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プロローグ~待っていたもの
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「それでは紫霞宮さま。 私はワシントンへ向かわせていただきます」
同行した外交官が頭を下げて立ち去ったのを見計らって、迎えに来ていた良岑 貴之が駆け寄って来た。 彼はまず周や雫と向き合って無言で頷き合った。 武はその様子を何も言わずに見詰めていた。
「車を待たせてあります。 武さま、詳しいお話は車の中でさせていただきます」
貴之の強張った表情と緊張した声に武は頷いた。 誰も何も教えてはくれないがやはり夕麿に何かあったのだ。 武は唇を噛み締めてやや俯き加減に歩き出した。
迎えの車に乗り込む彼らを冷ややかな眼差しで、見詰める人物がいたのを彼らは気付かずにいた。
7月のロサンゼルスは透き通るような青空だった。
「それで?夕麿に何があったの?」
車中の重苦しい空気を感じながらなかなか口を開かない貴之を促した。
「10日程前、夕麿さまが倒れられました」
「また…?」
「前回は…過労と心労から来る貧血でした」
「今回は…?」
「夕麿さまの意識は半日程戻られず、目覚められた時には一部の記憶が失われた状態でした」
「雅久兄さんの…時みたいに?」
「雅久は日常生活に必要な事以外を全部忘れました。しかし夕麿さまは…夕麿さまは…武さまの事だけが抜け落ちてしまわれているのです」
「俺を…覚えてな…い?」
「はい。ただ、記憶の辻褄が合わない事には気付かれました。しかし俺たちが武さまの事を申し上げる前に、別の情報を与えた者がいました」
貴之は武に真実を話すのが辛かった。けれど敢えて自分が引き受けた役目だと懸命に自分を叱咤した。
「現在の夕麿さまは武さまとの婚姻を、お互いの便宜の為の契約だったと信じていらっしゃいます」
「……契約か…」
「何をどれくらい信じ込んでいらっしゃるのか、俺たちにもまだ不明な点がありますが、今の夕麿さまは武さまと出逢われる以前よりも難しい状態であられます」
紫霄学院で『難攻不落の氷壁』と呼ばれた頃よりも、夕麿は心を閉ざしてしまったというのだろうか。
「それで…夕麿はそんな状態で大丈夫なの?」
武が一番気になるのは、そのまま彼の心が壊れてしまう事だった。
「綱渡り状態だと高辻先生は仰っています。 その、武さまとご一緒に過ごされていた頃の夕麿さまの御心をビルにたとえると…今は全体を支えていた鉄骨部分が消えている状態になります。 外部からの刺激で簡単に崩壊してしまう可能性が高いのです」
「夕麿の治療に俺は必要なの? こんな事になっても? それとも邪魔?」
邪魔ならば蓬莱皇国へとって返しても良いと思っていた。
「その状態での安定はないわけ?」
「不可能だと高辻先生は仰られています」
「わかった。 俺は何をすれば良い?」
「夕麿さまが如何様な態度をなされても、お耐えくださいとしか申し上げようがありません」
「そっか…でも、俺にだって限界はある。 耐え切れる程強くない。 無理だと思ったら皇国へ帰るよ?」
「武さま、それだけはおやめになってください」
周が蒼くなって止めに入った。
「何? 何かあるの? この前からそんな事を言ってるよね、周さん?」
「それは……」
周は口籠もってしまう。
「俺には言えないか」
武はそっと車窓越しに外を見た。 ニューヨーク程ではないがロサンゼルスの中心部には摩天楼がそびえ立つ。皇国にはない景色が異国に来たのだと武を孤独へと誘っていた。
ビバリーヒルズの御園生邸は、木々に囲まれた静かな佇まいにあった。 皇国の御園生邸の半分くらいの敷地面積ではあるが、武には十分過ぎる程広く思えた。
車は門を抜けて玄関扉の前で止められた。 すかさずドアが開けられて、最後に武がゆっくりと降り立った。
「お疲れさまでございます。 皆さま方がお待ちでございます」
その言葉に頷き、武は開かれた扉から玄関ホールへと踏み入れた。 そこに全員が出迎えていた。
「武さまの御到着でございます」
文月の言葉に全員が深々と頭を下げた。 ゆっくりと使用人たちを眺め、視線を移して武は唇を噛み締めた。 夕麿が冷ややかな笑みを浮かべて立っていたのだ。
いつも武に情熱的だった眼差しは、硝子細工のように感情がなかった。 武の視線に優雅にそして他人行儀に礼を返す。 その唇から言葉は発せられず、立っている場所から微動だにしなかった。 そこにいたのは夕麿であって夕麿ではなかった。
見ているのが辛くて視線を移すと義勝と雅久が微笑んでいた。
「義勝兄さん! 雅久兄さん!」
彼らの変わらない笑みに縋るように、武は満面の笑みを浮かべて駆け寄った。
「武、良く来た。 待ってたぞ」
義勝が武の頭をグリグリと撫でる。
「武君、卒業おめでとう。 待っていましたよ」
ロサンゼルスでも和装姿の雅久が、袖を広げるようにして武を抱き締めた。
「!?」
次の瞬間、雅久は慌てて武の頬や首に触れた。 かなり熱い。
「周さま、武君…熱があります!」
その言葉に周は慌てて駆け寄った。
「武さま、御不快ならば申してくださいとお願いした筈です」
「大丈夫だよ、これくらい。 ちょっと疲れただけだから」
10時間ものフライトはファーストクラスであっても、緩和されずに武の身体を痛め付けていた。
「何を言ってる? また肺炎を起こしたらどうするんだ?」
義勝が軽々と武を抱き上げて奥へと歩き出した。
「ちょ、義勝兄さん! 自分で歩けるって!」
抗議する武の背を労るように、義勝の大きな手が優しく撫でた。
「兄さん…」
首に縋り付いて小さく呟く。 義勝はそれだけで武のショックを理解した。 夕麿のあの状態は今の武には辛かろうと。 大丈夫だと言う気持ちで、抱き締めると武は義勝の肩に顔を埋めた。
武が連れて来られたのは、中庭に面した長い廊下を抜けた奥の部屋だった。そこは多分、武が来た時に夕麿と二人で生活する為に用意された部屋。
中庭へ続く硝子張りの窓がある東向きの寝室。
ゆったりとスペースを取られた居間。
二つの勉強部屋。
ジャグジー付きの大きなバスタブ。
寝室のベッドはキングサイズで天蓋付き。
武はそこへ降ろされて、雅久の手でパジャマに着替えさせられた。
周はまず体温を計り聴診器を当てた。目や喉の状態を見てホッとした面持ちで言った。
「やはり疲れが原因のようですね。2~3日、安静に」
「うん…ごめんね」
発熱しているのを告げなかったのは、夕麿に無様な姿で再会したくなかったからだった。無視されようが冷たくされようが武にだって矜持がある。如何なる時にも如何なる相手にも凛とした姿で対峙する事が、誇り高くある事だと教えてくれたのは夕麿だった。武を愛してくれた夕麿はいなくても、彼が見たら誉めてくれる自分を貫き通したかった。
武は静かに目蓋を閉じた。 夕麿を責める言葉は全て飲み込んだ。 もし今の状態で安定する可能性があるなら構わなかった。
ただ……やはり『明日』はなかったのだと。 これが自分に与えられた運命なのだと。 夕麿のあの眼差しを見た瞬間、武を取り巻いていた世界が色も音も失った。
夕麿の言葉が蘇る。
『もし私が、あなたを裏切って背を向けるなら、最早それは私ではありません。 私の姿をした別人です。 ここにいる私、あなたを愛している私は死んだか消えた事になります』
あの時の言葉の通りになってしまった。 武が愛し武を愛してくれた夕麿はもういない。 あれは…夕麿の姿をした別人なのだ。
「武君…我慢しないで。 泣いても良いのですよ?」
雅久が優しく抱き起こしてくれた。
「兄さん…」
それでも泣く事が出来なかった。 夕麿の眼差しに武の心まで凍り付けられてしまったかのように。
「武、あんな状態の夕麿を見て無理な話かもしれないが…それでも彼を信じてやってくれないか」
義勝が祈るように言う。
「夕麿は確かにお前の記憶を失った。 あの乳母に吹き込まれてお前との事を契約だと思って…良い感情を持っていない。
ずっと肌身離さなかったお前のスクールリングと結婚指輪も外してしまった。 だがお前がクリスマスに贈ったペンダントは今でも身に付けている。 腕時計も必ず付けている。 イルカのぬいぐるみもベッドにある。あいつの心の深い場所では、お前をちゃんと愛している。
