指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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――戦争が終わった!

 人々は花を頭上に投げ上げ、花火が朝の晴れ渡った空に打ち上げられる。
 まるでいつかの再現のようだった。

 目深にかぶったベールを少し持ち上げて、エリーザベトは微笑んだ。
 さあっと吹いた風が水面を撫でた。
 そろそろ春の花たちの匂いが混じる。
 高台にあるこの泉から街の様子はよく見えた。
 その声も、轟きとなって響き渡る。

――戦争が終わった、勝った、勝った、勝った!

 三年間の徴発と徴兵、そして物言わぬ亡骸となって帰ってくる息子や夫や父親に辟易していた国民は、大手を振って戦争の終結と国王の名を称え、踊って歌って泣き笑いした。
 薄汚れてもすべての顔が輝くばかりに喜んでいることに、エリーザベトは神に感謝を捧げたかった。

 シュリースドルフは南方の土地で、長大なレーレン河のほとりにある。
 レーレン河に突き出すような断崖があり、レーレン修道院はその上に建っていた。
 修道院というよりは城と言った方がいい大きな建物で、時の王が宮廷を去った王妃のために建てたという。
 低いが堅牢な城壁に守られ、三つの区画に区分されてそれぞれに修道士と修道女、それから保護を必要とする人々が暮らしていた。

 区分ごとにある大きな三つの尖塔のうち二つは数百年のうちに崩れてしまったが、唯一残った真ん中の一番太い塔から鳴る鐘の音が、崖下の街に時を知らせる役目を担っていた。
 だが今日ばかりは、三時の鐘の音も街の人々の耳に届かないだろう。

 シュリースドルフは戦場にほど近かった。
 最初はずっと北にあったはずの戦線はどんどん南下して、レーレン河を越えた先にある平原が主戦場となったまま膠着状態に突入したのが去年の話だ。
 軍の救護隊から取りこぼされた負傷者や避難民が、まず目指すのもここだった。

 三年前のあの日、ルスヴィアを失意のうちに立ち去ったエリーザベトは辻馬車を乗り継ぎ、避難民のふりをしてこのレーレン修道院に潜り込んだ。
 人に知られたら非難されるかもしれないが、なりふり構っていられなかった。

 夫は死んだ、そして妊娠している、といえば修道女たちは同情してくれた。
 罪悪感を押し隠し、下働きとして働く代わりに寝起きする部屋をもらうことができた。
 幸い、下働きのような仕事に関しては叔父夫婦のところで鍛え抜かれていたから、なんとか人並みには働けたと思う。

 ほどなくしてお腹も大きくなり、あっという間に産み月を迎えて出産に至った。
 修道女たちや避難民の女たちは、お荷物だろうに、そんなことはおくびにも出さないでエリーザベトに本当によくしてくれた。
 出産は地獄のように痛かったが、それでもまったく不安なく臨めたのは彼女たちのおかげだった。

 泉は街とは正反対の、レーレン河の激流がえぐり取った盆地にあった。
 河の水が流れ込んだ上に湧き水が湧き、泉というわりに水の流れが絶えない。
 いくつかのせせらぎが泉から流れ出ており、その一つにエリーザベトは水桶を沈めた。
 その日の厨房で使う分の水を汲んでくるのが彼女の仕事だった。

 小さな足音が小さな森の中から駆け寄ってきた。
 エリーザベトは微笑んでそっちを振り返った。

「ソフィア、いいお花はあった?」
 あどけない笑顔でソフィアは腕の中いっぱいの花を差し出した。
 ぱらぱらと花弁と花粉が散り、娘の頬にくっつく。

「ママー! これ、あと、こえ。はい。どうじょ」
「ありがとう。ソフィアはお仕事が早いわねえ」
「えへへへぇ」
 エリーザベトは花を受け取り、天秤棒に結んだ紐で縛って棒にくくった。
 標高の高い場所に咲く小さな花でも、これほど集めれば立派な花束になる。

 マティアスとエリーザベトの娘であるソフィアは二歳。
 にっこり笑う顔はそれはそれは愛らしいが、髪の色は残念ながらエリーザベト似の薄い味気ない金髪である。
 たっぷりと量があるまっすぐな髪をおさげにしていたが、片方が早くも緩んでいた。
 肌はミルクのように真っ白。
 そしてふさふさした金の睫毛に彩られた目は、夏の空の青色だった。

