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涙河
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朝目覚めるとベッドにひとりで横たわっていた。 傍らにある筈の温もりがない。
武は導入剤が完全に抜け切らない頭で、ぼんやりと部屋の天井を眺めた。
誰かを呼ばなければベッドから出る事も出来ない。何度か車椅子に自力で移動するのを練習したのだが、ベッドの上にずっと座っていれない状態では、移動の前に身体のバランスが崩れてしまう。脚や腰の感覚は存在する。痛みや熱、触感もわかる。それなのにどうしても動かない。座る事すら支えがないとバランスを保てなくて倒れてしまう。
悔しくて悲しくて、何度もベッドから車椅子への移動の練習をした。その結果、ベッドに倒れ込むならばまだ良い方で、床に倒れ落ちてもっと面倒な事になった。
声は戻って来たのに…… 脚が何故動かないのか。何故座る事すら出来ないのか。
虚しさに武はベッドの上でただ天井を見つめていた。
呼べば多分、夕麿か誰か来るだろう。でもきっと…いつまでもこんな状態から回復しないのを、煩わしく思っているだろう。そう想われて当たり前だと思う。
声が出る事で誰かを呼ばないと困った顔をされる。声が出ない時は誰かが気付くまで、じっと待っているだけで済んだのに……それはそれで迷惑を掛けてはいた。けれど声が出るからわがままを口にしてしまいそうになる。
夕麿を困らせ煩わせている。
皆に面倒をかけている。
夕麿の苛立ちはきっと皆も同じように感じているだろう。そのうちに今度は本当に背を向けられる。自分はずっとこんな状態でいるだろう。だったらこんな中途半端な状態じゃなかったら良かったんだ。一層の事、ずっと眠り続けていたら良かった。そうしたら皇国に返されて御園生系列の病院で眠り続けていられただろう。誰かに嫌われ背を向けられてもわからないで済んだのに。
武は疲れ果てていた。皆に宮としてずっと扱われ、生命の危険にさらされ続けて。動かない身体ではやりたい事もままならない。そして……夕麿を煩わせている。
「武、起きたのですか?」
夕麿の声にハッと息を呑んだ。
「うん…」
「気分はどうですか?」
夕麿の指が頬に触れる。
「少し熱があるようですね、食事を運ばせましょう」
「うん…」
力なく答えて朝日が射す中庭に目をやった。夕麿の顔を見るのが怖かった。
「武、お願いです。私を見てください」
視線をそらす武の手を握って夕麿は懇願した。
「昨夜の事を…説明させてください」
「説明…?」
ゆっくりと振り返った武の顔には表情がなかった。
「私が…あなたの側にいられなかった時…動けないあなたを誰かが入浴させていたのを…この身体に私以外が触れたのだと思うと嫉妬してしまったのです。あなたにもあなたの入浴を介助していた者にも何の罪も責任もないのに…わかっているのに…私はいたたまれなくて…あなたに八つ当たりしていたのです」
武の入浴介助をしていたのは恐らくは周と高辻。二人に邪な心はないとわかっているのに、嫉妬に心がジリジリと灼けるのに夕麿は耐えられなかった。そんな事になった原因は自分にあるというのに。武に八つ当たりして苛立ちをぶつけるような態度をした。こんなにも傷付いて疲れ果てている武に。
「私が愚かなのはわかっています。でも止められませんでした。あなたは…私のものだから…!」
武を独占したい。誰にも指一本でも触れさせたくない。心にあるのはそんな感情だった。
「嫉妬…?俺の…世話をするのが煩わしくなったのじゃないの?夕麿に面倒ばかり掛けてるから、俺の事……嫌いになったのじゃないの?」
自分で口にした言葉に、武は自分で傷付いていた。自分はもう厄介者でしかないと。
「何を言うのです!たとえ一生、あなたが今の状態でも、私はあなたを嫌いになったりしません!煩わしいなんて…微塵も思いません。
あなたが死んだかもしれない。いや、死んでしまった。そう思っていた時の苦しみと絶望は…言葉に出来ないくらいでした。
でもあなたは…生きていてくださいました。私の呼び掛けに目を開けて、握っていた手を握り返してくださいました。その時の喜びがわかりますか、武。あなたが生きていてくださるなら、私は喜んであなたの脚にも声にもなります」
「本当に…こんなのでも側に置いてくれる?」
「側にいてください。あなたがいなければ、私は生きて行けません。私の心にはあなたという支えが、必要不可欠なんです、武」
「夕麿…!」
両手をいっぱいに差し出して、愛しい人の温もりを求めた。
「夕麿…夕麿…」
「私はあなたのものです。そしてあなたは私のもの。
もう絶対に離しません! 二度とあなたを忘れたりしない!」
「うん…夕麿…好き…愛してる…」
「私も愛しています、あなただけを」
抱き締められる温もりには嘘や偽りはなかった。武は夕麿に縋って泣き続けた。不安を洗い流すように。
朝食は執事の文月と雅久が、夕麿の分も一緒に持って来た。
「武君、お食事、食べられそうですか?」
雅久が『さま』ではなく『君』で呼んだ。それが嬉しい。
「多分、大丈夫」
「無理をしないでくださいね。いつものをつくる用意もしていますから」
「あ、そっちも食べたいかも」
「では後で持って来ましょう」
雅久はそう言ってチラッと夕麿に視線を送った。すると夕麿がすっと顔をそらせた。見ると頬が赤い。
「え? 何?」
武が興味津々に二人の顔を見比べた。
「夕麿さまが春に熱をお出しになられたのはご存知ですよね?」
「うん。夕麿が熱出したのって怪我した時以来だったからちょっと驚いて心配した」
喧嘩した後だったから余計に、心配したのを武は記憶していた。
「あの時に夕麿さまはご気分がすぐれなくて、お食事が喉をお通りにならなかったのです。
それであれを…」
「雅久!」
「食べたの、夕麿が?」
真っ赤になって止めようとする夕麿を雅久は笑顔で無視する。
「ええ。頭痛がなされて頭をおあげになれなくて、私がスプーンで差し上げました」
「へぇ~食べさせてもらったんだ」
武の言葉に夕麿は、身も蓋もないという風情で困っていた。
「本当は私ではなくて、武君だったらよろしかったのでしょうけれど」
雅久が鮮やかに笑った。武が声を立てて笑う。それを見て安心して、雅久は文月と下がった。
「…ったく…余計な事を…」
熱を余り出した事がない夕麿には、誰かの看病は照れくさく恥ずかしいらしい。
「夕麿」
「何です…そんなにおかしいですか?」
「ほら、拗ねないの!でも次は俺に看病させてよね?」
いつも看病してもらってばかりだから。夕麿はその言葉に頬を染めたままで頷いた。
「さ、食べよう」
重い気持ちはもうどこかへ行っていた。夕麿と一緒が嬉しい。
朝食と雅久がつくってくれたリンゴの擦りおろしを食べ、武はベッドのリクライニングを上げてゆったりと身を預けていた。
「夕麿、大学行けよ」
「あなたの看病を誰かに任せたくありません」
皆を大学に登校させて武は休みで夕麿も休んだ。周が休んで看病しようとするのを夕麿は、自分が看病したいと主張して彼を登校させたのである。
周が実は責任感の強い性格だったのを、夕麿は彼が大夫としての任に就いてから知った。生徒会長時期の無関心さは周なりの理由が、あったのだろうと一定の理解を持つようになっていた。自分に対する愛情も今はわかるようになった。決して応える事は出来ないが。