だからお願いだ、武。 夕麿は必ずお前を想い出す。 夕麿を、お前を想う本当の姿を信じて待ってくれ」
「私からもお願い致します。 夕麿さまはずっとあなたを待っていらっしゃいました」
「ありがとう…出来るだけ頑張ってみる…」
武はそう答える事しか出来なかった。
「武さま、これをお飲みになってください」
周が差し出したのは睡眠薬だった。 武は飛行機の中でもずっと起きていた。 眠らなければ熱は恐らく下がらない。
「うん…」
武はそれを受け取って飲んだ。 横になった武の手を雅久が握り締め義勝が髪を撫でた。 武が眠らない時、夕麿がそうやっていたのを二人は知っていた。
程なく武は規則正しい寝息を立てて眠ってしまった。
「雫さん、ここをお願いします」
周の言葉に雫が頷いた。 周は義勝と雅久を誘って部屋を出た。
「皆さんにお話しておかなければならない事があります」
居間に全員を集めて周が口を開いた。 もちろん、夕麿もいる。
「実は歴代の特別室の住人の早世が気になり、あらゆる手を使って調べました。 すると医療関係には一切、薨去に至る原因の記録が存在しない事に気が付きました」
「病気や怪我の記録がない?」
高辻が驚いて問い返した。
「死亡診断書も日付しか記載されていませんでした」
「そんなバカな…」
「学院側の記録も高等部在籍記録と薨去の日付だけでした。 そこで…都市部の役所資料室に伝を尽くして入る事が出来ました。
記録が残っていたのは…歴代の学部長の日誌だけでしたが、そこに真実が記載されていました」
周はそこで一度口を噤んだ。旧特別室の住人については様々な噂のみがあった。だが彼が発見したものは余りにも残酷な真実だった。
「最初に見付かったのは最後の住人、夕麿の母方の大伯父君、螢さまの記録でした。 螢さまはインフルエンザらしい病気に罹られ、治療を受けないまま肺炎を併発された…と記録から判断出来ました。学院は螢さまの衰弱を確認した上で特別室を外部から完全封鎖。 螢さまは水も食事も与えられずに餓死させられたのです」
「そんな…螢さまは、皇家の貴種だぞ?」
義勝が怒りの声を上げた。
「次に見付けたのは最初の住人…特別室を造るきっかけになられた方の記録です。 この方は肺結核だったと思われますが、それがわかった時点でやはり特別室に閉じ込められて餓死させられています。
記録によるとこの方はまだ17歳であらっしゃった」
誰ももう言葉を紡げなかった。
「最も悲惨なのは2番目の方です。 この方は丈夫で健康な方だった。 時代は第二次世界大戦の真っ只中。 食糧不足は学院をも席巻していました。 学院から出られない筈の者たちは、一時の自由と引き換えに特攻隊入りを強制されて戦死していきました。
しかし皇家の貴種を特攻隊入りさせるわけにはいかない。 そこで学院はこの方に恐らくは砒素の類だと思われる毒を食事に入れ殺害したのです」
「酷い…」
雅久が身を震わせて言った。
「僕が何を言いたいのか、皆さん、おわかりになりますよね? 武さまには通常の高等部卒業までの期間、つまり来年の3月末まで特別室に幽閉される危険が存在します」
全員が頷いた。
「かの人物が夕麿の生命を脅かしてまで、武さまを幽閉しようとした理由がここにあると考えられます。 外部で生命を落とされれば原因の徹底究明を今上は命じられるでしょう。 しかし、学院内で薨去された場合、原因は幾らでも隠蔽できる」
「武さまを幽閉したら、間を於かずにお生命を奪うつもりか…」
貴之が呟いた。
「これを防ぐ為にもまず夕麿の身を徹底して守らなければならない。そこが一番のネックである事は皆も承知していると思う。
夕麿、お前が武さまの事を忘れたのは仕方がない。だがこれだけは言っておく。あの方が泣くような態度は僕が許さない」
「周さん、変われば変わるものですね。あなたが誰かの為にそんな事を言うなんて。それとも宮さまに手を出しているとか? あなたなら有り得ま……」
夕麿が全てを言い終わる前に周は彼を殴り倒していた。 そのまま馬乗りになった周を慌てて全員が止めた。
「僕がお前に何を言われても自業自得だとは思う。 だが武さまを侮辱する事は絶対に許さない! あの方はお前の為に…生命さえ投げ出した事がある。 武さまがいらっしゃらなかったらお前はここにはいないんだぞ!」
「だから何だと言うのです?」
「記憶の一部を失っただけでお前は、最低の人間に成り下がったか、夕麿! 軽蔑するよ。 恩知らずの不忠者め!」
夕麿を想う気持ちがあるからこそ周は許せなかった。 こんなのは夕麿じゃないと叫びたかった。 こんな……こんな状態の夕麿に耐えろと武に言うのか。 周はやり場のない怒りと悲しみに叫び出したかった。
幸いに武の熱は次の日には下がり、その次の日には起きる許可が出た。 食堂で顔を揃えての朝食。 夕麿は武に朝の挨拶だけはして、あとは視線すら合わそうとはしない。
「えっと…雅久兄さん。 もしかして俺の為に仕事を休んでくれてた?」
ビジネス・スーツ姿の雅久に気付いた武が申し訳なさそうに尋ねた。 雅久は優しく微笑み返した。
「ごめんなさい」
「私が好きでした事ですから。 それに兄として弟の看病をするのは当たり前でしょう?」
武には周も雫も付いている。 それでも雅久は側にいてくれたのだ。
「うん…ありがとう。それで…お義父さんに、俺も仕事に加わるように言われてるんだけど…」
現在、ロサンゼルスの御園生関連企業に従事する彼らの長は夕麿。 卒業したてでロサンゼルスの右も左もわからない武は、彼に仕事については全て従わなければならない。
「本日は木曜日です。あなたの出社は月曜日からお願いします」
夕麿が笑みも浮かべず感情がない口調で言った。
「月曜日…わかった」
夕麿は武の返事に軽く頷くと、興味はもうないと言った雰囲気で食事に戻った。
重苦しい空気だけが流れる。 だが将来の御園生の後継者として甘えは許されない。
武も黙って食事に戻った。
「武、今日の予定は? 出掛けるなら案内を手配するが?」
義勝が会話を繋ごうと気を使う。
「あ、案内は大丈夫。 成瀬さんはロサンゼルスにも住んでいたそうだから」
その言葉に雫が頷いた。
「確か、FBIの研修ででしたね?」
高辻が言う。
「そう。 ワシントンに1年、ボストンに15ヶ月。 ここには1年半いたかな?」
「研修ってそんなに長いものでしたっけ?」
貴之が不思議そうに言った。
「俺が帰国したくなかったんだ。 ある意味でアメリカは居心地が良い。 身分とか立場とかを忘れて実力一本で勝負する。 当時の俺にはそんな時間が必要だった。 お蔭で今でもFBIには顔が利く」
雫は皇国政府と宮内省の許可を得た上で、FBIに内々に連絡を入れていた。 そうする事で彼はFBIの一員と同じ扱いで、アメリカ国内で動く事が可能になった。 拳銃の所持も許されている。 そこまで無体な真似はしないと践んでいるが、焦った者たちが実力行使に出る危険は考慮しておかなければならない。
「それで出掛けるのですか、武君?」
「どうしようかな…?出掛ける事自体、あんまりやった事がないし…わからないんだ」
小夜子と二人で暮らしていた時は質素で貧しい生活だった。小夜子の結婚後は紫霄に閉じ込められ、帰宅しても行動に制限を受けていた。昨年末にやっと周の機転で神宮詣の名目で生まれて初めて旅行した。だから出掛ける…というのがわからない。御園生邸にいれば不自由はない。何でも揃っているし、欲しいと思うものも余り武にはない。
「えっと…俺、ここではどこへでも行けるの?」
改めて雫と周に問い掛けた。
「カリフォルニア州内での日帰りの旅行には制限がございません。近州や宿泊を必要とするならば前以って大使館に電話を入れて、滞在目的と日数を告げれば問題はありません。
ただ東海岸側になりますと許可が出るには少し時間が必要だと思われます。また合衆国外へ、帰国も含めてまして出国時には、上への申請が必要です」
「皇国にいる時よりは動いて良いんだ」
「最低でも雫さんの同行を条件としてですが」
「わかった。ガイドブックでも見て考えるよ」
本当に行きたい所なぞなかったが、皆の気遣いが嬉しくてそう答えた。
すると黙って聞いていた夕麿が口を開いた。
「そんなにお暇なら今夜仕事をお持ち致しましょう」
