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しおりを挟むエリーザベトは先に夕食の席についていたが、もちろん食事には手を付けず夫の帰りを待っていた。
神の教えによれば妻というのは夫に従属するものである。
それはルスヴィアにやってきてすぐ連れていかれた小さな教会で、神に誓った通りに。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。また食べてないのか。先にすませていていいと言っただろう」
と言いつつも、マティアスは嬉しそうである。
夫婦が食事をとるのは内輪のための小さな食堂で、初代シュヴァルツェン伯の大きな肖像画が奥の壁に飾られ、その下で燃え盛る暖炉の年季の入った堂々ぶりにまず目を奪われる、そんな場所だった。
頭上にはシャンデリア、しみひとつないテーブルクロスがかけられた長机に並ぶ燭台、銀の食器と陶器のお皿、花瓶に飾られた花は昼にエリーザベトが庭園で摘んできたものだ。
エリーザベトは茶化し半分にうやうやしく礼をして見せた。
「旦那様がお腹を空かせておいでなんですもの。私だけ満腹になってはばちが当たりますわ」
「ふふ。いい妻だなあ……」
マティアスの手が伸びてきて、まだぎこちないキスが唇と頬に落ちた。
エリーザベトはなんとかキスを返したが、やっぱり夫婦というよりは仲良しの兄妹のそれのようになってしまう。
まだお互いへの愛情を表すのに慣れておらず、気恥ずかしさが抜けないのだった。
ぱちくり。
マティアスの夏の空のように深い青い目と、エリーザベトの曇り空の灰色の目が間近に見つめ合う。
はにかみ笑いをして目線を逸らす。
けれどもなんとなく、離れがたくて黙ったまま寄り添って立ち尽くしている。
変な時間だったが不愉快ではなかった。
エリーザベトは自分が不思議だった。
まだひと月しか経っていないのに、ただ書類と神の前で誓い合ったというだけの夫婦なのに、これほど彼が愛しい。
そういえばどうしてマティアスがエリーザベトを花嫁に欲しがってくれたのか、理由も知らないのに。
ぼうっと立っているだけの時間は、年嵩のメイドが陽気に銀の盆でスープを運んできてくれたことで断ち切られた。
「はいはい。お食事でございますよう。若様、一日お疲れ様でした。――おや、まあたお二人で抱き合っていたんですか?」
「う、うるさいな! さっさと運べ」
エリーザベトは顔を隠して自分の席へ。
マティアスも同じようにしながら、メイドをきつく睨みつけた。
だが顔が赤いので、まったく効果はない。
マティアスが幼い頃から屋敷にいるというメイドは、ころころ笑いながらてきぱきと盆を長机に並べた。
ほどなくして若いメイドたちが食事の皿と、パンの籠を持ってきてくれる。
卓上にすべてが揃ったのを確認してメイドたちは退出した。
年嵩のメイドは最後にエリーザベトにウインクするのを忘れなかった。
二人は簡単な神への祈りを唱え、それから食事に取り掛かった。
ルスヴィアは食材が豊富である。
今日のメニューは鳥のコンソメスープと、柔らかく蒸した川魚に白いチーズのソースをかけたもの、付け合わせの野菜もたっぷりある。
エリーザベトはにこにこ笑った。
叔父のところではメイドたちと同じ古くなったパンと薄いスープを食べていたので、こんなごちそうを毎日食べさせてもらえるなんて信じられなかった。
白く柔らかいむっちりしたパンを手で割いて、幸せを感じながら頬張る。
目を細める彼女を見てマティアスは笑った。
「君はなんでもおいしそうに食べるから、見ていて飽きない」
「まあ。マティアス様こそ、健啖家でいらっしゃいますよね。見ていて気持ちがいいです」
「そうか? うちの隊では普通だ、俺は。もっと食べる奴もいる」
エリーザベトはくすくす笑う。
彼女が嬉しそうなのを見、マティアスは笑いながらバターを取って小皿に盛り付け、エリーザベトに差し出した。
そんなやりとりが楽しかった。
これが夫婦の結びつきというものなら、エリーザベトはもうマティアスから離れられない。
彼も同じような気持ちを共有してくれていると思うのに、ならばどうして世間の夫は娼婦を買ったり、戦場で出会った魔法使いの娘に恋をしたりするのだろう?
――戦争に行ったら、彼も現地で見つけた恋人を連れて帰ってくるのだろうか。
その子が実質的な妻となり、エリーザベトは名ばかりの妻としてただ家の仕事をするためだけに飼い殺しにされる……?
