DR.清白の診察室 Ⅴ~義兄弟

翡翠

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奈落

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中間テストはまずまずの成績だった。今まで苦手だった教科の成績が上がって、出来不出来の凸凹が小さくなった。三日月さんはこれぐらい当たり前だって言うけど清方先生には誉めてもらった。兄さんたちも喜んでくれた。土曜日にはお祝いもしてもらった。

「あ、葉月。俺、明日ちょっと出掛ける」

「あ、うん」

 那津彦兄さんが申し訳なさそうに言った。

「あ、俺も明日、予備校で試験だ」

「そうなんだ。勉強、頑張って」

 日曜日なのに二人ともいない。でもそういう事は普通にある筈。休日に僕を一人にする。それを気にしてくれているらしい。

「何?二人とも過保護って言葉知ってる?」

 僕がそう言うと兄さんたちは顔を見合わせた。

「葉月!」

「葉月~!」

 二人して僕の頭を押さえてぐしゃぐしゃにする。三日月さんがよくこういう言い方するんだよな。ちょっと真似してみた。

 すれ違いが寂しいなら自分で場を作れ。清方先生はそう言った。抱き合う事より今はこんな時間が好きかもしれない。大騒ぎして笑い転げる。昔に戻ったみたいだ。

 僕には借り物の家族でも、あそこには確かに温もりがあった。兄さんたちからそれを奪った罪は忘れてはいけない。

 これはマイナス思考じゃない。僕の決意だ。




 日曜日、兄さんたちを送り出した僕は溜まっていた家事を始めた。ある程度はキーパーが入ってくれるので部屋が汚れる事はない。でも洗濯は出来るだけ僕がする事にしてる。制服はクリーニングに出したけどシャツは自分で洗う。

 色物と白いの黒いのを分けている途中で、僕は丸められたシャツを見つけた。普段、僕も兄さんたちもそんな事をしない。不思議に思って広げると、そのシャツには口紅が付いていた。

「これ…那津彦兄さんの…だよね?」

 きっと那津彦兄さんのアルバイトは、チェーン展開する居酒屋だ。酔っ払った客に何かの弾みで付けられたんだろ。何だか旦那さんの浮気の証拠を発見した主婦みたいで、僕はおかしくて笑い出してしまった。隠しても洗濯するのは僕なのに。

「落ちるかなあ…?」

 ネットで口紅の落とし方を調べて試してみる。完全には落ちなかったけど…目立たなくはなった。何回か洗う内に落ちるだろう。

 この時、ある事を僕は失念してた。あとで気が付いたんだけど。午後、玄関チャイムが鳴って出ると朔耶さんが立っていた。

「一人でしょう、今。買い物に行きますから準備をしてください」

 この人はどうしていつも命令口調なのかな。

「え…僕は…」

「君の秋用や冬用の衣類などを買うように、義兄に依頼されたんです」

「え?僕、服はあるよ?」

 そう言うと朔耶さんは眉を吊り上げた。

「君はもう、護院家の一員です。それなりの物を身に付けてもらわないと義兄や雫さんが恥をかきます」

 恥って…金持ちは面倒くさいな。

「それに君に参考書を見繕うように、弟にも依頼されてます。気分転換だと思って外出しなさい。10分待ちます。準備してください」

 この人にしても会社の人たちにしても、どうしてこんなに迫力があるんだろう?僕は急いで外出用の服に着替えた。

「お待たせしました」

 息を切らせて玄関に行くと、朔耶さんは上から下間まで僕の服装を点検する。

「………この上着を着て」

 差し出されたのは秋用のコート。

「えっと…」

「天羽 通宗さんのお下がりです」

 通宗さんは会社で秘書をしてる優しい人だ。朔耶さんたちと同じ階に住んでる。僕は言われた通りにコートを着て一緒に下の階に降りた。そこには周先生が車に乗って待っていた。

