3 / 27
家族
しおりを挟む
3日後、紫霄学院高等部は終業式を迎えた武たちはその日の午後、御園生邸に帰宅する為にゲートで待っていた。すぐさま御園生家の車が彼らの前に停車し、助手席から文月が降りて来た。
「お迎えに上がりました」
「ご苦労さまです」
進み出て答えた夕麿を見て文月は息を呑んだ。顔の腫れはかなりひいてはいたが、それでもなお酷い状態であった。
学院内での事件・事故は、きちんと保護者や身元引受人に報告する決まりになっていた。当然、今回の事も御園生家に報告されており、夕麿の怪我についても執事である文月は知らされてはいた。だが聞くのと実際に見るのとでは違う。ましてや顔や頭部の怪我は、実際の状態よりも重く見えるものである。
「見た目程ではありませんので」
夕麿はそう言って、8人乗りのロールスロイスに武を乗せ、義勝や雅久を促して自らも乗った。
「夕麿、傷は痛まない?」
「今のところは大丈夫です」
腫れている側が引きつる為、なかなか笑顔が造れない。それでも笑顔を武に向けたいと思う。
夕麿の精神状態は決して安定したわけではない。雨に対する拒絶反応は以前より重くなっている。地面を湿らしただけの小雨にすら今は反応を見せる。それでも生徒会長としての責任と義務、それに対する夕麿自身の誇りが終業式に至るまでを全うさせたのだ。当然ながら顔色は余り良くない。口腔内に傷がある為、思うように食事が摂れなかったのも、体調が良くない原因でもあった。
「夕麿、ほら、横になって」
武が強制的に夕麿の頭を自分の膝に乗せて横にならせる。
「あんまり寝てないんだから、無理しちゃダメだよ?」
「では…甘えさせていただきます」
本人も無理をしているのは自覚していた。熟睡する事が出来ず、微睡みの中の悪夢に苦しめられる。だが余り眠っていないというならば、傍らで不安定な状態の夕麿に常に対応している武も、この数日はほとんど眠っていない筈なのである。だがそんな様子は微塵も伺わせない。
見ている義勝は心配でならなかった。学院に編入して来た頃の様子から判断すると、武はさほど丈夫ではないように思われる。精神的には今は安定しているようには見える。武が夕麿の素を受け入れ支えているからこそ夕麿は無理が出来る。だからこそ武が無理をした結果、倒れて寝込んでしまうのは防がなくてはならない。
義勝は武の身体について最も詳しい小夜子に相談してみるつもりでいた。
高級車の中はほとんど無音、運転席と後部座席は遮断されて防音になっている。後部座席の窓は全て中を覗けないようにシールドを施してあった。この車は御園生 有人が武たちの為に注文したもので防弾処理なども施してある。全ては武の安全への配慮だった。
御園生邸に入り玄関に横付けされた車から降りると小夜子が出迎えた。
「お帰りなさい」
嬉しげに息子を抱き締め、後ろに立つ夕麿を見て悲鳴をあげた。
「夕麿さん、まあ何て事なの!綺麗なお顔に何て事を……」
彼女の言葉に苦笑した。やはり親子、武と同じ事を言う。
「母さん、夕麿を休ませたいから早く中に入れて」
「あ…ごめんなさい、夕麿さん」
「いえ、申し訳ございません」
「そんなの良いから行くよ、夕麿」
武は夕麿の手を取って中へ入ってしまう。
小夜子はそれを見送ってから、今度は義勝と雅久に向き直った。
「お帰りなさい、私の息子たち」
武に似た面差しの美しさ。高校生の息子がいるとは思えない程綺麗な女性。その彼女が満面の笑みを浮かべて両手を差し出した。
両親が離婚しどちらも親権を放棄してしまい寄る辺を失った義勝。
記憶を失ったとは言え、実母を亡くし家族の愛を失った雅久。
息子と呼ばれて胸が熱くなる。二人は躊躇う事なく差し出された手を取った。
「ただいま、お義母さん」
「お義母さま、ただいま」
帰る家が当たり前にある者にはわからない。温かく迎えてくれる家族がいる人にはわからない。それらがない者の孤独は。小夜子も武を抱えて若くして両親を失っている。だから二人の気持ちは良く理解出来るのだ。
