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第二部
第18話
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エマのポケットで通知を知らせる音が鳴り響き、ゆっくりと携帯電話を右手に取り出して、画面を見る。
「……もしもし?」
若干の間。
少しだけエマの声が震える。らしくもない。が、大凡の人間では彼女の感情の機微には気が付かないだろう。
『エマ……よね?』
不安そうにエマ以上に震える中年女性の声が聞こえて、表情の硬いエマの瞼が僅かに下に落ちた。
電話から響いたこの女性の声は小さな頃から聞き慣れていて、最近では中々、聞くことのなくなった懐かしい声だ。
「うん」
確かめる様な声に、嘘をつく必要もないと思ったのか。いや、単純に反射で返事をしただけだろう。
そして直ぐに本題の一言が告げられた。
『ーーエマ、帰ってきなさい』
今までにない程に、いや、エマが家族のいるあの家から出ると決めた時と同等か、それ以上とも思えるほどの芯の通った声だ。
「お母さん……」
『お願いだから帰ってきて。最近、事件があったのよね?』
「……大丈夫」
彼女の言う事件とはまず間違いなくアダーラ教徒によるテロ事件の事のはずだ。分かり切っている事実なのだ。
『大丈夫なんじゃなくてっ……! お願いだから! 帰ってきなさいよ……!』
叫ぶ母の声にあったのは単純な怒りではない。腹の底から湧き上がる、悲哀の情が直接、面を向き合わせ話をしているわけでもないと言うのに痛いほどにエマに伝わってくる。
「…………」
『あなたが大事なのっ。あなたはお爺ちゃんみたいな英雄になんかならなくてもいいの……!』
「違うよ、お母さん。私がなりたいの。ひいお爺ちゃんみたいに」
彼女の憧れだ。
エヴァンスの姓を名乗るのは彼女の憧れの体現なのだ。『悪魔』と恐れられた戦場の英雄に彼女は焦がれている。
『ねえ、エマ』
呼びかける声に一方的に謝罪を一言だけ残す。
「ごめんね、お母さん」
通話を切って、エマは上を見上げる。代わり映えもしない白色の天井が広がっている。エマだって自分が正しくない事くらいは理解できている。
我儘だ、命のかかった。
エマの人生における最大の我儘だ。
それでもエマの母は母として確かに彼女のことを愛し、何よりも心配していた。愛するたった一人の娘に心を砕くのは当然とも言えた。
通話が終わった携帯電話を右手に持ってポケットにしまうこともなく力なく立ち尽くす。
「エマ、何かあったのかい?」
通りすがったベルが天井を見上げているエマに声を掛ける。
「ベル……」
視線をベルに向ける。
顔を見てもエマの表情の変化は薄く、何を考えているかは分かりもしないが先程の素振りから何もない訳ではないだろう。
「特に……何でもない」
ただ、彼女は事情を説明しようとは思わなかった。他人が気にする様な事情でもないと考えたからだ。
「……へぇ、そうかい。取り敢えず、アタシに付き合いな」
ベルはいつもの様にエマを誘う。
「訓練?」
「ああ」
彼女の提案にエマは乗ることにした。心に引っ掛かる様な感覚に、今はこうした方が良いと思ったのだ。
「よう、お前らもか?」
訓練所に入って見えたのは倒れ伏したフィリップの姿と、平然とした様子で話しかけてくるオスカーの姿。
「オスカー副団長……これは?」
一体なんなのだろうか。
エマが尋ねると、何ともないような口振りで簡潔に答えた。
「訓練だ。フィリップから頼まれてな」
訓練だというが、何とも痛ましい光景だ。
使い古した雑巾の様なフィリップがピクリとも動かずに地面に伸びている。それこそ、もしかすると死んでしまったのではないかと考えてしまうほどに。