「乗って」

「はい」

 何か言うと倍くらい言葉が返って来そうで、僕は返事だけして後部座席に乗り込んだ。

「朔耶…葉月君に命令するのはやめなさい。お前はどうしてそう他人にツンケンするんだ?第一、葉月君はもう身内だろう?」

「身内だから甘やかさないんです。立ち振る舞いから言葉遣いまで、これから教育させていただきます」

「だったら優しくしなさい」

「申し訳ありません。私は武さまのご教育をされた、あなたの大切な夕麿さまのようには出来ませんから」

「朔耶~、葉月君の前で喧嘩を再開させるな」

 どうやら周先生と朔耶さんは喧嘩の真っ最中らしい。道理で朔耶さんの態度が、いつもよりトゲトゲしい筈だ。

 僕は何も言えずに目的地のデパートまで小さくなって座っていた。ここで僕はお金持ちの買い物を初体験した。最上階の奥にある部屋に通されて洋服がたくさん運ばれて来た。中には僕と似た体型の人が、着ているのを吟味する。スニーカーまで高いのを何足も選んだ。

 次に参考書がたくさん並べられた。どれも僕の学校が使用している教科書に対応したものだ。途中、周先生が問題集の事を言ってそれも運ばれて来た。参考書と問題集を一式選んで、これも購入した。

「英語の教材は?」

「市販されているのは君には相応しくありません。どれもアメリカ英語ばかりだからです。私たちの階級は皆、正統なQueen's Englishを使用します。下品な言葉を覚えてもらっては困るのです」

 英語にも階級の違いがあるなんて、僕はここで初めて聞いた。

「葉月、他に必要なものはありますか?」

「えっと…ないと思います」

「ではそこに取り分けた物に着替えてください。その間に代金を払っておきますから」

「はい」

 僕が立ち上がると専属の店員が、それらを手にして更衣室へと案内してくれた。服はどれもピッタリで、まるで注文したみたいだった。腕時計を付けてもらいスニーカーを新しいのに履き替えた。出て行くとクルリとまわらされて一言が飛んで来た。

「次は髪と爪ですね。周、エステは必要だと思いますか?」

「葉月君は肌も綺麗だし、大丈夫じゃないかな」

 髪はわかるけど…爪って何?エステって、あのエステ?

「葉月、何をボウっとしてるんです?次に行きますよ?」

 怖い。朔耶さんの後ろでそっと周先生が謝ってくれた。

 でも…確かにみんなは綺麗な爪をしてる。あれって手入れしてるんだ。初めて知った。その後も大変だった。大きな美容室の奥、個室で髪を弄られ、爪を切り整えられて磨かれた。

 僕はもうカルチャーショックにフラフラだ。

「え~と、次は…」

 まだ何かするの~?

「ちょっと待ちなさい、朔耶。一度、お茶でも飲もう。葉月君を休ませてあげなさい」

 さすがは周先生。僕は縋るように先生を見上げた。すると朔耶さんがまた眉を吊り上げた。

「周、随分と優しいですねぇ」

「はあ?僕は葉月君の主治医として言ってるんだ」

「へえ。ではあのナースの事はどう説明するんです?彼女はあなたとデートをしたと言ってるのですよ?同僚ナースがそれを目撃してるんです」

 はあ…なる程。周先生の浮気疑惑が喧嘩の原因なのか。

「だから説明しただろう?