「お腹が空いたでしょう?用意が出来てますから、一緒にいただきましょう。
文月、武たちの分はお部屋に運んであげて」
「承知いたしました、奥さま」
文月に軽く頭を下げて二人は小夜子に続いた。彼女は子供が好きで、本当はたくさん子供を産みたかったのだ。4人もの息子が出来て、小夜子は本当に喜んでいたのである。雅久との養子縁組みは、次の日には滞りなく届けが提出された。
「これで雅久先輩は、俺の兄さんになったわけだね。ねぇ、『兄さん』って呼んで良い?」
一人っ子だった武はずっと兄弟が欲しかった。だから本当に純粋に喜んでいた。
「もちろんです」
「それで義勝はいつ雅久の婿になるんです?」
「夕麿さんの仰る通りですわ」
「高等部を卒業したら……と」
「ええ~そんな先?義勝先輩、それじゃ兄さんが可哀想だよ?」
口々に言われて閉口する。
「まだ……求婚したばかりだから……」
「兄さん、OKしたんだよね?」
たたみかけるように言う武に雅久は苦笑する。
「ええ」
満ち足りた気分で笑みを浮かべて答える姿が溜息が出る程美しい。
「それなのですが…買い物に出たいと思います」
「まあ、エンゲージ?」
「はい」
「買い物なんだけどね、母さん。3人とも余り服を持ってないんだよ」
「え、それは大変だわ」
学院の生徒は内部の年への外出は全て、制服を着る規則になっている。その必要がないのは制服がない大学部の生徒だけである。
夕麿は一応は長期の休みには外に出ていたので、私服を持ってはいるが数は少ない。
雅久は一切合財を戸次家に置いて来た。
義勝に至っては小等部の途中から外に出れなくなっていた所為で、部屋着などの寮内で過ごす服があれば、後は制服があれば充分だった。
今回、御園生邸に戻るのに、用意する荷物がなかったのだ。武が急遽都市に出て、何点か購入したが断然足りない。武も身軽だがこの御園生邸に既に、山程の服が用意されているからに過ぎない。
学院では今までで良いだろう。
「ではみんなでお買い物に参りましょう?」
「お天気も良いみたいだから、夕麿も行こうよ?」
「そうですね、買いたい物もありますし、街を歩くのも気分転換になって良いかもしれません」
「よし、決まり!」
ただどこにでもある家族。それが彼らが一番欲しかったものだった。
「武、夕麿さんにはどちらがよろしいかしら」
同じデザインの色違いで迷う小夜子の問いかけに武は考え込んでしまう。
「う~ん…つい、白い方を言っちゃうんだよなぁ。
普段、制服着てるのばかり見てるから、なんだかそれが一番似合っているみたいに感じる」
「武、それを言ったら、全員そうでしょう?」
夕麿が苦笑する。
「だってさあ…」
「じゃあ、白を出来る限り外しましょう?私としては、違う色のものを着ていただきたいわ」
服選びに嬉々とする小夜子に武は笑った。
「雅久さんは、綺麗過ぎて服の方が負けそうね」
ワイルド系の義勝。
貴公子として申し分ない美形の夕麿。
玲瓏で性別を超えた美貌の雅久。
最近あどけなさが抜けて来たが、それでもどちらかというと可愛い系の武。
さすがにこれだけ揃うと、服選びも大変になる。
小夜子が自分で直接選びたがったので、ヨーロッパのブランド直営店を梯子して、次々と服や靴などを選ぶ。美しい小夜子が連れて歩く、4人の美しい若者は、どこへ行っても注目の的だった。
「母さん、ちょっと休もう、夕麿の顔色が悪いから」
「夕麿さん、大丈夫?」
「申し訳ございません……人混みに酔ったみたいです」
学院には男しかいない。だが街中には女性もいて、擦れ違う時に香水や化粧品の強い匂いがする。芸能人やモデルにはない気品を漂わす美形が、揃って歩いていればわざと接触していく者もいた。他人に触れられる事を嫌う夕麿には、その不遠慮な行為が苦痛になる。途中で気が付いて武と義勝がガードしたがそれでも厚かましく触れて来る。どうやら街往く女性には、一番夕麿が目にとまるらしい。
小夜子は近くのレストランを指し示した。