意地悪で皮肉な言い方に義勝が、何か言いかけたが武が先に笑顔で答えた。
「本当? それ嬉しいな。 ありがとう、夕麿」
邪心の欠片も翳りもない笑顔で、感謝する武の言葉に夕麿が一瞬、驚いたような、戸惑ったような顔をした。
「仕事を覚えていただく為の書類ですが、おやりになると仰るならば容赦はいたしませんが、よろしいですか、宮さま」
「はい。 お願いします」
姿勢を正して真っ直ぐに答えた。
「あの…『宮さま』はやめてもらえないかな? 表向きには御園生 武として動く決まりになってる」
「御意」
先程見せた一瞬の揺らぎ以外は、夕麿はほとんど表情を変えなかった。
だが義勝たちが吹き出していた。
「何です、義勝?」
夕麿がホンの少し眉を上げて言った。
「お前は嫌みのつもりだったんだろうが、武が一番喜ぶ事を選択したんだ」
夕麿たちが執行部だった頃、武は大量の書類を前に嬉々として奮闘していた。 記憶のない夕麿以外の81代執行部である義勝たちはそれをよく覚えていた。 しかも当時の夕麿は懸命に書類を片付けていく武を、優しい眼差しでいつも見つめていたのだ。
今の武にはそれが夕麿の嫌がらせだったとしても無視されるよりは嬉しかった。 一番恐れていたのは社内でただ座らされているだけの扱いをされる事だった。
「ではご希望通りにさせていただきます。 ゆっくりとお遊びになられるのは、本日だけだとお覚悟ください。
義勝、そろそろ出ましょう」
上着を手に立ち上がった夕麿は義勝たちを促した。
「武、行って来る」
「あ、行ってらっしゃい、義勝兄さん」
「武君、行って来ます」
「行ってらっしゃい、雅久兄さん」
「まだ病み上がりなのですから、無理をしないでくださいね?」
「うん」
「行って参ります、武さま」
「行ってらっしゃい、貴之先輩」
笑顔で彼らを送り出すと、武はまたテーブルに着いた。
文月がお茶を淹れ直した。
「武さま、先月の当屋敷の収支決済でございます」
「あ、ありがとう」
差し出された帳簿に目を通す。 一応、デジタルとアナログの双方を整えておくのが御園生家のやり方で、武もそれを普通に採用していた。
「文月どの、それは夕麿さまのお役目です!」
絹子が血相を変えて言った。
「いいえ、武さまがいらっしゃった時点で、ここは紫霞宮殿下の御在所となりました。 私たちの主は武さまでございます」
「絹子さん、この屋敷の所有権そのものが既に俺に移譲されてる。 夕麿は今まで紫霞宮妃格としての立場で、管理を任されていただけだ」
武は当たり前の事を今更という顔で答えた。
「ついでに言うと…あなたの身分はあくまでも一使用人に過ぎない。 夕麿の元乳母という事で他人に接触されるのが苦手な、彼の身の回りをお願いしたけど…少し目に余ると報告を受けてる」
「目に余る? 私は宮さまの命に従っただけです」
「俺は高辻先生が夕麿を治療する邪魔をしろとは命じてない。 申し訳ないが夕麿の世話の任は解かせてもらう。 もしも帰国したいなら手配する」
「私はあなたからお給料をいただいているわけではごさいません」
「俺が自分の収入で払ってる。 ここは御園生の義父が用意して整えてくれたけど、維持費や人件費、生活費や雑費は俺がちゃんと出してる。 俺の場合は国から予算は出ないから、引き換えに税金の優遇措置はうけてるけど…それでも十分高額納税者なんだ。
夕麿は自分の学費と自分の必要なものは自費で賄ってる…でもそれ以外は俺の収入。 だから夕麿が個人的に使用人を雇い入れは出来ないし、ここでは御園生から派遣されている人間はいても、雇用契約は俺と結んでいる。
そうだよな、文月?」
「はい。 私は御園生 有人さまから紫霞宮家の執事として派遣されております。 もちろん武さまと雇用契約を致しました」
文月は笑顔でそう答えた。 武では一から必要な人材を集められない故に有人が手配してくれた。これも御園生家の乳部としての役目であった。 。
「あなたがサインした書類もちゃんと紫霞宮家のものだけど、透かしと刻印を確認してないのかな?」
「そんな…」
「文月、彼女に新しい仕事を振り分けて。 夕麿は自分の事は自分で出来る。 精神面を支えて欲しかったのに…あなたは悪化させてくれたからね。 夕麿が通常の状態ならあなたの解雇の相談を出来るけど今は無理だから。 進退は自分で決めて」
体調を崩して伏せっていたと言っても、文月から屋敷内の状態の報告は受けていた。
「お見事です武さま」
「おだてても何も出ないよ、周さん? もう少し夕麿の為になると思ったのに…完全に俺の判断ミスだよなぁ… ごめんなさい、高辻先生」
「私も武さまとのご結婚に反対しても、もう少し夕麿さまの御為になると思っていました」
「ああなると執着だな、清方さん」
「そうですね、恐らくは佐田川 詠美に追い出されて、後ろ髪を引かれるような気持ちで六条家を出たのでしょう。 その想いが歳月で執着に変化してしまった。 しかも夕麿さまは詠美の所為で御心に深い傷を受けられています。 恐らくは自分を責める気持ちの反映でしょうね」
「武さますら夕麿さまを害する存在に見えるんだろう、彼女には」
雫がげっそりと言う。
「高辻先生、兄さんたちや貴之先輩には話してあります。 どうか夕麿の事をよろしくお願いします」
武は高辻に改めて夕麿の治療を依頼した。
「さて…キッチンに行かなきゃ」
「キッチン?」
雫が不思議そうに聞き返した。
「夕麿たちのお昼のお弁当をね」
笑顔でキッチンへ行ってしまった武を見て3人は微笑んだ。 武の夕麿に対する愛情だとはっきりとわかったからだ。
「やれやれ、情の細やかな方だ」
雫が苦笑する。
「雫、ちょっと惜しいと思ってませんか? あんな風に愛情を賜るのは、あなただったかもしれないのですから」
「あのな…また、嫉妬か? 可愛いな、清方。 多分、俺がお相手になってたら、武さまは違う事をなさってるよ」
午後、武は雫に買い物に出たいと告げた。 何が必要なのかと問い掛けると、夕麿の誕生日プレゼントを買いたいと言う。
「最初の年は夕麿の誕生日を随分過ぎてから知ったんだ。 去年はもうこっちに来ていなかったから、思うようなプレゼントを渡せなかった。 ちゃんと誕生日のお祝いをみんなでする予定だからプレゼントを渡したいんだ。 幾ら何でもみんなと一緒にプレゼント出したら、俺のだって受け取ってくれるだろうから」
子供じみた考えだとはわかっている。 たが…これが最初で最後の誕生日プレゼントかもしれない。
武は周が言いたがらない事の見当が何となくついていた。 恐らく皇国へ帰ったら自分は長くは生きる事は許されない。 でもそれでも良かった。 元々長けるには生き続ける事に執着はしていない。 夕麿が自分を忘れてしまったのに何の意味があると言うのだろう? 彼が幸せならばどんな生き方を選択しても、武は非難しないで歓迎する。
誕生日プレゼントは自分の足跡としてそっと傍らに置いてもらえたら良い。 武が贈ったものだというのすら、夕麿が忘れてしまっても構わない。 これは武の単なる自己満足だから。
最初はブランド店が並ぶロデオ・ドライブに行った。 だが武の好みのものがなく結局、メルローズまで行って見付けて来た。
夕麿の誕生日は一週間後。
武は笑顔で帰宅した。
夜、 自室でPCに向かっているとドアを叩く音がした。
「開いてるよ?」
「失礼致します」
夕麿だった。 手に書類ファイルを幾つか抱えている。
「お約束いたしましたものを持って来ました」
「ありがとう、こっちへもらえるかな?」
「はい」
テーブルの上に高々とファイルが積まれた。
「あ、そうだ。 これ、ちょっと見てくれるかな?」
PCを指し示すと夕麿が覗き込んだ。
「先物取引ですか?」
「うん。 こっちはこっちに来る前からの値動きなんだけど…」
「上昇の仕方が早いですね」
「そうなんだ。 アフリカ辺りの作柄が悪かったのかな? 何か知らない?」
「…恐らくは内乱ではないかと。 社の方に内密で情報が入っております」
「内乱? ふうん…そういう事か」
PCの画面を覗く夕麿の顔がすぐ側に、触れられる距離にあった。
触れたい
キスしたい
愛してると囁きたい
すぐ側で感じる息遣い……匂い……温もり……愛しさに胸が張り裂けそうだった。
「ありがとう、助かった。これで売り時の判断がつく」
振り切るように言う。
