指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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 彼女はマティアスの腕をすり抜け、ユリアナの前へ出た。

 少女の頬は薔薇色、はちみつのように濃い金髪、潤んだ目は光の加減でルビーのようにきらめく。
 影を落とす長い睫毛、さくらんぼ色の唇、今でさえこれほど綺麗なのだから、日の光の下で見たらどれほど美しくなるだろう。

 マティアスの腕がエリーザベトを引き戻そうとするのを押しのけて、彼女はまずレオポルドに頷いた。
 彼は深く、彼女に頭を下げた。
 ユリアナはそれが気に入らなかったらしい、みるみるうちに顔が真っ赤になる。くぐもったカン高い絶叫が途切れ途切れに聞こえる。

 彼女とソフィアを比べるなんてエリーザベトだってしたくないのだが、ユリアナの癇癪の起こし方は二歳の娘にとてもよく似ていた。
 子供のまま、成長の機会を与えられなかった悲しい人。

「ユリアナさん。あなたが首から下げている指輪について、お尋ねしてよろしいかしら?」
 ユリアナの胸元で揺れるネックレスには、二つの指輪がぶら下がっていた。
 揃いのデザインの金の輪に、小さいダイヤモンドが嵌め込まれている。

 レオポルドは問うようにマティアスを見、ゆるゆると妹の口から手を放す。
 ユリアナは勝ち誇った顔で顎を突き出した。

「マティアス様がくれたのよ。あたしへの愛の証って言ってた」
「それはありえませんわね」
「なんでそう言えるのよ? 悔しいの?」
 エリーザベトはユリアナの美しいアーモンド型の目に視線を固定して、一言ずつを嚙んで含めるように区切って言った。

「その指輪は私の父母の結婚指輪です」
 男たちの時間が止まった。

 マティアスはどうして思い出せないんだと呻き、レオポルドはああ、と妹を掴む手の力を強くする。
 ユリアナはきょとんとしたあと、一瞬で眦を吊り上げた。

「なによっ。あたしのことドロボー扱いする気!? ひどいっ!」
「貴様! いい加減にしろ!!」
 マティアスが怒声を上げたのを制し、エリーザベトは続けた。

「結婚指輪は神聖なものです。プロスティア王国では子供が生まれたとき、本当に結婚が成就したとみなされます。子供が一歳になった頃にお披露目の宴会を催し、そのときに夫婦ははじめて夫婦としてお知り合いのお家の方々に認識されるのです。――レオポルド、間違っていますか?」
「ええ、エリーザベト様。私の知ることはすべてあなたの知る通りです」
 ユリアナが再び叫び出す前に、レオポルドは自分の腕の肉を妹に噛ませた。

 むぐー、うーと元気に唸りながら、美少女はエリーザベトをきつくきつく憎悪の目で睨み続ける。
 まるでユリアナに起こるすべての不幸被害の元凶がエリーザベトだと言わんばかり。
 だがエリーザベトはユリアナとは今日が初対面である。
 これほどの憎悪も軽蔑も、受ける理由がわからない。

 マティアスは静かに後ろから妻に近づいて、その肩を支える。
 エリーザベトは自分の身長が倍に伸びたように感じた。

「お披露目会で披露されるのは子供だけではありません。結婚指輪もです。子供が生まれて一年の間に、特別な注文でもって誂えるのです。他の貴金属とはまったく違う、神の名の許に夫婦が夫婦であることを内外に認められた証であり、決して他人へ譲るなどということはありえません」
 声は震えそうだった。足は竦み、泣きそうだった。
 マティアスについていてもらえなければどうなっていたことだろう。
 怖かったし、悲しかった。
 頭の中をぐるぐる回るのは、マティアスとユリアナが見つめ合う光景だ。
 だが彼はそんなことはありえないと言った……。

 エリーザベトは戦う。
 絶対に手放したくないもののために。

「彼は――私の夫、マティアスは、そうした事情や結婚指輪の持つ意味について知っていたはずですよ。ゆえに、それをあなたが持っているというのはありえないのです。それは私が社会的にこの世に生を受けた証そのものなのですから」
 エリーザベトは前へ手を差し出した。