「私は少し行かなければならない所があるの。武、夕麿さんとそこで待っていて。ここは御園生の関連のお店だから、大丈夫よ?マネージャーには連絡したから。
義勝さん方はどうなさるの?この間にお二人の買い物をなさる?」
「そういたします」
それぞれが一度解散し、後にこのレストランに集合する事になった。武は夕麿とレストランへと歩を進めた。するとあと少しという所で、数人の女の子たちが近付いて来た。
「ねぇ、私たちとどこか行かない?」
「さっきあっちのお店にいたよね?」
どうやらつけて来たらしい。二人になったのを見て、逆ナンパに出たのだろう。
「悪いけどその気はないから」
苛立ちながら武が答える。
「ええ~いいじゃん?男同士より女の子が一緒の方が良いよ?」
そう言って彼女は夕麿の腕に腕を絡ませようとした。それを見た武は慌ててその手を、乱暴に払いのけて怒鳴った。
「夕麿に触るな!その気はないって言ってるだろ!」
騒ぎを聞きつけて店からマネージャーらしい男が出て来た。
「武さま、夕麿さま。奥さまからご連絡をいただき個室をご用意いたしました、どうぞお入り下さい」
「夕麿、行こう」
武は夕麿の背に手を回して歩き出した。夕麿は武の腰に腕を回して、身体を密着させて来た。手に触れるとひんやりしていて体温が下がっているのがわかった。
「夕麿、もう少し我慢して」
マネージャーの案内で奥の個室に入り、夕麿はテーブルに突っ伏した。
無神経な女の子たちに無性に腹がたつ。夕麿は頬のシップこそ外しているものの、頭には包帯を巻いているのだ。相手の様子や気持ちなどお構いなしに、自分たちが声をかければ男は皆、色好い返事をすると思っているのだ。
「武…」
夕麿の震える手が武の手を握り締めた。貧血を起こしかけているのだろうか、さらに冷たくなったように感じる。握った手が震え、顔からは血の気が引いている。
「すみません…香水や化粧品の強い匂いは…ダメみたいです」
武は一度しか六条 詠美に会っていないが、彼女は強い香水の匂いをさせていた。香水にも正しい使い方がある…という単純で当たり前な事に、意識が行かない女性のようだった。恐らく夕麿の嫌悪感や不快さの原因になっている…と考えた方がいいだろう。ノックがしてマネージャーが香り高い紅茶と、焼きたてのアップルパイを運んで来た。
「これをお使い下さい」
差し出されたのは冷えたお絞り。
「ありがとうございます」
武はそれを受け取って夕麿の頬に当てた。
「冷たくて気持ちいい…」
夕麿は身を起こして、お絞りを包帯の巻かれている額に当てた。
「大丈夫?頭は痛くない?」
不遠慮な女たちにはこの包帯が見えなかったというのだろうかと再び怒りが再燃する。
「慣れないといけないとは思うのですが…難しくて…」
「学院じゃ、夕麿の事はみんな知ってるからなあ……でもさっきの女の子たちはちょっと非常識過ぎると思うよ?大体、声かけて良い相手か、そうじゃない相手かくらい区別しろって言うんだ」
武の憤りに夕麿が笑った。
「武もすっかり学院に染まってしまいましたね」
「何それ?」
「街往く人々に身分とか、立場は理解出来ないと思いますよ?」
「そりゃまあ、そうだけどさ。夕麿をその辺の奴と一緒にするなんて……」
他の男と違うというのが理解出来ない女たちを不快に思う。立ち振る舞いや言葉遣いで元々の生きている場所が違うと、判断出来ない頭の軽い女たち。
「可愛い顔が台無しですよ、武」
「可愛いって言うな!」
紅茶を口にしてどうやら落ち着いたらしい。
「気分、良くなった?」
「お蔭さまで」
そう言うと武を抱き寄せて唇を重ねた。
「ん…んん…あン」
唇が離れるのが惜しいと言うように、武から甘えるような声が漏れた。
「ふふ…先程の女性たちの前で、こんな風にキスしたらどんな顔をするでしょう?」
「案外喜ぶかもしれないよ?」
「それはそれで嫌ですね」
本当に不快だという顔をする。
「今度ああいうのが来たら試してみる、夕麿?」
「私は別に気にしませんが、お義母さんがお困りになられるのでは?」
「あはは、多分平気だと思うよ?