 僕が休憩している所に彼女が来て、勝手に向かい側に座ったんだと。あれはデートなんかじゃない」

 あははは…周先生、モテるんだなあ。

 既成事実を作ろうとチャレンジした看護師さんがいたんだ。目撃したって言う同僚ナースとかも本当はグルなんだろう。 

 僕はふと思った。周先生がモテるなら朔耶さんだってモテるんじゃないのかって。 

「あの…」 

「何?」 

 振り向いた朔耶さんの目が怖い。 

「えっと、朔耶さんは医大生ですよね?」 

「そうですよ?それが何か?」 

「医大生ってモテません?朔耶さんって綺麗カッコイイし…」 

「あなたは何が言いたいんです?」 

「ああ、なる程。葉月君はこう言いたいわけだな?実は僕が知らないだけで朔耶にもあるのかもしれないと」 

「はあ!?」 

 あの、そこまで言ってません、周先生。 

「バカな事を言わないでもらえますか?」 

 朔耶さんは僕と周先生、両方を睨んだ。でもちょっと涙ぐんでるような…… 

「私には婚約者がいると周囲には言ってあります!」 

 ああ、なる程。 

「そういう事を周囲に言っているのは、最初の頃にはあったって事だな、朔耶?」 

「なっ…」 

 図星だったらしい。朔耶さんが絶句した。吹き出しそうになって、慌てて視線を道路の反対側へ向けた。 

「!?」 

 僕は息を呑んだ。道路を隔てた向こう側にある店から、那津彦兄さんが出て来たのだ。後に続いて出て来た女の子が、親しそうに那津彦兄さんの腕に腕を絡めた。それに那津彦兄さんは微笑んで応えた。 

 慌てて物影に身を移して僕はそっと二人を窺い見た。彼女の唇を彩る口紅の色はあのシャツに付着していたのと同じ色だった。 

 そして僕は自分の間違いに気付いた。那津彦兄さんのアルバイトには制服がある。だから普段着のシャツに、酔っ払った客が口紅を着けたり出来ない。 

 ああ…… 僕は唇を噛み締めた。 

「あいつ…」 

 朔耶さんの声がすぐ側でした。 

「問い詰めましょう!」 

「やめて…ください」 

「葉月君」 

「良いんです」 

 問い詰めて責めても事実は変わらない。 

「あの…買い物の続きは…」 

「来週にしよう」 

 周先生がそう言ってくれた。僕たちは駐車場まで引き返した。言葉もなく三人が車に乗り込んだ。 

 と、その時、朔耶さんのスマートフォンが鳴った。 

「はい、三日月?何かありましたか?……え?わかりました。今から帰る所です。あなたの部屋へそのまま行きましょう。……ええ、では」 

 朔耶さんの声は酷くトゲトゲしかった。今のそれに比べたら周先生と喧嘩している状態のは、どこか甘い響きのあるトゲトゲしさだった。 

 何があったのだろう? 問い掛けが出来ないまま、車はマンションへと帰り着いた。駐車場から三人で三日月さんの部屋へ。部屋では険しい顔をした三日月さんと、悲しい顔をしている長与 秀一ながよひでかずさんがいた。 

 長与さんは元々は朔耶さんと三日月さんが、在校していた学校の先生だったって聞いてる。今は幸彦兄さんが通う予備校の先生をしているらしい。 

「話していただけますか、長与先生」 

 朔耶さんの言葉に長与先生が頷いた。 

「私が幸彦君が通う予備校にいるのは知っていますね?」 

「はい」 

 僕に向けられた言葉だった。 

「幸彦君は私の顔を知らないみたいですが私は知っています。彼は…少し前からある女生徒と夕食のお弁当を食べるようになりました。最近、彼女がお弁当を作って来て、幸彦君はそれもあわせて食べています」 

 僕の顔が強張る。 

「今日は10時から昼食を挟んで予備校内の模擬試験でした。試験が終わった後、私は買い物に出て彼らを見付けました。二人は…所謂いわゆる、ラブホテルという所へ入って行きました」 

 那津彦兄さんだけじゃなく、幸彦兄さんまで…女の子と付き合っている。その事実に僕は目の前が真っ暗になった。 

「葉月!?」 

「葉月君!」 

 朔耶さんの声と周先生の声が遠くなって行って僕の記憶は途切れた。 



 目を開くと清方先生が覗き込んでいた。 

「気が付きましたね?吐き気はありませんか?どこか苦しいところは?」 

 心配そうな声だった。 

 あれ…?僕…どうしたんだろう? 

「覚えていませんか? 長与先生と三日月君の部屋で倒れたのですよ?」 

 長与先生…三日月さん…!? 