しかし今まで彼に辛辣な態度ばかりを、取っていたのを心底申し訳けなく思っていた。天邪鬼な言動を周がしていたとしても、小等部の頃にはあれ程助けてもらったというのに。武と共に来た時に周が見せた激高も武を大切にするのと同時に、不様な夕麿の姿を悲しんでくれたのだとわかる。
ずっと誰かに愛して欲しいと思っていた。誰も自分に本当の愛はくれないと思い込んで来た。こんなに近くに想ってくれていた相手がいたのに。
武との出逢いは運命だと思っている。だからもし周の想いを武と出逢う前に知ったとしても、その手を取る事はなかったとは思う。それでも何か、報いる方法があったのではないかと思う。傷付ける言動ではない何かを。周に返せる事はないのだろうか、想いには応えられないとしても。
夕麿を想い続けても良い。
武はそんな許しを彼に与えた。周は十分だと答えたと言う。そして夕麿が幸せに笑っていれば自分も幸せなのだと。
そんな生き方は出来ないと夕麿は思ってしまう。武が側にいてくれて自分の為に、笑ってくれなければ何も見えなくなってしまう。周のような強さは今の自分にはない。でもいつかは自分の力で武を守りたい。武と支え合って生きて行きたい。
今の夕麿にとって周は兄のような存在だった。けれど武が関わるとやはり嫉妬心が勝つ。そんな自分をまだまだ子供だと夕麿は思うのだった。
出来ればいつか周だけを見て、周だけを愛する誰かが現れて欲しいと願う。誰かと支え合って生きる幸せを知って欲しいから。
昼食を摂っていると不意に武の携帯の着信音がなった。夕麿に携帯を取ってもらって見ると小夜子からだった。
「母さん、どうしたの?」
〔あなたに知らせないとって思って……大変なの!〕
「落ち着いて、母さん。何が大変なの?」
〔10日くらい前から赤佐さんと連絡が取れなくなったのよ。それでニューヨークの御園生の会社の人に、彼のマンションへ様子を見に行ってもらったの。私からマンションのコンシュルジェには連絡を入れて…そうしたらパスポートも荷物もそのままあるって言うの!〕
赤佐 実彦の才能に惚れ込んだ小夜子は今、彼の後見人と支援者を兼ねていた。ニューヨークのマンションも彼女が御園生系の企業に命じて、学校から近く治安の良い場所を選ばせたのだ。
マンションというのは日本のものを想定してはいけない。本来はガードマンやコンシュルジェがいて、徹底的なセキュリティーが施されている。日本のもののようなマンションは向こうでは、アパートの部類でしかない。オートロック程度なら、向こうのアパートにも着いている。
「わかった。成瀬さんに相談するから。
母さん、母さんもちゃんとボディガード付けてる?希は?お義父さんは?くれぐれも気を付けて」
〔ええ、こちらは大丈夫よ?〕
「うん、それなら良い。何かわかったら連絡するから」
〔お願いね、武。あなたも気を付けるのよ?〕
「うん。 じゃ」
通話を切って夕麿に言った。
「至急成瀬さんに連絡を取って、夕麿。赤佐先輩の行方がわからなくなった!」
夕麿が顔色を変えて雫に連絡をし、ただちにFBIに捜査の依頼をしてくれるという。
「間違いなく、先輩は俺たちに巻き込まれたんだよな?」
「間違いないと思います。無事でいてくれればよいのですが……ああ…私は司に何と詫びれば良いのでしょう、こんな事に彼を巻き込んでしまって…」
「やり方が汚過ぎる」
武もフツフツとした怒りがわき上がっていた。
「絶対に許さない。俺と夕麿は当事者だからまだわかる。でも赤佐先輩は関係ない」
シーツを握り締めてわなわなと震える。
「10日…あの一件があった頃ですね。私の記憶が戻ったのを確認して、別の手に出たという事でしょうか…」
「夕麿、保さんは…何か知らないかな?」
「彼が…ですか?」
「この前はこっちが挑発したから、敵意剥き出しだったけど…俺、あの人が自分の弟と深く関わりがあった、赤佐先輩をどうにかするのに関わってるとは思えないんだ。
あの人が誰かの指示で動いてるのは確かだよ?でも…俺たちの事を含めてそれってあの人の本意なのかな?」
夕麿に対する態度もどこかで馬鹿馬鹿しく思いながらも、対抗する家柄としての確執があるからではないのだろうか。保は司ほどには思い切れないのかもしれない。だがそれと武たちを巡る企ての内容とは余りにも色合いが違い過ぎる。
武はそう感じる。感覚がそうだと言っている。もちろんこの感覚が間違いだったら、危険であるというのも十分にわかっているのだ。自分の判断が間違っていてそれに皆が、従った場合にはとんでもない事態に陥るかもしれない。それでも保本人から感じるものと一連の武たちへの攻撃とは違う感じがするのだ。
「……俺が突飛でもない事を言ってるのはわかる。でももう一度、保さんと話がしたい」
「ですが、武。何かと引き替えに彼が動かされているなら、無闇に接触するのは双方共に危険です」
「…わかってる」
「全ては皆が帰って来てからにしましょう」
「うん」
今現在、武の感情の浮き沈みが激しい。自分で自分が制御出来ていない。この状態は他ならぬ夕麿自身も経験している。 武の場合、この起伏がストレスになる。
ストレスは誰かが与えるのではない。誰かの何かを自分の感情がストレスへと変換してしまうのだ。もっとも生命を狙われ続け自分だけでなく周囲にも、危険が及ぶと言う事実はただのストレスとは種類が違うとも言える。
以前の武は食欲に出て発熱、というパターンだった。今は周囲の言動、特に夕麿の言動が精神状態を左右してしまう。夕麿がまだ完全に安定しておらず、やはり感情にムラが存在している状態がそのまま武に影響してしまう。
失う事の恐怖を味わってしまった武。それがマイナスに働く事で生命が脅かされる危険を、逆に呼んでしまう事はないのかと、夕麿も不安に心がやすまらないままだった。
そこへ赤佐 実彦の失踪である。明らかに自分たちを襲うものと関わりがあるとわかるゆえに、 言い知れぬ恐怖が彼らを取り巻きつつあった。
夕麿から赤佐 実彦の失踪を聞いた後、わずかな時間、雅久と高辻だけがカフェテラスから出た場所にいた。すると雅久たちとほぼ同じ年頃の男が一人、彼らに笑顔で歩み寄って来た。
「戸次君、戸次君だろう?久しぶりだね?」
だが2年分の記憶しかない雅久には彼が誰かわからない。
「あれ?僕の事を覚えてない?5年も過ぎたからわからないのかな?」
「申し訳ありません。雅久君は事故で記憶を失って、2年前までの事を覚えていないのです。
君は中等部の同級生?」
「記憶がない?そうか…じゃあ、僕の事わからないか。ごめんね、声掛けて。
えっと葦名君や良岑君、それから…結城君、それに六条さまはお元気?」
「ええ、皆さまお元気ですが…あなたは…」
「あ、僕、もう行かなきゃ。じゃあまた」
彼は名乗りもせずに一方的に喋ってどこかへと行ってしまった。同級生の名前を並べた事からも彼が、雅久たちと中等部での知り合いだったのはわかる。だが雅久に記憶がない以上、彼が誰なのかを確かめる術はなかった。本当に知り合いだったのか。雅久に2年前からの記憶しかないのを知っていて何かの目的で近付いて来たのか。高辻にも判断がつかなかった。
ただ、奇異な雰囲気をまとった若者だった。何かはわからないがどことなく普通の精神状態ではないと思われた。ここに武がいたならばその稀有な能力でわかったかもしれない。
「雅久君、彼の声色はどんな印象でした?」
「それが…無色透明でした。笑顔なのに…彼には中が空っぽのような…」
雅久の色調にも奇異な感覚が現れていた。
