僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

54. 君に伝えたい

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 静けさが、薄い氷のように部屋を覆っていた。
 言葉を交わしても、どこか上滑りする。
 視線が合えば、目を逸らされる――その繰り返しだった。

 あの夜を境に、レオの優しさは少しずつ形を変えていった。
 手を差し出そうとして、途中で止める。
 言葉を紡ごうとして、飲み込む。

 それからというもの、夜更けまで灯が消えない日が続いた。
 レオが、いつ眠っているのかわからない。
 僕が寝台に入る頃には彼はまだ起きていて、目を覚ますと、寝台はもう整えられている。
 温もりの消えた布の皺が、静かに夜明けを告げていた。
 まるで僕の存在そのものが、彼の休息を遠ざけているようだった。

 見られたのは、いちばん見せたくなかった自分だった。
 欲を抑えきれず、彼の姿を思い浮かべながら、それを吐き出した。
 彼に触れたい、触れられたいと願っていたその想いを、自分の手で汚してしまった。
 ――自分で蒔いた種だ。
 そう言い聞かせてはみても、彼が僅かに距離を置くだけで、世界の色が薄くなっていった。

 ――それでも、彼は言ってくれた。
 「俺は、どこにも行きません」
 そう、迷いなく頷いてくれた。その言葉を信じたい。

 思い返せば、彼はいつも言葉で想いを伝えてくれていた。

 ――千景さんがつらいときは、俺に頼ってほしいんです。
 ――少しでも近くにいたくて。
 ――あなたを、愛しているんです。
 うずくまっていた僕を抱き上げた腕の温もり、穏やかな声、優しい笑顔――その全てが嘘だと思えなかった。

 これまで僕は、ずっと人の顔色を窺って生きてきた。
 そんな僕に、レオはいつも真っ直ぐに気持ちを伝えてきてくれたのに――僕は、ちゃんと向き合わずに、逃げてばかりだった。
 たとえ愛想をつかされてしまったのだとしても――それでも、もう逃げたくない。ちゃんと向き合いたい。この気持ちを伝えたい。

 寝台から身を起こす。
 今日も、隣に彼の姿はなかった。
 足裏に触れた床の冷たさが、覚悟を確かにした。

 ◇

 外へ出ると、吐息が白く散った。
 その先に、淡い光が漂っている。
 赤紫――蘇芳の、あの光に似ている。
 脈を打つように揺れながら、僕の歩幅に合わせて遠ざかっては舞い戻る。
 冷えた空気の中で、まるで、僕の進む先を知っているようだった。

 木々の隙間を抜けたとき、視界の先に人影があった。
 灯もない闇の中、星明かりが彼の輪郭を浮かび上がらせていた。
 その隣に腰を下ろす。

「レオ……こんな場所で、何をしているんですか」
 彼は振り向かない。
 肩越しに、かすかな吐息だけが返ってくる。
「……どうして避けるんですか」
 それでも彼は答えなかった。
 その沈黙がどうしようもなく怖かったけれど、もう逃げないと誓った。どんな結果になっても、ここで聞かなければ。

「一緒に過ごすのが、嫌になりましたか……僕が汚れているから」
「……っ、そんなこと、思ってない!」

 レオがようやくこちらを見た。その眼差しは、嘘をついていないことを物語っていた。だからなおさら、理由が知りたかった。

「じゃあ、なぜですか。最近は目も合わせてくれない。夜も僕が眠るまで寝室に入ってこない。……そんなに、僕と距離を取りたいんですか?」
「違います!」
「じゃあ、何故」

 しばらく俯いたまま、レオは唇をかみしめていた。
 頬にかかる髪が微かに揺れ、やがて言葉が漏れる。

「……俺は、自分が怖いんです」
「怖い?」
「貴方が俺を見て笑ってくれると嬉しいのに。……泣かせたくなる」

 “泣かせたくなる”――どうしてそんなこと。
 わからない。でも、知りたい。彼の中にある感情を、ちゃんと見つめたいと思った。

「俺が帰りが遅くなった日を覚えていますか」
「……覚えています。あの日は風が冷たくて」
「あの日、俺はわざと遠回りして帰った。千景さんがどんなふうに俺を待ってくれるか、確かめたくて」
「……あのとき、どんどん不安になって。もう……戻ってこないのかと思っていました」
「……ごめんなさい。俺、自分の気持ちばかり優先して……」

 レオは言葉を飲み込むように唇を引き結び、そっと目を伏せた。
 やがて、ぽつりと吐き出すように言葉を継いだ。

「あのとき、外で倒れている貴方を見て、俺はどうしようもなく嬉しかった。こんなになるまで、ここで俺を待ってくれていたんだって」
「……そんな、嬉しいなんて……僕は、ただ、心配で……」
「嬉しいだけじゃなく……このままずっと閉じ込めて、一生俺だけ見ていてほしいと思ってしまった」

 どう受け止めればいいのかは、まだわからない。
 けれど、レオが隠していた想いを今、打ち明けてくれている。
 それだけで、十分だった。

「……僕は、あの日、レオが“どこにも行かない”って言ってくれて嬉しかった」
 何かを堪えるように、レオは視線を逸らした。
「千景さん……俺、もう限界なんです」

 限界――その言葉がゆっくりと沈んでいく。
 きっと、もう離れたいということなのだろう。
 悲しいけれど、それでも、自分の気持ちを伝えずに終わらせたくなかった。

「この手紙、覚えていますか?」
「それは……」
「孤児院で君がくれた手紙です。宿舎を出るとき、これだけ持ってきたんです。すっかり擦り切れてしまったけれど、僕とっては大切な宝物です」
「千景さん……」
「……思えばこれが、君が最初にくれた“言葉”でしたね」
「千景さんの部屋でそれを見つけたとき、すごく嬉しかった」
「僕だって、レオがまさかあのときの毛布をお守りにしているなんて思いもしませんでした」

 ふっと笑みがこぼれる。
 けれど、この先の言葉を紡ぐことが怖くて、すぐに笑みは霧散した。
 それでも、黙っていては、何も届かない。
 言葉を飲み込んだままでは、何も伝わらない。

「君は、昔からたくさんの言葉をくれました。僕がどんなに醜くても、罪を犯しても――それでも“生きて”と言ってくれた。……その言葉が、僕を少しずつ人間に戻してくれたんです」
「……そんなふうに思っていてくれたんですね」
「気づけば……君のまっすぐなところに惹かれていました。怒るときも、笑うときも、泣く時ですら全力で。不器用なのに、いつも本気で人を想っている。そんな君が眩しかった」
「……俺に、そんな言葉……もったいないくらいです」
「勇者とか、魔王とか、そんなものがなくなって、ただ“君”と過ごす時間が増えるほどに、目で追っている自分に気づきました。触れたくて、声を聞きたくて……ああ、これは恋なんだって、ようやく分かりました――いつの間にか、レオを好きになってしまったんです」

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 次話では、長く押し殺してきた本当の想いが、ついに言葉になります。
 傷つきながらも歩み寄った二人の心が報われる瞬間を、どうか見届けてください。
***
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