 僕は飛び起きた。途端に辺りの景色が歪んで、清方先生の腕の中へ倒れ込んだ。 

「無理をしてはダメです。さあ、この薬を飲んでもう一度横になりましょう」 

 差し出された薬を飲んで言われた通りに横になる。 

「大丈夫です。あなたの心が事態に対応出来ないだけです。あなたは未だ、私の治療を受けている状態なのですから、これは普通に起こる事なのですよ」 

 優しい声で紡がれる優しい言葉を聞いているうちに眠気が襲って来た。 

「眠りなさい、今は…」 

 その声を子守歌に僕の意識は再び途切れた。 



 目が覚めたのは次の日の早朝だった。 

「目が覚めましたね?まだ薬の作用が残っている筈ですから、そのまま横になっていてください。少し発熱していますし、学校には私が連絡を入れておきましょう」 

 学校と聞いて兄さんたちの顔が浮かんだ。その瞬間、僕は吐いた。気持ち悪かった。 

「ご…めん…なさぃ…」 

 ベッドを汚してしまった。 

「大丈夫ですから気にしないで」 

 清方先生は僕のパジャマを脱がして、綺麗に吐いたものを拭ってくれた。それから僕を毛布に包んでリビングへと移動させた。ハウスキーパーを呼んでベッドを片付けさせる。 

「あなたの荷物を下の両親の所へ昨日運ばせました。しばらくはあなたを預かっていただくようにお願いをしました」 

 清方先生の両親、つまり今の僕には祖父母になる人たち。お祖母さまは綺麗で、ちょっと厳しいけど良い方。お祖父さまはとても優しい方。 

「しばらくはあちらで様子を見ましょう」 

 僕はその言葉に頷いた。 

 いつかは来るかもしれない時だとわかっていた筈だった。でも僕の心はそれを受け入れようとしてない。 

 兄さんたちに…裏切られたんだ。通りでずっと二人は僕を抱かなかった筈だ。同性同士で…三人といういびつな関係が嫌になったんだ。 

「気持ち…悪…」 

 また吐き気がこみ上げて来た。先生が大きなボールを差し出した。僕はそれに向かって吐いた。昨日の昼食以降、何も食べていない。口にしたのは薬と飲む為の水だけ。吐き出すのは苦い胃液だけだった。 

 吐き気が治まると僕は新しいパジャマに着替えさせてもらい、また毛布に包まれて抱き上げられた。そのまま一つ下の階に行くとお祖母さまが出迎えてくれた。 

「こっちよ」 

 お祖母さまが案内してくれた部屋には僕の荷物が全部あった。でも制服がなかった。僕の様子に見えない所へと移してくれたらしい。 

 そこへ周先生が来た。手に点滴を持ってる。清方先生はそれから目を背けるようにして部屋を出て行った。先生は余程の緊急でない限り注射はしない。 

 事件に巻き込まれた後遺症なのだと清方先生本人が話してくれた。 

「今日は休みだから、僕が付いているから。」 

 周先生が点滴を調節しながら言う。清方先生は雫さんの仕事を手伝いに行かないとダメらしい。僕はまた…みんなに迷惑をかけてしまった。 

「そんな顔をしちゃダメだ、葉月君。僕は君の主治医で、清方さんや雫さん、護院ご夫婦は君の家族だ。君は病気なんだからもっとみんなに甘えなさい」 

 優しい声で周先生はそう言った。 

「はい」 

 今はその言葉が救いだった。 



 僕はその後、どうしても登校する事が出来ず、清方先生のすすめもあって退学した。 

 でもアルバイトには行けた。きっとマンションと同じく特定の場所から出なくて良いからだと思う。 

 朝、兄さんたちが登校してから僕は雫さんの車で会社に行く。たまに清方先生や他の人も一緒だ。雫さんの仕事場は会社の隣のビルなんだ。会社の人たちは優しい。朔耶さんや三日月さんも周先生も長与先生も優しい。 

 僕はPCの資格と並行して高校卒業資格も取得する事にした。ただ今の僕は街中を車で通り過ぎるだけで精一杯だ。 

 清方先生は僕を入院させるかどうか、迷ったらしい。しばらく拒食症みたいになって、僕は食べても吐き出す状態だった。お祖母さまが入院はダメだと言ってくださったんだ。そのお陰なのか僕は何とか、食事が出来るようになった。 

