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後編

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 ばこっと開いた冷蔵庫。水でも飲むかと、冷やしておいたミネラルウォーターを取り出そうとした。いつもほとんどすっからかんで、入っていたとしてもコンビニ弁当とかその程度のそこに、みっちり沢山のタッパーが詰め込まれていた。タッパーの蓋には、白いマスキングテープが貼られ、『肉じゃが』『きのこの炊き込みご飯』『カレイの煮つけ』等々、内容物が書かれている。ねーちゃんの、結構きれいな字で。どれも俺の好きなものばっかりだった。
 
 お袋が出ていったあとから、五年前ねーちゃんが来るまで、家事を一手に引き受けていたのは俺だ。つっても、料理も掃除も正直全然で、死なない程度になんとかやってただけ。家のなかは荒れ放題。親父は無関心だったしな。
 ねーちゃんは、どこで覚えてきたのか、旨い料理を毎度食卓に並べてくれたし、掃除も勝手にやってくれた。お袋がいなくなってから、荒れ放題だった我が家が生き返ったみたいになったのを思い出す。
 俺が旨いって料理を褒めると、アホみたいに喜んだ。照れてして。
 たまにこの味が恋しくなるんだよな、とそこまで考えた俺は、さっきの出来事を思い出し、ため息一つ、冷蔵庫を閉めた。
 
 風呂場の前に積んであった洗濯物も片付けられてるし、あちこち磨かれていた。そういやきれい好きだったわ、あいつ。エプロンして、床に這いつくばって雑巾がけしながらにこにこして。掃除が好きとか奇特なやつと思ってた。
 このアパートの汚さに「もうっ」とか言いながらも、さっさと部屋を片付けだすねーちゃんの姿が思い浮かぶ。
 
 部屋に戻ると、ねーちゃんの忘れ物に気づいた。トートバッグひとつ。
 
 目障りなので足で退けようとしたら、くたりと倒れ中身が出た。ポーチだ。掴んで中に戻そうとして、そこにたぶんバイト用だと思われるエプロンが入っていた。あーそういや、土日以外は夜バイトだっつってたわな。なんのバイトって聞いてもはぐらかされたけど、まあいいや興味ねーわくらいに流してたんだった。今日は金曜日だし、バイトの予定だったんだろう。
 
 これ必要なやつだよな。あー、きっとあと少ししたら、バツが悪そうな顔をして取りに戻ってくるんだろうな。会いたくねーから、玄関の外に置いておくか?
 そんなことを考えたものの、一応部屋の隅にそれを置いて、スマホでゲームなんかしながら待っていたのだが、ねーちゃんは戻ってこなかった。
 
 六時を回って、外が暗くなってきた頃、俺はため息一つ立ち上がる。
 ねーちゃんがバイト先で他の人に迷惑かけるのは、いただけない。もしかすると、忘れたことに気づかずにバイトに向かってるかもしれないし。
 断じて、いつもケンカしてすぐに「ごめんね」メッセージを送ってくるのに今日はないからと、心配になったわけではない。
 
× × × × ×

 ねーちゃんのバイト先は、エプロンの胸に書かれていた店名でわかった。ぐーぐる先輩にお願いして、道案内してもらえば一発だ。
 しかし、たどり着いた先が、外装も汚れまくり看板のネオンがほとんど点灯してないような、うらぶれたラブホだってのは想定外だった。一瞬、ぐーぐる先輩が道案内を間違ったのかと思ったが、受付に座ってるおばちゃんのエプロンが、トートバッグの中のそれと酷似していたので、間違いないんだと思う。

 職業に貴賎はないと思うが、姉がラブホで働いてるってのはやっぱりビビる。
 
 防音もろくになってないのか、はたまた声量がありすぎるのか、どっかの部屋の女が動物じみた叫び声をあげて善がってるのが、エントランスまで聞こえていた。どういう趣向なのかわからんが、待合室は小さく別れたりしてなくて、病院の待合室みたいな長椅子が二脚、でんっと置かれているだけ。まあ、気まずい。この内装に女は引かないの? と思ったが、お値段はわりかしリーズナブルだったので、回数こなしたいならあり……なのかもしれない。数組のカップルが、無の表情で獣じみた喘ぎ声を聞き流しているのはシュールな光景だ。気分盛り下がらないか、これ。
 
 俺は意を決して、受付に歩み寄る。おばちゃんは、慣れた様子で、俺の顔を見ないようにして問うた。

「ショートステイだったら三室空いてますよ」
「すみません、客じゃなくて、ここで働いてるバイトの前原の忘れ物を届けに来たんですが、本人呼んでもらえますか」
「お客さん、プレイの設定は女の子にだけ話してくれればいいんですよ」

 イメクラでもデリヘルでもねえって。

× × × × ×

「まさかねーちゃんが、ここで働いてるとは思わなかった」
「……内緒にしてたから」

 予備のエプロンを使っているらしいねーちゃんが、ゴム手袋と三角巾を着用したお掃除のおばちゃんスタイルで出てきたので、俺達はそそくさと店の裏手にまわった。
 
「趣味と実益兼ねてるってわけ?」

 嫌味を言いながらバッグを手渡すと、ねーちゃんはそれをぎゅっと胸の前で抱きしめた。
 
「だって、お腹減るんだもん。家にいたときは、ハルちゃんが一人でしたあとの部屋に充満した精気を浴びるだけでなんとか食いつないでたけど、ハルちゃんいなくなったらどうしようもなくて。ここなら、お掃除しながらなんとかお腹いっぱいになるから。……美味しくないけど」
「あ、そう……」

