指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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「エリーザベト。君の名前も顔も忘れていた。だが俺の傍にいてくれるはずの妻がいないのは、漠然とわかった。俺は戦場からさまよい歩いて、任務も忘れて、――指輪が盗まれているのに気づいたのはそのあとだった。ああ、すまない。君の指輪を。俺を救ってくれた魔道具だったのに」
「いいのよ。あなたの役に立ってくれて嬉しいわ。それに、こうして戻ってきたのですもの」

 エリーザベトは父母の結婚指輪を撫でる。
 マティアスは悲しそうにそれを見つめて歯嚙みした。
 彼女になんの心配も恐怖も感じさせず守ることが、彼の夫としての使命のはずだった。

「そうだ、偽物の認識票」
 蘇る記憶の奔流に足を取られながらマティアスは腰に手を当てる。

「あの女に話を聞いたあと、俺はその情報を元に団体に潜り込む予定だったんだ。だから身分を偽れるプレートを支給されていた」
「だから軍隊から迎えがこなかったのね。きっとそんな兵士は存在しないんだわ。そうでしょう?」
 レオポルドは頷いた。
 彼はエリーザベトを不思議そうに見つめた。

「若奥様は……落ち着いていらっしゃる。怒っていないのですか?」
 エリーザベトはマティアスの腕を掴み、定位置になりつつある彼の隣へ身体を押し込んだ。
 受け止めてもらえるのが嬉しく、マティアスの体温や匂いに心が落ち着いた。

「怒っていないと言えば嘘になります。でも、夫は今、私の隣にいますもの。もう怒る意味もありません」
 レオポルドは何かとても眩しいものを見たかのように目を細めた。
 握った拳は震えていた。
 もし、と彼は力なく言う。

「もし妹にあなたほどの強さがあれば、全部違っていたことでしょう」

 たとえこの先、レオポルドが何を言ったところでユリアナの心には響かないだろう。
 ユリアナは自分自身の未来のために動くことを選んだ。
 そして兄は妹のために生きることを決めた。

 彼らとエリーザベトの利害は永遠に対立するばかりだ。

「外にいるあの御者は、どこの所属だ?」
「司令官直属の部隊の者です。名前も階級も知りませんが、我々と司令官を直接つなぐ連絡役をしてくれていました。今もこのように協力してもらっています」
「そうか。ならば、状況を伝えてもらわねば。俺が逃げたわけではないことを閣下にご理解いただかなくては……」
 マティアスはいらいらと足を踏みかえた。

「くそっ、戦争は終わったというのに。俺はまだルスヴィアに帰れんらしい。エリーザベトとソフィアを連れ帰りたいのに」
「――ソフィア?」
 レオポルドは首を傾げる。
 マティアスは目をきらりと輝かせ、誇らしげにエリーザベトを引き寄せた。

「俺たちの娘だ。修道院にいる」
「それは……おめでとうございます」
 レオポルドは本当に嬉しそうににっこりした。
 マティアスは頷き、そうすると彼らはまるで昔に戻ったようだった。

 会話は終わり、沈黙が満ちた。
 マティアスは断片的な記憶を思い出したり、しなかったりしているようで、ときどき額を抑えて頭痛をこらえた。

 マティアスの大きな手はエリーザベトの手を握りしめ、存在を確かめるように力は強かった。
 エリーザベトの手は自然と彼の手に重ねられ、凹凸などないかのようにぴったりくっついている。

 二人が馬車の外に出た頃にはすでに広場も静まり返り、真夜中の静寂の最中にときどき人の話し声が響く。
 自分たちはいったいどう見られていただろうか。
 浮気の後始末をしていた三人組? 揉めている似てない家族?
 エリーザベトは考えまいとする。

 御者の青年は御者席に陣取り、その足元に毛布にくるまれたユリアナが転がっていた。

 レオポルドが御者に頷くと、彼は会話を聞いていたのだろう、すらりと地面に降り立ち宵闇に消えていった。
 レオポルドは妹を馬車の中に運び、マティアスの正面で直立してじっと彼を見つめた。
 顔を覚えておこうとするように。

「妹を連れて立ち去ります。――お世話に、なりました」
 マティアスは堅苦しく頷くだけだった。
 かつて彼らが身分の差を越えて肩を組み合って笑い転げていたのを知っている。
 エリーザベトは苦しかった。

「ユリアナがこれ以上何もしないよう、私が責任もって預かります」
「一度、暴走を許したお前のことを全面的に信用するわけにはいかない。対処と状況については常に連絡するように。また、実際に動かす人員は閣下にお願いしろ。お前の人脈では顔にたぶらかされる男しか拾えんだろう」
「はい。わかりました」
 レオポルドの喉がごっくと動き、彼はもう一度直角に近いほどに頭を下げる。

「命に替えましても、そういたします」
 マティアスとエリーザベトは去っていく馬車を最後まで見送った。
 石畳は滑りやすく、馬車の車体は左右に大きくぶれた。

 二人の身体はぴったりと重なりあって、隙間風が通る余裕もない。
 それでもマティアスはまだ彼女を引き寄せ、抱きしめようとする。
 まるで身体が溶けあってしまえたらいいと願っているようだった。

 口づけはごく自然に降ってきた。
 エリーザベトは目を閉じた。

「俺の妻はエリーザベトだ。俺は何があっても君を選ぶ。神が定めたからではなく、俺が君を望むから」
「――どうして?」
 薄い灰色の目を見開いて、間近に夏の空の青い目を見る。
 それはエリーザベトが三年以上考え続けてきた疑問だった。
 どうして彼は、エリーザベトを花嫁に選んだのか?

 頭の中にソフィアの美しい青い目の記憶が翻り、痛烈な飢餓感が襲い掛かる。
 彼女は娘を抱き締めたかった。
 マティアスとひとつに溶けあいたかった。
 二人のことが世界でいちばん大切だった。
 三人で幸せになりたかった、ひょっとしたら四人になり、五人になるかもしれない彼女だけの家族と。

 ユリアナの凄まじいまでの憎悪を、エリーザベトは理解できる。
 人は家族がいないと希望がなくなり、欲しいものもわからなくなり、ダメになるのだ。
 寂しさと戦争がユリアナを歪めたように、エリーザベトもまた、どこかしら歪んでいる。
 マティアスが見つめ求めてくれる綺麗なばかりの女ではない。

「どうしてあなたは私を選んだのですか?」
 マティアスは瞬きをした。
 何か大切なことを忘れてしまった人の恐怖の表情が顔を過り、彼女の下腹部に触れ合った太腿がピクピク痙攣した。

「わからない。思い出せない。でもそれはきっと、俺という人間の根幹をなす衝動だった」
「そうですか……」

「俺は君が欲しかった。ずっとずっと前から。君を見た瞬間に愛しさがこみ上げて、ソフィアを見た瞬間に娘だと分かった。――ああ、そうだ。俺は君の傍にいたかったんだ。ただそれだけだった」

 彼が覚えていないことがエリーザベトはむなしかった。
 ユリアナのとっていったものはこれほど大きい。

 これから、取り戻せるだろうか?
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