指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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 切り分けたキャラメルナッツを女たち一人一人に渡して回り、最後に修道院院長にも挨拶をして、エリーザベトは徐々に身の回りの荷物を整理し始めた。

 台所で泣いたあと、ソフィアは思った以上に駄々をこねなかった。
 決まってしまったことに何を言っても無駄だと思っていたのかもしれないし、まだ状況が飲み込めていないのかもしれなかった。
 幼い娘はこれから人生で初めて長距離を移動し、まったく知らない場所に行くのだ。

 朝の泉への水汲みはきちんとこなし、ソフィアも花を集める仕事をしたが明らかに覇気がない。
「ルスヴィアのおうちのすぐそばにお花畑があるのよ、ソフィア。こことは違った大きなお花もあるの。パパと三人で取りに行きましょうね」
「うん……」
「ルスヴィアで飼いたいねこちゃんの柄は決めた? 考えてみたら?」
「ふむん……」
 といった様子で、口数も少なく、けれどふてくされているわけでもない。
 エリーザベトとしても初めての娘の様子に戸惑い、そっとしておくしかなかった。

 ソフィアはサラと連れ立ってぷらぷらと遊びに出かけるようになった。
 夕方になればちゃんと帰ってくるし、台所の窓に置いておいた昼食はいつの間にかなくなっているから、エリーザベトもモニカも目こぼしすることにした。

「悪いわね、サラちゃんまで巻き込んで」
「ソフィアにしてみれば生まれ故郷を離れるわけでしょ。仕方ないわよ」
 モニカは最近、頭がハッキリしている時間も増えて刺繍や繕い物ができるようになった。
 以前は針を持てば自分に刺そうとするので取り上げられていたのだが。

「あたしもしっかりしなくちゃ」
 と健気に言い、サラの声に目を細める姿は力強い。
 本当に強い人間というのはこういうものだ、とエリーザベトは思う。レオポルドはエリーザベトを強いといったが、とんでもない。
 魔法使いじゃなくても、戦えなくても……。生き返ることができる人間というものが、一番強い。

「そういえば、あんたの旦那は例の秘密結社を追ってるってほんと?」
 とモニカは思い出したように言った。
 その日の昼下がり、女たちの部屋はどういうわけか閑散としていた。
 突然の怪我人への対応と、院長への来客に人手が必要になったのだった。

「秘密結社?」
「戦争のとき、ローブをかぶった変な人たちが新しい信仰って言って布教をしてたでしょ。実はあの団体の頭目は死んだはずの国王陛下の兄上様で、今まで大司教様に隠されていたんだって。その元王族の人が強い強い魔法使いだから、配下の悪者たちにもいっぱい悪い魔法を教えてどんどん悪いことさせてるんですってよ。戦争が終わったってのに世知辛いわねえ」

「ふうん……。夫は仕事の話はしてくれないのよね」
 それは一緒に暮らした一か月の間でも常にそうだった。
 これから変わるかもしれない、と思って思わずエリーザベトはにやにやしてしまう。
 モニカは呆れたように彼女を睨みつけた。

「まったく、新婚みたいな顔しちゃってさ。――よかった。あんたは幸せになんのよ」
「うん。モニカもサラと元気で。ジュリエットにも。手紙を書くわ」
「書かない方がいいよ」
 モニカは手元に目を落とし、歌うように言う。

「ここは世間から離れて時間が止まったところでしょ。ここが必要なくなったらきっぱり忘れた方がいいのよ。あたしだってサラをここで成人させるつもりはないわ。ある程度の歳になったら街の秘書学校にでも行かせるつもり」
「モニカ……」
「あんたとソフィアが幸せであるように、お祈りするわ」
 モニカはにっこりした。
 目の奥にまだ狂気の残滓がちらつき、けれどそれはどんどん薄くなってきた。

