指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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 ソフィアの声をエリーザベトは追った。
 耳ではなく心が娘の声を聴いた。
 彼女は小さく丸くなり、怯えてはいなかったが母親を探し求めていた――もちろん、父親も。

 ソフィアが知る修道院と泉、知っている人々だけに囲まれた小さな世界は崩壊していた。
 娘の小さな心が痛み、戸惑っているのを感じてエリーザベトは苦しかった。

 落ち葉が堆積した道の上、崖になっているところから水の音が聞こえた。
 エリーザベトは迷わず崖をよじ登った。
 白い岩がちょうど階段のように斜面を彩り、足がかりになってくれてる。

 マティアスが後ろから彼女の腰を掴んで持ち上げ、無理な段差や亀裂を通過させた。
 彼は難なく妻の後ろを進み、目を凝らして小さな娘を探した。
 はやる心にもどかしいほど歩みは遅かった。
 エリーザベトは何度もマティアスに先に行ってと言いたくなり、だが離れることができなかった。

 家族は全員が揃ってひとつだ。
 エリーザベトはソフィアの一部であり、ソフィアはマティアスの一部であり、エリーザベトとマティアスは互いの半分以上だった。
 誰か一人が欠けた状態で、さらに最後の一人まで欠けるなんて耐えられない。

 視界が開けた。
 水の音がする方へ、彼らは駆けた。
 小さな泉があった。
 レーレン修道院の裏手にあったものより大きく、マティアスが忘れられないあの湖より小さかった。

 そして、彼らの娘は灰色の砂利の床になった水辺で遊んでいた。
 元気そうで怪我も病気もしていなさそうで、見たことがないほどつまらなさそうだった。
 かたわらに食べかけのパンが転がり、白く輝く石をおもちゃにしている。

「――ママ!」
 ソフィアは足音に気づくとぱっと顔をほころばせ、両手を突き出して両親に走り寄る。

「ソフィア!」
「ソフィア!」
 それ以外の言葉はなかった。
 腕の中に駆け込んできた娘の小さな熱い身体をエリーザベトはきつくきつく抱きしめ、その匂い、溌剌とした笑顔、どこも怪我していない手足と胴体を確かめた。

「パパ」
 ソフィアは紅葉のような手をマティアスに伸ばし、にっこりする。
 膝をついた地面はからりと乾いていたが石が食い込んでいたが、エリーザベトはそんなことを忘れた。
 思わずマティアスと顔を見合わせ、勢い込んで聞いた。

「パパって言ったの、ソフィア?」
「俺のことをパパって呼んだのか、ソフィア?」
 マティアスの声は震えている。

「パパって呼んでくれるのか?」
「パパ、パパ、パパ! ママ! ママ!」
 ソフィアはわけもわからずきゃらきゃらと笑い出した。
 面映ゆそうで嬉しそうで、心から幸福なのが溢れ出た笑い方だった。

 身を乗り出すソフィアのお尻をエリーザベトは支えた。
 小さな身体を膝の上に抱き取ったマティアスは、深呼吸をして娘の薄い金髪に顔を埋めた。
 ソフィアの身体をすっぽり包んでしまえる大きな両手、左手に嵌ったエリーザベトの父母の結婚指輪。
 すべてが完璧だった。
 あるべきものがあるべきところに戻ったのだった。

 小さな泉からはこんこんと水が湧きだしている。
 せせらぎの音がエリーザベトの耳に戻ってきた。
 ソフィアの口元のパンくずを拭い、頭を撫でているとくるりと娘は首を回した。

「おなかすいた!」
 と元気よく報告されて慌ててポケットを探る。
 キャラメルナッツの包みがいくらか残っていた。
 エリーザベトはひとつをマティアスに渡し、もうひとつをパキパキ割ってソフィアに与えた。

 ここがどこで、今がいつなのかは構わなかった。
 娘が空腹であり、それを満たしてやれる。
 それだけが重要だった。
 もしすぐ後ろに熊がいても気づかなかっただろう。
 エリーザベトの世界には、今、ソフィアとマティアスしかいなかった。

「……君は昔、猫を追いかけて湖に落ちた。ちょうどこんな、小さな澄んだ湖だった」
「え?」
 もぐもぐ口を動かすソフィアが手を伸ばしてくる。
 娘を膝に乗せて腹に寄りかからせ、エリーザベトはマティアスを見つめた。
 彼は彼女たちを見つめる。
 目を離したら消えてしまうと恐れているかのようだった。

 マティアスの節くれだった指がエリーザベトの頬を撫でる。
 夏の空の色した目がこっくりと濃く青くなり、まなざしは不思議に鋭かった。
 彼は彼女の顔の中に過去を探していた。

「覚えていなくて当然だ。君は五つくらいだった。今のソフィアよりようやく一回り大きいくらい」
「記憶が……戻ったの、マティアス?」
 ああ、と彼は頷いた。
 優しい笑顔だった。