「気絶してるんだよ。邪魔だろ? 今、オレが連れてくからな」
膝をついてフィリップを持ち上げるとオスカーは訓練所の出口に向かって歩く。その時に見えたフィリップの顔は真っ赤に腫れ上がり、見るに堪えない物であった。
「フィリップが……」
オスカーの強さをエマは再認識する。フィリップの戦闘技能も低いという事はなく、寧ろ『牙』の団員の中でも優秀だと言っても過言ではないというのに。それを遥かに凌駕するオスカーに彼女の体が震える。
あれを越えねば、彼女の求める『悪魔』には程遠いのかも知れない。ただ、オスカーを越えるという明確なビジョンが浮かばない。
「エマ」
隣からベルの声が聞こえて、エマはふと顔を向け。
「何、ベル?」
こてりと首を傾げて尋ね返す。
「やろうか」
構えを取ったベルの姿に目を一度見開いてから、エマも構えを取る。
「うん」
迷いばかりが生まれて仕方がない。
家族の事も、憧れに近づけているのかという事も。考えて考えて、思考に潜れば永遠に囚われ続けることになる。憧れは遠く、理想を夢に見る。
「ふっ!」
踏み込んだベルの動きをボンヤリと見つめていたエマは反応が遅れ、ギリギリで左の拳を回避する。
チッ、と頬を撫でる熱い感覚。
「調子、悪いのかい?」
まさか、掠るとも思っていなかったのかベルが聞くと、エマは気持ちを切り替える様に大きく首を横に振る。
「心配……いらない」
纏わりつく様な不安を、絡みつく様な苦悩を振り払うように一歩大きく踏み出しベルに肉薄する。
次は、どうする。
左手か、右手か。
それとも右足か、左足か。
彼女が選び出したのは右足。
最早、反射とも言える。
鋭く脇腹に向けて蹴りが繰り出される。真面に受けては一溜まりも無い。高速で迫る脚にベルは左腕を挟んで直撃を防ぐ。
ビリビリと電流が走る様な感覚を左腕に覚えてベルは小さく頬をつり上げた。
「まだ本調子じゃないね」
確信があった。
普段のエマであればもっと行けると。
まだ、エマの迷いは振り切れていない。
「…………」
エマは何も言わない。
無表情の奥に彼女は多くの感情を仕舞い込んでしまっている。仕舞い込んだ物が彼女を縛り付ける。捨ててしまえたら楽だというのに、捨てるわけにはいかない物ばかりだ。
家族も、憧れも。
「アリエル、少し良いか?」
フィリップを部屋に運び終え、オスカーは広間のテーブルのある場所にいるアリエルに声をかけた。
「はい?」
聞こえたオスカーの声に椅子に座ったままのアリエルが視線を上に向けて振り返る。この場には二人以外誰もいない。先程まで居たはずのオリバーも居なくなり、アリエルだけが残っていたのだ。
「……これからどこか出かけないか?」
この提案を受けたのがベルであれば心の中で大量の涙を流していたかもしれない。アリエルとしては彼女程にオスカーという男性に惚れ込んでいる訳ではないため、感動という物は薄い。
「え、出かける……ですか?」
オスカーの突然の誘いにアリエルはオウムの様に尋ね返す。
「ああ。どうだ?」
これは正直、デートの誘いと受け取ってしまってもおかしくない。おかしくは無いが、オスカーにはデートの誘いと言うつもりはないだろう。
「二人で、ですか?」
「そうだ。何だ、嫌か?」
間髪入れずに肯定したオスカーに悩ましげな表情を見せるが、これと言って断る理由も見当たらない。
「分かりました。でも……何で私なんですか?」
他にも幾らでも誘う人間はいるだろう。
「ちょっと、な。お前ともう少しだけ距離を縮めたいと思ったんだよ」
成る程、そういうことか。
確かに『牙』に入団して時期の浅いアリエルは関係性という物が他の団員と比べて薄い。信頼関係もだ。
「それで、どこに行くんですか?」
立ち上がりながらアリエルがオスカーに尋ねれば、オスカーはニヤリと笑って俳優のような様になる顔で告げる。