何か言う人がいても気にしないね、きっと。第一、夕麿の事を物凄く気に入ってるしね?」
何しろ学院にいる間、小夜子は実の息子よりも、夕麿の方に電話をかけている。
「あれは武の心配をなさってかけて来られるのですよ?」
「どうだか。俺をダシにしてるだけな気がするけど?」
「それは嫉妬ですか?」
「まさか……」
小夜子の無邪気さは、そのまま武の無邪気さと同じだと思う。
そこへ武の携帯が鳴った。噂をすれば影。小夜子からだった。
「もしもし?え、あ…うん。わかった」
「お義母さんは何て?」
「なんかあの子たち、まだ外にいるみたい。義勝先輩たちの買い物が終わったから、車をここの裏に回すって」
「まだいるのですか?困った人たちですね……」
「本当に迷惑な連中…行こう、夕麿。母さんはまだ用が終わらないから、先に帰って良いって」
「そうですか。では帰りましょう」
二人は立ち上がって個室を出た。レストランの中を通過する時、ガラス越しにチラリと見ると、確かに道の向こう側に彼女たちの姿があった。
彼女たちはブランド直営店で買い物をする、言わばセレブな美形をチャンスと見たのだろう。貴族、特に夕麿のような高い身分の人間は、あまり街中を警護も付けないで歩く事はない。従って彼女たちは彼らの正体を、何処かの富豪の子息くらいにしか思ってはいないのだろう。
レストランの従業員用の出入り口の側で待っていると、マネージャーが車の到着を知らせてくれた。
義勝たちは既に乗り込んでいて、武と夕麿が乗ると車は御園生邸へと向かった。
愚かな女たちが、セレブの男を漁ろうとする昨今。成金と貴族の区別すら彼女たちはつかない。いや、巷では男も金持ちの女を漁る。中身のないものに憧れて、何がおもしろいのだろうと武は思う。本当はそんな楽しいものではない。お金があれば楽になると、本気で考えるなら夢見るだけにすればいい。そこに責任や義務が発生し、束縛が存在するのだとは思っていない。
六条 詠美の予備軍みたいな彼女たちに、武は強い嫌悪感を覚えた。
「義勝さん、この星を一番上にお願いしますわ」
小夜子の用とは吹き抜けのリビングに飾る、巨大なクリスマスツリーだった。早々に配達されたそれを武たちと一緒に飾り付け始める。脚立を複数出して、高い場所は全て身長が一番ある義勝に命じる。
とりとめのない会話に笑う。夕麿と義勝の間の皮肉の応酬を、始めて聴く小夜子が一番よく笑う。時折それに雅久が加わり、武が混ぜっ返す。すると負けずに小夜子が突っ込む。
「もう…母さん、やめてくれよ!」
「あら、夕麿さんだって聞きたいわよねぇ?」
幼い頃の暴露を小夜子がするので、武は悲鳴を上げて夕麿の耳を塞ぎにいく。
「だから!聞くなって…夕麿!」
真っ赤になる武を抱き締めて笑い転げる。それは今まで見た事がない程、明るい笑顔だった。
「笑うなよ、夕麿!母さんにバラすぞ、中等部ん時の夕麿の事!」
「何ですって、武?」
「母さん、夕麿ってさあ…ん…もご…」
慌てて夕麿が口を塞ぐ。
「中等部の夕麿?写真ありますよ、お義母さん」
「義勝!」
「あ、それ見たい!義勝先輩、持って来てるの?」
「PCに入ってる」
こうなると飾り付けはそっちのけになる。小夜子が武のアルバムを持って来た事から、義勝がノートPCに入っている自分たちの写真を出す。
「まあ、これが夕麿さん?可愛い!」
小夜子の言葉に真っ赤になった夕麿が義勝を睨み付ける。広いリビングに賑やかな声が響く。
そこへ有人が帰って来た。
「随分賑やかだねぇ」
「あらお帰りなさい、あなた」
「お帰りなさい!」
帰宅した有人まで加わって写真の鑑賞会になり再び大騒ぎになる。
文月が夕食の用意が出来た事を告げに来た時には、笑い過ぎた彼らは全員、肩で息をしている有り様だった。
食事の間も笑い声が絶えなかった。 食後、再びリビングに移って、運ばれて来たお茶を飲みながら談笑する。