抱き締めたい、抱き締めて欲しい。愛してると言って欲しい。大好きなその声で。
「では、お邪魔いたしました。失礼致します」
温もりが遠ざかる。言葉を飲み込んでPCを見つめる。背後でドアの開閉する音がして足音が離れて行った。
武は叫びたい衝動を、追い縋りたい熱情を、指を噛んで耐えた。歯が皮膚を裂く痛みよりも、夕麿に想いを告げられない痛みの方が強い。
「武さま!?」
お茶を持って来た雅久が叫んだ。武の歯は指を噛み裂き口腔内から溢れ出した血が、顎を伝いテーブルと床に血溜まりを作っていた。
「誰か!周さま!高辻先生!」
雅久の悲鳴に真っ先に駆け付けたのは周だった。
「武さま、お口をお開きください!」
だが武は歯を噛み締めたままだ。次に駆け付けた雫の判断で武の意識を失わせた。意識を失って全身から力が抜けた武の口から高辻が指を外した。傷はかなりのものだった。
「周、手に負えますか?」
「無理です、深過ぎます」
「雫、車を用意してください。メディカルセンターに連絡を入れて、治療してもらいましょう」
「雅久君、よく気が付いてくれた。遅れたら武さまはご自分の指を噛み切っていらっしゃった」
周の言葉に蒼白になって震えていた雅久が、義勝の腕の中で声もなく意識を失った。
車の用意を待つ間に武の口許を拭い服を着替えさせた。
「文月、ここの始末を頼みます」
「承知いたしました」
「車の用意が出来た」
周が武を抱き上げ高辻が付き添うように屋敷を出た。この間夕麿は姿を現さなかった。
二階の自室にいる夕麿の傍らにいつの間にか絹子がいた。
「また、宮さまですか?本当に騒動ばかり起こされる方ですわね。それともそこまでして、夕麿さまのお気をお惹きになられたいのでしょうか。困ったお方ですねぇ」
絹子の勝手な言葉に夕麿は返事をしなかった。
武の怪我は骨には至らず、神経を傷めてはいなかったが数針を縫う重傷だった。 メディカルセンターの医師は入院をすすめたが、警備の手配が十分にできない状態で武を入院させるのは危険雫が判断した。
このような事態になったのは、武の中に存在する相反する気持ちが原因だった。 人間の心はそう簡単に物事を割り切れるわけではない。 表面意識と深層意識が正反対な場合、本人の制御を受け付けない言動として現れる。 武の場合、夕麿を想う気持ちが、全くの逆方向へと引き裂かれてしまっていた。 夕麿の幸せの為ならば自らの生命さえ惜しまぬ程の無私の愛情。 もう一方は夕麿の愛情を求めて、背を向けられる事実を受け入れられない武。 武は後者の感情を自らの内側へ押し込めようとする。 前者の想いのみを正しいと認識し、後者を自分の醜いエゴだと思っているのだ。
だが抑圧された感情は圧縮され、綻びを見付けるて一気に決壊する。
武は涙を未だに流していない。
昼間絹子を夕麿から遠ざけたのは、彼を守ろうとする前者の気持ち。
しかし後者の気持ちから起こる筈の感情の爆発がないのだ。
泣き叫んだり誰かを責める。 相手に恨み言を言う。 時にはそんな行為が必要なのが人間だ。
だが原因は夕麿の心の病。 武は夕麿を責められなかった。 責めるような感情は、自分の醜さゆえのもの。 そう判断して全て抑圧してしまった。
夕麿を恋い求めるのも自分のエゴ。 そうやって本来当たり前に抱く感情を否定してしまった。 指を噛み切りかけたのはその一端に過ぎない。
夕麿の記憶の欠落ゆえのアンバランスが、元々綱渡り状態の武の心を破壊し始めていた。
高辻は双方の悪化のスピードに恐怖すら感じていた。
これはただ事ではなかった。 やはり誰かの作為的な影があるのではないかと疑いたくなる。
何とかしなければ…… 改めて他の医師のアドバイスを求める決心をした、高辻だった。
義勝は意識を取り戻したものの、まだ蒼褪めた顔をしている雅久を連れて、2階の自分たちの部屋まで来た。
ところが隣室から物が壊れる音がする。 雅久を連れて隣の夕麿の部屋を覗いた。 すると中は目茶苦茶になっていた。
灯りが点いていない月明かりだけの部屋に夕麿が佇んでいた。
「夕麿…? お前…一体、何を…」
だが義勝の言葉は夕麿の口から発せられた絶叫にかき消された。
「夕麿!」
彼は叫びながら壁を叩き出した。 叩く場所が少しずつ移動して行く。 このままでは窓硝子を叩き割る危険があった。 第一、手を傷めてしまう。
「雅久、貴之を呼べ!」
義勝は夕麿に飛びかかるようにして、背後から抱き付いて壁から引き離した。
「イヤああぁぁぁぁぁ!」
叫びながら腕の中で暴れる夕麿を、義勝は必死で抑え付ける。
「私…るな…彼…な!」
途切れ途切れに呟く言葉がよく聞き取れない。
「止めて…お願い…彼…して…」
「夕麿、しっかりしろ!」
だが虚ろな瞳はここにはないものを見つめているように思えた。
「放して…止めて…止めて…イヤああ!」
「うわッ!」
凄まじい力で振り払われ義勝は机に叩き付けられた。 すると再びよろよろと壁に近付いて行く。 義勝は慌てて夕麿を引き戻した。
「義勝!」
貴之が飛び込んで来た。
「貴之、頼む! 夕麿を…夕麿を気絶させてくれ! これは俺たちでは止められん!」
鎮静剤を持っている周と高辻はいない。 唯一、止められる武は怪我をして、メディカルセンターに彼らと向かっている。 これ以上暴れさせれば間違いなくどこかに怪我を負う。
「夕麿さま、ご無礼をお許しください」
近付いて来た貴之が手刀で夕麿の首筋を打つと声もなく義勝の腕の中で、意識を失ってぐったりとなった。
ベッドに二人がかりで横たえる。 雅久が手早く室内を片付けた。
「武の怪我は見てないよな?」
「ええ。 騒動の途中でリビングから、ここへ戻られたみたいですから…」
「窓から見えるのは、武君のいる部屋の寝室だけです」
武は自室のリビングスペースにいた。
「…錯乱の原因は何だ? 訳のわからない事を口走っていたが…」
「逃げるように誰かに申されていたような…」
「武さまのお名前は?」
「いや、呼んでいない」
「兎に角、夕麿を一人にするのは危険だ。
貴之、今夜はこの部屋へ泊まり込んでくれないか?」
「わかった」
「高辻先生が戻られ次第、この状況を話す」
「義勝、夕麿さまはお気が付かれたら、またお暴れになられませんか?」
雅久の心配はもっともだった。
「もしまだ錯乱されておられるようならば、もう一度気を失っていただきます。その上で僭越ではありますが、ベッドに縛り付けさせていただきます」
「その時は呼んでくれ。俺は雅久を休ませる」
「義勝、私は大丈夫です」
「まだ顔色が悪い。この上、お前まで臥したら手が回らなくなる」
夕麿の監視も武の看病も交代で行わなければならない。今日が木曜日で助かったと義勝は思った程だ。
武と夕麿はどんな状態でも、互いに影響を及ぼしてしまう。夕麿の言動に傷付いた筈なのに武は懸命に笑顔で返す。夕麿を気遣えば気遣う程、武にストレスが溜まる。それすらも飲み込んで武は夕麿へ愛情を注ぐ。
今日届けられた昼食の弁当は武がつくった料理だった。 夕麿の好物ばかりを間違いなく武の味付けで詰められていた。 おむすびすら武の手が握ったものだとわかる。 義勝たちはすぐに気付いて胸がいっぱいになってしまった。 雅久などは武の想いの深さと健気さに、思わず涙を浮かべてしまった。
むろん今の夕麿にはそんな事はわからない。 わからない筈なのだ。 だが記憶の欠落からずっと低下していた食欲が武の料理で戻っていた。 普段よりも多く昼食を食べたのだ。 深層のどこかでやはり、夕麿は武を認識している。 義勝たちはそう思った。 だから夕麿が資料ファイルを揃えるのにも一切口出しをしなかった。
それなのに……
夕麿が武に自らファイルを渡しに行った。 その数分の間に何があったのか。 二人がどんな会話を交わしたのかは義勝たちにはわからない。 居間に戻って来た夕麿は何事もなかったかのように、お茶を飲んでいた。 雅久の叫び声が響いた時点では。
武をメディカルセンターへ連れて行く時に、居間を覗いたら夕麿は自室に戻った後だった。 武の意識を雫が失わせて指を口から抜いて、周と高辻が応急処置をしている間、雫が車を用意した。 貴之がメディカルセンターへ電話を入れて、ERの受け入れ承諾を取った。 そして武は周に抱きかかえられて車は出て行った。
時間にして10分足らずである。 その間に夕麿に何が起こったと言うのだろうか。