 エリーザベトはモニカの手を取って黙った。
 しばらくそうしていた。
 寂しさと感謝と癒えた苦しみのかさぶたが、共振して呻いているようだった。

 ――レーレン修道院がなければ生きられなかった者同士は固く手を握り合い、生き延びたことを祝福する。

 夕方になっても子供たちの足音が聞こえなかったので、エリーザベトが探しに行った。
 また、どこかでかくれんぼでもしているうちに、出るに出られなくなったのではないかと思ったのだった。

「サラちゃん? ソフィア!」
 最初は花畑を探しに行き、修道女の区画じゅうを探した。
 修道士の方に迷い出たのかと思って区画の壁ギリギリまで近寄り、訪ねてみても誰も知らないという。
 不安と焦りがますます大きくなっていった。

 ソフィアは修道院を離れることをいやがっていた。
 そしてサラは優しい女の子で、もし年下のソフィアが強くねだれば外に連れていくことができたし、いつまでも娘の話を聞いてくれたことだろう。
 まさか、子供だけで外に抜け出したのでは。

 だがその予想は外れていた。
 モニカの鋭い悲鳴が聞こえてエリーザベトは身を翻した。
 自分たちの区画まで駆けて帰ると、モニカが倒れたサラをがくがく揺すぶりながら断続的な息で悲鳴を上げ続けている。

「――サラちゃん!?」
 スカートを膝まで上げてエリーザベトはモニカの横に滑り込んだ。
 少女の脈を診ていたジュリエットが顔を上げ、硬い声で言う。

「大丈夫。気絶しているだけだよ」
「ソフィアは? 誰もソフィアを見ていないの?」
 今度はエリーザベトが悲鳴を上げる番だった。
 彼女は血走った目で周囲を見つめたが、集まってくる女たちの中にも、修道女の黒いベールの中にも小さな娘の姿はなかった。

 ウウン、と声を上げてサラが目を開いたのはそのときだった。
「サラちゃん、ソフィアは? ソフィアは?」
「ちょっと、覆いかぶさらないで!」
 モニカに押しのけられてもエリーザベトは何も感じなかった。

 頭の中には小さなソフィアが暗闇に消えてしまう想像が繰り返し、繰り返し映る。
 がくがく膝が震え頭がガンガン痛む。
 誰か複数の手が身体を支えてくれて、これがなければ泣き出していただろう。

 サラは母親の腕の中にむくりと起き上がり、目をぱちぱちさせながら眉をよせた。

「知らない人がいたの。知らない……女の人」
 まさか。

 エリーザベトは怒鳴らないよう全身で喉を制御しながら、そっと訪ねた。

「濃いはちみつみたいな金髪の、若い女の人?」
 サラはこくりと頷いた。

 ――ユリアナだ。
 魔法を使って修道院に入り込んだのだ。

 エリーザベトは立ち上がった。

「どっちに行ったか、わかる?」
「大門の方、行ったよ」
「ありがとう、サラちゃん」
「ちょっとあんた、どこ行くつもりよ!」
 ジュリエットに腕を取られ、だがエリーザベトはここで泣きながら待つ気などみじんもなかった。

「娘を追うのよ。決まってるでしょ。取り戻すの」
「待ちなさい、まだ何もわかっていないのよ」
 ジュリエットはずんずん進むエリーザベトに追い縋りながら、低い抑えた声で言う。

「子供の証言だけ聞いて、娘を追って飛び出すつもり? どこに行ったかもわからないくせに!」
「いいえ。夫が犯人の所属する団体のことを調べているわ。彼なら何かわかるはず。夫に合流し、娘を追います」
「ダメよ。旦那さんがどこにいるかもわからないんじゃないの」
「ジュリエット」

 エリーザベトは腕を取り戻し、立ち止まって背の高いジュリエットの浅黒い顔を覗き込んだ。
 笑いの形に細かなちりめん皺が散った、優しい優しい彼女の顔に何度助けられたことか。
 そう、修道院の人々は相互にとても優しい。
 閉ざされて守られた空間だから。
 けれど。

「私はもう十分逃げたわ。逃げて逃げて、でも娘のためなら逃げない。待たない。私はソフィアを追うわ」
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