「全部思い出したよ。君を見つけて、ずっと思い続けて。そして結婚を申し込んだんだ。こんな水辺で、跪いてプロポーズした。風が心地よくて、君の金髪は天使の翼のように清らかに輝いていた。俺は有頂天だったよ」
 エリーザベトの心は過去に飛んだ。
 叔父夫婦から告げられた突然の結婚、馬車でルスヴィアまで旅したこと、騎馬のマティアスの凛々しさ。

 ……五歳。
 五歳の頃。
 それではそのすぐあとに父母が死んだのだ。
 ならばそれはエリーザベトが覚えている記憶と一致する。

「避暑地に家族旅行に行ったの。鉄道で。使用人たちもいて、古い鞄がいっぱいあって。最後の思い出なの」
 声が震えた。
「私と両親の、最後の旅行だったの」
「お優しそうなご両親だった。君は幸せそうだった。顔が赤くなって、日焼けするほどはしゃいでいた」
 マティアスはエリーザベトの灰色の目を見つめ、いたわりを籠めて言う。

 報われた、とエリーザベトは思った。
 全部が。
 叔父夫婦の元で苦労したことや、父母の財産のほとんどすべてが奪われていったこと、屋根裏部屋での暮らしが。

「君の目の色はお母上の色だ。そっくりな母親と娘、堂々としたお父上。……俺は君たち家族を見て、羨ましいと思って、いた」
 マティアスはソフィアに視線を落とした。
 アーモンドのかけらが小さな口の中に刺さらないよう気を付けて、エリーザベトは次を娘の唇に押し込んだ。ソフィアはゆったりと満足気だった。
 白い石を弄びながら娘は食べた。

「その頃からうちの両親は布教活動にのめり込んで、国内のあらゆる貧民区域に施しをして回る旅行が趣味だった。俺は父の友人の家族に預けられていたんだが、その家族が避暑地に出かけて……ただでさえ馴染めない家族の、さらに知らない別荘は居心地悪くてな。湖のほとりを散歩していたんだ。そこで君が水に落ちるのを見た。俺は叫んだ。すぐにお父上がやってきて君を助け出した。立派な腕だった。俺は彼のようになりたいと思った」
 皮肉な口調で彼はうっすら微笑み、ソフィアの髪を撫でる。
 幼女は鬱陶し気に首を振り、パリポリとナッツを齧り、キャラメルを歯と手で伸ばして遊んでいる。

「我が父のように神だけを愛する男ではなく。神を愛するように家族を愛する男になりたいと思った」
 夏空がエリーザベトを包み込んだ。
 彼の目があれば空はいらないとさえ思った。
 森に差し込む光に輝くダークブラウンの髪、それから日焼けした肌のなめらかさ。

 エリーザベトの白っぽい金髪は黄金より高貴にきらめいた。
 湿気を含んだ風が彼らを撫でた。
 泥まみれで細かい傷だらけでも、彼女は美しかった。

「君と結婚したいと、あの頃から思い続けていたよ。まだ十歳だったあの頃から」
「嘘……」
 エリーザベトはソフィアを抱きしめた。
 まだ食べ物が口の中に残った娘は、首を傾げながら無邪気に母親を抱きしめ返す。
 マティアスが手元のキャラメルナッツを砕いて、次のかけらを娘の口に入れた。

 エリーザベトはこれまでずっと一人だと思っていた。
 ソフィアの妊娠がわかったときも、それより前からずっと。
 人は立場に関わらず、一番大変なときに助けてくれないものだと思っていた。
 誰のことも信じすぎないようにして生きてきた。
 マティアスのことだって信じていなかったのだ。
 だから彼が記憶喪失になったとレオポルドに聞いて、すぐに逃げることを決めた。

 もう二度と大切なものを失わないように、最初から大切なものを作らないでいようとした。

 けれど――マティアスが、そんなに前からエリーザベトを選んでいたと知っていたら。
 きっと彼女は違った人間に成長していただろう。

 マティアスは彼女をソフィアごと抱きしめ、父母に挟まれてソフィアは不愉快そうな声を出す。

 あとはもう言葉はいらなかった。
 時間が止まったらいいとエリーザベトは思った。

 キャラメルナッツの最後のひとかけらをソフィアが食べ終えた。
 マティアスは優しい目でソフィアを見つめる。
 エリーザベトはそんな二人を見ると、胸が熱くなる。

「やれやれ、どうやら俺はこれを食べられない運命にあるらしい」
「あなたに差し上げたぶんはどうしたの」
「大事にしすぎてカビを生やした。すまない」
「じゃあルスヴィアに戻ったらたくさん作ってあげるわ。泣くほど食べさせてあげる」
 マティアスははっとエリーザベトを見つめた。
 彼は泣き出しそうに見えた。

「ありがとう。きっと、そうしてくれ」
 そして乱入者が現れた。

 転移魔法だろう、ユリアナは風のようにただそこに現れた。
 憎しみに燃える赤い目がエリーザベトを貫いた。

 マティアスは身軽に立ち上がった。
 エリーザベトはソフィアを抱き上げ、後ろに下がった。

 
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