 また、花火がもうひとつ上がった。
 幼い娘は不思議そうに空の煙を見上げた。

 天秤棒に二つの水桶を括り付け、エリーザベトは立ち上がった。
 ソフィアは母親のあとに続いて、先に行ったり戻ったりしながら一緒に道を歩いた。
 ちょうちょが飛んで、道端の草や花びらにはまだ朝露が残っていた。

「ママ、おはな」
「そうねえ」
「ママー。ママ、ママ」
「なあに?」
「うひぇ。あはははー」
 エリーザベトは満面の笑みを浮かべる。
 娘といると、いつだって彼女は悲しんでいられない。

 苦労の末に産んだ娘は本当に大人しい、いい子過ぎるくらいにいい子だった。
 まだ少し喋り方が拙いが、女の子だもの、そのうち上手になるだろう。
 てちてち歩きながら、時折ぼうっとして遅れ気味になることはあっても決して母親からはぐれない。

 ソフィアが集めた花はあとで花瓶に差して、修道院のあちこちに飾られる。
 小さな娘は朝のこの日課を自分の重大な任務と心得ており、雨でも風でも決して休もうとしないのだった。

「ソフィア、今日も泉に近づかなくて、偉かったわね」
「でしょう。ソフィア、いい子だかりゃねえ」
 娘の歩幅に合わせて歩く、この時間はエリーザベトにとって至福の時だった。
 笑う娘はこの世で一番かわいかった。

 戦争はつい昨日休戦協定が結ばれ、プロスティア王国が領土の割譲を受けることに決まった。
 だがはたしてゼルフィア帝国が納得するだろうか。
 エリーザベトの予想では、数年以内に再び新しい戦争が起こるだろうと思われた。

 のんびりと坂道を下り、二人は修道院の裏口に着く。
 すでに修道士、修道女たちの朝の祈りが佳境に差し掛かっていた。

 裏口の錆び切った金属の扉を音を立てないよう注意しながら開く。
 するとそこにモニカが立っていた。

「あら、モニカ。おはよう」
「あの人はどこ? 帰ってきたの?」
「いいえ、誰もいなかったわよ。もう少しかかるのかもしれないわね」
 モニカは茶色の髪と緑の目をした美しい妙齢の女性だった。
 彼女の夫は戦争に行き、片腕をなくし、若い娼婦を伴って家に帰ってきた。
 最初は妾にするため連れ帰ったのだと言っていたが、そのうちモニカが浮気をしたとでっち上げて一方的に離婚してしまった。

 モニカは喚き散らし、泣き崩れ、土をひっかいて家に居着こうとしたが夫に蹴り出された。
 そのまま着の身着のまま村の中を彷徨っているところを、見かねた村人の手によってレーレン修道院に引き渡されたのだった。

 とことことサラが奥の台所からやってきた。
 先に起きていた台所番にもらったのだろう、チーズつきのパンをもぐもぐやっている。
 彼女はモニカをそのまま小さくしたような外見の女の子だった。

「お母さんたら。エリザに面倒かけちゃだめじゃないの」
 と、六歳とは思えないほどこまっしゃくれた口調で言い、パンパン手を鳴らしてパンくずを払った。

「エリザ、ソフィアちゃん。おはようございます」
「おはよう、サラ。――ソフィア? ご挨拶は?」
 ソフィアはエリーザベトのスカートを握りしめ、照れながら笑った。

「おあよ、サラちゃん」
「おはよう。お花、今日もすごいねえ。ちゃんと見つけてきて偉いねえ」
「んふふふふ」
 子供たちの交流を横目に見ながらエリーザベトは水瓶を水で満たした。
 モニカはぶつぶつ言いながら親指の爪を噛んでいたが、やがて諦めてため息をつく。

「しょうがないわね。あの人、とろくさいんだから。きっと戦利品の競りにいつまでも参加してるのよ。ほんと、欲の皮が厚いったら……」
「そうなの、じゃあ戻ってくるまでサラをきちんと見てなくちゃね」
「ウン。――ソフィアは朝ごはんまだなのね? じゃあ食べさせておく」
「ありがとう。ソフィア、モニカおばさんとサラと一緒にいきなさい」
「やだ」
「ママの大事な宝物ちゃん?」
「やーだよう」
 けらけら笑いながらソフィアは自分より二回り大きいサラと手をつなぎ、バイバイとエリーザベトに手を振った。
 モニカに連れられていく背中にエリーザベトは手を振り返す。

 彼女は天秤棒を担ぎなおすと再び泉へ向かった。
 水瓶があるのはここだけではないのだ。
 修道女たちの朝の仕事が始まる前に、修道院じゅうに水を供給しなければならない。
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