指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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 彼が早朝の泉にいるのを修道女たちが黙認してくれているのと同じに、負傷者の区画、あるいは修道士の区画にこっそり忍び込む娘もまた黙認してもらえるのが今のレーレン修道院だった。

 ここは優しいいたわりに満ちた場所だったが、それにしても無限に運営資金があるわけではない。
 孤児たちの教育費に修繕費、聖職者たちの食費や服飾費など必要経費を捻出するためにも、去る者は追わない。
 結婚して出ていく予定のありそうな男女をわざわざ引き裂く必要は誰にもないのだった。

 そんな事情を認識するのさえ恥ずかしかったが、エリーザベトは修道士たちの区画をすり抜け、一番外側の区画の南側に広がる畑に駆けこんだ。
 息は切れ、ベールは外れそう、シャツの襟もとには汗が滲んでいるひどい恰好だった。
 農具小屋の影に彼女は隠れた。
 ここには三年のうちに二、三度しか来たことがなかったが、どうしてだろう、彼のいるところはわかるのだった。

 年若い少年二人組が、クスクス笑いながら彼女を見て見ぬふりして通り過ぎた。
 エリーザベトは息を整え、精一杯の忍び足で泉から引かれた小川のほとりで休憩する彼に近づいた。

 麦わら帽子を背中に足れ下げて、ダークブラウンの髪がさやさやと風になびいている。
 最後の収穫なのだろう、枝豆のやや小ぶりな束が積み上がった小さな背負い籠がその横にあった。
 刈り取りを待つばかりの背の高い作物畑の影になって、誰にもエリーザベトの姿は見えないはずだった。

「――軍隊から連絡は来ましたの?」
「うおわぁっ」
 彼は文字通り飛び上がった。
 あたふたとシャツのボタンを留めながら立ち上がり、エリーザベトを見下ろす。
 その鎖骨の陰影までハッキリ見えてしまい、エリーザベトは口に手を当ててほんのり顔を赤らめた。

 彼はあたふたと太い首の汗をぬぐった。
 顔は平静でいようと努めていたが、内心動揺しているのが手に取るようにわかった。
 しまった、ちょっと唐突すぎたかもしれない。

「いったいどうしたんだ、何か用事があったのか? 明日の泉じゃダメだったのか」
「あ……」
 と言われてしまっては、エリーザベトは俯くしかない。
 確かにこれはどうでもいい誘いだった。
 価値なんてない話だ。
 ――私と夏祭りに行ってくれませんか?
 なんて!

 エリーザベトが目を泳がせているうちに、彼は黙ったまま彼女の手を取り歩き出した。
 少し先に大きな桃の木があって、これはまだ枯れていないのに実をつけることをやめてしまった困り者の木だった。

 彼はその根元にハンカチを敷こうとして、自分の汗で汚れた布地を見つめ舌打ちをした。
 エリーザベトは笑い出した。

「構いませんわ。さ、あなたも座って」
「うん。くそ、カッコ悪いところを見られちまった」
 苦笑いする彼はいつもより若く見えた。
 ソフィアが場にいないと彼はこんなふうになるのか。そういえば、娘を交えずに二人だけで話すのは初めてである。
 エリーザベトはみぞおちを片手で抑え、ここへ駆けてくるまでに考えた文言を口にした。
 ゆっくりと、つっかえないよう落ち着いた声で。

「その――お誘いに来ましたの」
「なんの?」
「来週にお祭りがあることを知っていますか? 修道院の崖下の街で。広場でみんながダンスするお祭りなんですの。その、ご一緒にいかがかしらと思って」
「それはいいな! きっとソフィアは喜ぶだろう。俺もぜひご一緒させてください。彼女が疲れたら肩車してあげる。そうだ、花をいくつか残しておいて、花冠をかぶせてやったらどうだろう? かわいいソフィアは人気者になるに違いない……」
「いいえ、いいえ!」
 あまりに激しく首を横に振ったので、エリーザベトの束ねた髪のしっぽの先が危うく彼の目玉を打ちそうになった。