「オレのとっておきの場所だ」
彼の言葉はとても魅力的で心惹かれる。とっておき、秘密の。この言葉には魔力がある。特に彼程の美形が言ったのであれば興味を抱くのは当然だろう。
ただ、アリエルは恋心などではなく子供のような無邪気な好奇心を抱いたという差異があるが。
「とっておき……!」
食いついたアリエルの目は輝いていた筈だ。一瞬、オスカーはキョトンと呆けた様な顔をして、直ぐにまた笑みを浮かべた。
「ああ。どうだ?」
オスカーは彼女が乗ってくるだろうと言う確信を抱き再度、質問した。
「行きたいです」
オスカーも気分が良くなったのか、「付いていこい」と告げて歩き始めれば、エクス社に向かった時と同じ様にアリエルはオスカーの背中を追いかける。
二人で基地を出て、歩き始めてから大凡三十分が経過しただろうか。
人通りの少ない路地に入って、ふとオスカーは立ち止まる。
「あの……?」
アリエルはまだ着かないのだろうか、それにしても人が少ない、と言った不安が心の中に湧いて出るのを感じていた。ただ、この疑問はオスカーという仲間を疑う事になると思ったのだろう、内側に隠すことにした。
きっとここを抜ければ彼のいうとっておきの場所とやらに辿り着くだろう。
「もしかしてーー」
道に迷いましたか。
アリエルが尋ねようとした瞬間にくるりとオスカーが振り返った。
ああ、きっと道を間違えていて、今から来た道を戻ろうとしているのかと顔色を伺う様に視線を上げた瞬間にアリエルの背筋にゾワリと悪寒が走った。
「この辺りで良いか……」
底の知れない闇。
アリエルの目に映ったのは黒色だ。どす黒い暗い、瞳の色。怖気の走る様な目。
「全く……あの人も人使いが荒い。オレの立場を考えて欲しいもんだ」
携帯電話にチラリと視線を移してから、またオスカーはポケットに仕舞い込む。
「アリエル・アガター。Project:A唯一の成功作だったな。余り興味は無かったが計画にはどうしても必要らしい……な」
オスカーの剛力を誇る右拳がアリエルの無防備な鳩尾に突き刺さり、続け様に左肘で首裏を強打する。
腹の中の物を吐き出してしまいそうになる。
「ぁっ……ガぁ。……な、ん……で」
意識が飛びそうになるが、踏みとどまる。何だ、何が起きてる。頭の中は痛みと熱さでぐちゃぐちゃだ。不安と、湧き上がる恐怖。初めての経験だ。
だからこそ、なによりも恐怖を覚える。突然の暴力。訓練でも何でもない。明確な敵意のある攻撃に。
裏切りと言う文字が過った。
「オイオイ、タフだな。いい加減に気絶してくれ。面倒臭い」
止めと言う様な膝蹴りが顎に入って脳が揺れる。
真っ白に染まっていく脳内、痺れて体が言うことを聞かない。やがて、彼女は意識を失い地面に倒れる。
「ふう、これで良いだろ」
アリエルに振るわれた一連の暴力をたった一人が見ていた。
「おい、後は任せたぞ」
路地で起きた出来事を観察していた白髪の青年がひっそりと現れる。
これも初めから決まっていたことだ。
「はい、センセイ」
気絶させたアリエルを約束通りに引き渡してオスカーは路地を抜けようと歩き始めようと左足を一歩踏み出す。
「……センセイはいつまで家族ごっこに興じているつもりなんですか」
ピタリと足を止めて、悍ましい邪悪を隠すこともなく、怒りを晒す。
「ーー家族ごっこ……? 巫山戯るなよ。紛れもなく家族だ。お前が何のつもりで言ったか知らないが……殺すぞ」
黒色の絵の具でキャンパスを塗りつぶす様に、殺意一色の冷たい世界に早変わり。こんな物を向けられ続ければ、気が触れてしまいそうだ。
「……すみません」
震える声で青年は謝罪を吐き出す。吐き出させられた、と表現した方が正しいかもしれない。
「二度目はない」