ところが話が途切れた時点で、有人が夕麿に向き直った。
「夕麿君、君の進路についてなのだが」
「はい」
「希望はハーバードだったね?」
「そのつもりでいます」
留学については将来、御園生の当主となる武を補佐する為に、アメリカでMBAを取得したいと希望する夕麿の話を、武は自分が1年遅れで追う事で承諾していた。
ただ武が関わる事である為、その筋に申請を出していたのである。
「君がひとりで留学するのには、問題はないと返事があった」
「武が関わると許可は出来ないというわけですね?」
「ハーバードのハウスのシステムがあれに彼を入れるには問題があると判断されたのだよ。 必ずしも君と同じハウスに入れる保証はない。 それに武君の身分を考えても私立の大学では対応が難しいと」
そこで有人は口ごもった。
「まだ何かあるのですか?」
「夕麿君が単独で渡米する場合、武君の進学は学院の大学部に限定になる」
「え?それってどういう事?」
驚いて武が聞くと、小夜子が悲しそうに目を伏せた。
「武…あなたが学院から出られるのは、夕麿さんがいらっしゃるお蔭なのよ? 伴侶として夕麿さんがあなたの側にいる事が前提で、あなたの自由が認められているの。 だから夕麿さんが側にいられない状況になったら、あなたは学院に閉じ込められてしまうの」
「そんな……」
雅久が余りの事に絶句する。
「夕麿、行って良いよ。 行きたい所へ行って、やりたい事をやって。俺は大丈夫だから。 ちゃんと待ってるからさ」
一年だから…と、夕麿の留学を歓迎した。一年後に追い掛けて行けば良いのだ。何年も会えないのは辛いし寂しい。けれどそれはわがままだとわかっている。でも夕麿はもっともっと自分の望みを叶えるべきだと思う。
「それでお義父さん、何処であるならば武の留学が許されるのでしょう?」
「UCLAならばこちらで用意した住居で生活するという、条件付きで許可してもらえると」
それを聞いて夕麿と義勝が同時に苦笑した。
「義勝、よくよく私たちは縁があるようですね?」
「腐れ縁もここまでいくと、笑うしかないだろう」
義勝はUCLAの心理学部に進学を希望している。UCLAの心理学部は全米のトップにランクされており、メディカルセンターが完備され大学院もある。 雅久も芸術学部への進学を希望していた。
「待って夕麿、俺は良いんだから…」
「いいえ、武。それでは私が耐えられません。あなたに何年も会えないなんて…無理です。 一年でも不安なのですから」
武の愛情に依存している自分を夕麿は自覚している。 少しは自立して旅立ちたいとは思うが、武の犠牲の上に自分の進路は決められない。
「UCLAのロースクール、アンダーソン・スクール・オブ・マネージメントも優秀で難関の学校です。 少しも不足はありません」
ハーバードでなければならないという理由はない。 世界ランキングの高い大学を上げただけに過ぎない。武と比べる事など、絶好に有り得ない。
「それで構わないんだね?」
「はい」
「ではロサンゼルスの御園生の企業にバックアップの準備をさせよう。 その代わり向こうで、経営に携わってもらうよ?」
「わかりました」
「また、お前と一緒か…」
義勝が苦笑する。
「では一年後には四人が揃うのですね?」
「いや、貴之がUCLAの心理学部犯罪心理学科を希望している」
「五人一緒!? あ、麗先輩は?」
「フランスでパティシエの勉強をすると言ってます」
「ああ、和菓子司が実家だものね」
「進路が別れてもいつでも会えますよ、武」
「そうだね」
武は学祭で赤佐 実彦が歌った『ソルベイクの歌』の歌詞を思い出していた。 そう生きてこの空の下にいるならいつでも会える。
武の気持ちを肯定するように、夕麿がそっと手を握り締めた。