真相が見えて来ない状態は義勝たちをも不安に陥れていた。 全員に過度のストレスがのしかかっていた。
同行した外交官が頭を下げて立ち去ったのを見計らって、迎えに来ていた良岑 貴之が駆け寄って来た。 彼はまず周や雫と向き合って無言で頷き合った。 武はその様子を何も言わずに見詰めていた。
「車を待たせてあります。 武さま、詳しいお話は車の中でさせていただきます」
貴之の強張った表情と緊張した声に武は頷いた。 誰も何も教えてはくれないがやはり夕麿に何かあったのだ。 武は唇を噛み締めてやや俯き加減に歩き出した。
迎えの車に乗り込む彼らを冷ややかな眼差しで、見詰める人物がいたのを彼らは気付かずにいた。
7月のロサンゼルスは透き通るような青空だった。
「それで?夕麿に何があったの?」
車中の重苦しい空気を感じながらなかなか口を開かない貴之を促した。
「10日程前、夕麿さまが倒れられました」
「また…?」
「前回は…過労と心労から来る貧血でした」
「今回は…?」
「夕麿さまの意識は半日程戻られず、目覚められた時には一部の記憶が失われた状態でした」
「雅久兄さんの…時みたいに?」
「雅久は日常生活に必要な事以外を全部忘れました。しかし夕麿さまは…夕麿さまは…武さまの事だけが抜け落ちてしまわれているのです」
「俺を…覚えてな…い?」
「はい。ただ、記憶の辻褄が合わない事には気付かれました。しかし俺たちが武さまの事を申し上げる前に、別の情報を与えた者がいました」
貴之は武に真実を話すのが辛かった。けれど敢えて自分が引き受けた役目だと懸命に自分を叱咤した。
「現在の夕麿さまは武さまとの婚姻を、お互いの便宜の為の契約だったと信じていらっしゃいます」
「……契約か…」
「何をどれくらい信じ込んでいらっしゃるのか、俺たちにもまだ不明な点がありますが、今の夕麿さまは武さまと出逢われる以前よりも難しい状態であられます」
紫霄学院で『難攻不落の氷壁』と呼ばれた頃よりも、夕麿は心を閉ざしてしまったというのだろうか。
「それで…夕麿はそんな状態で大丈夫なの?」
武が一番気になるのは、そのまま彼の心が壊れてしまう事だった。
「綱渡り状態だと高辻先生は仰っています。 その、武さまとご一緒に過ごされていた頃の夕麿さまの御心をビルにたとえると…今は全体を支えていた鉄骨部分が消えている状態になります。 外部からの刺激で簡単に崩壊してしまう可能性が高いのです」
「夕麿の治療に俺は必要なの? こんな事になっても? それとも邪魔?」
邪魔ならば蓬莱皇国へとって返しても良いと思っていた。
「その状態での安定はないわけ?」
「不可能だと高辻先生は仰られています」
「わかった。 俺は何をすれば良い?」
「夕麿さまが如何様な態度をなされても、お耐えくださいとしか申し上げようがありません」
「そっか…でも、俺にだって限界はある。 耐え切れる程強くない。 無理だと思ったら皇国へ帰るよ?」
「武さま、それだけはおやめになってください」
周が蒼くなって止めに入った。
「何? 何かあるの? この前からそんな事を言ってるよね、周さん?」
「それは……」
周は口籠もってしまう。
「俺には言えないか」
武はそっと車窓越しに外を見た。 ニューヨーク程ではないがロサンゼルスの中心部には摩天楼がそびえ立つ。皇国にはない景色が異国に来たのだと武を孤独へと誘っていた。
ビバリーヒルズの御園生邸は、木々に囲まれた静かな佇まいにあった。 皇国の御園生邸の半分くらいの敷地面積ではあるが、武には十分過ぎる程広く思えた。
車は門を抜けて玄関扉の前で止められた。 すかさずドアが開けられて、最後に武がゆっくりと降り立った。
「お疲れさまでございます。 皆さま方がお待ちでございます」
その言葉に頷き、武は開かれた扉から玄関ホールへと踏み入れた。 そこに全員が出迎えていた。
「武さまの御到着でございます」
文月の言葉に全員が深々と頭を下げた。 ゆっくりと使用人たちを眺め、視線を移して武は唇を噛み締めた。 夕麿が冷ややかな笑みを浮かべて立っていたのだ。
いつも武に情熱的だった眼差しは、硝子細工のように感情がなかった。 武の視線に優雅にそして他人行儀に礼を返す。 その唇から言葉は発せられず、立っている場所から微動だにしなかった。 そこにいたのは夕麿であって夕麿ではなかった。
見ているのが辛くて視線を移すと義勝と雅久が微笑んでいた。
「義勝兄さん! 雅久兄さん!」
彼らの変わらない笑みに縋るように、武は満面の笑みを浮かべて駆け寄った。
「武、良く来た。 待ってたぞ」
義勝が武の頭をグリグリと撫でる。
「武君、卒業おめでとう。 待っていましたよ」
ロサンゼルスでも和装姿の雅久が、袖を広げるようにして武を抱き締めた。
「!?」
次の瞬間、雅久は慌てて武の頬や首に触れた。 かなり熱い。
「周さま、武君…熱があります!」
その言葉に周は慌てて駆け寄った。
「武さま、御不快ならば申してくださいとお願いした筈です」
「大丈夫だよ、これくらい。 ちょっと疲れただけだから」
10時間ものフライトはファーストクラスであっても、緩和されずに武の身体を痛め付けていた。
「何を言ってる? また肺炎を起こしたらどうするんだ?」
義勝が軽々と武を抱き上げて奥へと歩き出した。
「ちょ、義勝兄さん! 自分で歩けるって!」
抗議する武の背を労るように、義勝の大きな手が優しく撫でた。
「兄さん…」
首に縋り付いて小さく呟く。 義勝はそれだけで武のショックを理解した。 夕麿のあの状態は今の武には辛かろうと。 大丈夫だと言う気持ちで、抱き締めると武は義勝の肩に顔を埋めた。
武が連れて来られたのは、中庭に面した長い廊下を抜けた奥の部屋だった。そこは多分、武が来た時に夕麿と二人で生活する為に用意された部屋。
中庭へ続く硝子張りの窓がある東向きの寝室。
ゆったりとスペースを取られた居間。
二つの勉強部屋。
ジャグジー付きの大きなバスタブ。
寝室のベッドはキングサイズで天蓋付き。
武はそこへ降ろされて、雅久の手でパジャマに着替えさせられた。
周はまず体温を計り聴診器を当てた。目や喉の状態を見てホッとした面持ちで言った。
「やはり疲れが原因のようですね。2~3日、安静に」
「うん…ごめんね」
発熱しているのを告げなかったのは、夕麿に無様な姿で再会したくなかったからだった。無視されようが冷たくされようが武にだって矜持がある。如何なる時にも如何なる相手にも凛とした姿で対峙する事が、誇り高くある事だと教えてくれたのは夕麿だった。武を愛してくれた夕麿はいなくても、彼が見たら誉めてくれる自分を貫き通したかった。
武は静かに目蓋を閉じた。 夕麿を責める言葉は全て飲み込んだ。 もし今の状態で安定する可能性があるなら構わなかった。
ただ……やはり『明日』はなかったのだと。 これが自分に与えられた運命なのだと。 夕麿のあの眼差しを見た瞬間、武を取り巻いていた世界が色も音も失った。
夕麿の言葉が蘇る。
『もし私が、あなたを裏切って背を向けるなら、最早それは私ではありません。 私の姿をした別人です。 ここにいる私、あなたを愛している私は死んだか消えた事になります』
あの時の言葉の通りになってしまった。 武が愛し武を愛してくれた夕麿はもういない。 あれは…夕麿の姿をした別人なのだ。
「武君…我慢しないで。 泣いても良いのですよ?」
雅久が優しく抱き起こしてくれた。
「兄さん…」
それでも泣く事が出来なかった。 夕麿の眼差しに武の心まで凍り付けられてしまったかのように。
「武、あんな状態の夕麿を見て無理な話かもしれないが…それでも彼を信じてやってくれないか」
義勝が祈るように言う。
「夕麿は確かにお前の記憶を失った。 あの乳母に吹き込まれてお前との事を契約だと思って…良い感情を持っていない。
ずっと肌身離さなかったお前のスクールリングと結婚指輪も外してしまった。 だがお前がクリスマスに贈ったペンダントは今でも身に付けている。 腕時計も必ず付けている。 イルカのぬいぐるみもベッドにある。あいつの心の深い場所では、お前をちゃんと愛している。
だからお願いだ、武。 夕麿は必ずお前を想い出す。 夕麿を、お前を想う本当の姿を信じて待ってくれ」
「私からもお願い致します。 夕麿さまはずっとあなたを待っていらっしゃいました」
