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水汲みの仕事が全部終わり、慌ただしく残り物の朝食を終えるとエリーザベトは働きはじめた。
戦争は終わったが、負傷者の治療はむしろこれから本番だと年老いた修道女たちは厳めしく言う。
今日も修道院を訪れる怪我人や病人のために門戸は開かれており、専門知識を持った修道士たちが治療に当たっていた。
修道女の仕事は彼らの補佐や、薬づくりに包帯縫いだった。
エリーザベトは今、修道女見習いという立場で修道院の奥の区画一階に小部屋をもらっている。
ソフィアがもう少し大きくなったら、見習いの立場を脱し本物の修道女として修業を始めたいと思っていた。
ソフィアを育てながら神の教えを学び、人を助けるため働くのだ。
だからそのいつかのために、エリーザベトは修道院じゅうを駆けずり回り、薬を作ったり塗布したり、包帯を巻いたり、手が使えない人のため麦粥を口に入れてやったりする。
時々、ソフィアの様子見に奥の区画の部屋に行く。
そこにはすでに天使の迎えを待つばかりの老女たちがいて、小さな子供たちの面倒を見てくれている。
扉の隙間からぱらぱらと手を振って、友達や赤ん坊と遊んでいたソフィアが振り返り、きゃらきゃら笑いながら手を振り返してくれる。
その一瞬が望外の喜びだった。
身体を動かしながら、心は三年前に戻る。
たった一か月の蜜月――そう、たった一人の夫と共有した蜜月のことを、エリーザベトは崇拝のような感情で懐かしんでいる。
今となっては思い出はとびきり上等の席で見た都会の一座の演劇のようだ。
愛された夢を見ていたのではないかとさえ思っている。
修道院に落ち着いてから、逃げてきた人たちや商人から伝え聞いて、マティアスの消息をエリーザベトはなんとなく知っていた。
彼は若く美しい魔法使いの娘と相思相愛になり、娘はいつも鈴を振るような甘い声を上げて彼の後を追いかけまわしているという。
彼の方も決してそれを邪険にせず、優しくしてやっているそうだ。
娘は治療魔法使いの弟子だったことがあり、魔法で彼の傷を癒すそうだ。
この世でごく少数の、選ばれた、戦場に出ることができる女たちのうちの一人……。
――二人は時には同じ天幕で一夜を過ごすのだと聞いて、エリーザベトに怒りはなかった。
ただ深い虚脱だけがあった。
やっぱり人間というものは、一番つらい時にそばにいてくれた人を好きになるのだ。
離れている妻がどれほど気にかかろうとも、神の元で宣誓したのだとしても。
離れたところにいる人は離れているのであり、近くにいてぬくもりを与えてくれる人ではない。
エリーザベトが乳母の顔を忘れて屋根裏部屋に馴染んだように、マティアスだって妻の顔さえ覚えていないかもしれない。
たとえそうだったとしても、エリーザベトはマティアスを恨まない。
彼は彼女にソフィアを与えてくれたのだ。
ソフィアはエリーザベトのすべてだった。
マティアスがいなければソフィアは生まれてこなかった。
彼女の中で確かなのはそれだけ。
(マティアスも、幸せでいてくれるといいな――)
と思うことはあっても、憎しみに心を支配される余裕はなかった。
そうできないほど毎日は忙しかった。
エリーザベトがモニカのように壊れてしまっては、幼いソフィアは一人ではサラのようにまっすぐ育つことができないだろう。
エリーザベトは強くあらねばならなかった。
ソフィアのたった一人の肉親は、彼女だけなのだ。
「さすがに今日は新しい治療が必要な人も少ないね」
と、いつの間にかすぐ後ろに来ていたジュリエットが囁いた。
くるくるの黒髪をひとつに束ねた大柄な女性である。
洗濯用のため池のほとりは多くの女性で混んでいたが、ジュリエットはその長い手足を生かしてよいしょとエリーザベトの隣に陣取った。
「ジュリエット、びっくりしたわ」
笑いながら抗議するエリーザベトに、ジュリエットはそばかすのある顔をくしゃくしゃにしてごめんと舌を出した。
年齢不詳の浅黒い肌に細かなちりめん皺が散る。
「みんな終戦で浮かれてる。ここが混むのはこれからさ」
「人があぶれて治療できないくらいになるかしら?」
エリーザベトが一番恐れているのはそれだった。
以前、一番の激戦と呼ばれることになる衝突が起こったときは悲惨だった。
薬が足りず死なせてしまった怪我人すら出た……。
「いいや、みんな故郷に帰るからね。それより国元に戻れないようなことをやらかした犯罪者くずれや、詐欺師に気を付けなきゃ。怪我人を装って忍び込んでくる盗人だっているんだから」
「信じられないわ……。ここは神様のお庭なのに、そこから盗もうだなんて?」
「んもう、世間知らずだねえ。あんたみたいな若い母親なんて、行き場のない男にとっちゃ恰好の獲物さ。ベールを深くかぶって、顔を上げるんじゃないよ」
エリーザベトは生真面目に頷いた。
やみくもに信じているわけではないが、世間知の深いジュリエットの言うことを聞いておいて損はない。
「あんたはよく働くし、不平不満は言わないし、妙な噂話だってしない。面倒ごとを起こさなければ修道女だってあんたを追い出しはしないさ」
ジュリエットは洗濯物をゴシゴシ洗いながら、周囲に気兼ねすることなく歌うように笑った。
「そのうち子供がいてもいいさって言ってくれる男が現れて、ソフィアと一緒に新しい家に引っ越せるよ」
「まさか」
エリーザベトはぱんとシーツを広げながら首を横に振る。
