26 / 35
26
しおりを挟む町外れの大きな道まできたときだった。
いくつかの騎兵の影があった。
マティアスは呻き声を上げると、エリーザベトの身体をそっと手放し、彼らに向かって駆けていった。
早口に再会の喜びが交わされた。
彼らの顔と声にエリーザベトは覚えがあった。
マティアスの部下、ルスヴィアの騎士たちだ。
何人かが満月の下にエリーザベトの姿を見つけた。押し殺した鋭い叫び。若奥様……!
彼らが更に何かを言う前に、マティアスが鋭く何かを命じる。
何騎かが別々の方向に駆け去り、残りの騎兵たちもさっと隊列を組んで指示を待つ姿勢に戻った。
マティアスが修道院の逗留客からプロスティア王国軍の士官に戻ってしまうのを見て、エリーザベトはどうしてこんなに胸が痛むのか不思議だった。
まるで彼が遠くに行ってしまったような気がしたのだった。
それら全部を飲み込んで夫を支えるのが妻の役目なのに。
彼はエリーザベトのところに戻り、彼女の肩を掴んだ。
エリーザベトはその顔を見て、先んじて言った。
「よろしいですわ。修道院でソフィアと一緒に待っています」
自分では気丈にはきはき言ったはずなのに、声は震えていた。
真っ黒な心配がざわざわと湧いてきてならない。
ここで見送ったら、また記憶喪失になって今度はソフィアのことさえ忘れてしまうのではないか?
本当は行かないでと取り縋りたい。
エリーザベトは再び彼を手放したくない。
やっと戻って来てくれたのに。
マティアスの痛ましげな声は彼女の心をさらに傷つけた。
彼は優しく彼女の肩と腕を撫で、いたわりを籠めた声で囁く。
「すまない。レーレン修道院なら、安全のはずだ」
「……早く迎えに来てください。私も、ソフィアも、待っていますから」
「ああ。長い間待たせたのに、また待たせてしまう……」
人目があったが、彼は構わず彼女を抱きしめ髪に顔を埋める。
エリーザベトはダークブラウンの髪に指を差し込んで彼の頭を撫でた。
「すまない、すまない。やっと思い出せたのに。君は俺の妻なのに、またひとりにしてしまう」
「司令官様にご無事をご報告なさいませんと。立派なご身分を取り戻して、ソフィアをあなたの娘としてルスヴィアに連れ帰ってやってください」
夏の空の目は潤んでいた。
だがマティアスは頷いた。
エリーザベトは彼の手の中に父母の結婚指輪を押し込んだ。
彼は動揺する。
「これは君の……」
構わず、エリーザベトは大きな手を広げさせ、指輪を指に嵌め込んだ。
少しきついが母の指輪は小指に、父の指輪は中指に嵌った。
「持って行ってください。必ず返してくださいね。大事なものですから」
「――わかった。必ず」
そして彼の馬が連れてこられた。
堂々たる巨体の軍馬で、装備も凛々しい。
彼はエリーザベトのことを覚えているらしく、鼻を鳴らして地面をひっかく。
エリーザベトはがっしりしたなめらかなその頬を撫で、轡の感触に身震いした。
マティアスは羽根が生えた生き物のように、巨大な軍馬に身軽に騎乗した。
「キャシー、妻を修道院まで送っていってくれ」
とマティアスは馬上から騎士たちの中に声を張り上げる。
「はい。わかりました」
と言って出てきたのは他の騎士たちより一回り小さな人影で、鈴を振るような声で女性だとわかった。
彼女は自分の小さな、だがポニーほど小さくはない軍馬から片手を差し出してくれた。
エリーザベトはありがたくその手を掴むと、彼女の鞍の前方に乗った。
「それじゃ、エリーザベト。なるべく早く片づけて、迎えに来る」
「わかりました。お待ちしております」
エリーザベトは礼儀正しく目を伏せて答え、去っていく彼の背中にすぐに後悔した。
泣き叫びたくなった自分に驚き、マティアスのぬくもりを欲してわななく身体を恥ずかしいと思った。
自分の後ろの彼女には伝わってしまうだろうから。
キャシーはハキハキした口調で告げた。
軍服を纏った女性の身体の柔らかさがエリーザベトを現実に引き戻す。