「夕麿、本当に良いの?」
「あなたに勝るものなど存在しません」
武は自分の不自由さが原因で、夕麿の未来をこれ以上、束縛したくはなかった。
「…ごめんなさい…」
夕麿の為なら何でもすると、そう思っているにもかかわらず、結局は自分の所為で台無しになってしまう。
「俺…生まれて来ない方が、良かったのかな…?」
「そんな事はありません」
「気休めはやめてよ。ちょっと考えればわかるよ、そんな事は。 俺が誰の子かってのを、公表出来ないのに…でも存在している限り野放しには出来ない。だから制約を付けて、身動きが出来ないように束縛する。
本当は学院に閉じ込めたいんだろう? 昔に特別室に住んでた人みたいに。
俺は何の為に生まれて来た? 俺の存在理由って…何? わからないよ…好きな人まで巻き込で…」
自分で望んだわけじゃない。
「武、武。
やめて下さい。 自分の事をそんな風に思ってはいけません。 確かにあなたは難しい立場です。 そういうものだと知っている私でも、理不尽な事ばかりあなたに要求する彼らには、腹立たしく思っています。
でも生まれて来ない方が良かったなんて…どうか思わないで。 お義母さんがどんなにあなたを愛していらっしゃるか…あなたは愛される為に生まれて来たのです。 それに…あなたが存在しなかったら、私は未来を失っていました。
武、あなたが私を光ある場所へ導いてくれたのですよ? 私だけではありません。 義勝も雅久もあなたが未来をあげたのです。 これから先もあなたは学院の闇に閉じ込められようとする者を、あなたという光が導くのだから。
あなたは必要だから、生まれて来たのです」
夕麿自身が自分の存在理由を何度も見失った。絶望に生命さえ投げ出そうとした。生まれて来なければ、こんな想いをしなくてすんだ。自分の無力さに涙を流す夜を、どれくらい過ごして来た事か。けれど今は不安定で時折哀しさに心が支配される事もあるが、愛する事も愛される事も知って、生きるのを忌まわしいとは思わなくなって来た。
「どうしても理由がみつからないと思うのでしたら、お願いです。私の為に…と思って下さいませんか? あなたがいなければ、私はきっと、抜け殻になってしまうでしょう。今の私にはあなたが存在理由なのです」
「夕麿の…為? 俺…夕麿の役に立ってる? 邪魔してるんじゃないの?」
ベッドに座ったまま背を向ける武を、背後からしっかり抱き締めた。
「邪魔だと感じた事などありません、一度も。逃げようとした事はありましたけどね。でも宿命というものがあるとすれば、武、あなたこそが私の宿命です。それに…あなたは私のものなのだから」
言葉をどれだけ紡いで並べてみても、慰めは慰めでしかないのはわかってはいた。けれど言葉を紡ぐ事と抱き締める意外に、今ここで何が出来るというのだろう。愛を得てもまだ無力な自分が悲しい。
「夕麿、シて…」
「幾らでも…お望みのままに。 明日、起きられなくなるくらいに、たっぷり可愛がってあげましょう」
武は欲望混じりの期待に身を震わせた。
夕麿は思う。武は決して同性愛者ではない。また自分のように完全に異性を排除した環境で、成長したわけでもない。本人は自覚してはいないが、例の夜想曲を弾いていた女の子に、仄かな想いを持っていたのだろうと。普通に街中の学校へ進学していれば、普通に女の子に恋をしていただろう。
紫霄学院の特殊さ故だと。
義理の母親の所為で、女性に余り良い感情を持てない夕麿とは違う。恐らく自分との関係は学院側の策略でもあっただろう。出自や双方の父親の関係などを見た上だと、今となっては安易に考えられる。多々良の事件が問題にはなっただろう。 だがそれは逆に夕麿が、同性愛に対する嫌悪感を持たない証明にもなった筈だ。 セッティングされた関係だったとしても、今の互いの気持ちには嘘偽りはない。