(もしそうなっても、私は嫉妬なんかしちゃいけないんだわ)
戦場にあるのは雄々しさと勇気と武勇伝ばかりではない。
男たちは傷つくし、苦しむし、身も心もボロボロになる。
そんなときに支えてくれた女がいたら、きっとその人を愛しく思うようになるだろう。
それはごく自然なことだ。
エリーザベトは叔父家族が家に居座って間もない頃、家出をしたことがある。
エリーザベトの扱いを見かねて抗議して、辞めさせられた乳母を尋ねに新しい勤め先を訪れたのだ。
それは子供の脚でも歩いていけるほど近いところにある商人の家だった。
先ぶれも何もせず、そうっと裏庭から覗いてみた幼いエリーザベトは、乳母が自分ではない商人の家の子供たちを可愛がり、叱り、一緒に歌を歌うのを見て大変な衝撃を受けた。
乳母がエリーザベト以外の子供を愛することがあるとは、思ってもいなかったのだ。
その日、どこをどうやって帰ったのか覚えていない。
ただだいぶ遅くなって、夕食をもらえなかったこと、空腹でお腹に穴が空きそうだったこと、ノーマがこっそりビスケットのかけらをくれたことを覚えている。
それ以来エリーザベトはメイド服を着ることに抵抗がなくなり、掃除や洗濯といった仕事を進んでやるようになった。
それでも叔父はエリーザベトをよく扱ってくれた方だった。
孤児なんて追い出してしまえとばかりに養子先を手配するだとか、寄宿学校にやる家族だっている。
家庭教師の授業も、従姉妹たちのおまけ扱いだったが受けさせてもらえた。
おかげでなんとか貴婦人としての教養が身につき、今もシュヴァルツェン家でほどほどにやっていけている。
(恨んではだめよ、エリーザベト。
恨んでもなんにもならないわ)
そう、エリーザベトは心に決めている。
デザートは小ぶりなイチゴだった。
牛乳と砂糖の小鉢がついていた。
マティアスは砂糖を全部牛乳に入れ、イチゴよりむしろそっちに舌鼓を打った。
エリーザベトが声を出さずに笑っていることに気づいて彼はむっとしたように片方の眉を上げたが、口元が笑っている。
「なんだい?」
「甘いものがお好きなの?」
「う。ああ、そうだよ。男らしくないか?」
「いいえ、そんなことありません。――私は砂糖をそんなに使いませんから、半分どうぞ」
「おお、すまん」
それからおかしくもないのに笑い合ったり、イチゴをワインに入れたもので乾杯をしたり。
話題は尽きなかった。
最近あった面白い話。
使用人の人間関係について。
子供の頃の話。
好きな食べ物、好きな動物は何か。
「あなたは馬の手入れが上手ですね」
とエリーザベトは言った。
少し酸っぱいイチゴの甘さが口の中に弾けていた。
「軍人なら当然のことだ。彼らは戦場で最後に頼れる相棒だから」
「あの馬も戦場に連れてお行きになるの?」
彼は少し、考える目をした。
燭台の灯りが青い目にぱっと映って、水面に燃える何かが放たれたようだった。
「どこで知ったんだ?」
「え?」
「近く戦争になるとどこで知った?」
探る目である。
エリーザベトは息を飲んだ。
「本当に戦争になるのですか?」
「ああ。――なんだ、ただ会話の流れだったか」
彼は苦笑してエリーザベトの手に手を重ねる。
彼女の手よりかなり大きく、乾燥して温かい手だった。
指先は固く、剣ダコがこぶのように盛り上がっているこの手が、エリーザベトは大好きだ。
彼女は残りの手を夫のそれにさらに重ね、俯いた。
イチゴの味はもう口の中から消え去っていた。
「出征なさるのですね」
「ああ。それが義務だからな」
「それでは、私は……私は、この家であなたの帰りを待っています。きっとご無事でおかえりください」
「わかった。必ずそうしよう」
本当はもっと言いたいことがあったのに、胸が詰まって言えなかった。
私を一人にするのですか?
結婚してひと月しか経っていないのに。
戦場で娼婦と知り合うのですか?
あるいは有能な魔法使いの娘と?
そして恋に落ちるの?
気が立っているから妄想してしまうのだ。
決して言ってはならない。
エリーザベトは口を閉ざす。
剥き出しの嫉妬心をぶつけるには別れが近すぎ、心から心配して泣き崩れたら彼が立ち上がれなくなってしまう気がした。
マティアスは席を立ってエリーザベトを後ろから抱きしめた。
「寂しくさせてしまって、すまない。けれど君と義務なら、俺は義務を取る。先祖代々のシュヴァルツェン家の男たちがそうしてきたように。たとえ心が血を流して破れても、絶対にそうするよ。そのために生まれたんだから」
彼の吐息が頬に触れた。
エリーザベトは自分が泣いていることに気づいた。
いけない、面倒くさいと思われたくない……と思ったけれども涙は止まらず、それはマティアスが拭っても拭っても溢れてきた。
その夜は春の嵐が来て、窓の外はずっと風雨が吹き荒れていた。
彼の腕に抱かれながらエリーザベトは、このままずっと雨に閉じ込められていられますようにと願った。
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