顔は記憶した。後程、義勝か貴之に中等部時代の写真を見せてもらって彼を探せば良い。不安に思いながらも今は打つ手がない。
夕方、彼らは慌ただしく帰宅した、その足で二人は慌しく人払いした部屋へと向かう。
武の感覚を信じた雫は保に顔が知られていないFBIを、近付ける手配をしたと報告した。
そして……
居間で高辻が昼間の奇妙な出来事を話した。早々に義勝がアルバムを持って来た。雅久と二人で写真を眺めて行く。
「あ…」
「彼ですね…多分」
雅久が先に気付き高辻が確認した。
「本当に彼だったのですか、高辻先生?」
問い掛ける貴之の声がわずかに震えているのがわかった。
「間違いありません」
「ええ、もう少し大人びでいましたけど」
二人の断言に貴之と義勝が顔を見合わせるのを見て、雫が不思議そうに写真を覗き込んだ。
「成瀬さん…本庄です」
「本庄? あの本庄 直也ですか?」
「ええ…」
「何でロサンゼルスにいる?何で雅久に声を掛けて来る?」
「義勝、それはどういう意味ですか?」
「確か……本庄はやたらに雅久に、ライバル心を持っていたな?」
「え?」
「そうです、周さま。雅久と二分する紫霄の美形として雅久はその、昔も今も自覚なしでおっとりしてますから、さほど気にはしていなかったのですが…」
「本庄は躍起だったな。夕麿にもアピールしてたが……」
「あれは夕麿に気があったのだろう? 同類はなんとなくわかる」
周が平然と言った。 義勝は思わずどっち側で…という問いを口にしかけた。当時、本庄も夕麿も共に小柄だった。だが、そんな義勝を見て周が苦笑いした。
「確かに中等部の夕麿から考えれば、どっちがどっちかわからないな。何しろあの頃の夕麿は可愛かったから」
「周さん、夕麿が聞いたら殴られますよ?」
「ふはは…そう言えば、気にしてたっけ? 今は見る影もなくなったけど」
「へぇ…夕麿さまがね~」
「そう、160ちょっとくらいしかなかった」
「今は186cmでしたね?20cm以上身長が伸びたわけですね?骨と筋肉のバランスがとれなくて、大変だったでしょう?」
「成長痛か?一時期かなり酷かったみたいだが…」
「でしょうね。 一年に7~8cmくらい伸びた計算になりますから」
成長痛…骨の急激な成長に筋肉の成長が、伴わない為に脚に痛みが走る事をいう。
「で?」
雫が話を元に戻す。
「彼は普通の状態ではなかった」
高辻の言葉に雅久が頷く。
「彼の声は色がありませんでした」
「色聴能力って何がどれくらいわかるもの何だ?」
「個人差があるらしいのですが雅久の場合、音に対して音源の調子…人間なら体調や精神状態が、微妙に見えるようなのです。特に記憶を失ってから、それが顕著になっています」
「それでここへ到着した時に、武さまの発熱に最初に気付いたわけか」
「はい。あの時、色が…彼の鮮やかで美しい紫色が、くすんだ赤みを帯びていました。ですから首に触れて確認いたしました」
「夕麿の異常は?」
「発熱のような共通のパターンがあるとは言えません。だから何かおかしくてもわからないんです」
「それで、本庄に色がない…」
「まるで心がない…というように」
「心がない…? 暗示とかではなくて?」
「夕麿さまや絹子さんの状態からの色の様子を考えて…違うと思います。暗示は今思えば、別の色がかすかに重なっておりました。身体の病気とは別な揺らぎのようなものです」
「なる程…では、本庄は心をなくしているのか?」
「そう判断するには…私たちと会話はしていました。ただ微妙に成り立っていなかったけれど」
高辻が答えた。
「今回の一件と関係あると思えるか?」
「わからない」
「本庄は優秀だった。身分も成績も夕麿の次に。彼がいたら俺は副会長にはなっていなかった」
義勝が呟く。
「3年になって中等部の生徒会副会長になって、夕麿さまのお役に立つってずっと言ってたからな…あんな事さえなければそれは叶っていた」
貴之も苦々しく言った。
「あの事件で紫霄から転校。だが結局は親に…」
周も彼を知っている。周が中等部の会長だった時に、一年生の執行部にいた。周の夕麿に対する気持ちを薄々知っていて、時折、睨まれたのを実は記憶していた。
「取り敢えずは要注意人物と見做しておこう」
雫がそう言うと義勝が困った顔をした。夕麿には転校後の本庄 直也に何が起こったのか、ショックを受けそうで話してはいない。
「夕麿にどう説明する?」
「確かに。慈園院 司さまの事で、あれだけのダメージを受けられたのです。本庄の件はもっと傷付かれるかもしれません」
「だが、黙っていては危険だぞ?」
周がきっぱりと言い切った。
「俺がお話しする」
雫が全員を見回して言った。
「調べた結果として話す事にしよう。雅久君と清方が会ったのを含めて」
「私が立ち会います。行きましょう、雫」
高辻が雫と一緒に武と夕麿の部屋へ向かった。
雫の口から話を聞いた夕麿は、蒼白になり今にも倒れてしまいそうな状態になった。
「何故、その人がロサンゼルスにいるわけ?」
震える夕麿を抱き締めながら武が問い掛けた。
「わかりません。こちらの人間に売られてしまったのか。それとも今回の件絡みで、作為的に我々の前に姿を現したのか」
「作為的…って、成瀬さんは思うんだ?」
「はい。タイミングが良過ぎます。 偶然と判断するにはおかしいのです」
「夕麿がショックを受けるのをわかっていて、敢えて言いに来たのは危険性が高いから?」
「はい」
「わかった。その中等部時代の写真、俺にも後で見せて。顔を覚えて起きたいから」
「義勝君に言っておきます」
「武…彼の写真ならば、私も持っています…」
武に縋り付いたままの夕麿の声は震えていた。
「……私さえ、紫霄にいなければ…」
「それはどうでしょう?」
夕麿の言葉を雫はきっぱりと否定する。
「佐田川の紫霄の伝は、夕麿さまとは関わりがない場所でも存在していました。 確かに夕麿さまが在校されていたから目に着きやすかった。されど夕麿さまがいらっしゃらなくてもどの道、同じ事件は起こったと思います」
「それは…何故、そう思うのですか…?」
「あの事件の一番の原因が、紫霄学院の特殊さそのものだからです。生徒の何割かは親に捨てられたか国を追い出される立場の者。中には清方のように死んだと親が思っている者もいます。
生まれて来なかった。
存在していない。
そんな立場の生徒に危害を与えても表向きにはならない。たとえ学院から姿を消しても有耶無耶にされてしまう。第一、過去の特別室の方々のように、闇から闇へ葬られても誰も真相を調べようともしない。そんな学院の特殊さが呼んだ犯罪です。
夕麿さま、あなたは一被害者であられるだけ」
「一被害者…?私が…?」
「他の何だと申されます?そうだろう、清方?」
「ええ。夕麿さま、あなたは多々良や佐田川 詠美の巧みな策略で、事件の責任がさもあなたにあるように、思い込まされてしまわれているのです。あなたさまには何の罪咎もございません。あなたさまはたまたま佐田川 詠美が嫁いだ六条家の御子息だった。故に佐田川が多々良 正恒を使った犯罪に敢えて巻き込まされたのです。
あなたさまが犯罪に加担していらっしゃった訳ではありません。お優しい御心を彼らが利用しただけです」
高辻の言葉は確信に満ちた響きを帯びていた。
「夕麿さま、もうあなたは十分に苦しまれました。皆をお助けになられかったのは、あなたさまには罪咎はあろう筈もございません。中等部の生徒にどれくらいの事が出来たでしょう?
どうかご自分の無力さをこれ以上、お責めになられてはなりません。繰り返して申し上げ致しますが、あなたさまには罪はございませんでした。どうか、ご自分をお許しになられてください」
力強い言葉に促されるように、夕麿は顔を上げて誰に言うともなく呟いた。
「私には…罪はない…?私自身を…許す?」
「そうです。それがあなたさまには必要な事です、夕麿さま」
「私に…必要な事…」
視線を移すと武が微笑んでいた。
「武…お願いです…私を…私を許すと…言ってください…」
自分で自分を許すという方法がわからない。だが武が言ってくれるならば、もうあの時の罪の意識からは解放されるような気がした。
「良いよ、夕麿。
お前には何の罪もなかった。だから俺はお前自身に代わってお前を許す」
「ああ…武…司は…司も、私を許してくれるでしょうか?」
「慈園院さんは夕麿に罪がないのを、わかっていたから夕麿の幸せを願っていてくれてた。信じられないなら星合 清治さんの日記を読む?あれは慈園院さんの遺品じゃないから俺が個人的に預かってる。
慈園院さんが何をどう思ってたのか、ちゃんと書いてあるよ?」
武は保に全てを渡した訳ではなかった。詩のデータや日記などを渡さなかった。保もそれらが欠けていたのに、武に何も言わなかった。
「それでは私たちはこれで下がらせていただきます。
おやすみなさいませ」
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
雫と高辻が出て行った後、夕麿は武に縋り付いて泣き出した。その涙に彼の苦しみと悲しみが見えた。自分も陵辱され、無惨な映像まで撮られていたのに。異常に人との接触を嫌悪する原因が、身の穢れへのものではなく強い罪の意識からだった。
その事実をやっと夕麿は本当に真っ直ぐに受け入れる事が出来た。武に許しを与えられる事で今、自分が解放されたのがわかった。迷宮の出口の光がはっきりと見えたのだ。出口に辿り着くまではきっと何年もの時間をまだ必要とするだろう。きっと幾つもの壁にもぶつかる。
人間の心は回復するのに時間は必要だ。けれども自分で歩く気力さえ持てば必ず光へと至る事は出来るどのような暗闇にも必ず、一筋の光は存在しているものだ。
そして……痛みを知る以前よりも遥かに成長した自分と出会える。
高辻は雫の腕に自らの腕を絡めながらそう思っていた。
「あッ…そこ…ダメ…」
武の指が夕麿の左側の乳首を摘む。
「ダメって、嘘ばっかり。中が締まるよ?」
クスクス笑いと一緒に告げると夕麿は、朱に染まった目許を一層濃く染めてイヤがるように首を振る。
「俺は動けないから…夕麿を感じさせてあげられるのは、こうするしかないじゃないか」
そう言って今度は乳首を口に含んで甘噛みする。
「ンぁ…武…ダメ…ああッ…」
身を仰け反らせて歓喜の声を上げる。
月明かりに汗が舞う。
夕麿は泣いた後、武に抱いて欲しいと告げた。動けない武に跨がって奥深く受け入れて、夕麿は淫らに腰を振って官能に乱れる。リクライニングで身を起こして武は、夕麿を抱き締め滑らかな肌を指先で撫で回し口付ける。
もっと感じさせて悲しい事も辛かった事も、昇華させてやりたいと思う。誇り高く美しい彼がより美しく気高く輝くように。
だが動けない身体では限界がある。 それか悔しい。
「あッ…あッ…武…武…イイ…ああッ…」
腰を掴んで撫で回し時折、指先を食い込ませる。それが刺激になって感じた夕麿が声をあげて、中を締め付けて仰け反る。
「夕麿…愛してる…夕麿…」
「武…嬉しい…愛してます…あなた…だけ…ああッ…も…もう…」
「イって良いよ…夕麿…」
「ンン…武…一緒に…一緒に…イって…ください…」
「うん…俺もイくから…」
「ああッ…武…武…イイ…イイ…武…あッあッ…イく…あンあッあああッ…!!」
「夕麿…あああッ…!!」
互いの熱を放出して腕を絡め合って唇を重ねた。離れると吐息がどちらともなく漏れて、また自然に唇が重なる。 互いに貪れば再び、身体の熱が上がっていく。
「武…また…欲しい…」
「俺も…」
夕麿が頬を紅潮させて熱い吐息と共に、ゆっくりと武のモノを受け入れた。
「ああ…武…熱い…」
「ふふ、夕麿の中も熱いよ?」
官能に潤んだ瞳が、武を見下ろしている。
熱い眼差し。
熱い吐息。
「ああ…夕麿…熱い…」
この熱が嬉しい。
この熱が愛しい。
「愛してる…愛してる…」
言葉にしてもまだ足らない。切ないまでの想い。強く強く愛しい人を武は抱き締めた。
翌朝、いつもよりも遥かに色香を振り撒いて、夕麿は満ち足りた笑顔をしていた。
周は眩暈を覚え、義勝は喜んで雅久を抱き締めた。
まるで憑き物が落ちたように、夕麿の雰囲気も瞳の輝きも一変していた。それを見つめる武も満面の笑顔だった。 緊迫した状況は変わらないが当事者の二人が、取り敢えず安定しているのは良い事だと言えた。
そこへ文月が入って来て来客を告げた。彼の案内でFBIに守られるようにして、慈園院 保が姿を現した。
もう一度、彼と話したい……
武の望みを叶える為にFBIが彼に接触した。幾つかの手順を経てもし監視者がいるならば、上手くそれの目を誤魔化す細工までしてくれたのだ。
「これはどういう事なのか、ご説明いただけるのでしょうか、紫霞宮さま」
「ごめんなさい。俺がわがままを言ったんだ。もう一度、あなたとちゃんと話したいって」
「それならばキャンパスで出来ますでしょう?」
「俺はあなたを監視している人間がいない場所で、あなたと話したかっただけだ」
『監視』という言葉に、保の顔から血の気が引いた。
「ご心配には及びません。FBIが上手くあなたが、ご自分のアパートへ帰られたように見せ掛けています」
雫が説明をすると保の肩の力が抜けた。
「あなた方は…私をどうなさろうと仰るのです」
半ば捨て鉢な口調の保の前に夕麿が進み出て跪いた。
「その前に先日の無礼を謝罪致します。あなたを煽って本心を伺う為だったとはいえ、衆目の集まる場所で侮辱いたしました。この通りお詫び致します」
跪いたまま胸に手を置いて、深々と頭を下げる夕麿に保は絶句した。
「俺からも謝罪します」
武も車椅子の上から頭を下げた。
「お…おやめくださりませ、紫霞宮さま、夕麿さま」
保が狼狽する。身分が上の者の謝罪。それよりもライバル六条家出身の夕麿が跪いて謝罪する。保は逆の立場であったなら有り得ない光景だと思った。
「理由をお聞かせいただければ…どうか、お二方とも頭をお上げくださりませ」
武がます頭を上げ次いで夕麿が頭を上げた。保は手を差し出して夕麿を立たせる。
「どうぞお座りください」
雫がソファをすすめた。保は頷いて座る。
文月が全員にお茶を出し後を雅久に託して居間を出た。
夕麿は武をソファに移して、その身体を支えるようにして座った。
対話の準備は整った。
武は導入剤が完全に抜け切らない頭で、ぼんやりと部屋の天井を眺めた。
誰かを呼ばなければベッドから出る事も出来ない。何度か車椅子に自力で移動するのを練習したのだが、ベッドの上にずっと座っていれない状態では、移動の前に身体のバランスが崩れてしまう。脚や腰の感覚は存在する。痛みや熱、触感もわかる。それなのにどうしても動かない。座る事すら支えがないとバランスを保てなくて倒れてしまう。
悔しくて悲しくて、何度もベッドから車椅子への移動の練習をした。その結果、ベッドに倒れ込むならばまだ良い方で、床に倒れ落ちてもっと面倒な事になった。
声は戻って来たのに…… 脚が何故動かないのか。何故座る事すら出来ないのか。
虚しさに武はベッドの上でただ天井を見つめていた。
呼べば多分、夕麿か誰か来るだろう。でもきっと…いつまでもこんな状態から回復しないのを、煩わしく思っているだろう。そう想われて当たり前だと思う。
声が出る事で誰かを呼ばないと困った顔をされる。声が出ない時は誰かが気付くまで、じっと待っているだけで済んだのに……それはそれで迷惑を掛けてはいた。けれど声が出るからわがままを口にしてしまいそうになる。
夕麿を困らせ煩わせている。
皆に面倒をかけている。
夕麿の苛立ちはきっと皆も同じように感じているだろう。そのうちに今度は本当に背を向けられる。自分はずっとこんな状態でいるだろう。だったらこんな中途半端な状態じゃなかったら良かったんだ。一層の事、ずっと眠り続けていたら良かった。そうしたら皇国に返されて御園生系列の病院で眠り続けていられただろう。誰かに嫌われ背を向けられてもわからないで済んだのに。
武は疲れ果てていた。皆に宮としてずっと扱われ、生命の危険にさらされ続けて。動かない身体ではやりたい事もままならない。そして……夕麿を煩わせている。
「武、起きたのですか?」
夕麿の声にハッと息を呑んだ。
「うん…」
「気分はどうですか?」
夕麿の指が頬に触れる。
「少し熱があるようですね、食事を運ばせましょう」
「うん…」
力なく答えて朝日が射す中庭に目をやった。夕麿の顔を見るのが怖かった。
「武、お願いです。私を見てください」
視線をそらす武の手を握って夕麿は懇願した。
「昨夜の事を…説明させてください」
「説明…?」
ゆっくりと振り返った武の顔には表情がなかった。
「私が…あなたの側にいられなかった時…動けないあなたを誰かが入浴させていたのを…この身体に私以外が触れたのだと思うと嫉妬してしまったのです。あなたにもあなたの入浴を介助していた者にも何の罪も責任もないのに…わかっているのに…私はいたたまれなくて…あなたに八つ当たりしていたのです」
武の入浴介助をしていたのは恐らくは周と高辻。二人に邪な心はないとわかっているのに、嫉妬に心がジリジリと灼けるのに夕麿は耐えられなかった。そんな事になった原因は自分にあるというのに。武に八つ当たりして苛立ちをぶつけるような態度をした。こんなにも傷付いて疲れ果てている武に。
「私が愚かなのはわかっています。でも止められませんでした。あなたは…私のものだから…!」
武を独占したい。誰にも指一本でも触れさせたくない。心にあるのはそんな感情だった。
「嫉妬…?俺の…世話をするのが煩わしくなったのじゃないの?夕麿に面倒ばかり掛けてるから、俺の事……嫌いになったのじゃないの?」
自分で口にした言葉に、武は自分で傷付いていた。自分はもう厄介者でしかないと。
「何を言うのです!たとえ一生、あなたが今の状態でも、私はあなたを嫌いになったりしません!煩わしいなんて…微塵も思いません。
あなたが死んだかもしれない。いや、死んでしまった。そう思っていた時の苦しみと絶望は…言葉に出来ないくらいでした。
でもあなたは…生きていてくださいました。私の呼び掛けに目を開けて、握っていた手を握り返してくださいました。その時の喜びがわかりますか、武。あなたが生きていてくださるなら、私は喜んであなたの脚にも声にもなります」
「本当に…こんなのでも側に置いてくれる?」
「側にいてください。あなたがいなければ、私は生きて行けません。私の心にはあなたという支えが、必要不可欠なんです、武」
「夕麿…!」
両手をいっぱいに差し出して、愛しい人の温もりを求めた。
「夕麿…夕麿…」
「私はあなたのものです。そしてあなたは私のもの。
もう絶対に離しません! 二度とあなたを忘れたりしない!」
「うん…夕麿…好き…愛してる…」
「私も愛しています、あなただけを」
抱き締められる温もりには嘘や偽りはなかった。武は夕麿に縋って泣き続けた。不安を洗い流すように。
朝食は執事の文月と雅久が、夕麿の分も一緒に持って来た。
「武君、お食事、食べられそうですか?」
雅久が『さま』ではなく『君』で呼んだ。それが嬉しい。
「多分、大丈夫」
「無理をしないでくださいね。いつものをつくる用意もしていますから」
「あ、そっちも食べたいかも」
「では後で持って来ましょう」
雅久はそう言ってチラッと夕麿に視線を送った。すると夕麿がすっと顔をそらせた。見ると頬が赤い。
「え? 何?」
武が興味津々に二人の顔を見比べた。
「夕麿さまが春に熱をお出しになられたのはご存知ですよね?」
「うん。夕麿が熱出したのって怪我した時以来だったからちょっと驚いて心配した」
喧嘩した後だったから余計に、心配したのを武は記憶していた。
「あの時に夕麿さまはご気分がすぐれなくて、お食事が喉をお通りにならなかったのです。
それであれを…」
「雅久!」
「食べたの、夕麿が?」
真っ赤になって止めようとする夕麿を雅久は笑顔で無視する。
「ええ。頭痛がなされて頭をおあげになれなくて、私がスプーンで差し上げました」
「へぇ~食べさせてもらったんだ」
武の言葉に夕麿は、身も蓋もないという風情で困っていた。
「本当は私ではなくて、武君だったらよろしかったのでしょうけれど」
雅久が鮮やかに笑った。武が声を立てて笑う。それを見て安心して、雅久は文月と下がった。
「…ったく…余計な事を…」
熱を余り出した事がない夕麿には、誰かの看病は照れくさく恥ずかしいらしい。
「夕麿」
「何です…そんなにおかしいですか?」
「ほら、拗ねないの!でも次は俺に看病させてよね?」
いつも看病してもらってばかりだから。夕麿はその言葉に頬を染めたままで頷いた。
「さ、食べよう」
重い気持ちはもうどこかへ行っていた。夕麿と一緒が嬉しい。
朝食と雅久がつくってくれたリンゴの擦りおろしを食べ、武はベッドのリクライニングを上げてゆったりと身を預けていた。
「夕麿、大学行けよ」
「あなたの看病を誰かに任せたくありません」
皆を大学に登校させて武は休みで夕麿も休んだ。周が休んで看病しようとするのを夕麿は、自分が看病したいと主張して彼を登校させたのである。
周が実は責任感の強い性格だったのを、夕麿は彼が大夫としての任に就いてから知った。生徒会長時期の無関心さは周なりの理由が、あったのだろうと一定の理解を持つようになっていた。自分に対する愛情も今はわかるようになった。決して応える事は出来ないが。
しかし今まで彼に辛辣な態度ばかりを、取っていたのを心底申し訳けなく思っていた。天邪鬼な言動を周がしていたとしても、小等部の頃にはあれ程助けてもらったというのに。武と共に来た時に周が見せた激高も武を大切にするのと同時に、不様な夕麿の姿を悲しんでくれたのだとわかる。
ずっと誰かに愛して欲しいと思っていた。誰も自分に本当の愛はくれないと思い込んで来た。こんなに近くに想ってくれていた相手がいたのに。
武との出逢いは運命だと思っている。だからもし周の想いを武と出逢う前に知ったとしても、その手を取る事はなかったとは思う。それでも何か、報いる方法があったのではないかと思う。傷付ける言動ではない何かを。周に返せる事はないのだろうか、想いには応えられないとしても。
夕麿を想い続けても良い。
武はそんな許しを彼に与えた。周は十分だと答えたと言う。そして夕麿が幸せに笑っていれば自分も幸せなのだと。
そんな生き方は出来ないと夕麿は思ってしまう。武が側にいてくれて自分の為に、笑ってくれなければ何も見えなくなってしまう。周のような強さは今の自分にはない。でもいつかは自分の力で武を守りたい。武と支え合って生きて行きたい。
今の夕麿にとって周は兄のような存在だった。けれど武が関わるとやはり嫉妬心が勝つ。そんな自分をまだまだ子供だと夕麿は思うのだった。
出来ればいつか周だけを見て、周だけを愛する誰かが現れて欲しいと願う。誰かと支え合って生きる幸せを知って欲しいから。
昼食を摂っていると不意に武の携帯の着信音がなった。夕麿に携帯を取ってもらって見ると小夜子からだった。
「母さん、どうしたの?」
〔あなたに知らせないとって思って……大変なの!〕
「落ち着いて、母さん。何が大変なの?」
〔10日くらい前から赤佐さんと連絡が取れなくなったのよ。それでニューヨークの御園生の会社の人に、彼のマンションへ様子を見に行ってもらったの。私からマンションのコンシュルジェには連絡を入れて…そうしたらパスポートも荷物もそのままあるって言うの!〕
赤佐 実彦の才能に惚れ込んだ小夜子は今、彼の後見人と支援者を兼ねていた。ニューヨークのマンションも彼女が御園生系の企業に命じて、学校から近く治安の良い場所を選ばせたのだ。
マンションというのは日本のものを想定してはいけない。本来はガードマンやコンシュルジェがいて、徹底的なセキュリティーが施されている。日本のもののようなマンションは向こうでは、アパートの部類でしかない。オートロック程度なら、向こうのアパートにも着いている。
「わかった。成瀬さんに相談するから。
母さん、母さんもちゃんとボディガード付けてる?希は?お義父さんは?くれぐれも気を付けて」
〔ええ、こちらは大丈夫よ?〕
「うん、それなら良い。何かわかったら連絡するから」
〔お願いね、武。あなたも気を付けるのよ?〕
「うん。 じゃ」
通話を切って夕麿に言った。
「至急成瀬さんに連絡を取って、夕麿。赤佐先輩の行方がわからなくなった!」
夕麿が顔色を変えて雫に連絡をし、ただちにFBIに捜査の依頼をしてくれるという。
「間違いなく、先輩は俺たちに巻き込まれたんだよな?」
「間違いないと思います。無事でいてくれればよいのですが……ああ…私は司に何と詫びれば良いのでしょう、こんな事に彼を巻き込んでしまって…」
「やり方が汚過ぎる」
武もフツフツとした怒りがわき上がっていた。
「絶対に許さない。俺と夕麿は当事者だからまだわかる。でも赤佐先輩は関係ない」
シーツを握り締めてわなわなと震える。
「10日…あの一件があった頃ですね。私の記憶が戻ったのを確認して、別の手に出たという事でしょうか…」
「夕麿、保さんは…何か知らないかな?」
「彼が…ですか?」
「この前はこっちが挑発したから、敵意剥き出しだったけど…俺、あの人が自分の弟と深く関わりがあった、赤佐先輩をどうにかするのに関わってるとは思えないんだ。
あの人が誰かの指示で動いてるのは確かだよ?でも…俺たちの事を含めてそれってあの人の本意なのかな?」
夕麿に対する態度もどこかで馬鹿馬鹿しく思いながらも、対抗する家柄としての確執があるからではないのだろうか。保は司ほどには思い切れないのかもしれない。だがそれと武たちを巡る企ての内容とは余りにも色合いが違い過ぎる。
武はそう感じる。感覚がそうだと言っている。もちろんこの感覚が間違いだったら、危険であるというのも十分にわかっているのだ。自分の判断が間違っていてそれに皆が、従った場合にはとんでもない事態に陥るかもしれない。それでも保本人から感じるものと一連の武たちへの攻撃とは違う感じがするのだ。
「……俺が突飛でもない事を言ってるのはわかる。でももう一度、保さんと話がしたい」
「ですが、武。何かと引き替えに彼が動かされているなら、無闇に接触するのは双方共に危険です」
「…わかってる」
「全ては皆が帰って来てからにしましょう」
「うん」
今現在、武の感情の浮き沈みが激しい。自分で自分が制御出来ていない。この状態は他ならぬ夕麿自身も経験している。 武の場合、この起伏がストレスになる。
ストレスは誰かが与えるのではない。誰かの何かを自分の感情がストレスへと変換してしまうのだ。もっとも生命を狙われ続け自分だけでなく周囲にも、危険が及ぶと言う事実はただのストレスとは種類が違うとも言える。
以前の武は食欲に出て発熱、というパターンだった。今は周囲の言動、特に夕麿の言動が精神状態を左右してしまう。夕麿がまだ完全に安定しておらず、やはり感情にムラが存在している状態がそのまま武に影響してしまう。
失う事の恐怖を味わってしまった武。それがマイナスに働く事で生命が脅かされる危険を、逆に呼んでしまう事はないのかと、夕麿も不安に心がやすまらないままだった。
そこへ赤佐 実彦の失踪である。明らかに自分たちを襲うものと関わりがあるとわかるゆえに、 言い知れぬ恐怖が彼らを取り巻きつつあった。
夕麿から赤佐 実彦の失踪を聞いた後、わずかな時間、雅久と高辻だけがカフェテラスから出た場所にいた。すると雅久たちとほぼ同じ年頃の男が一人、彼らに笑顔で歩み寄って来た。
「戸次君、戸次君だろう?久しぶりだね?」
だが2年分の記憶しかない雅久には彼が誰かわからない。
「あれ?僕の事を覚えてない?5年も過ぎたからわからないのかな?」
「申し訳ありません。雅久君は事故で記憶を失って、2年前までの事を覚えていないのです。
君は中等部の同級生?」
「記憶がない?そうか…じゃあ、僕の事わからないか。ごめんね、声掛けて。
えっと葦名君や良岑君、それから…結城君、それに六条さまはお元気?」
「ええ、皆さまお元気ですが…あなたは…」
「あ、僕、もう行かなきゃ。じゃあまた」
彼は名乗りもせずに一方的に喋ってどこかへと行ってしまった。同級生の名前を並べた事からも彼が、雅久たちと中等部での知り合いだったのはわかる。だが雅久に記憶がない以上、彼が誰なのかを確かめる術はなかった。本当に知り合いだったのか。雅久に2年前からの記憶しかないのを知っていて何かの目的で近付いて来たのか。高辻にも判断がつかなかった。
ただ、奇異な雰囲気をまとった若者だった。何かはわからないがどことなく普通の精神状態ではないと思われた。ここに武がいたならばその稀有な能力でわかったかもしれない。
「雅久君、彼の声色はどんな印象でした?」
「それが…無色透明でした。笑顔なのに…彼には中が空っぽのような…」
雅久の色調にも奇異な感覚が現れていた。
顔は記憶した。後程、義勝か貴之に中等部時代の写真を見せてもらって彼を探せば良い。不安に思いながらも今は打つ手がない。
夕方、彼らは慌ただしく帰宅した、その足で二人は慌しく人払いした部屋へと向かう。
武の感覚を信じた雫は保に顔が知られていないFBIを、近付ける手配をしたと報告した。
そして……
居間で高辻が昼間の奇妙な出来事を話した。早々に義勝がアルバムを持って来た。雅久と二人で写真を眺めて行く。
「あ…」
「彼ですね…多分」
雅久が先に気付き高辻が確認した。
「本当に彼だったのですか、高辻先生?」
問い掛ける貴之の声がわずかに震えているのがわかった。
「間違いありません」
「ええ、もう少し大人びでいましたけど」
二人の断言に貴之と義勝が顔を見合わせるのを見て、雫が不思議そうに写真を覗き込んだ。
「成瀬さん…本庄です」
「本庄? あの本庄 直也ですか?」
「ええ…」
「何でロサンゼルスにいる?何で雅久に声を掛けて来る?」
「義勝、それはどういう意味ですか?」
「確か……本庄はやたらに雅久に、ライバル心を持っていたな?」
「え?」
「そうです、周さま。雅久と二分する紫霄の美形として雅久はその、昔も今も自覚なしでおっとりしてますから、さほど気にはしていなかったのですが…」
「本庄は躍起だったな。夕麿にもアピールしてたが……」
「あれは夕麿に気があったのだろう? 同類はなんとなくわかる」
周が平然と言った。 義勝は思わずどっち側で…という問いを口にしかけた。当時、本庄も夕麿も共に小柄だった。だが、そんな義勝を見て周が苦笑いした。
「確かに中等部の夕麿から考えれば、どっちがどっちかわからないな。何しろあの頃の夕麿は可愛かったから」
「周さん、夕麿が聞いたら殴られますよ?」
「ふはは…そう言えば、気にしてたっけ? 今は見る影もなくなったけど」
「へぇ…夕麿さまがね~」
「そう、160ちょっとくらいしかなかった」
「今は186cmでしたね?20cm以上身長が伸びたわけですね?骨と筋肉のバランスがとれなくて、大変だったでしょう?」
「成長痛か?一時期かなり酷かったみたいだが…」
「でしょうね。 一年に7~8cmくらい伸びた計算になりますから」
成長痛…骨の急激な成長に筋肉の成長が、伴わない為に脚に痛みが走る事をいう。
「で?」
雫が話を元に戻す。
「彼は普通の状態ではなかった」
高辻の言葉に雅久が頷く。
「彼の声は色がありませんでした」
「色聴能力って何がどれくらいわかるもの何だ?」
「個人差があるらしいのですが雅久の場合、音に対して音源の調子…人間なら体調や精神状態が、微妙に見えるようなのです。特に記憶を失ってから、それが顕著になっています」
「それでここへ到着した時に、武さまの発熱に最初に気付いたわけか」
「はい。あの時、色が…彼の鮮やかで美しい紫色が、くすんだ赤みを帯びていました。ですから首に触れて確認いたしました」
「夕麿の異常は?」
「発熱のような共通のパターンがあるとは言えません。だから何かおかしくてもわからないんです」
「それで、本庄に色がない…」
「まるで心がない…というように」
「心がない…? 暗示とかではなくて?」
「夕麿さまや絹子さんの状態からの色の様子を考えて…違うと思います。暗示は今思えば、別の色がかすかに重なっておりました。身体の病気とは別な揺らぎのようなものです」
「なる程…では、本庄は心をなくしているのか?」
「そう判断するには…私たちと会話はしていました。ただ微妙に成り立っていなかったけれど」
高辻が答えた。
「今回の一件と関係あると思えるか?」
「わからない」
「本庄は優秀だった。身分も成績も夕麿の次に。彼がいたら俺は副会長にはなっていなかった」
義勝が呟く。
「3年になって中等部の生徒会副会長になって、夕麿さまのお役に立つってずっと言ってたからな…あんな事さえなければそれは叶っていた」
貴之も苦々しく言った。
「あの事件で紫霄から転校。だが結局は親に…」
周も彼を知っている。周が中等部の会長だった時に、一年生の執行部にいた。周の夕麿に対する気持ちを薄々知っていて、時折、睨まれたのを実は記憶していた。
「取り敢えずは要注意人物と見做しておこう」
雫がそう言うと義勝が困った顔をした。夕麿には転校後の本庄 直也に何が起こったのか、ショックを受けそうで話してはいない。
「夕麿にどう説明する?」
「確かに。慈園院 司さまの事で、あれだけのダメージを受けられたのです。本庄の件はもっと傷付かれるかもしれません」
「だが、黙っていては危険だぞ?」
周がきっぱりと言い切った。
「俺がお話しする」
雫が全員を見回して言った。
「調べた結果として話す事にしよう。雅久君と清方が会ったのを含めて」
「私が立ち会います。行きましょう、雫」
高辻が雫と一緒に武と夕麿の部屋へ向かった。
雫の口から話を聞いた夕麿は、蒼白になり今にも倒れてしまいそうな状態になった。
「何故、その人がロサンゼルスにいるわけ?」
震える夕麿を抱き締めながら武が問い掛けた。
「わかりません。こちらの人間に売られてしまったのか。それとも今回の件絡みで、作為的に我々の前に姿を現したのか」
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「はい。タイミングが良過ぎます。 偶然と判断するにはおかしいのです」
「夕麿がショックを受けるのをわかっていて、敢えて言いに来たのは危険性が高いから?」
「はい」
「わかった。その中等部時代の写真、俺にも後で見せて。顔を覚えて起きたいから」
「義勝君に言っておきます」
「武…彼の写真ならば、私も持っています…」
武に縋り付いたままの夕麿の声は震えていた。
「……私さえ、紫霄にいなければ…」
「それはどうでしょう?」
夕麿の言葉を雫はきっぱりと否定する。
「佐田川の紫霄の伝は、夕麿さまとは関わりがない場所でも存在していました。 確かに夕麿さまが在校されていたから目に着きやすかった。されど夕麿さまがいらっしゃらなくてもどの道、同じ事件は起こったと思います」
「それは…何故、そう思うのですか…?」
「あの事件の一番の原因が、紫霄学院の特殊さそのものだからです。生徒の何割かは親に捨てられたか国を追い出される立場の者。中には清方のように死んだと親が思っている者もいます。
生まれて来なかった。
存在していない。
そんな立場の生徒に危害を与えても表向きにはならない。たとえ学院から姿を消しても有耶無耶にされてしまう。第一、過去の特別室の方々のように、闇から闇へ葬られても誰も真相を調べようともしない。そんな学院の特殊さが呼んだ犯罪です。
夕麿さま、あなたは一被害者であられるだけ」
「一被害者…?私が…?」
「他の何だと申されます?そうだろう、清方?」
「ええ。夕麿さま、あなたは多々良や佐田川 詠美の巧みな策略で、事件の責任がさもあなたにあるように、思い込まされてしまわれているのです。あなたさまには何の罪咎もございません。あなたさまはたまたま佐田川 詠美が嫁いだ六条家の御子息だった。故に佐田川が多々良 正恒を使った犯罪に敢えて巻き込まされたのです。
あなたさまが犯罪に加担していらっしゃった訳ではありません。お優しい御心を彼らが利用しただけです」
高辻の言葉は確信に満ちた響きを帯びていた。
「夕麿さま、もうあなたは十分に苦しまれました。皆をお助けになられかったのは、あなたさまには罪咎はあろう筈もございません。中等部の生徒にどれくらいの事が出来たでしょう?
どうかご自分の無力さをこれ以上、お責めになられてはなりません。繰り返して申し上げ致しますが、あなたさまには罪はございませんでした。どうか、ご自分をお許しになられてください」
力強い言葉に促されるように、夕麿は顔を上げて誰に言うともなく呟いた。
「私には…罪はない…?私自身を…許す?」
「そうです。それがあなたさまには必要な事です、夕麿さま」
「私に…必要な事…」
視線を移すと武が微笑んでいた。
「武…お願いです…私を…私を許すと…言ってください…」
自分で自分を許すという方法がわからない。だが武が言ってくれるならば、もうあの時の罪の意識からは解放されるような気がした。
「良いよ、夕麿。
お前には何の罪もなかった。だから俺はお前自身に代わってお前を許す」
「ああ…武…司は…司も、私を許してくれるでしょうか?」
「慈園院さんは夕麿に罪がないのを、わかっていたから夕麿の幸せを願っていてくれてた。信じられないなら星合 清治さんの日記を読む?あれは慈園院さんの遺品じゃないから俺が個人的に預かってる。
慈園院さんが何をどう思ってたのか、ちゃんと書いてあるよ?」
武は保に全てを渡した訳ではなかった。詩のデータや日記などを渡さなかった。保もそれらが欠けていたのに、武に何も言わなかった。
「それでは私たちはこれで下がらせていただきます。
おやすみなさいませ」
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
雫と高辻が出て行った後、夕麿は武に縋り付いて泣き出した。その涙に彼の苦しみと悲しみが見えた。自分も陵辱され、無惨な映像まで撮られていたのに。異常に人との接触を嫌悪する原因が、身の穢れへのものではなく強い罪の意識からだった。
その事実をやっと夕麿は本当に真っ直ぐに受け入れる事が出来た。武に許しを与えられる事で今、自分が解放されたのがわかった。迷宮の出口の光がはっきりと見えたのだ。出口に辿り着くまではきっと何年もの時間をまだ必要とするだろう。きっと幾つもの壁にもぶつかる。
人間の心は回復するのに時間は必要だ。けれども自分で歩く気力さえ持てば必ず光へと至る事は出来るどのような暗闇にも必ず、一筋の光は存在しているものだ。
そして……痛みを知る以前よりも遥かに成長した自分と出会える。
高辻は雫の腕に自らの腕を絡めながらそう思っていた。
「あッ…そこ…ダメ…」
武の指が夕麿の左側の乳首を摘む。
「ダメって、嘘ばっかり。中が締まるよ?」
クスクス笑いと一緒に告げると夕麿は、朱に染まった目許を一層濃く染めてイヤがるように首を振る。
「俺は動けないから…夕麿を感じさせてあげられるのは、こうするしかないじゃないか」
そう言って今度は乳首を口に含んで甘噛みする。
「ンぁ…武…ダメ…ああッ…」
身を仰け反らせて歓喜の声を上げる。
月明かりに汗が舞う。
夕麿は泣いた後、武に抱いて欲しいと告げた。動けない武に跨がって奥深く受け入れて、夕麿は淫らに腰を振って官能に乱れる。リクライニングで身を起こして武は、夕麿を抱き締め滑らかな肌を指先で撫で回し口付ける。
もっと感じさせて悲しい事も辛かった事も、昇華させてやりたいと思う。誇り高く美しい彼がより美しく気高く輝くように。
だが動けない身体では限界がある。 それか悔しい。
「あッ…あッ…武…武…イイ…ああッ…」
腰を掴んで撫で回し時折、指先を食い込ませる。それが刺激になって感じた夕麿が声をあげて、中を締め付けて仰け反る。
「夕麿…愛してる…夕麿…」
「武…嬉しい…愛してます…あなた…だけ…ああッ…も…もう…」
「イって良いよ…夕麿…」
「ンン…武…一緒に…一緒に…イって…ください…」
「うん…俺もイくから…」
「ああッ…武…武…イイ…イイ…武…あッあッ…イく…あンあッあああッ…!!」
「夕麿…あああッ…!!」
互いの熱を放出して腕を絡め合って唇を重ねた。離れると吐息がどちらともなく漏れて、また自然に唇が重なる。 互いに貪れば再び、身体の熱が上がっていく。
「武…また…欲しい…」
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夕麿が頬を紅潮させて熱い吐息と共に、ゆっくりと武のモノを受け入れた。
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熱い吐息。
「ああ…夕麿…熱い…」
この熱が嬉しい。
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「愛してる…愛してる…」
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もう一度、彼と話したい……
武の望みを叶える為にFBIが彼に接触した。幾つかの手順を経てもし監視者がいるならば、上手くそれの目を誤魔化す細工までしてくれたのだ。
「これはどういう事なのか、ご説明いただけるのでしょうか、紫霞宮さま」
「ごめんなさい。俺がわがままを言ったんだ。もう一度、あなたとちゃんと話したいって」
「それならばキャンパスで出来ますでしょう?」
「俺はあなたを監視している人間がいない場所で、あなたと話したかっただけだ」
『監視』という言葉に、保の顔から血の気が引いた。
「ご心配には及びません。FBIが上手くあなたが、ご自分のアパートへ帰られたように見せ掛けています」
雫が説明をすると保の肩の力が抜けた。
「あなた方は…私をどうなさろうと仰るのです」
半ば捨て鉢な口調の保の前に夕麿が進み出て跪いた。
「その前に先日の無礼を謝罪致します。あなたを煽って本心を伺う為だったとはいえ、衆目の集まる場所で侮辱いたしました。この通りお詫び致します」
跪いたまま胸に手を置いて、深々と頭を下げる夕麿に保は絶句した。
「俺からも謝罪します」
武も車椅子の上から頭を下げた。
「お…おやめくださりませ、紫霞宮さま、夕麿さま」
保が狼狽する。身分が上の者の謝罪。それよりもライバル六条家出身の夕麿が跪いて謝罪する。保は逆の立場であったなら有り得ない光景だと思った。
「理由をお聞かせいただければ…どうか、お二方とも頭をお上げくださりませ」
武がます頭を上げ次いで夕麿が頭を上げた。保は手を差し出して夕麿を立たせる。
「どうぞお座りください」
雫がソファをすすめた。保は頷いて座る。
文月が全員にお茶を出し後を雅久に託して居間を出た。
夕麿は武をソファに移して、その身体を支えるようにして座った。
対話の準備は整った。
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そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
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