 なんて言えばいいのかわからん。自分がオナったあとの部屋で、シーツをくんかくんかされていたのかもしれないと思うと、遠い目になるわ。つーか俺の性衝動とかバレバレだったんだろうか。いたたまれねー。
 
 用は済んだので帰ろうと踵を返した俺の袖が、くいっと引かれた。ねーちゃんが、必死の形相で掴んでいた。やめれ、誰のなにを触ったかわからんゴム手袋着用で、俺のパーカーを摘むでない。
 
「ハルちゃん、ごめんね。ごめんなさい。あんなことして許してもらえないかもしれないけど、おねえちゃん、まだハルちゃんのおねえちゃんでいたいの。もう、しないから、あんなの。我慢するから。今日のは、マーキングみつけてかっとなっちゃっただけで……。ハルちゃんからきてくれるまで我慢するつもりだったんだよ、本当だよ」
「いや、いかねーから」
「うう……そんなはっきり言わないでよぅ……」

 さっきまで乾いてた大きな目から、ぼろぼろ涙をこぼして、ねーちゃんは必死に訴えてきた。
 
「部屋を飛び出してからずっと考えてたの。ハルちゃんのことが好き。たぶん、ハルちゃんにはわからないと思うけど、ハルちゃんの家に引き取られてからずっとずっと好きだったんだよ。いつかハルちゃんと結ばれるなら、姉弟じゃなくなってもいいって思うくらい。でもね、ハルちゃんに出てけって言われて、……怖くなった。だって私、ハルちゃんの家に引き取ってもらえるまで、家族いなかったの。ひとりぼっち。ハルちゃんに捨てられたら、またひとりになっちゃう。そんなのいや。ハルちゃんのおねえちゃんでいたい」
「姉弟はあんなことしねーから」
「……だから、我慢する……。ごめんね、本当は今でもハルちゃんとえっちなことしたいの。これは本能、だから。ハルちゃんからしたら姉かもしれないけれど、私にはハルちゃんは弟で――好きな人なんだよ。一緒にいてくれて、一緒に笑ってくれて、私の作ったご飯食べてくれて、それだけで幸せなのも、本当なの。ハルちゃんからしたら気持ち悪いよね。だけど、我慢するから、たまには家に帰ってきてほしいの。ひとりでいるの、寂しい」

 俺のパーカーを掴む手の力がちょっと強くなった。
 うつむいて、ねーちゃんは俺のことを見ない。
 
 一緒にいるだけでいいって気持ちは、俺にだってわかった。好きな子と一緒にいれば、それだけで幸せだ。ずっとくっついてたい、そしてできればもっと深く繋がりたいって先に、セックスがあるんだと思う。思ってた。
 だからねーちゃんが、本当に俺のことが好きだっていうなら、淫魔であるとかそういうことを抜きにしても、その先を考えるのは別におかしいことじゃないとは思う。姉弟ってのを差し引いておけば、だけど。
 それで、その好きな相手に、……自分のもっとも弱い部分をさらけ出しても繋がりたいと思う人に、それを踏みにじられたときの気持ちは、痛いほどわかるわけだが。
 
 俺はため息をついた。内臓が全部出るくらい深いやつを。ねーちゃんが、びくっと体を震わせる。断罪を待つ囚人みたいに、悲痛な雰囲気。
 
「二度と、ああいうの無理強いすんのはよせ。次に同じことしたら、今度こそ許さない」
「はい……」
「かわりに、週一くらいならうち来てもいい。泊まりはだめだけど。あと、長期休暇には帰省する……ようにする。それだけすれば、寂しくはねーだろ」
「……いいの?」

 俺が顎を引くと、ねーちゃんが真っ赤な目を見開いて、みるみるうちに笑顔になった。がばっと抱きつかれる。ゴム手が俺の背中をホールドした。……このパーカー、帰ったら洗おう。
 
「ハルちゃんありがとう! 大好き!」

 さっきまでの意気消沈してたのが嘘みたいに、嬉しそうににこにこして、ねーちゃんは俺の胸に顔をすりつけてきた。
 今日のトラブルを抜きにしても、俺がねーちゃんをぞんざいに扱いすぎて、寂しくさせていたのは事実だ。それは解消してやるのも弟の努めだろう。
 正直、ねーちゃんの恋心とか、いきなりすぎて対応できない。話し合いを重ねるうちに、もしかするといい消化方法を思いつくかもしれないし、ねーちゃんが心変わりするかもしれない。そうだ、今度、俺の友達でも実家に呼んで、ねーちゃんに会わせてやろう。もしかしたら、意気投合して彼氏でもできるかもしれないし。
 
 俺は、ねーちゃんの素直な髪を軽く撫でて、小さくため息をついた。まったく、寛大な弟である。
 
× × × × ×
 
 そのときの俺は、まさか、帰省して実家に泊まるたびに淫夢を見て夢精するという失態を繰り返し、数年後その淫夢がねーちゃんのせいだったと知るというところまでは、想定してなかったのである。
 
「だって、えっちなことしてないよ? ハルちゃんが勝手にえっちな夢見て射精しちゃっただけでしょ?」

 目を合わせずしらばっくれるねーちゃんのほっぺたをつねりあげた俺は、こう思ったのだ。改めて、貞操の危機を感じながら。
 
 淫魔、手強い。
 
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