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しおりを挟むエリーザベトは疑念から目を逸らす。
今はただこのままでいたかった。
彼を抱き締めたかったが、ここでこの一瞬の口づけ以上に踏み出す勇気はなかった。
名残惜しさにほとんど腹を立てながら口を離し、エリーザベトは桃の木に隠れ、彼は仲間たちに手を上げながら歩き出した。
エリーザベトがよく知らない畑担当の男たちのやれやれ、だとかさてさて、だとか、わざとらしい掛け声が漏れ聞こえる。
おそらく彼女の存在をわかって、放っておいてくれたのだとわかれば申し訳なくも気恥ずかしかった。
戻ったエリーザベトの顔を見てジュリエットはピュウッと口笛を吹き、何人かの女たちは目配せしあった。
エリーザベトの腰を肘でつつく者もいた。
からかいの波に彼女は甘んじて揉まれた。
夕食後、女たちの部屋でエリーザベトは繕い物を取り出した。
と、自分とサラの部屋でごそごそしていたモニカが戻って来て、椅子の前に仁王立ちしたかと思うと、
「これ」
とぶっきらぼうに差し出したのは華やかなドレスだった。
群青色の薄い生地が幾重にも重ねられ、すべての生地が夜明け前のように濃淡をつけてある。
裾には均一に黄色の小花柄が刺繍されており、袖口の染められたレースと相まって相当いいものだとわかった。
「貸したげる。男と会うなら身だしなみは大事だもの」
「もらえないわ。これはあなたの――思い出のものでしょう、モニカ?」
彼女はフンと鼻を鳴らし、サラが腕の中のソフィアと顔を見合わせるうちにエリーザベトにドレスを押し付ける。
「見るのもつらくてしまっておいたの。でも大丈夫。もう見れる。私だってちょっとずつ良くなってきてるのよ。変な心配せず、これを着て思う存分踊ってくるといいわ」
エリーザベトは身体が比喩ではなく震えるのを感じた。
心のどこかでモニカのことをソフィアと同列に扱っていたことを恥じた。
彼女は立派な成人女性で、サラの母親で、残酷な夫につけられた傷から必死に立ち上がろうとしている強い人だった。
「ありがとう。ありがとう、モニカ。あなたたちのためにとびきりのお土産を買ってくるわ」
「気を遣っちゃって、フン」
モニカは横を向いてエリーザベトの身体を押しのけた。
その足元ではサラがほっとした顔で母親を見上げていた。
ジュリエットはにやにや笑いながら手にした編み棒を振り、
「あたしの分は?」
と首を傾げる。
「もちろん、あなたにも。みんなにも何か持ってくるわ」
「うふん。嬉しいわねェ。みんな聞いた? エリーザベトが夏祭りに行くよ!」
女たちはくすくすと笑いさざめく。
――やっとかね。
これで前進するかしら。
プロポーズまでいくのかしらね?
早く出ていけばいいと思ってたのよねえ、彼を見かけて笑わないようにするのも大変だったんだから。
エリーザベトは椅子の背もたれに額をぶつけた。
肌がざわざわしてお尻がもぞもぞして、足踏みしたい気分だった。
柔らかな笑い声のさざ波と、エリーザベトを見るあたたかな視線は止まなかった。
レーレン修道院にいるすべての人間は、家族だった。
それからの日々は矢のように過ぎ去り、エリーザベトは自分が浮かれ切っていることを認めざるを得なかった。
修道院では大きなたらいにお湯を張ったもので身体を拭うのだが、ソフィアをきれいにし終わって、どころか小さな彼女が寝息を立てている横でずっと身綺麗になろうと努力したことさえあった。
髪のブラッシングにも力を注いだし、水汲みをはじめ毎日の仕事にも力が入る。
ひょっとしてこれが、エリーザベトにとって初めての恋らしい恋だったのかもしれない。
マティアスとの時間はこれ以上に短く、過ぎ去ってしまったから……。
さて、そうして夏祭りの当日が来た。
すでに修道院に滞在する者たちのうち、治療が必要な者は馬ごと崖から落ちた不運な行商人と、ウサギ用の罠に引っかかった可哀そうなメイドの少女くらいである。
つまりそうそう人手は必要ない。
若い男女には暇が出された。
修道士、修道女の誓いを立てた者たちでさえ、こっそり抜け出す算段をしている者がいる始末だった。
エリーザベトは朝から丁寧に身づくろいをし、最難関のソフィアの説得に取り掛かった。
夏祭りの本格的な始まりは夕方、まだ日のあるうちからかがり火が灯されダンスが始まるときだ。