「ありがとう…出来るだけ頑張ってみる…」
武はそう答える事しか出来なかった。
「武さま、これをお飲みになってください」
周が差し出したのは睡眠薬だった。 武は飛行機の中でもずっと起きていた。 眠らなければ熱は恐らく下がらない。
「うん…」
武はそれを受け取って飲んだ。 横になった武の手を雅久が握り締め義勝が髪を撫でた。 武が眠らない時、夕麿がそうやっていたのを二人は知っていた。
程なく武は規則正しい寝息を立てて眠ってしまった。
「雫さん、ここをお願いします」
周の言葉に雫が頷いた。 周は義勝と雅久を誘って部屋を出た。
「皆さんにお話しておかなければならない事があります」
居間に全員を集めて周が口を開いた。 もちろん、夕麿もいる。
「実は歴代の特別室の住人の早世が気になり、あらゆる手を使って調べました。 すると医療関係には一切、薨去に至る原因の記録が存在しない事に気が付きました」
「病気や怪我の記録がない?」
高辻が驚いて問い返した。
「死亡診断書も日付しか記載されていませんでした」
「そんなバカな…」
「学院側の記録も高等部在籍記録と薨去の日付だけでした。 そこで…都市部の役所資料室に伝を尽くして入る事が出来ました。
記録が残っていたのは…歴代の学部長の日誌だけでしたが、そこに真実が記載されていました」
周はそこで一度口を噤んだ。旧特別室の住人については様々な噂のみがあった。だが彼が発見したものは余りにも残酷な真実だった。
「最初に見付かったのは最後の住人、夕麿の母方の大伯父君、螢さまの記録でした。 螢さまはインフルエンザらしい病気に罹られ、治療を受けないまま肺炎を併発された…と記録から判断出来ました。学院は螢さまの衰弱を確認した上で特別室を外部から完全封鎖。 螢さまは水も食事も与えられずに餓死させられたのです」
「そんな…螢さまは、皇家の貴種だぞ?」
義勝が怒りの声を上げた。
「次に見付けたのは最初の住人…特別室を造るきっかけになられた方の記録です。 この方は肺結核だったと思われますが、それがわかった時点でやはり特別室に閉じ込められて餓死させられています。
記録によるとこの方はまだ17歳であらっしゃった」
誰ももう言葉を紡げなかった。
「最も悲惨なのは2番目の方です。 この方は丈夫で健康な方だった。 時代は第二次世界大戦の真っ只中。 食糧不足は学院をも席巻していました。 学院から出られない筈の者たちは、一時の自由と引き換えに特攻隊入りを強制されて戦死していきました。
しかし皇家の貴種を特攻隊入りさせるわけにはいかない。 そこで学院はこの方に恐らくは砒素の類だと思われる毒を食事に入れ殺害したのです」
「酷い…」
雅久が身を震わせて言った。
「僕が何を言いたいのか、皆さん、おわかりになりますよね? 武さまには通常の高等部卒業までの期間、つまり来年の3月末まで特別室に幽閉される危険が存在します」
全員が頷いた。
「かの人物が夕麿の生命を脅かしてまで、武さまを幽閉しようとした理由がここにあると考えられます。 外部で生命を落とされれば原因の徹底究明を今上は命じられるでしょう。 しかし、学院内で薨去された場合、原因は幾らでも隠蔽できる」
「武さまを幽閉したら、間を於かずにお生命を奪うつもりか…」
貴之が呟いた。
「これを防ぐ為にもまず夕麿の身を徹底して守らなければならない。そこが一番のネックである事は皆も承知していると思う。
夕麿、お前が武さまの事を忘れたのは仕方がない。だがこれだけは言っておく。あの方が泣くような態度は僕が許さない」
「周さん、変われば変わるものですね。あなたが誰かの為にそんな事を言うなんて。それとも宮さまに手を出しているとか? あなたなら有り得ま……」
夕麿が全てを言い終わる前に周は彼を殴り倒していた。 そのまま馬乗りになった周を慌てて全員が止めた。
「僕がお前に何を言われても自業自得だとは思う。 だが武さまを侮辱する事は絶対に許さない! あの方はお前の為に…生命さえ投げ出した事がある。 武さまがいらっしゃらなかったらお前はここにはいないんだぞ!」
「だから何だと言うのです?」
「記憶の一部を失っただけでお前は、最低の人間に成り下がったか、夕麿! 軽蔑するよ。 恩知らずの不忠者め!」
夕麿を想う気持ちがあるからこそ周は許せなかった。 こんなのは夕麿じゃないと叫びたかった。 こんな……こんな状態の夕麿に耐えろと武に言うのか。 周はやり場のない怒りと悲しみに叫び出したかった。
幸いに武の熱は次の日には下がり、その次の日には起きる許可が出た。 食堂で顔を揃えての朝食。 夕麿は武に朝の挨拶だけはして、あとは視線すら合わそうとはしない。
「えっと…雅久兄さん。 もしかして俺の為に仕事を休んでくれてた?」
ビジネス・スーツ姿の雅久に気付いた武が申し訳なさそうに尋ねた。 雅久は優しく微笑み返した。
「ごめんなさい」
「私が好きでした事ですから。 それに兄として弟の看病をするのは当たり前でしょう?」
武には周も雫も付いている。 それでも雅久は側にいてくれたのだ。
「うん…ありがとう。それで…お義父さんに、俺も仕事に加わるように言われてるんだけど…」
現在、ロサンゼルスの御園生関連企業に従事する彼らの長は夕麿。 卒業したてでロサンゼルスの右も左もわからない武は、彼に仕事については全て従わなければならない。
「本日は木曜日です。あなたの出社は月曜日からお願いします」
夕麿が笑みも浮かべず感情がない口調で言った。
「月曜日…わかった」
夕麿は武の返事に軽く頷くと、興味はもうないと言った雰囲気で食事に戻った。
重苦しい空気だけが流れる。 だが将来の御園生の後継者として甘えは許されない。
武も黙って食事に戻った。
「武、今日の予定は? 出掛けるなら案内を手配するが?」
義勝が会話を繋ごうと気を使う。
「あ、案内は大丈夫。 成瀬さんはロサンゼルスにも住んでいたそうだから」
その言葉に雫が頷いた。
「確か、FBIの研修ででしたね?」
高辻が言う。
「そう。 ワシントンに1年、ボストンに15ヶ月。 ここには1年半いたかな?」
「研修ってそんなに長いものでしたっけ?」
貴之が不思議そうに言った。
「俺が帰国したくなかったんだ。 ある意味でアメリカは居心地が良い。 身分とか立場とかを忘れて実力一本で勝負する。 当時の俺にはそんな時間が必要だった。 お蔭で今でもFBIには顔が利く」
雫は皇国政府と宮内省の許可を得た上で、FBIに内々に連絡を入れていた。 そうする事で彼はFBIの一員と同じ扱いで、アメリカ国内で動く事が可能になった。 拳銃の所持も許されている。 そこまで無体な真似はしないと践んでいるが、焦った者たちが実力行使に出る危険は考慮しておかなければならない。
「それで出掛けるのですか、武君?」
「どうしようかな…?出掛ける事自体、あんまりやった事がないし…わからないんだ」
小夜子と二人で暮らしていた時は質素で貧しい生活だった。小夜子の結婚後は紫霄に閉じ込められ、帰宅しても行動に制限を受けていた。昨年末にやっと周の機転で神宮詣の名目で生まれて初めて旅行した。だから出掛ける…というのがわからない。御園生邸にいれば不自由はない。何でも揃っているし、欲しいと思うものも余り武にはない。
「えっと…俺、ここではどこへでも行けるの?」
改めて雫と周に問い掛けた。
「カリフォルニア州内での日帰りの旅行には制限がございません。近州や宿泊を必要とするならば前以って大使館に電話を入れて、滞在目的と日数を告げれば問題はありません。
ただ東海岸側になりますと許可が出るには少し時間が必要だと思われます。また合衆国外へ、帰国も含めてまして出国時には、上への申請が必要です」
「皇国にいる時よりは動いて良いんだ」
「最低でも雫さんの同行を条件としてですが」
「わかった。ガイドブックでも見て考えるよ」
本当に行きたい所なぞなかったが、皆の気遣いが嬉しくてそう答えた。
すると黙って聞いていた夕麿が口を開いた。
「そんなにお暇なら今夜仕事をお持ち致しましょう」
意地悪で皮肉な言い方に義勝が、何か言いかけたが武が先に笑顔で答えた。
「本当? それ嬉しいな。 ありがとう、夕麿」
邪心の欠片も翳りもない笑顔で、感謝する武の言葉に夕麿が一瞬、驚いたような、戸惑ったような顔をした。