「いいえ、私が言いたいのは――だから、その、二人でいかないか、と言うことです。私とあなたで夏祭りを見て回りたかったの」
 話すうちに小声になった。
 彼の顔が見られず、膝を抱え込んで自分の爪先を見つめた。
 爪先はわけもなく揺れていた。
 彼の唖然とした視線がエリーザベトの横顔に突き刺さる。
 恥ずかしさのあまり泣くかと思ったが、エリーザベトは泣くわけにはいかなかった。
 自分一人ならどうだっていいが、もしかしたらソフィアにも関わってくるかもしれない話の、第一歩を彼女は踏み出したところだった。

(やっぱり女の側から誘うなんて異常だったのかもしれない。彼は呆れているわ)
「実は、」
 彼は少しだけ震えた、と息だけの低い声で囁いた。
 慎重に言葉を選びすぎて頭の中が真っ白になったのだ、と言わんばかりの動揺した声だった。

 エリーザベトは涙目で彼の顔を仰ぎ見る。
 すっきりした輪郭、薄い唇、ほとんど完璧に古典的な整った容貌の彼は、夏の空の青の目を潤ませてきょどきょどし、ダークブラウンの髪をぐしゃぐしゃにかき回し、それから顔を目いっぱい赤らめて、ひたすらエリーザベトを見つめていた。

「実は、誘おうと思っていたんだ……」
「え?」
「だが君は母親だし、いつだって貞淑で凛として美しかったから。ソフィアの模範にならないようなことは、したがらないと思ったんだ。だって、そんな。ああ――ウソだろ? エリーザベト」
 名前を呼ばれると頭の芯がふわふわして、いつから桃の木の根っこはこんなに柔らかな極上のソファになったのだろう?
 エリーザベトは小さな唇を開け閉めする。
 噛み締めたせいで淡く色づいたそれがどれほど彼をたまらなくさせているか、理解しようともしない。

「エリーザベト、俺と一緒に夏祭りに行ってくれるのか?」
 彼は恐る恐る手を伸ばし、いつかのように彼女の手を握りしめた。
 今度は両手で、いつかよりずっと優しく。

「俺と踊ってくれるのか? そして、君が許してくれるならそれ以上の申し出もしたいと思っている。君が受け入れてくれたら家を探すよ。もちろんソフィアも一緒だ。三人で一緒に住める家を。軍に復帰して、君らを養うんだ」
 喉が涙のかたまりで詰まる。
 エリーザベトはひたすら何度も頷いた。
 涙だか汗だか判別つかないものが宙を舞ったが、今更そんなことで幻滅する男ではなかったし、エリーザベトの方も意識の外だった。

「嬉しい、わ。嬉しいわ。ありがとう……」
 そっと持ち上げられた働く女の手に、騎士らしい口づけが降ってくる。

 ――とろけてしまいそうだ、とエリーザベトは思う。
 身体の芯からぐにゃぐにゃになって、ダメになってしまいそうだ。

 風が吹いて、休憩時間の終わりを告げるベルの音が響いた。
 畑の向こうから人の気配がしたし、水車小屋にも農具小屋にもたぶん、人がいた。
 けれど。

 彼は麦わら帽子を前に掲げて目隠しにした。
 口づけは甘く柔らかく夢のように清らかだった。
 彼の息はりんごの香りがして、小さくてすっぱいそれをおやつに食べたのだろうと思うと愛しかった。

 ――知っている、気がした。
 この口づけ、肩を抑える手のひら、汗の匂い、かすかな声やまなざし。
 やっぱり彼はマティアスに似ていた。
 そのものだと言ってもいい。
 戦争で人相が変わってしまい、記憶も失った彼が戻って来てくれたのだろうか?
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