愛し合った後の微睡みの中にいる武を、穏やかな気持ちで抱き締めると、彼は甘えるように縋り付いて来る。 自分が彼の自由の条件なら、どんな犠牲を払っても側にいよう。 最も自分の自由も現時点では、武との関係がネックなのだ。だが自分の場合は高等部を卒業して旅立てば束縛から解放される。 生涯続く束縛に生きる武と歩んで行けば、まだまだ障害は出て来るだろう。 現に今も帰宅は出来ても旅行は許されていない。 御園生邸で過ごす時間を楽しんでいるから今はわからない。 しかし夕麿が渡米した場合、会う為に動けるのは夕麿だけ。 それも帰国を申請して武が学院から出る為の許可を求めなければならない。
進む道がそこにしかないのなら、胸を張って堂々と歩けば良い。もしひとりで歩けと言われれば、孤独に押し潰されてしまうだろう。だが二人ならきっと、支え合って生きていける。だからその為にもまず、この不安定な心を治療しなければならない。
「待っていて下さい。あなたを支えられるようになりますから、必ず」
夕麿が耳元に囁くと、眠っている武が小さく返事した。
「ん…わかった」
愛らしい微笑みに微笑み返して夕麿も目蓋を閉じた。
クリスマス間近のその日、武と夕麿は約束通り街に出ていた。目的は書店だがただ行くだけではつまらないと車を御園生邸に帰してしまった。
今朝の往診で夕麿の包帯も取れたので、そのお祝いも兼ねてのデートだった。
平日の午後を選んでの外出。この前の日曜日の人混みに懲りたので、一番、人の往来の少ない時間を選んだのだ。
「夕麿、体調が悪くなったらすぐに言ってよ?いつもギリギリまで我慢するんだから」
「我慢しているつもりはないのですが」
いつも武が気付いて慌てて対処するのが常だった。
「わかった。じゃあ、俺が気を付ける」
夕麿と歩くと道行く人々の視線が集まる。ウザい反面、ちょっと自慢でもある。
「じゃあ、約束通りファーストフードを食べに行こう!」
「あ…武、そんなに急がなくても…」
夕麿の手を取って急ぎ足になる武に戸惑う。武は一番近い店に入った。昼を過ぎた時間の所為か、店内は空いていた。
「夕麿、えっと…ああ、あそこのテーブルに座ってて。適当に買って来るから」
武は窓際の角の席を指差した。
「わかりました」
夕麿はファーストフード店には余りにも不釣り合いな、優雅な身のこなしで武が示したテーブルに歩いて行く。周囲の眼差しがそれを追う。
武は急いで販売カウンターに向かった。
席に着いた夕麿は店内を見回すでもなく一枚の絵のように座っていた。手持ち無沙汰…というのを夕麿は知らない。周囲が彼の為に動くのが当たり前の生活では待つのは普通であるからだ。ただ商品を買い求める為にカウンターに立つ武をそれとなく眺めていた。
すぐ横のテーブルに夕麿を気にしながら、女の子が二人座るが目に入ってはいない。
「夕麿さま…?」
かけられた言葉に振り向くと貴之が立っていた。
「貴之…?」
「お一人……の筈はないですね」
「貴之こそどうしてここに?」
「外を歩いていたらいらっしゃるのが見えたので…今日はデートですか?」
夕麿は貴之の言葉に赤く頬を染めて俯いた。
「学院でも実家でも一緒ですから、今更…なのでしょうけど。留学先の資料が欲しいと思いましてね」
「資料…?ハーバードのですか?」
「いえ…留学先はUCLAに変更しました」
「え…何故…ですか?」
「物言いがありました」
「武さまの事で…?」
「ハーバードに行くならば武は学院内で進学する事になると…ロースクールの期間まで入れると6年です…」
「それは…あんまりです」
「UCLAならば許可をいただけるそうなので」
「ではまた学部は違いますがご一緒出来ますね」
「御園生が家を用意して下さいますから、貴之、あなたも如何ですか?」
「ありがとうございます」
「あれ? 貴之先輩?」