「仕事を覚えていただく為の書類ですが、おやりになると仰るならば容赦はいたしませんが、よろしいですか、宮さま」
「はい。 お願いします」
姿勢を正して真っ直ぐに答えた。
「あの…『宮さま』はやめてもらえないかな? 表向きには御園生 武として動く決まりになってる」
「御意」
先程見せた一瞬の揺らぎ以外は、夕麿はほとんど表情を変えなかった。
だが義勝たちが吹き出していた。
「何です、義勝?」
夕麿がホンの少し眉を上げて言った。
「お前は嫌みのつもりだったんだろうが、武が一番喜ぶ事を選択したんだ」
夕麿たちが執行部だった頃、武は大量の書類を前に嬉々として奮闘していた。 記憶のない夕麿以外の81代執行部である義勝たちはそれをよく覚えていた。 しかも当時の夕麿は懸命に書類を片付けていく武を、優しい眼差しでいつも見つめていたのだ。
今の武にはそれが夕麿の嫌がらせだったとしても無視されるよりは嬉しかった。 一番恐れていたのは社内でただ座らされているだけの扱いをされる事だった。
「ではご希望通りにさせていただきます。 ゆっくりとお遊びになられるのは、本日だけだとお覚悟ください。
義勝、そろそろ出ましょう」
上着を手に立ち上がった夕麿は義勝たちを促した。
「武、行って来る」
「あ、行ってらっしゃい、義勝兄さん」
「武君、行って来ます」
「行ってらっしゃい、雅久兄さん」
「まだ病み上がりなのですから、無理をしないでくださいね?」
「うん」
「行って参ります、武さま」
「行ってらっしゃい、貴之先輩」
笑顔で彼らを送り出すと、武はまたテーブルに着いた。
文月がお茶を淹れ直した。
「武さま、先月の当屋敷の収支決済でございます」
「あ、ありがとう」
差し出された帳簿に目を通す。 一応、デジタルとアナログの双方を整えておくのが御園生家のやり方で、武もそれを普通に採用していた。
「文月どの、それは夕麿さまのお役目です!」
絹子が血相を変えて言った。
「いいえ、武さまがいらっしゃった時点で、ここは紫霞宮殿下の御在所となりました。 私たちの主は武さまでございます」
「絹子さん、この屋敷の所有権そのものが既に俺に移譲されてる。 夕麿は今まで紫霞宮妃格としての立場で、管理を任されていただけだ」
武は当たり前の事を今更という顔で答えた。
「ついでに言うと…あなたの身分はあくまでも一使用人に過ぎない。 夕麿の元乳母という事で他人に接触されるのが苦手な、彼の身の回りをお願いしたけど…少し目に余ると報告を受けてる」
「目に余る? 私は宮さまの命に従っただけです」
「俺は高辻先生が夕麿を治療する邪魔をしろとは命じてない。 申し訳ないが夕麿の世話の任は解かせてもらう。 もしも帰国したいなら手配する」
「私はあなたからお給料をいただいているわけではごさいません」
「俺が自分の収入で払ってる。 ここは御園生の義父が用意して整えてくれたけど、維持費や人件費、生活費や雑費は俺がちゃんと出してる。 俺の場合は国から予算は出ないから、引き換えに税金の優遇措置はうけてるけど…それでも十分高額納税者なんだ。
夕麿は自分の学費と自分の必要なものは自費で賄ってる…でもそれ以外は俺の収入。 だから夕麿が個人的に使用人を雇い入れは出来ないし、ここでは御園生から派遣されている人間はいても、雇用契約は俺と結んでいる。
そうだよな、文月?」
「はい。 私は御園生 有人さまから紫霞宮家の執事として派遣されております。 もちろん武さまと雇用契約を致しました」
文月は笑顔でそう答えた。 武では一から必要な人材を集められない故に有人が手配してくれた。これも御園生家の乳部としての役目であった。 。
「あなたがサインした書類もちゃんと紫霞宮家のものだけど、透かしと刻印を確認してないのかな?」
「そんな…」
「文月、彼女に新しい仕事を振り分けて。 夕麿は自分の事は自分で出来る。 精神面を支えて欲しかったのに…あなたは悪化させてくれたからね。 夕麿が通常の状態ならあなたの解雇の相談を出来るけど今は無理だから。 進退は自分で決めて」
体調を崩して伏せっていたと言っても、文月から屋敷内の状態の報告は受けていた。
「お見事です武さま」
「おだてても何も出ないよ、周さん? もう少し夕麿の為になると思ったのに…完全に俺の判断ミスだよなぁ… ごめんなさい、高辻先生」
「私も武さまとのご結婚に反対しても、もう少し夕麿さまの御為になると思っていました」
「ああなると執着だな、清方さん」
「そうですね、恐らくは佐田川 詠美に追い出されて、後ろ髪を引かれるような気持ちで六条家を出たのでしょう。 その想いが歳月で執着に変化してしまった。 しかも夕麿さまは詠美の所為で御心に深い傷を受けられています。 恐らくは自分を責める気持ちの反映でしょうね」
「武さますら夕麿さまを害する存在に見えるんだろう、彼女には」
雫がげっそりと言う。
「高辻先生、兄さんたちや貴之先輩には話してあります。 どうか夕麿の事をよろしくお願いします」
武は高辻に改めて夕麿の治療を依頼した。
「さて…キッチンに行かなきゃ」
「キッチン?」
雫が不思議そうに聞き返した。
「夕麿たちのお昼のお弁当をね」
笑顔でキッチンへ行ってしまった武を見て3人は微笑んだ。 武の夕麿に対する愛情だとはっきりとわかったからだ。
「やれやれ、情の細やかな方だ」
雫が苦笑する。
「雫、ちょっと惜しいと思ってませんか? あんな風に愛情を賜るのは、あなただったかもしれないのですから」
「あのな…また、嫉妬か? 可愛いな、清方。 多分、俺がお相手になってたら、武さまは違う事をなさってるよ」
午後、武は雫に買い物に出たいと告げた。 何が必要なのかと問い掛けると、夕麿の誕生日プレゼントを買いたいと言う。
「最初の年は夕麿の誕生日を随分過ぎてから知ったんだ。 去年はもうこっちに来ていなかったから、思うようなプレゼントを渡せなかった。 ちゃんと誕生日のお祝いをみんなでする予定だからプレゼントを渡したいんだ。 幾ら何でもみんなと一緒にプレゼント出したら、俺のだって受け取ってくれるだろうから」
子供じみた考えだとはわかっている。 たが…これが最初で最後の誕生日プレゼントかもしれない。
武は周が言いたがらない事の見当が何となくついていた。 恐らく皇国へ帰ったら自分は長くは生きる事は許されない。 でもそれでも良かった。 元々長けるには生き続ける事に執着はしていない。 夕麿が自分を忘れてしまったのに何の意味があると言うのだろう? 彼が幸せならばどんな生き方を選択しても、武は非難しないで歓迎する。
誕生日プレゼントは自分の足跡としてそっと傍らに置いてもらえたら良い。 武が贈ったものだというのすら、夕麿が忘れてしまっても構わない。 これは武の単なる自己満足だから。
最初はブランド店が並ぶロデオ・ドライブに行った。 だが武の好みのものがなく結局、メルローズまで行って見付けて来た。
夕麿の誕生日は一週間後。
武は笑顔で帰宅した。
夜、 自室でPCに向かっているとドアを叩く音がした。
「開いてるよ?」
「失礼致します」
夕麿だった。 手に書類ファイルを幾つか抱えている。
「お約束いたしましたものを持って来ました」
「ありがとう、こっちへもらえるかな?」
「はい」
テーブルの上に高々とファイルが積まれた。
「あ、そうだ。 これ、ちょっと見てくれるかな?」
PCを指し示すと夕麿が覗き込んだ。
「先物取引ですか?」
「うん。 こっちはこっちに来る前からの値動きなんだけど…」
「上昇の仕方が早いですね」
「そうなんだ。 アフリカ辺りの作柄が悪かったのかな? 何か知らない?」
「…恐らくは内乱ではないかと。 社の方に内密で情報が入っております」
「内乱? ふうん…そういう事か」
PCの画面を覗く夕麿の顔がすぐ側に、触れられる距離にあった。
触れたい
キスしたい
愛してると囁きたい
すぐ側で感じる息遣い……匂い……温もり……愛しさに胸が張り裂けそうだった。
「ありがとう、助かった。これで売り時の判断がつく」
振り切るように言う。
抱き締めたい、抱き締めて欲しい。愛してると言って欲しい。大好きなその声で。
「では、お邪魔いたしました。失礼致します」
温もりが遠ざかる。言葉を飲み込んでPCを見つめる。背後でドアの開閉する音がして足音が離れて行った。