 でも街中には出られない。学校へも無理だった。兄さんたちに会うのが僕は怖いんだと思う。はっきりと別れを告げられるのを今は受け入れられないんだ。清方先生はそれで良いって言う。だから僕は……それに甘えた。 

 10月下旬。会社は大変忙しくなった。11月の始めにみんなが会社を休むそうで仕事をある程度は、片付けてしまわなければならないらしい。その忙しさは僕を救ってくれた。僕は会社で走り回り、クタクタになって帰る。薬を飲まなくても朝までグッスリと眠れた。 

 ただ…… 朝、時々、温もりを探してしまう。もう二度と触れる事も触れられる事もない温もりを。そんな日はやっぱり吐き気に襲われてしまう。お祖母さまは抱き締めてくださって、僕の気分が良くなるまで側にいてくださる。僕は……これまで知らなかった、お母さんの温もりをお祖母さまに感じていた。 

 三日月さんは朔耶さんや長与先生と交代で僕の勉強を見てくださる。 

「葉月は結構、頭が良いですね?」 

「え?前の学校でも入試ギリギリだったけど」 

「勉強のやり方を間違っていたのでしょう。もったいないですね。護院家に生まれていたら、帝都大だって行けたかもしれませんよ?」 

 それ……誉め過ぎだって。 

「信じてませんね?家庭教師まがいの事は結構していますが、あなたは優秀な生徒ですよ?三日月も長与先生もそう言っています。あなたの悪い所は試験でのあがり症と…その自信のなさです」 

「はあ…」 

 確かに…そうだけど。 

「会社では一番お厳しい夕麿さまが、あなたを誉めていらっしゃったそうです。あなたはお茶一つとっても心配りを忘れないと」 

 わかってる。僕を励まそうってみんなが気を使ってくれてるのを。 

 夕麿さまって物凄く忙しい人だ。厳しい人なのも確か。でも本当は優しい人だって思う。だから僕は調子に乗ってはいけない。 

 僕はまだ…落ちた奈落の底にいる、満身創痍のままで。まるで手首の傷のように傷の上に傷を重ねたから、疵痕は無惨な姿になってる。手首は自分で切った傷以外は治療の為の手術痕だけど……心の傷は複雑に絡んで僕の予想もしない苦痛を生み出す。 

 清方先生は言った。焦ってはいけないと。心は今、傷付いて傷付いた事に、疲れ果ててしまったんだと。僕みたいな経験した清方先生の患者さんは、何年も時間を必要としたんだって。それでも今でも時々、疵痕が出て来るんだって。その人に会ってみたいけど…無理だろうから言わない。逆の立場なら嫌と思うから。プライバシーとかの問題もあるだろうし。 

 でも………この奈落は深過ぎて上にある筈の光が見えないよ。ねぇ、誰か教えて。光は本当にあるの?小さな木洩れ日で良いから、いつかは僕を照らしてくれる?僕は…僕はまだ生きていても良いの?ここにいても良いの? 

 僕は…僕にはわからない。その疑問に自分では答えが出せない。左手首の疵痕をじっと見詰めた。あの時に何故、死んでしまえなかったのだろう。きっと……誰も苦しまずに済んだ。 誰にも迷惑をかけなくて済んだ。 

 僕は…僕は…僕は…僕は…僕は僕は僕は僕は…… 

「葉月! やめなさい!」 

 誰かが僕の腕を掴んだ。次いで肩に痛みが走った。目の前が霞んだと思ったら、その後、記憶が途切れた。 



 目を開けたら何だかぼんやりしてよく見えない。誰かが頭を撫でて何か言ってるけど、反響してしまって聞こえてるけどわからない。しばらくするとまた瞼が重くなった。何回かそんな事を繰り返して僕は目が覚めた。身体も頭も重く感じる。 