「さ、若奥様。ルスヴィアでご挨拶させていただいたのを覚えていらっしゃるといいのですが。……急いで修道院まで参ります。しっかり捉まってください」
キャシーは黒髪をおさげにした大きな緑の目の有能そうな人だった。
胸のバッヂで魔法使いだと分かる。
直前に話した女の子があれだったものだから、ついつい張りのある若い声に腹の底が緊張してしまう。
エリーザベトはぎゅっと口を引き結んで背筋を伸ばした。
「ええ、覚えていますよ。酒屋さんの娘さんよね?」
キャシーは意外そうにまばたきした。
「修道院までよろしくお願いします。手数をかけてごめんなさいね」
「いいえ」
そうして馬は走り出し、といってもエリーザベトを気遣って小走りだったが、その乗馬技術は若さに見合わず巧みだった。
身体がぜんぜん揺れないのだ。相乗りなんて馬酔いするためにある技法だとばかり思っていたエリーザベトとしては驚きである。
騎士たちの姿が見えなくなり、馬蹄の響きも聞こえなくなった頃、キャシーはくすっとと息だけで笑った。
耳朶にかかった甘い若い娘の声にエリーザベトは飛び上がった。
「ユリアナにお会いになったと聞きました。びっくりなさったでしょう」
「……ええ。あの人は、夫の傍にずっといたと聞きましたが」
「それは私どもにとっても頭の痛い問題でした」
彼女は淡々と説明口調で話した。
おそらく仲間の誰かから、ひょっとしてマティアス本人から、それとなくエリーザベトに言っておけと言われた内容をそのまま話しているのだろうと察せられる物言いで、
「あの人は確かに魔法使いでしたが、軍に所属する正規の軍属ではありませんでした。私たちのように任務に従わねばならない縛りがないぶん、なんともまあ好き勝手やってくれて。
もちろん負傷者の救護のために戦場まで出向いてくれる民間の魔法使いや修道女様方には心から感謝しております。しかし彼女はそうした集団にも属さず、規律も理解せず、いつも妙なローブ姿の者たちとつるんで布教活動に精を出しておりました。その上、若様に絡み付いて鬱陶しいことこの上なく――」
鬱憤を晴らすように一息にそこまで言ってしまうと、ハアッと大げさに肩を上下させ、
「一度などシュヴァルツェン家の天幕に潜り込んで若様を待っていたのですよ。若様が放り投げて追い出しましたが。なのに翌日には懲りずにヘラヘラ現れるのですから、うすら寒いものさえ感じました」
「そうだったの……」
エリーザベトは自分の誤解に目を伏せる。
噂をそのまま信じ込んで、夫を信じなかった自分を愚かだと思った。
レオポルドに何を言われても、自分で手紙を出すか、戦場へ乗り込んででもマティアスに真相を聞けばよかったのだ。
実際は妊娠中で無理だったとしても、そのくらいの気持ちで戦えばよかった。
どうしてそうしなかったのだろう。
エリーザベトはキャシーの探る視線を受けて、物思いから覚めた。
「若いお嬢さんがあれほど――壊れてしまうとは、戦場とは聞く以上に恐ろしいところなのでしょう。女性の身で軍に所属し、夫の元で働くあなたのような方を私は尊敬します。今も私を送っていくせいで部隊に合流する手間がかかるのに、ありがとう……」
キャシーは朗らかな笑い声を上げた。
どこかマティアスに似ている、いいや、軍人らしいさっぱりとした笑い方だった。
「お優しい若奥様! ええ、ええ。若い女性なのにね!」
と続けて苦しそうに咳き込む。
エリーザベトは振り返って彼女の新緑のように美しい緑の目を見上げた。
そこには好意と、ようやくユリアナの奇行を話せる喜びが輝いていた。
284
あなたにおすすめの小説
許婚と親友は両片思いだったので2人の仲を取り持つことにしました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<2人の仲を応援するので、どうか私を嫌わないでください>
