと思う。私もそうありたいと思ってしまう。
「あはは、ぜんぜんですよ」
嬉しくなって八城の背中に腕を回したら、もう一度身体を抱き起されて、八城の腿の上に両足を乗せる形で横抱きにされた。じっと、真剣そうな目に見つめられる。
「うん?」
「そっか。政略結婚? ってマジであるのか」
感慨深そうな声だ。八城の反応は至極一般的だと思う。私も深く頷いてしまった。
「はい。私もびっくりです」
「……ってことはなに、明菜も可能性あんの?」
「うーん。いや、ないと思ってますけど……、実は、八城さんが私とその……えっちしてくれたのも、その、そういう? 父の思惑だったら嫌だなって思っていました」
八城は優秀な社員で、うちの会社でなくとも引く手数多だろう。ここまで昇進の話を蹴り続けている八城を掴む方法なら、いくらでも考えていておかしくはない。現に、姉の二人目の結婚相手は、そうして姉との婚姻に至った。
こっそりと私が打ち明けたら、八城が苦笑しながら口を開いた。
「なるほど、そういう意味で、親父さんに便宜を図られてるんじゃないかって思ってたのか」
「でも、全然そうじゃなくて、よくよく考えればあのころと違って、業績も上がっていますし、父も反省」
反省していると思います、と、最後まで言い切ることはできなかった。
八城と別れたくなくて、必死に言い訳をしていたつもりが、素早く顔を寄せてきた八城のキスに阻まれて、言葉が壊れてしまった。惚けた私を見おろす八城が、真面目そうな顔をしている。優しく頬を撫でられて首を傾げたら、もう一度静かに口づけられる。
ほんのすこしだけ唇を離した八城が、小さく囁いた。
「……課長昇進、受けるか」
良いことを思いついた、とでも言いだしそうな声だった。
父との面談の時と同じくらい、それよりも驚いて、一瞬言葉が出てこなくなる。しばらく見つめあっているうちに、八城がたのしそうに笑みを浮かべて私の髪を撫でた。
「……どうしたんですか、突然」
「ん、明菜を手放さないよう、外堀埋めていこうかと思いついた」
「そとぼり?」
「出世すりゃ明菜の父さんに認めてもらえんだろ?」
けろりと言いきって、もう一度口づけてくる。考えたこともないような方向に捉えられて、唖然としてしまった。あれだけ嫌がっていたのに、良いのだろうか。やればやるほどに、八城が目指している穏やかで優しい家庭は遠ざかってしまいそうだ。
「……なんか、昇進の動機が、不純です」
「男は大体そう」
「そうなんですか」
嘘のような気がする。じっと見つめたら、八城が笑って「どうせ佳樹さんもそうだし、俺もそっち路線で認めてもらうことにする」とつぶやいた。
「ん、社長の周りに存在感出していくわ。そうしたら認めてもらえそうだし」
「なにを、認めてもらうん、です」
「明菜の飯、毎日食う権利。争奪戦エントリーしてます」
「争奪戦……」
「意味、わかるだろ?」
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