武は叫びたい衝動を、追い縋りたい熱情を、指を噛んで耐えた。歯が皮膚を裂く痛みよりも、夕麿に想いを告げられない痛みの方が強い。
「武さま!?」
お茶を持って来た雅久が叫んだ。武の歯は指を噛み裂き口腔内から溢れ出した血が、顎を伝いテーブルと床に血溜まりを作っていた。
「誰か!周さま!高辻先生!」
雅久の悲鳴に真っ先に駆け付けたのは周だった。
「武さま、お口をお開きください!」
だが武は歯を噛み締めたままだ。次に駆け付けた雫の判断で武の意識を失わせた。意識を失って全身から力が抜けた武の口から高辻が指を外した。傷はかなりのものだった。
「周、手に負えますか?」
「無理です、深過ぎます」
「雫、車を用意してください。メディカルセンターに連絡を入れて、治療してもらいましょう」
「雅久君、よく気が付いてくれた。遅れたら武さまはご自分の指を噛み切っていらっしゃった」
周の言葉に蒼白になって震えていた雅久が、義勝の腕の中で声もなく意識を失った。
車の用意を待つ間に武の口許を拭い服を着替えさせた。
「文月、ここの始末を頼みます」
「承知いたしました」
「車の用意が出来た」
周が武を抱き上げ高辻が付き添うように屋敷を出た。この間夕麿は姿を現さなかった。
二階の自室にいる夕麿の傍らにいつの間にか絹子がいた。
「また、宮さまですか?本当に騒動ばかり起こされる方ですわね。それともそこまでして、夕麿さまのお気をお惹きになられたいのでしょうか。困ったお方ですねぇ」
絹子の勝手な言葉に夕麿は返事をしなかった。
武の怪我は骨には至らず、神経を傷めてはいなかったが数針を縫う重傷だった。 メディカルセンターの医師は入院をすすめたが、警備の手配が十分にできない状態で武を入院させるのは危険雫が判断した。
このような事態になったのは、武の中に存在する相反する気持ちが原因だった。 人間の心はそう簡単に物事を割り切れるわけではない。 表面意識と深層意識が正反対な場合、本人の制御を受け付けない言動として現れる。 武の場合、夕麿を想う気持ちが、全くの逆方向へと引き裂かれてしまっていた。 夕麿の幸せの為ならば自らの生命さえ惜しまぬ程の無私の愛情。 もう一方は夕麿の愛情を求めて、背を向けられる事実を受け入れられない武。 武は後者の感情を自らの内側へ押し込めようとする。 前者の想いのみを正しいと認識し、後者を自分の醜いエゴだと思っているのだ。
だが抑圧された感情は圧縮され、綻びを見付けるて一気に決壊する。
武は涙を未だに流していない。
昼間絹子を夕麿から遠ざけたのは、彼を守ろうとする前者の気持ち。
しかし後者の気持ちから起こる筈の感情の爆発がないのだ。
泣き叫んだり誰かを責める。 相手に恨み言を言う。 時にはそんな行為が必要なのが人間だ。
だが原因は夕麿の心の病。 武は夕麿を責められなかった。 責めるような感情は、自分の醜さゆえのもの。 そう判断して全て抑圧してしまった。
夕麿を恋い求めるのも自分のエゴ。 そうやって本来当たり前に抱く感情を否定してしまった。 指を噛み切りかけたのはその一端に過ぎない。
夕麿の記憶の欠落ゆえのアンバランスが、元々綱渡り状態の武の心を破壊し始めていた。
高辻は双方の悪化のスピードに恐怖すら感じていた。
これはただ事ではなかった。 やはり誰かの作為的な影があるのではないかと疑いたくなる。
何とかしなければ…… 改めて他の医師のアドバイスを求める決心をした、高辻だった。
義勝は意識を取り戻したものの、まだ蒼褪めた顔をしている雅久を連れて、2階の自分たちの部屋まで来た。
ところが隣室から物が壊れる音がする。 雅久を連れて隣の夕麿の部屋を覗いた。 すると中は目茶苦茶になっていた。
灯りが点いていない月明かりだけの部屋に夕麿が佇んでいた。
「夕麿…? お前…一体、何を…」
だが義勝の言葉は夕麿の口から発せられた絶叫にかき消された。
「夕麿!」
彼は叫びながら壁を叩き出した。 叩く場所が少しずつ移動して行く。 このままでは窓硝子を叩き割る危険があった。 第一、手を傷めてしまう。
「雅久、貴之を呼べ!」
義勝は夕麿に飛びかかるようにして、背後から抱き付いて壁から引き離した。
「イヤああぁぁぁぁぁ!」
叫びながら腕の中で暴れる夕麿を、義勝は必死で抑え付ける。
「私…るな…彼…な!」
途切れ途切れに呟く言葉がよく聞き取れない。
「止めて…お願い…彼…して…」
「夕麿、しっかりしろ!」
だが虚ろな瞳はここにはないものを見つめているように思えた。
「放して…止めて…止めて…イヤああ!」
「うわッ!」
凄まじい力で振り払われ義勝は机に叩き付けられた。 すると再びよろよろと壁に近付いて行く。 義勝は慌てて夕麿を引き戻した。
「義勝!」
貴之が飛び込んで来た。
「貴之、頼む! 夕麿を…夕麿を気絶させてくれ! これは俺たちでは止められん!」
鎮静剤を持っている周と高辻はいない。 唯一、止められる武は怪我をして、メディカルセンターに彼らと向かっている。 これ以上暴れさせれば間違いなくどこかに怪我を負う。
「夕麿さま、ご無礼をお許しください」
近付いて来た貴之が手刀で夕麿の首筋を打つと声もなく義勝の腕の中で、意識を失ってぐったりとなった。
ベッドに二人がかりで横たえる。 雅久が手早く室内を片付けた。
「武の怪我は見てないよな?」
「ええ。 騒動の途中でリビングから、ここへ戻られたみたいですから…」
「窓から見えるのは、武君のいる部屋の寝室だけです」
武は自室のリビングスペースにいた。
「…錯乱の原因は何だ? 訳のわからない事を口走っていたが…」
「逃げるように誰かに申されていたような…」
「武さまのお名前は?」
「いや、呼んでいない」
「兎に角、夕麿を一人にするのは危険だ。
貴之、今夜はこの部屋へ泊まり込んでくれないか?」
「わかった」
「高辻先生が戻られ次第、この状況を話す」
「義勝、夕麿さまはお気が付かれたら、またお暴れになられませんか?」
雅久の心配はもっともだった。
「もしまだ錯乱されておられるようならば、もう一度気を失っていただきます。その上で僭越ではありますが、ベッドに縛り付けさせていただきます」
「その時は呼んでくれ。俺は雅久を休ませる」
「義勝、私は大丈夫です」
「まだ顔色が悪い。この上、お前まで臥したら手が回らなくなる」
夕麿の監視も武の看病も交代で行わなければならない。今日が木曜日で助かったと義勝は思った程だ。
武と夕麿はどんな状態でも、互いに影響を及ぼしてしまう。夕麿の言動に傷付いた筈なのに武は懸命に笑顔で返す。夕麿を気遣えば気遣う程、武にストレスが溜まる。それすらも飲み込んで武は夕麿へ愛情を注ぐ。
今日届けられた昼食の弁当は武がつくった料理だった。 夕麿の好物ばかりを間違いなく武の味付けで詰められていた。 おむすびすら武の手が握ったものだとわかる。 義勝たちはすぐに気付いて胸がいっぱいになってしまった。 雅久などは武の想いの深さと健気さに、思わず涙を浮かべてしまった。
むろん今の夕麿にはそんな事はわからない。 わからない筈なのだ。 だが記憶の欠落からずっと低下していた食欲が武の料理で戻っていた。 普段よりも多く昼食を食べたのだ。 深層のどこかでやはり、夕麿は武を認識している。 義勝たちはそう思った。 だから夕麿が資料ファイルを揃えるのにも一切口出しをしなかった。
それなのに……
夕麿が武に自らファイルを渡しに行った。 その数分の間に何があったのか。 二人がどんな会話を交わしたのかは義勝たちにはわからない。 居間に戻って来た夕麿は何事もなかったかのように、お茶を飲んでいた。 雅久の叫び声が響いた時点では。
武をメディカルセンターへ連れて行く時に、居間を覗いたら夕麿は自室に戻った後だった。 武の意識を雫が失わせて指を口から抜いて、周と高辻が応急処置をしている間、雫が車を用意した。 貴之がメディカルセンターへ電話を入れて、ERの受け入れ承諾を取った。 そして武は周に抱きかかえられて車は出て行った。
時間にして10分足らずである。 その間に夕麿に何が起こったと言うのだろうか。
真相が見えて来ない状態は義勝たちをも不安に陥れていた。 全員に過度のストレスがのしかかっていた。
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