「気分はどうだ?」 

 目の前にいるお医者さまは…えっと……知らない人だ。 

「はじめまして、だな。俺は御園生 義勝みそのうよしかつという」 

「御園生?」 

「君がアルバイトをしている会社の皆は、兄弟だ」 

「あ…」 

 そう言えばあと何人か兄弟がいるって聞いた記憶がある。それも一人はお医者さまだって聞いた気がする。 

「状況を説明するな?」 

「はい」 

「君は錯乱状態になってペンで左手首を滅多刺しにしたんだ。朔耶君が発見して周先生が咄嗟に鎮静剤で眠らせた。ここまではわかるな?」 

 僕は頷くのがやっとだった。 

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「あ…はい」

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 せっかく慈園院先生に手術してもらったのに、僕はそれを無茶苦茶にしてしまったのかな……

 僕はぼんやりとそんな事を考えていた。



 その日はお祖母さまが来てくれて、次の日には朔耶さんが来た。朔耶さんは部屋に入る前にドアを開いて、凄く不快そうな顔をして出入り口の方向を気にしていた。

 兄さんたちが来て僕に会いたいって言ってたんだって。清方先生が義勝先生に兄さんたちは面会不可って指示出してるんだって。朔耶さんが言うには僕が周先生の車でここに運ばれた時、マンションのエントランスで会っちゃったらしい。

 朔耶さんは物凄く怒ってた。随分あとになってから聞いたんだけどあの日、僕が部屋から出るのを知らせたのは朔耶さんだったんだって。

 朔耶さんが部屋で待ってると二人は前後して帰って来たらしい。僕じゃなくて朔耶さんがいるのに、驚いたけど…なんだかいつもと変わらない雰囲気だったって。

「葉月は今夜からここには住まない事になりました。別の場所に既に荷物と一緒移りました」

「ここには住まないって…どういう事だよ!?」 

 那津彦兄さんが朔耶さんに噛み付くように叫んだ。 

「今日の午後、彼は倒れました。病気が悪化したのです」 

「…それで何故、弟はここにいられなくなるのですか」 

 幸彦兄さんはいつも冷静だ。 

「その原因が君たちにあるからです」 

 朔耶さんは清方先生に兄さんたちを責めないように言われていたんだ。だからそこで立ち上がった。 

「待ってよ。まだ質問に答えてないだろ?」 

「納得のいく答えをください」 

 二人に詰め寄られて迷った。だって兄さんたちを責める事は僕も望んでいなかったから。 

「理由は…言うなと。それが葉月の望みです」 

「葉月の望み?」 

「葉月が…そんな事を言うわけない!」 

 戸惑う幸彦兄さんと怒りを露わにする那津彦兄さん。どこまでも朔耶さんに詰め寄る二人にさすがに腹がたったって。 

「今日、私は周と一緒に葉月を連れて買い物に出ました。街であなたを見掛けましたよ、那津彦君。 

 それに…幸彦君。君の予備校には知り合いがいます。君の予備校生活を私たちは知っているんです」

 二人とも言葉をなくして立ち竦んだ。だから朔耶さんは最後に言ったんだって。

「自分が何をしているのか、私たちにも葉月にもわからないだろうと思っていたとしたら…浅はかですね。

 これ以上の説明は不要でしょう」

 そう言って部屋を出たんだってさ。だからここに兄さんたちが来たのを見て、朔耶さんは本当に怒ってたんだ。

「朔耶さん、えっと…伝言をお願い出来る」

「自分を裏切った相手に、何の言葉を掛けようと言うのですか」

「うん…その、『会いたくないし、みんなに迷惑だから来ないで』って」

「わかりました。多分、まだ外の待合室に居座っている筈です」

 僕の言葉を聞いて朔耶さんは出て行った。兄さんたちの言い訳とかは絶対に聞きたくないんだ。聞いたからって事実が変わるわけじゃない。兄さんたちが裏切った理由…わかる気がするから。だからもう会わない方が良い。