「そんな日はたぶん来ないわよ。決して、決してね」
戦争は終わったが、負傷者の治療はむしろこれから本番だと年老いた修道女たちは厳めしく言う。
今日も修道院を訪れる怪我人や病人のために門戸は開かれており、専門知識を持った修道士たちが治療に当たっていた。
修道女の仕事は彼らの補佐や、薬づくりに包帯縫いだった。
エリーザベトは今、修道女見習いという立場で修道院の奥の区画一階に小部屋をもらっている。
ソフィアがもう少し大きくなったら、見習いの立場を脱し本物の修道女として修業を始めたいと思っていた。
ソフィアを育てながら神の教えを学び、人を助けるため働くのだ。
だからそのいつかのために、エリーザベトは修道院じゅうを駆けずり回り、薬を作ったり塗布したり、包帯を巻いたり、手が使えない人のため麦粥を口に入れてやったりする。
時々、ソフィアの様子見に奥の区画の部屋に行く。
そこにはすでに天使の迎えを待つばかりの老女たちがいて、小さな子供たちの面倒を見てくれている。
扉の隙間からぱらぱらと手を振って、友達や赤ん坊と遊んでいたソフィアが振り返り、きゃらきゃら笑いながら手を振り返してくれる。
その一瞬が望外の喜びだった。
身体を動かしながら、心は三年前に戻る。
たった一か月の蜜月――そう、たった一人の夫と共有した蜜月のことを、エリーザベトは崇拝のような感情で懐かしんでいる。
今となっては思い出はとびきり上等の席で見た都会の一座の演劇のようだ。
愛された夢を見ていたのではないかとさえ思っている。
修道院に落ち着いてから、逃げてきた人たちや商人から伝え聞いて、マティアスの消息をエリーザベトはなんとなく知っていた。
彼は若く美しい魔法使いの娘と相思相愛になり、娘はいつも鈴を振るような甘い声を上げて彼の後を追いかけまわしているという。
彼の方も決してそれを邪険にせず、優しくしてやっているそうだ。
娘は治療魔法使いの弟子だったことがあり、魔法で彼の傷を癒すそうだ。
この世でごく少数の、選ばれた、戦場に出ることができる女たちのうちの一人……。
――二人は時には同じ天幕で一夜を過ごすのだと聞いて、エリーザベトに怒りはなかった。
ただ深い虚脱だけがあった。
やっぱり人間というものは、一番つらい時にそばにいてくれた人を好きになるのだ。
離れている妻がどれほど気にかかろうとも、神の元で宣誓したのだとしても。
離れたところにいる人は離れているのであり、近くにいてぬくもりを与えてくれる人ではない。
エリーザベトが乳母の顔を忘れて屋根裏部屋に馴染んだように、マティアスだって妻の顔さえ覚えていないかもしれない。
たとえそうだったとしても、エリーザベトはマティアスを恨まない。
彼は彼女にソフィアを与えてくれたのだ。
ソフィアはエリーザベトのすべてだった。
マティアスがいなければソフィアは生まれてこなかった。
彼女の中で確かなのはそれだけ。
(マティアスも、幸せでいてくれるといいな――)
と思うことはあっても、憎しみに心を支配される余裕はなかった。
そうできないほど毎日は忙しかった。
エリーザベトがモニカのように壊れてしまっては、幼いソフィアは一人ではサラのようにまっすぐ育つことができないだろう。
エリーザベトは強くあらねばならなかった。
ソフィアのたった一人の肉親は、彼女だけなのだ。
「さすがに今日は新しい治療が必要な人も少ないね」
と、いつの間にかすぐ後ろに来ていたジュリエットが囁いた。
くるくるの黒髪をひとつに束ねた大柄な女性である。
洗濯用のため池のほとりは多くの女性で混んでいたが、ジュリエットはその長い手足を生かしてよいしょとエリーザベトの隣に陣取った。
「ジュリエット、びっくりしたわ」
笑いながら抗議するエリーザベトに、ジュリエットはそばかすのある顔をくしゃくしゃにしてごめんと舌を出した。
年齢不詳の浅黒い肌に細かなちりめん皺が散る。
「みんな終戦で浮かれてる。ここが混むのはこれからさ」
「人があぶれて治療できないくらいになるかしら?」
エリーザベトが一番恐れているのはそれだった。
以前、一番の激戦と呼ばれることになる衝突が起こったときは悲惨だった。
薬が足りず死なせてしまった怪我人すら出た……。
「いいや、みんな故郷に帰るからね。それより国元に戻れないようなことをやらかした犯罪者くずれや、詐欺師に気を付けなきゃ。怪我人を装って忍び込んでくる盗人だっているんだから」
「信じられないわ……。ここは神様のお庭なのに、そこから盗もうだなんて?」
「んもう、世間知らずだねえ。あんたみたいな若い母親なんて、行き場のない男にとっちゃ恰好の獲物さ。ベールを深くかぶって、顔を上げるんじゃないよ」
エリーザベトは生真面目に頷いた。
やみくもに信じているわけではないが、世間知の深いジュリエットの言うことを聞いておいて損はない。
「あんたはよく働くし、不平不満は言わないし、妙な噂話だってしない。面倒ごとを起こさなければ修道女だってあんたを追い出しはしないさ」
ジュリエットは洗濯物をゴシゴシ洗いながら、周囲に気兼ねすることなく歌うように笑った。
「そのうち子供がいてもいいさって言ってくれる男が現れて、ソフィアと一緒に新しい家に引っ越せるよ」
「まさか」
エリーザベトはぱんとシーツを広げながら首を横に振る。
「そんな日はたぶん来ないわよ。決して、決してね」
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