「返してください、ユリアナさん。それはあなたのものではありません」
 レオポルドは唇を噛み、じたばた暴れ回る妹の首からネックレスをもぎ取った。

「お返しいたします、エリーザベト……若奥様。妹が本当に……本当に、申し訳ございませんでした」
 エリーザベトが差し伸べた手に、ネックレスは落ちた。

 父母の結婚指輪。
 輪に通していた刺繡リボンは銀の鎖に変わっていたが、手入れが悪かったのかところどころサビている。
 だが指輪は破損もなく、マティアスに託したあの日のままだった。
 エリーザベトにはわからない、魔力というものもきっとそのまま残っているのだろう。
 彼女はほっと溜息をつき、安堵した。

「うっ」
 レオポルドが短い悲鳴を上げ、咄嗟にユリアナの口から手を放す。
 血が滴り、彼女が兄の手に噛み付いたのがわかった。

「指輪が何よ。何よ!」
 少女はちっぽけなけだもののように暴れ出した。

「あたしはマティアスを愛してるの! マティアス様が愛してるのもあたし! あんたじゃない!」
「証拠は? 証人は?」
 酷薄な奥様そのものにひどく強張った冷たい声が、自分の口から出ているとはエリーザベトは信じられなかった。

「愛し合う男女であれば、誓いの品のひとつくらい交換しているはずでしょう。この指輪のほかに、何かありますの? それに、もしあなたとマティアスがひそかに結婚の誓いを交わしていたのなら、司祭の立ち合いがあったはずです。聖職者の立ち合いがない誓いなど誓いではないのだもの。その人の名前を教えてください。私が教会に問い合わせます」

「だから、証拠があの指輪でぇ……あんたが今無理やりおにいちゃんにとらせたんじゃない!」
 ユリアナはパニックに陥って髪の毛を掻き毟った。

「なんで誰もわかってくれないのよォ!! おにいちゃんまで! なんでこんな女のいうこと聞くの!?」
 マティアスはエリーザベトを両腕にくるんだ。
 彼の温かい体温に包まれ、彼女は自分の身体が緊張と冷や汗で冷えているのを知る。
 見上げた夏の空の目の色は冷めていた。ほとんど白くなるほどに無機質に冷たい。まるで虫でも眺めるかのように無感動な視線だった。 

 そのまなざしのまま、彼は言った。

「俺が選んだのはお前ではない。仮に戦争中何があったとしても、それは俺の意思ではなかったと断言できる。お前は俺にとって何の意味もない」

 ユリアナは絶叫した。

 マティアスはエリーザベトを抱きしめ、エリーザベトは指輪を胸に抱き寄せ、彼の胸に頬を付けた。

 レオポルドがユリアナの口を手のひらで塞ぎ、首の動脈を抑えて意識を失わせる。
 マティアスはレオポルドを先ほどと同じ温度の目で見つめた。

「そうするのが遅い」
「申し訳ございません」
「すべて話せ。俺の知っていることも知らないことも、最初からだ」
 レオポルドは頷いた。

 しかしこのままでは見世物のようだ。
 そろそろ警邏兵が呼ばれるかもしれない。
 エリーザベトが心配したとき、ガラガラと密かな音を立てて馬車がすぐそこに乗りつけられた。
 一頭立ての簡素な馬車で、御者は帽子を目深にかぶり顔を隠した若い男だった。

「どうぞ、お乗りください。決して騙し討ちになどいたしませんから……」
 レオポルドがタラップに足をかけて扉を開ける。
 マティアスは皮肉げに呟いた。

「俺に魔法をかけさせたようにか?」
 レオポルドは呻いた。
 だが結局、マティアスはその通りにした。
 彼はエリーザベトを修道院に帰らせたい様子だったが、夜道を女一人で歩くのは危険だった。
 何よりエリーザベトは彼から離れないと強硬に主張した。

 意識を失ったユリアナを御者に任せ、レオポルドとマティアス、エリーザベトの三人は馬車の中へ。
 ぱたんと扉が閉まると、エリーザベトは無意識のうちにマティアスにぴったり身体を添わせた。

 レオポルドはやつれ切っていた。
 頬がこけ、体重もいくぶん落ちたようだった。
 エリーザベトはそんな場合ではないのに彼に同情した。
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