オスカーの一言で、路地を支配していた張り詰めた空気が弛緩した。
「……チッ」
再びオスカーは普段通りの細目を意識する。目を開かないのは彼の中の悪意を覗かせないための方策だ。
「……もしもし?」
若干の間。
少しだけエマの声が震える。らしくもない。が、大凡の人間では彼女の感情の機微には気が付かないだろう。
『エマ……よね?』
不安そうにエマ以上に震える中年女性の声が聞こえて、表情の硬いエマの瞼が僅かに下に落ちた。
電話から響いたこの女性の声は小さな頃から聞き慣れていて、最近では中々、聞くことのなくなった懐かしい声だ。
「うん」
確かめる様な声に、嘘をつく必要もないと思ったのか。いや、単純に反射で返事をしただけだろう。
そして直ぐに本題の一言が告げられた。
『ーーエマ、帰ってきなさい』
今までにない程に、いや、エマが家族のいるあの家から出ると決めた時と同等か、それ以上とも思えるほどの芯の通った声だ。
「お母さん……」
『お願いだから帰ってきて。最近、事件があったのよね?』
「……大丈夫」
彼女の言う事件とはまず間違いなくアダーラ教徒によるテロ事件の事のはずだ。分かり切っている事実なのだ。
『大丈夫なんじゃなくてっ……! お願いだから! 帰ってきなさいよ……!』
叫ぶ母の声にあったのは単純な怒りではない。腹の底から湧き上がる、悲哀の情が直接、面を向き合わせ話をしているわけでもないと言うのに痛いほどにエマに伝わってくる。
「…………」
『あなたが大事なのっ。あなたはお爺ちゃんみたいな英雄になんかならなくてもいいの……!』
「違うよ、お母さん。私がなりたいの。ひいお爺ちゃんみたいに」
彼女の憧れだ。
エヴァンスの姓を名乗るのは彼女の憧れの体現なのだ。『悪魔』と恐れられた戦場の英雄に彼女は焦がれている。
『ねえ、エマ』
呼びかける声に一方的に謝罪を一言だけ残す。
「ごめんね、お母さん」
通話を切って、エマは上を見上げる。代わり映えもしない白色の天井が広がっている。エマだって自分が正しくない事くらいは理解できている。
我儘だ、命のかかった。
エマの人生における最大の我儘だ。
それでもエマの母は母として確かに彼女のことを愛し、何よりも心配していた。愛するたった一人の娘に心を砕くのは当然とも言えた。
通話が終わった携帯電話を右手に持ってポケットにしまうこともなく力なく立ち尽くす。
「エマ、何かあったのかい?」
通りすがったベルが天井を見上げているエマに声を掛ける。
「ベル……」
視線をベルに向ける。
顔を見てもエマの表情の変化は薄く、何を考えているかは分かりもしないが先程の素振りから何もない訳ではないだろう。
「特に……何でもない」
ただ、彼女は事情を説明しようとは思わなかった。他人が気にする様な事情でもないと考えたからだ。
「……へぇ、そうかい。取り敢えず、アタシに付き合いな」
ベルはいつもの様にエマを誘う。
「訓練?」
「ああ」
彼女の提案にエマは乗ることにした。心に引っ掛かる様な感覚に、今はこうした方が良いと思ったのだ。
「よう、お前らもか?」
訓練所に入って見えたのは倒れ伏したフィリップの姿と、平然とした様子で話しかけてくるオスカーの姿。
「オスカー副団長……これは?」
一体なんなのだろうか。
エマが尋ねると、何ともないような口振りで簡潔に答えた。
「訓練だ。フィリップから頼まれてな」
訓練だというが、何とも痛ましい光景だ。
使い古した雑巾の様なフィリップがピクリとも動かずに地面に伸びている。それこそ、もしかすると死んでしまったのではないかと考えてしまうほどに。
「気絶してるんだよ。邪魔だろ? 今、オレが連れてくからな」
膝をついてフィリップを持ち上げるとオスカーは訓練所の出口に向かって歩く。その時に見えたフィリップの顔は真っ赤に腫れ上がり、見るに堪えない物であった。