 しばらくして朔耶さんがもっと不機嫌な顔で戻って来た。何だか申し訳ない感じがした。

「ね、朔耶さん。朔耶さんと周先生って歳離れてるよね?」

「10歳以上離れてますね。それがどうかしましたか?」

「どうやって出会ったの?」

「医者と患者の関係です」 

「え…患者?」 

「一年半程前に、私は心臓の手術を受けました。執刀してくださったのは慈園院先生ですが、最初に私を助けようと奔走してくれたのが周だった訳です」 

「うわ~何か、ロマンチック~」 

「それ以前に高校の先輩ですが」 

「そうなの?」 

「周囲は先輩だらけですよ?」 

「へぇ~」 

 朔耶さんに学校の話を少ししてもらう。そっか、会社で顔を合わせる人たちも同じ学校の出身だったんだ。 

「義兄と雫さんもですよ」 

 全寮制の男子校って…憧れるかも。 

「他の学校にない良い部分もたくさんありますが…多くの問題を抱えた場所でもあります。他人の芝生は良く見えるですね」 

 ベッドの横に椅子を置いて朔耶さんはそんな話をしてくれた。 

 正直に言うと最初は朔耶さんが怖かった。でも本当は優しい人なんだよな。優しいから兄さんたちの事、本気で怒ってくれてるんだ。 

「僕さ…朔耶さんみたいな、本当のお兄さんが欲しかったな」 

「なッ…」 

 あれ?朔耶さんが真っ赤になった。何で?面白いから追い討ち掛けてみよう。 

「三日月さんが羨ましいなあ。朔耶さんって良いお兄さんだよね」 

「…」 

 うわ~もっと真っ赤になった。朔耶さんって本当は照れ屋さんだったんだ。新発見~ 

「楽しそうですね……」 

 深々と溜息を吐いて言う。 

「あ、残念。面白かったのに」 

「私は玩具ですか…」 

 あ、拗ねた。 

「本気で言ってるんだけど…?」 

「疑わしいですね、それは」 

「あははは……バレてるや。ごめんなさい」 

 苦笑いしてる朔耶さんを見上げて僕ははっきりと言った。

「でも、三日月さんが羨ましいっていうのは、本当。

 ……朔耶さん、家族って何だろ?」

 朔耶さんと三日月さんはお母さんの違う兄弟だって聞いた。事情は違うだろうけど、僕の気持ちが何となくわかってもらえる気がした。

「難しい質問ですね。血の繋がりにそれを求めるならば、人間はしがらみの中で生きる事しか出来ないかもしれません。でも血の繋がらない相手とは……こじれたら家族であるだけに難しい事になります。けれど理解し合えるならば、血の繋がりとかは本当は必要ないのかもしれません」

「うん…そうだね」

 わかり合えたらどんなに良いだろう。そして…兄さんたちと僕の間にあったのは結局何だったのかな?

「朔耶さん、僕のお兄さんになってよ。叔父さんはイヤなんでしょう?」

「弟には不自由してないのですが」

「僕は不自由してる」

 ああ、そうか。朔耶さんはやっぱりお兄さんなんだ。こうやって僕に軽口を言わせてくれてるんだ。

「ダメ?」 

「仕方ありませんね。でも『兄さん』も『お兄さん』もお断りします」 

「じゃ、何て呼べばいいの?」 

 ちょっと甘えた声を出してみる。 

「あなたの言葉使いの事もあります。私を『お兄さま』と呼ぶならばなってあげても良いですよ」 

「お兄さま…女の子みたい」 

「文句があるのでしたらやめるだけですが?」 

「わかりました。よろしくお願いします、朔耶お兄さま…」 

 うわ~恥ずかしい。 

「ついでに言えば、義兄の事もいい加減に『先生』はやめるべきです。あなたは義兄の息子になったのですから」 

「う…嫌だって言わないかな?」 

「本人に訊けば良いでしょう?」 

「はい」 

 こんな感じで話をしてたら少し気分が良くなった。本当にこの人が兄なら良かったのに。僕と兄さんたちはどこで間違ったのだろう。 

「僕…どうしていたら…」 

 こんな事にならずに済んだのか。そう言おうとしたら朔耶さん…いや朔耶お兄さまが人差し指で僕の唇に触れた。 

「ごめんなさい。調子にのって話過ぎたようです。それ以上はダメです、葉月。また気分が悪くなります」 

 ううん。朔耶お兄さまが心配してくれてるのは、僕がまた錯乱してしまう事だよね。 

 元気になりたい。みんなに心配かけないようになりたい。 

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