いつもの昼食を終え、エリーザベトはどきどきしながらソフィアに向き直る。
すでにいつもと違って綺麗な服を着た母親の姿に、幼い娘は何かがおかしいと感じていたようだった。
エリーザベトがこれから夜まで留守にすることを知ると、ソフィアは大声で泣き出した。
そもそも生まれてこのかた母親と一日も離れたことのなかった幼児は、ママが自分から離れても生きていけるというところからして理解できないらしかった。
エリーザベトはソフィアを膝に乗せて、たった一日だけのこと、少しいなくなるだけだからと説得し、ワガママを許してくれるようお願いし、なだめすかし、怖い顔をして見せたりもした。
実際のところエリーザベトは夏祭りの一日に子供より男を取るわけで、それは動かしようのない事実である。
後ろめたくないと言えば嘘になる、と思っていることを娘は敏感に察知している。
「やあだ、やあだ、やあだ、やあだー!」
「ソフィア、お土産をいっぱい買ってくるからね……」
「ヤーッ! ママァー!」
また出かけてもいないのにこの有様であった。
満面の笑みのサラが近寄ってきて、その後ろからモニカとジュリエットが近づいてくる。
「ハイハイ、もう行っちゃいなさい。こうなったら仕方ないよ」
「うう。そうよね……」
「早くしないと彼が帰っちゃうかもよ?」
「彼は帰んないよ。エリザが来るまで一週間だって待ってるだろうね!」
三人はドッと笑った。
台所の下働きの老婆や洗濯池の主である太った中年女、それから顔見知りの女たちもそれを見ていて、くすくす笑った。
エリーザベトは後ろ髪を引かれながら、ソフィアの悲鳴を後にして修道院を出た。
そうして待ち合わせ場所へ走った。
彼女は他の多くの少女たち、女たちと同じ顔をしていた。
期待と興奮に目を輝かせ、赤い頬をして、口は笑みを描いていた。
群青色のドレスはエリーザベトの薄い灰色の目をすみれ色に見せた。
幾重にも重なった裾は教会で結婚の誓いを述べたあの日のベールのように重たく、けれどサラサラと鳴る音は美しかった。
すでにダンスの音楽が街の広場から漏れ聞こえていた。
待ち合わせ場所はその手前、普段朝市が立つ大通りから少し外れた小さな噴水の傍だった。
同じ考えの男女が何組も出会ったり、あるいは相手を探して右往左往していた。
なんとあの不気味な新興団体さえ、これは戦争中から禁止令が出て取り締まりを受けていたのに、隠れ場所から出てきて布教らしきことをしていた。
エリーザベトは大通りの手前から走らず、歩くようにしていたが、踵の低い華奢な靴が足の甲に食い込むのがわかるほど足取りは軽かった。
跳ねているといってもよかった。
そして今はまだ止まっている噴水の横で、直立して立つ彼の姿は目立った。
立ち姿がとにかくまっすぐで格好良く、優美でさえあった。
他の青年たちのようにぶらついたり口笛を吹いたり、どこかにもたれたりしていない。
エリーザベトは彼のすべてが好きだった。
身なりを整えてぴしりと立つと、彼は古代の神々の彫刻のように美しかった。
着ているのは飾り気のない真っ白なシャツと黒い軍隊ズボンだが、革靴はピカピカに磨いてあった。
ここに白い手袋を足したら、観劇のため街に出てきた貴族の坊ちゃんで通るだろう。
彼はそこにいるだけで人の心に少しの印象を残す人だった。
げんに、隣に男がいるのに彼の方を振り返って見る少女もいた。
エリーザベトが手を振る前に、彼は彼女に気づいていた。
二人は互いに近づいて、何も言わず見つめ合った。
彼が自分よりずっと背が高いことは知っていたが、首が痛くなるまで見上げていても惜しくないと思うほど美しいとは知らなかった。
彼の日焼けした肌に午後の陽光が照り映えて、産毛がきらきら金色に光っていた。
まっすぐな額と顎の線。
深い夏の空の青い目にかかったダークブラウンの髪の一房。
戦争が彼に傷を残さなくてよかったと思った、だがもし傷があってもエリーザベトの思いは何も変わらなかっただろう。
彼はエリーザベトをうっとり見つめていた。
そのまなざしだけで、溶けてしまいそうだった。
「行こう」
「ええ」
差し出された手を彼女は取った。
二人は夏祭りの広場へ足を踏み出した。
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