「フィリップが……」
オスカーの強さをエマは再認識する。フィリップの戦闘技能も低いという事はなく、寧ろ『牙』の団員の中でも優秀だと言っても過言ではないというのに。それを遥かに凌駕するオスカーに彼女の体が震える。
あれを越えねば、彼女の求める『悪魔』には程遠いのかも知れない。ただ、オスカーを越えるという明確なビジョンが浮かばない。
「エマ」
隣からベルの声が聞こえて、エマはふと顔を向け。
「何、ベル?」
こてりと首を傾げて尋ね返す。
「やろうか」
構えを取ったベルの姿に目を一度見開いてから、エマも構えを取る。
「うん」
迷いばかりが生まれて仕方がない。
家族の事も、憧れに近づけているのかという事も。考えて考えて、思考に潜れば永遠に囚われ続けることになる。憧れは遠く、理想を夢に見る。
「ふっ!」
踏み込んだベルの動きをボンヤリと見つめていたエマは反応が遅れ、ギリギリで左の拳を回避する。
チッ、と頬を撫でる熱い感覚。
「調子、悪いのかい?」
まさか、掠るとも思っていなかったのかベルが聞くと、エマは気持ちを切り替える様に大きく首を横に振る。
「心配……いらない」
纏わりつく様な不安を、絡みつく様な苦悩を振り払うように一歩大きく踏み出しベルに肉薄する。
次は、どうする。
左手か、右手か。
それとも右足か、左足か。
彼女が選び出したのは右足。
最早、反射とも言える。
鋭く脇腹に向けて蹴りが繰り出される。真面に受けては一溜まりも無い。高速で迫る脚にベルは左腕を挟んで直撃を防ぐ。
ビリビリと電流が走る様な感覚を左腕に覚えてベルは小さく頬をつり上げた。
「まだ本調子じゃないね」
確信があった。
普段のエマであればもっと行けると。
まだ、エマの迷いは振り切れていない。
「…………」
エマは何も言わない。
無表情の奥に彼女は多くの感情を仕舞い込んでしまっている。仕舞い込んだ物が彼女を縛り付ける。捨ててしまえたら楽だというのに、捨てるわけにはいかない物ばかりだ。
家族も、憧れも。
「アリエル、少し良いか?」
フィリップを部屋に運び終え、オスカーは広間のテーブルのある場所にいるアリエルに声をかけた。
「はい?」
聞こえたオスカーの声に椅子に座ったままのアリエルが視線を上に向けて振り返る。この場には二人以外誰もいない。先程まで居たはずのオリバーも居なくなり、アリエルだけが残っていたのだ。
「……これからどこか出かけないか?」
この提案を受けたのがベルであれば心の中で大量の涙を流していたかもしれない。アリエルとしては彼女程にオスカーという男性に惚れ込んでいる訳ではないため、感動という物は薄い。
「え、出かける……ですか?」
オスカーの突然の誘いにアリエルはオウムの様に尋ね返す。
「ああ。どうだ?」
これは正直、デートの誘いと受け取ってしまってもおかしくない。おかしくは無いが、オスカーにはデートの誘いと言うつもりはないだろう。
「二人で、ですか?」
「そうだ。何だ、嫌か?」
間髪入れずに肯定したオスカーに悩ましげな表情を見せるが、これと言って断る理由も見当たらない。
「分かりました。でも……何で私なんですか?」
他にも幾らでも誘う人間はいるだろう。
「ちょっと、な。お前ともう少しだけ距離を縮めたいと思ったんだよ」
成る程、そういうことか。
確かに『牙』に入団して時期の浅いアリエルは関係性という物が他の団員と比べて薄い。信頼関係もだ。
「それで、どこに行くんですか?」
立ち上がりながらアリエルがオスカーに尋ねれば、オスカーはニヤリと笑って俳優のような様になる顔で告げる。
「オレのとっておきの場所だ」
彼の言葉はとても魅力的で心惹かれる。とっておき、秘密の。この言葉には魔力がある。特に彼程の美形が言ったのであれば興味を抱くのは当然だろう。