私には子供のころから決められた許嫁がいた。ある日、久しぶりに再会した親友を紹介した私は次第に2人がお互いを好きになっていく様子に気が付いた。どちらも私にとっては大切な存在。2人から邪魔者と思われ、嫌われたくはないので、私は全力で許嫁と親友の仲を取り持つ事を心に決めた。すると彼の評判が悪くなっていき、それまで冷たかった彼の態度が軟化してきて話は意外な展開に・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。
【完結】貴方の傍に幸せがないのなら
なか
恋愛
「みすぼらしいな……」
戦地に向かった騎士でもある夫––ルーベル。
彼の帰りを待ち続けた私––ナディアだが、帰還した彼が発した言葉はその一言だった。
彼を支えるために、寝る間も惜しんで働き続けた三年。
望むままに支援金を送って、自らの生活さえ切り崩してでも支えてきたのは……また彼に会うためだったのに。
なのに、なのに貴方は……私を遠ざけるだけではなく。
妻帯者でありながら、この王国の姫と逢瀬を交わし、彼女を愛していた。
そこにはもう、私の居場所はない。
なら、それならば。
貴方の傍に幸せがないのなら、私の選択はただ一つだ。
◇◇◇◇◇◇
設定ゆるめです。
よろしければ、読んでくださると嬉しいです。
不貞の子を身籠ったと夫に追い出されました。生まれた子供は『精霊のいとし子』のようです。
桧山 紗綺
恋愛
【完結】嫁いで5年。子供を身籠ったら追い出されました。不貞なんてしていないと言っても聞く耳をもちません。生まれた子は間違いなく夫の子です。夫の子……ですが。 私、離婚された方が良いのではないでしょうか。
戻ってきた実家で子供たちと幸せに暮らしていきます。
『精霊のいとし子』と呼ばれる存在を授かった主人公の、可愛い子供たちとの暮らしと新しい恋とか愛とかのお話です。
※※番外編も完結しました。番外編は色々な視点で書いてます。
時系列も結構バラバラに本編の間の話や本編後の色々な出来事を書きました。
一通り主人公の周りの視点で書けたかな、と。
番外編の方が本編よりも長いです。
気がついたら10万文字を超えていました。
随分と長くなりましたが、お付き合いくださってありがとうございました!
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】記憶喪失の令嬢は無自覚のうちに周囲をタラシ込む。
ゆらゆらぎ
恋愛
王国の筆頭公爵家であるヴェルガム家の長女であるティアルーナは食事に混ぜられていた遅延性の毒に苦しめられ、生死を彷徨い…そして目覚めた時には何もかもをキレイさっぱり忘れていた。
毒によって記憶を失った令嬢が使用人や両親、婚約者や兄を無自覚のうちにタラシ込むお話です。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi(がっち)
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
えっ「可愛いだけの無能な妹」って私のことですか?~自業自得で追放されたお姉様が戻ってきました。この人ぜんぜん反省してないんですけど~
村咲
恋愛
ずっと、国のために尽くしてきた。聖女として、王太子の婚約者として、ただ一人でこの国にはびこる瘴気を浄化してきた。
だけど国の人々も婚約者も、私ではなく妹を選んだ。瘴気を浄化する力もない、可愛いだけの無能な妹を。
私がいなくなればこの国は瘴気に覆いつくされ、荒れ果てた不毛の地となるとも知らず。
……と思い込む、国外追放されたお姉様が戻ってきた。
しかも、なにを血迷ったか隣国の皇子なんてものまで引き連れて。
えっ、私が王太子殿下や国の人たちを誘惑した? 嘘でお姉様の悪評を立てた?
いやいや、悪評が立ったのも追放されたのも、全部あなたの自業自得ですからね?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる