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忠恕
しおりを挟む「司さんの友人、赤佐 実彦さんが行方不明になりました」
雫の声が響く。
「赤佐さんは武さまと御生母小夜子さまの御支援で、紫霄から出て春にニューヨークへ渡られました。 9月からは声楽家を目指してニューヨークの大学へ転校されています。
ところが10日ほど前から全く連絡が取れなくなり、心配された小夜子さまが御園生の関連企業の者に、赤佐さんのマンションを確認させられました」
武が頷く。
保は蒼白になっていた。
「保さん、何かご存知ですね?」
「ご存知ならば何でも構いません。 話してはいただけませんか? 彼にもしもの事があったら…私は亡くなった司に顔向けが出来ません」
夕麿にすれば実彦は司に託されたようなもの。 その実彦の行方がわからず、しかも自分たちの騒動に巻き込まれたのだとしたら…… 夕麿も武もいたたまれない。
「FBIが全力を上げて捜査してくれていますが、手掛かりが何もありませんので、手の打ちようがないのです」
雫も説得の言葉を紡ぐ。
「皆さまは私が敵だとお思いになられないのですか?」
保が不思議そうに言った。 それに答えたのは雅久だった。
「武さまがあなたは敵ではないと仰います。 私は武さまの皇家の霊感を信じます」
「皇家の霊感…ですか? 本当に存在するのですか?」
「少なくとも武さまはお持ちでいらっしゃいます。 顕著な現れ方を示されたのは、2年前に夕麿さまが再び多々良 正恒に襲われた時です」
「多々良 正恒!? 彼がまた夕麿さまを襲ったのですか!?」
貴之の言葉に保は驚愕の表情を浮かべた。 彼にしても多々良 正恒は弟の人生を無茶苦茶にして、恋人との心中にまで追いやった憎い相手。 それが再び夕麿を襲っていたという事実。
「武さまの霊感で寮の特別室のドアの前で、私たちは異変を察知する事が出来ました」
あの事件は武と貴之には後悔だらけだ。 そして夕麿には恐怖と屈辱の記憶。 武はそっと夕麿に抱き付いた。 夕麿は応えるように武を支える為の腕に力を入れて抱き締めた。
それだけで保には夕麿の想いがわかってしまう。
「武さま、私を信じてくださった事、心より感謝致します。 しかし……兄に逆らえば私は大学を続けられません」
「学費の事ならば問題はありません。 私は亡くなった司と星合 清治から、かなりのお金を預けられています」
「え…?」
「司さんと清治さんは多額の資金を夕麿に振り込んで亡くなりました。 俺は…もっと二人に何か出来なかったかと思っています」
「保さま、武さまはそれはお二方の死を悲しまれたのです」
貴之が言った。
「私と武は二人のような者をなくしたいと、そのお金で『暁の会』という組織を創設しました。 これは学院から出られなくなった生徒を救済する為の組織です」
「赤佐 実彦さんはその対象になった最初の生徒です。 そして二番目が私です」
高辻の言葉に保が顔を向けた。
「私も高等部から出る事を許されなくなりました。 ただ夕麿さまと武さまの主治医に任命されてからは、監視付きで医学会や御園生邸に出られるようにはなっていました」
高辻が穏やかに微笑んだ。
「高辻先生の場合は周さんから申請があった上に、元高等部生徒会長という経歴は十分な資格でした。 それに夕麿と雅久兄さんの治療を続けて欲しかったから俺としても渡りに船でした」
「赤佐さんと高辻先生の場合は、資金を必要とはしませんでした。 ですから資金は運用によって増えてはいますが、減ってはおりません。 あなたに十分お返し出来ますし、司もきっと反対はしないでしょう」
そうきっと司は反対しない。 彼は保の立場を理解していた筈だ。
「金銭面では後の憂いはないと、申し上げても良いかと思います。 夕麿さまも武さまもそれを取り引き材料になさろうと思われている訳ではありません」
「うん、絶対にしない」
「ただ、そちらのご心配は必要がないというだけです」
保はゆっくりと彼らを見回した。 そこには穏やかで温かな眼差しが並んでいた。
「俺たちは全員、何かの形で武に救われた者なんです、保さん」
義勝の言葉に武以外の全員が頷いた。
「あなた方もですか、久我 周さん、成瀬 雫さん?」
「ええ。 だから僕はここにいます」
周が笑顔で答えた。
「俺は別れ別れだった恋人と再会出来ました」
高辻を抱き寄せながら雫も笑顔だった。
「保さま。 私たちは武さまの御身分に集まったのではございません。 その御心に惹かれて忠義の気持ちで集まっているのです」
雅久の玲瓏な姿が眩しく見えるような、凛とした言葉だった。
「保さん、武さまに忠義をと僕たちは言っているのではないのです。 けれど人間としての忠恕の心はあるでしょう?」
『忠恕』というのは、「自分の良心に忠実に生きて、他人に思い遣りを持つ」という意味である。
つまり周は保にも良心がありそれに従って、生きようとする気持ちや他人に対して……この場合は赤佐 実彦に対して……思い遣りの気持ちはあるだろうと問い掛けたのである。
「忠恕…ですか。 しばらく考えさせていただけませんか」
「そうですね、今ここでは無理かもしれませんね。
武、それで構いませんね?」
「うん。 でも赤佐さんの事を考えたら余り待てない」
「わかりました。 明日の夕方までには、結論を出させていただきます」
保は雫の携帯番号を訊いて、ここへ来た時のようにFBIに送られて帰って行った。
「後は彼の良心を信じるのみだな」
義勝がすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながら言った。
「多分、大丈夫だと思うよ? 文月、保さんの部屋、用意しておいて。 こっちに越してもらう方が安全だと思うから」
新しい飲み物を持って来た執事に武が笑顔で命じた。
「承知致しました。 では久我さまがお使いでした部屋をご用意致します」
「周さんが使ってた部屋?」
夕麿が不思議そうに問い返した。
「ああ、お前が使っていた部屋に移らせてもらった」
涼しい顔で答えた周を見て、夕麿の顔がみるみるうちに朱に染まっていく。
「周さん、まさか俺たちの部屋を覗いてないだろうな?特に昨夜とか!」
元の夕麿の部屋のはめ殺しの窓からは、武たちの部屋の寝室が丸見えである。
「まさか…そんな不埒な真似は致しません。部屋を移ったのは蔵書が増えたからです。二階のあの部屋の方が広いんです」
「本当に覗いてない?もし昨夜覗いてたら…許さないからな?」
「僕も自分の身が可愛いですから絶対にしません。第一、覗いたら逆に色々と困りますから」
夕麿の悩ましい姿なんぞを見た日には自分の身の置き場に困る。
「一応信用しとく。
文月、何人かで行って俺たちのベッド、窓から離して置いて」
「承知いたしました」
返事をした文月も苦笑していた。
「さて、武さま。そろそろベッドにお戻りください」
「もう熱ないよ?」
「本日は土曜日です。一日おとなしくなさってくださいませ」
「了解」
周に逆襲されるように言われて武は渋々承諾した。
「夕麿、部屋へ連れて行って」
夕麿に抱き付いて甘えると、彼はとろけるような笑顔で武を抱き上げた。 武はその首に両腕を絡ませて縋り付いた。 部屋へ向かう為に夕麿が背を向けた瞬間、周に向かって武がアカンベをする。 何も気付かすに夕麿が居間を出た。
ドアが閉じられた瞬間、全員が爆笑した。
「周、信じていただいてないようですよ?」
「本当に見てない」
「しかしあれだけお二方が気にすると言う事は、カーテン開けたままで…という事だな?」
雫が苦笑混じりに言う。
「それにしても相変わらず可愛らしい事を…」
義勝が笑いながら言った。
「夕麿さまが安定なされていらっしゃるから、武君も落ち着いていますね?」
「それでもこの事態は、相当のストレスになられているみたいだ」
「朝食…いつもの半分も食べられてませんね」
「夕麿もそれを気にしていた」
武を巡る騒動だけにかかる重圧は普通ではない。他者の生命を盾にして自らの生命が脅かされているのだ。平気でいられる方が異常であろう。
プロである雫でさえ睡眠が浅くなっており、高辻が身体を差し出して眠らせているくらいだった。 賊の侵入以後、この屋敷のセキュリティーは新たなものに替えて、厳重に厳重を重ねてある。 FBIも何人か常駐し、ロサンゼルス警察も周辺の巡回を強化してくれている。
またボブがゲイ仲間を通じて、様々な情報を集めてくれている。
打てる手は打ったつもりだ。
だが不安なのだ。
指先から水が零れるように、何かがどこかで失われている気がする。 訳のわからぬ正体不明の焦燥感だけが、それぞれの神経をすり減らしていく。 恐らくはそれも狡猾な黒幕の計算なのだろう。 反撃に出ようとしても、すぐに回り込まれてしまう。
武は本当によく耐えていると全員が思っていた。発熱はその現れのようなものだ。
兎にも角にも今は慈園院 保の答え次第であった。
ベッドに横たわって、夕麿を抱き締めていた。
「武、私は大丈夫ですから…」
「発作、起こさなくなったな?」
「ええ。随分前から起こらなくなりました……まだ話題に上がると…辛いですが…」
「それは当たり前だろう?」
平気になる日など来ないだろうと武は思う。忘れろと言う人もいるだろうが、そんなに簡単に辛い記憶が抹消できるならどんなにいいだろう。だが失えば失って消えた記憶の欠片を追い求めるのが人間だ。
「本当に大丈夫ですから……」
「俺がこうしてたいの!」
夕麿の温もりや匂い。抱き締めていると感じられるもので心が安らぐ。夕麿もそうであって欲しいと祈る。自分は余りにも無力で歯痒い。
「えっと…あの…武…?どうしてシャツのボタンを…?」
「お前が欲しいからしてんの…イヤか?」
「そんな…イヤなわけが…」
「じゃ、手伝え」
武の不機嫌の原因がどうやら周にあるらしいのも何となくわかる。
「わかりましたから…その、カーテンを閉めないと…」
「…閉めろ」
ムッとしたように言うその顔が、周が覗いてないと言った言葉を信じてないとわかる。苦笑しながらベッドから立ち上がって窓のカーテンをひいた。廊下に通じるドアの鍵を確認し寝室のドアの鍵も掛けた。
武は夕麿を目で追っている。
夕麿はベッドに戻って来ると、武を抱き締めて唇を重ねた。 武の指が夕麿のシャツを脱がせていく。 夕麿も武の衣類を剥ぐ。 熱い吐息が漏れ、衣擦れの音が室内に響いた。
「それでどちらを御所望ですか、我が君?」
「昨夜と同じだ。 夕麿を抱きたい」
脚が動かないからもう夕麿を抱く側にはなれないと思っていた。
だが昨夜、夕麿に求められて、ちゃんと可能なのがわかった。 それが嬉しかった。 月明かりに照らされた夕麿の身体に、自分の中で欲望が激しく渦巻いた。
「夕麿、あっち向いて俺を跨またいで」
「え…あの…武…」
武がそれを命じるのは初めてではないが、夕麿は主君でもある彼を跨ぐという行為を、申し訳なさと恥ずかしさの双方で戸惑ってしまう。 赤面してもじもじしている夕麿に武が苦笑した。
「他に方法がないんだから…第一今更だろ、夕麿?」
そうは言われても恥ずかしいものは恥ずかしい。 今まで武には要求した事がないが思わず一度、やってみれば良いんだと心の中で毒づいてしまう。
夕麿は恨みがましく武を見てから、言われた通りに武を跨いだ。 腰を引き寄せられ余す処なく、見つめられているかと思うと羞恥に身が震える。
武の手が腰や太腿を撫で回す。 優しい手付きだった。
「ごめんな…夕麿、ちゃんと抱くのも抱かれるのも無理で…」
「また、そんな事を。ちゃんと出来ているじゃありませんか。声は戻ったのですから脚も必ず治ります」
「うん…」
声はすぐに戻った。 それなのに脚は動かない。
「武、焦らないで。必ず治ると信じてください」
そう言って夕麿はまるでお呪まじないのように、武の太腿に口付けを繰り返した。
目頭が熱くなる……自分の所為で酷い目にあったというのに、夕麿は恨み言一つ言わない。 武を労る言葉ばかり言う。
それが辛い。
幸せになりたい。
幸せにしたい。
そう思って結婚したのにそれが原因で巻き添えを喰う。
武ひとりならば……ひとりだったならば……そう思ってしまう。
生きたくないわけではない。 母と二人の生活からこんな大家族になったのだ。 血の繋がった弟も生まれた。
大学院を出て帰国して、夕麿と共に御園生の中核となる。 紫霄学院の改革の為にも、皇家の血を引く立場は有用だ。 夢も希望も欲も溢れる程持っている。
それなのに……
けれどこのまま被害が広がり続けるならば、夕麿や皆にこれ以上の事態が降りかかるのは、武自身が耐え切れなかった。
守りたい。
夕麿を抱きながら武は決心した。 どうしても防げないならば自分の生命を投げ出すと。 彼らが欲しているのは武だけの生命の筈。 他の皆の安全を約束してくれるならば惜しくはないと思う。 螢との約束もこれで果たせる。
誰も犠牲にはしない。 だが安易にこの生命はやらない。 愛する人を、大切な人たちを悲しませる事だから。 精一杯足掻いて、それでもダメだったら捨てる。 それでしか守れないならば。 皆に生きていて欲しいから。 穏やかな日々を生きて欲しいから。
「夕麿…今度は抱いて。 今日はずっと抱き締めていて」
抱かれる時は互いに口調が柔らかくなる。 乙女ちっくに甘えた声で。
全部奪って欲しい。 この生命まで全部あげるから。 愛してるから。
翌日の正午過ぎ、保から雫へ連絡が入った。FBIが迎えに行きそのまま、主だった荷物と一緒に保は屋敷に移って来た。その折り、彼の室内から複数の盗聴器が発見された。
「兄は私をも信じてはいなかったのですね」
武たちに出迎えられた保は、居間に落ち着いてそう呟いた。
「司が言っていた事が正しいと私もやっと理解する事が出来ました」
「司は何とあなたに言っていたのですか?」
「慈園院家の争いは、何も六条家とのものだけではないのです。身内同士でも争い、上の者は下の者を屈服させ、服従させるのを良しとするのです。司はそんな事を続けていれば、いつか慈園院家は破滅に向かうだろうと。
皆さまの結束は固い信頼から出た絆。敵側である私を信じると、仰ってくださった大きさ。どれも我が慈園院家に欠けているものばかりです」
「六条家も似たり寄ったりです、保さん。六条は一昨年前まで父の後妻に入った女の実家のやりたい放題でした。武がみんなと協力して彼女とその一族を退けてくれたから、何とか六条家は体面を保てているだけなのです」
「そうでしたか…どこも似たり寄ったりなのですね。それなのにこのような企てに加担して…兄は、遥は愚か者です」
一族全員が力を合わせて家を盛り立てていかなければならない時代に、黴の生えたライバル心で争う。如何に時代遅れで現実にそぐわないかを思い知った。そんなものに利用され踊らされていたのかと保は泣きたい気持ちだった。
「早々ですが、情報をいただけませんか?」
雫の言葉に全員が我に返った。保の気持ちは全員には痛い程わかる。身内の都合、傲慢さに振り回されて来た夕麿たちには。
「私が存じているのはわずかな事です。お役に立つものかどうか……」
「ないより良いのです。どんな取っ掛かりになるか、わからないので何でも結構です、お願いします」
まさに藁にも縋る想いだった。
「まず、赤佐 実彦さんが拉致された理由がわかりませんか?我々に対する牽制にしても彼とは、小夜子さまが後援していらっしゃる以外、深い繋がりはないのです。むしろここにいる誰かを拉致するか、夕麿さまの一件のような方法が有効に働きます。赤佐さん拉致の理由がわからない…というのが私とFBIの共通の見解なのです」
雫の言葉に保は項垂れた。膝の上の手を握り締め、血の気の引いた唇を噛み締めた。
その有り様を見て夕麿は思った。どんなに瓜二つの兄弟でも別人であるのだと。こんな時、似たような仕種をしても、司には壮絶なまでの色香があった。保は性癖においては恐らくはストレートだ。数多の恋人たちを抱きながら、清治に抱かれていた司とは違う。こうまでそっくりだと司と対峙しているような錯覚にとらわれてしまっていたが、今やっと保本人を見れた気がしていた。
それにしても紫霄の卒業生で司を知る人間を、惑わすには保は十分過ぎる程の存在だ。昨年の御園生邸でのクリスマス・パーティーに招かれた、実彦と滝脇 直明の二人は保を見て絶句していたではないか。
「赤佐君は…私を動かす為に拉致されたのです」
「それはどういう事ですか、保さま。赤佐先輩とは御園生のクリスマス・パーティーが、初お目もじでいらっしゃった筈」
貴之が驚いて問い返した。
「ええ。あの時が初めてでした。けれど晦日(三十日)にもう一度、街中で出会ったのです。彼は紫霄学院での弟をよく知っている一人だと伺いました。それで少し話をしてみたかったのです」
「それで話をなさった」
「はい。御園生系列のレストランなら、個室があるからと案内されました」
そこは多分、武たちがよく待ち合わせや外食に利用するレストランだろう。こちらの事情をある程度わかっていて、御園生家の人間や周辺の者を見知っている実彦も、小夜子をトップとした後援会の人々と利用した事があるのだろう。
「話を聞いているうちに、彼が泣き出しました。
弟にもう一度逢いたい。
声が聴きたい。
笑顔が見たい。
ずっとそう思っていたと。
私が司の兄で別人なのはわかっているけれど私を見て話をして、笑う姿を見れたから本望だと言われました。
私は同性に恋愛感情を持った事がありませんから、弟を慕う彼の気持ちはわかりません。けれど亡き人を偲ぶ想いは同じだと思いました。それで互いに連絡先を交換して、連絡を取り合う友人になっていました」
たとえそういう関係に至らなくても実彦にとって保は、心の支えになっていたに違いなかった。そして望まぬ企てに利用されかけていた保にも、何かの影響を与えていたのだろう。
「彼は純粋に司を想っていました。司が清治を愛し心中したにも拘わらず、恨み言一つなく慕ってくれている。そのような愛情の在り方もあるのだと私は初めて知りました。
これまでの私は愛情とはもっと打算的なものだと思っておりました。ここで皆さまのお姿を拝見していても、これまでの私が如何に無意味に生きていたのかを痛感いたします。
……話がそれました。赤佐君は多分、このロサンゼルスにいると思います。兄たちが協力している人物、この企ての実行犯である人物は、どうやら全てが自分の手元にないと気がすまない性格らしいのです」
「何故、そう思われますか?」
高辻が興味深く尋ねた。
「私に監視がついていたのは、皆さまもご存知の通りです。それと連絡をとるのに特定の少年を使っていました」
「少年!?それはこの人物ですか?」
雫は義勝がPCに保存していた写真から、本庄 直也のをピックアップしてプリントしていた。これを保に手渡した。保はそれをじっくりと眺めて雫に答えた。
「ええ、ひとりはこの子です。
お知り合いですか?」
全員が息を呑んだ。
「彼は俺たちの中等部時代の同級生です。 多々良の事件の被害者のひとりで転校後、行方不明になっています」
義勝が苦々しく言った。
「どうして本庄君がロサンゼルスに…雅久と高辻先生が彼と一度、キャンパスで接触しています。 その折り様子が普通ではなかったと感じたそうなのです」
夕麿は言葉を紡ぎながら微かに震えていた。 本庄の状態は自分の姿であったかもしれないのだ。
「そうですね。 まるで脱け殻のような少年です。 けれど時折、その瞳に微かな光のようなものが灯るのを見た事があります」
「雅久君、私たちに彼が声をかけて来たのも、そういう状態だったのかもしれませんね?」
「黒幕の作為的なものではなかったと高辻先生は仰るのですか?」
「彼はあなた方とは同級生。 顔見知りなわけです。 たまたま今回は、雅久君に記憶がなかった。
けれどこれが義勝君だったら?
周だったとしたら?
誰かが私たちの所に来ていたら?
彼の正体が判明するという事は、こちらにわずかながらも手掛かりを与える事になります」
「確かに。 リスクの方が高いな」
高辻の言葉に雫が頷いた。
「彼の出現が皆さまのダメージにならない?」
保は不思議そうに言った。
「完全にならない…とは言えません」
雫は言葉を切ってチラリと夕麿を見た。 夕麿の顔は蒼白になっていた。 だが今は夕麿の気持ちを考えてはいられない。
「ですがFBIの捜査や私たちの行動に影響を与えるまでには至りません。 むしろこちらの警戒を強めるだけで、リスクにしかならないのです」
非情な事を言っている自覚はある。 だが雫は皇家を守護する皇宮警護官だ。 ロサンゼルスに来る条件として与えられた任務は紫霞宮夫妻の警護。 その責任は如何なる事を置いても、果たさなければならない。 たとえ後に皆がそれ故に雫を嫌うようになったとしても。
雫はずっと神経を張り詰め通していた。 自分の油断が取り返しのつかない事態を呼ぶかもしれない。 それでなくとも今まで夕麿を標的にして来たような、回りくどい方法を捨てて直接、武本人を抹殺をしようとする可能性が高くなっていた。
雫と貴之、高辻の意見はそう一致していた。 挙げ句にFBIのプロファイリングでも、同じ結果が出たと報告を受けていた。
敵との真っ向勝負になる。 敵は形振なりふり構わず来る。
その一つが赤佐 実彦の拉致と見ていた。 保を手駒としてもっと動かす為。
そう言われてプロファイルが間違っていないと確信する。 こちらが身動き出来ないようにされる前に、相手に対する包囲網を縮めて行かなければならない。
だから…雫は非情になる決心をした。 純粋で真っ直ぐで健気な武を、身内としても臣としても、友としても大切に思うから。 武に寄り添い一途に愛情を注ぐ夕麿が最愛の人の従弟であるから。
血の繋がりがあると高辻は恐らく生涯、口にする事はないだろうと思う。 それでも身内全てから捨てられた彼にとって、夕麿は近くにいる事が許される唯一の身内。 その気持ちを理解しているからこそ、雫は武と夕麿を護り通すと天に誓った。
「今一人はどのような少年でしたか?」
「そうですね…年齢は同じくらい…でも、こちらの少年にも異常な感じを受けました。 あ……そう言えば紫霄学院のスクールリングを付けていました!」
「紫霄のスクールリング…」
「その少年も紫霄絡みか…」
「義勝兄さん、PCの写真を全部、保さんに見てもらって!」
「武、もう一人も私たちの知り合いだと言うのですか?」
「そうじゃない可能性の方が低いと思う。 えっと…誰か、俺のPCを取って来て。 俺の方も見てもらうから」
慌ただしく出入りが行われ、保は差し出され写真を次々と確かめた。 だがどの写真にも彼が会ったもう一人の少年はいなかった。
もしも…もしもこの時、 彼らがある事を失念していなければ、わかった筈のもう一人だった。 写真が撮影された時期を彼らは誰一人、考慮していなかった。
日曜日、本来は休日だ、社の方で問題が起きたと夕麿たちは朝から出ていた。
武はまだ仕事内容をきちんと把握していない。 足手まといにならない為と雫が安全の為を主張して、武は屋敷内に残る事になった。 その代わり夕麿にはしっかりと護衛が付いた。
午後、雫と保が部屋を訪れた。 武は朝から取り掛かっていた事が終わり、ちょうどひと息吐いていた。
「武さまにお願いがあります」
ドアに鍵をかけて雫が言った。
「何?」
武が問い返すと雫は保が手にしていた金属のトレイから、ビニール袋に入った小さな物を差し出した。
「これは鳥などに付ける超小型発信機です。 最新式ですのでGPS機能を持っています。
これを武さまのお身体に埋め込みたいのです」
「夕麿がいない時にしかも保さんを連れて……って事はみんなには内緒?」
「はい。 ちょうど夕麿さま方はお留守ですし、周は清方に連れ出してもらいました。 彼は……あなた方の事では少々感情に走り過ぎます。 お身体を傷付けてまでこのような物を埋め込むのを、決して承知はしないでしょう。 知っている者は少ない方が良いですし保さんは外科医ですから」
「そうなんだ。 わかった。
で、どこにする?」
にっこりと笑った武に保は目を見開いた。
「怖いとは思し召されないのですか?」
「う~ん…肺炎で死にかけたり、一年前には腕に大怪我したし…ついこの前も薬飲まされて心肺停止まで行ったし…大抵の経験したからちょこっと切るくらい平気かな?」
苦笑混じりの言葉に保が今度は驚いた。 もっとも実際には後催眠状態の夕麿に首を絞められて、呼吸停止したのもある。 今更な気分だった。
「その怪我をされた腕が良いと思います」
「そうだね、ひとつくらい増えてもわからないか」
クスクスと笑う剛胆さまで見せる武を今までは、皆に護られているだけの身体の弱い優しい少年だと思っていたし、遥からもそう聞かされていた。
小柄で華奢、少し愁いを秘めたような綺麗な面差し。 いつも夕麿たちに守られるようにして行動している。 伴侶である夕麿も宮大夫である周も、それ以外の者さえも武を第一に考えて行動する。 だが庶民育ちは伊達ではない。 庇護されるだけなのを武は嫌っている。 雫にそう聞かされても今の今まで半信半疑だった。
「それでさ、俺にも頼みがあるんだけど」
シャツを脱ぎながら武が言った。
「何でしょう?」
雫が答えると武は手を止めてちょっと考える仕種をした。
「…どっちかと言うと保さんの方が良いかな?」
「私に…で、ございますか?」
「うん。 成瀬さんだと、高辻先生や周さんが見付ける可能性があるから」
「清方や周に見付かって困るような物なのですか、武さま?」
「困る。
遺言書…だから」
武の口から出た思い掛けない言葉に二人とも蒼褪めた。
「あ、勘違いしないでよ? 別に自分の生命を軽く見てる訳じゃないから。 ただね…今のところ被害にはあっても犠牲は出てはいない。 それは幸運だっただけだろう?
もしも…誰かの生命が本当に脅かされ、間違いなく犠牲にされるなら、俺はそれを黙って見過ごす事は出来ない。
……彼らの真の目的は俺だ。 だから…だからどうしてもの時は俺が死ぬ」
「武さま!」
「心配するな…どうしてもの時。 あくまでも最終手段だ。 それでちゃんと追跡してくれるんだろう? 期待してるよ、成瀬さん?」
「武さま…あなたというお方は…」
「もしもの時にはみんなに渡して欲しい。 お願い出来ますか、保さん?」
「お引き受けするには、条件がひとつございます」
「条件?」
「必要なくなった場合の処分は、私に一任してくださるとお約束なされますなら」
「処分方法? 別に良いよ?」
「ではお引き受け致します」
保は武の左上腕の無残な傷に息を呑んだ。
「これは…何の疵痕ですか?」
「ああ、硝子が刺さった。」
「硝子? それで細かい疵痕も一緒にあるのですね。
そうですね…場所はこの辺りが良いかと」
「お任せするよ」
局部麻酔を打ちメスで3cm程切って開き、小さな発信機を埋め込んだ。
「あれ、縫わないの? それ、何?」
「医療用の接着剤でございます。 瞬間接着剤と同じ素材で出来ております」
「へぇ~面白いな」
「これですと抜糸の必要がございません」
「そっか、便利だね」
実は武、抜糸の時の痛さが注射と同じくらい苦手だったりする。 そこへ夕麿たちが帰宅して真っ先に武の部屋へ来た。
「これは…何事ですか?」
ちょうど武の腕に保が包帯を巻いている最中だった。
「あ…お帰り、夕麿」
武が引きつった笑顔で答えた。
「これは何事かと訊いているのです」
柳眉を逆立てる夕麿に武はとっさに答えた。
「カップを落っことしちゃって拾おうとしたらその上に転けちゃった」
ペロリと舌を出しておどける。
「怪我をしたのですね?」
「3cm程切ってしまわれました」
保が頭を下げて答える。
「酷いのですか?」
「さほどではございません。 念の為、傷口を接着いたしましたが、数日で完治なされます」
「ね? 大丈夫だって」
武が明るく言うと夕麿はますます怒り出した。
「武、何度言い聞かせたらわかるのです、あなたは。 あれ程、落ちたものを拾おうとしてはいけないと教えたでしょう!? まして今のあなたは、車椅子から落ちてしまうのです。 怪我をする可能性を何故考えないのですか?」
「いや…つい…」
「それこそ、私が教えた事をきちんと覚えていない証拠です。 あなたは身体で覚えないと、出来ないようですね?」
包帯が巻かれ終わった武の身体を夕麿は軽々と抱え上げた。
「成瀬さん、保さん、ご苦労さまです。 後は私の役目ですので、下がっていただいて結構です」
夕麿の怒りの籠もった低い声が響き次いで寝室のドアが閉められた。
雫と保は武を気の毒に思いながらも、彼のとっさの言い訳を夕麿が丸々信じた事を驚いた。 恐らく武は一番、夕麿が腹を立てる説明をしたのだ。
よく見れば室内のどこにもそんな痕跡はない。 怪我をしたなら血が落ちている筈で、 片付けてもそれは短時間では簡単に消せない。 第一、武が着ていたシャツは無傷でシミ一つない。
雫は車椅子に残されたシャツを取り上げ保と部屋を出た。 文月に簡単な説明をして、武用のカップを割っておくように命じた。
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でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
お兄ちゃんができた!!
くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。
お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。
「悠くんはえらい子だね。」
「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」
「ふふ、かわいいね。」
律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」
ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
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