ただ、アリエルは恋心などではなく子供のような無邪気な好奇心を抱いたという差異があるが。
「とっておき……!」
食いついたアリエルの目は輝いていた筈だ。一瞬、オスカーはキョトンと呆けた様な顔をして、直ぐにまた笑みを浮かべた。
「ああ。どうだ?」
オスカーは彼女が乗ってくるだろうと言う確信を抱き再度、質問した。
「行きたいです」
オスカーも気分が良くなったのか、「付いていこい」と告げて歩き始めれば、エクス社に向かった時と同じ様にアリエルはオスカーの背中を追いかける。
二人で基地を出て、歩き始めてから大凡三十分が経過しただろうか。
人通りの少ない路地に入って、ふとオスカーは立ち止まる。
「あの……?」
アリエルはまだ着かないのだろうか、それにしても人が少ない、と言った不安が心の中に湧いて出るのを感じていた。ただ、この疑問はオスカーという仲間を疑う事になると思ったのだろう、内側に隠すことにした。
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「もしかしてーー」
道に迷いましたか。
アリエルが尋ねようとした瞬間にくるりとオスカーが振り返った。
ああ、きっと道を間違えていて、今から来た道を戻ろうとしているのかと顔色を伺う様に視線を上げた瞬間にアリエルの背筋にゾワリと悪寒が走った。
「この辺りで良いか……」
底の知れない闇。
アリエルの目に映ったのは黒色だ。どす黒い暗い、瞳の色。怖気の走る様な目。
「全く……あの人も人使いが荒い。オレの立場を考えて欲しいもんだ」
携帯電話にチラリと視線を移してから、またオスカーはポケットに仕舞い込む。
「アリエル・アガター。Project:A唯一の成功作だったな。余り興味は無かったが計画にはどうしても必要らしい……な」
オスカーの剛力を誇る右拳がアリエルの無防備な鳩尾に突き刺さり、続け様に左肘で首裏を強打する。
腹の中の物を吐き出してしまいそうになる。
「ぁっ……ガぁ。……な、ん……で」
意識が飛びそうになるが、踏みとどまる。何だ、何が起きてる。頭の中は痛みと熱さでぐちゃぐちゃだ。不安と、湧き上がる恐怖。初めての経験だ。
だからこそ、なによりも恐怖を覚える。突然の暴力。訓練でも何でもない。明確な敵意のある攻撃に。
裏切りと言う文字が過った。
「オイオイ、タフだな。いい加減に気絶してくれ。面倒臭い」
止めと言う様な膝蹴りが顎に入って脳が揺れる。
真っ白に染まっていく脳内、痺れて体が言うことを聞かない。やがて、彼女は意識を失い地面に倒れる。
「ふう、これで良いだろ」
アリエルに振るわれた一連の暴力をたった一人が見ていた。
「おい、後は任せたぞ」
路地で起きた出来事を観察していた白髪の青年がひっそりと現れる。
これも初めから決まっていたことだ。
「はい、センセイ」
気絶させたアリエルを約束通りに引き渡してオスカーは路地を抜けようと歩き始めようと左足を一歩踏み出す。
「……センセイはいつまで家族ごっこに興じているつもりなんですか」
ピタリと足を止めて、悍ましい邪悪を隠すこともなく、怒りを晒す。
「ーー家族ごっこ……? 巫山戯るなよ。紛れもなく家族だ。お前が何のつもりで言ったか知らないが……殺すぞ」
黒色の絵の具でキャンパスを塗りつぶす様に、殺意一色の冷たい世界に早変わり。こんな物を向けられ続ければ、気が触れてしまいそうだ。
「……すみません」
震える声で青年は謝罪を吐き出す。吐き出させられた、と表現した方が正しいかもしれない。
「二度目はない」
オスカーの一言で、路地を支配していた張り詰めた空気が弛緩した。
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