トレイを持った武が驚いて立ち止まった。 貴之はすかさずトレイを受け取って運んだ。
「外を通っておりましたら、夕麿さまのお姿が見えましたので」
「そうなんだ。 一緒、する?」
「いえ、お二方のデートのお邪魔はしたくありませんし、俺の方にも連れがおります」
貴之が入口を指すとそこには髪の長い綺麗な女性が立っていた。
「では、失礼いたします」
「あ、うん」
貴之がその女性と立ち去るのを見送ってから武は夕麿を見た。
「綺麗なひとだね?」
「多分、貴之の許嫁です、彼女は」
「許嫁? ふうん…それでなの? 貴之先輩って学院じゃ、ストイックだもんね?」
夕麿は武のその言葉に複雑な顔をした。
「ん…? 違うの?」
首を傾げる武に夕麿は深々と溜息吐いた。 視線をそらした夕麿を見て、武はそれ以上の質問を引っ込めた。
「えっと…買って来た。 これ、お茶ね。 こういう所の紅茶は、ティーパックだからなあ…一番、無難なのにしたけど」
「すみません、武。 それでこちらの紙に包んだ物はなんですか?」
夕麿が指差して聞くと隣の席で、聞き耳を立てていた女の子が驚いた顔をする。
「これがハンバーガーだよ?」
武はひとつだけ購入したハンバーガーの包みを開けて見せた。
「随分シンプルですね」
「もっといろんなのが入ってるのもあるけど、夕麿は食べにくいかなって思ったから。
お試しって事で、はい!」
夕麿は手渡されたハンバーガーを不思議そうに眺めた。
「あの…武、食べ方がわからないのですが…」
「おにぎり食べる要領で、ガブリと」
「ハンバーガーですよ、これは?」
話が通じない。
上流階級では、ハンバーガーも鶏モモの焼いたものも、フォークとナイフで食べる。それしか知らない者には、他の方法があると思わない。ペットボトルの飲み物を、グラスに入れないと飲めない人がいる。ペットボトルに口を付けて飲む行為を気持ち悪く感じて、どうやっても口を付ける事が出来ないのだ。私たちが普段当たり前なものが、彼らにはマナーに適わないものか、まるで理解出来ないものになってしまう。簡単に見えて簡単ではないのが、人間の習慣というものなのである。
「こうするんだよ?」
武はいきなり夕麿が手にしているハンバーガーにかぶりつく。
「ほら、夕麿もやってみて」
目を丸くしながら夕麿は頷いて、恐る恐るハンバーガーを口に含んだ。
「コホッ…味の濃い食べ物ですね、これは…」
「あ、やっぱり?俺も学院の味になれちゃったから、前ほど美味しく感じないなあ…」
「普通は…こういう物を食べるのですか、皆さんは…」
「身体に余り良くないって嫌う人もいるけど…普通の学生はお金ないからね。手っ取り早くこういうので済ませてしまうんだよ」
「そういうものですか?私たちの年齢は成長期ですから、もっとバランスの良いものを摂取するべきだと思いますが」
「まあね。それは正しいんだけど」
「武も学院に来るまではよく食べたのですか?」
「余り食べなかった。ひとりで来ても仕方ないし、母さんも余り良い顔しなかった」
「そうでしょうね」
それでも武がハンバーガーを食べ終わるのを、溜息混じりに見守った夕麿は改めて店内を見回した。
「確かに…私たちと同じくらいの人がいますね」
「うん。まあ、こんな機会がないと一生、縁がないと思うよ、夕麿には」
「武にもです。あなたはもう、ここにいる彼らとは違った生活をしているのですから」
「うん…これ食べてそう思った…」
「以前とは違ってしまったのは寂しいですか?」
「どうかな…さっきも言ったみたいに、こんな所に一緒に来る友達はいなかったし、今は夕麿がいて兄さんがいて…義勝先輩もいるから…」
その返事に夕麿が微笑んだ。
「それで次はどこへ連れて行ってくれるのですか?」
「う~ん…そこのデパートに、大規模なおもちゃ屋が入ってるらしいんだ」
「おもちゃ屋…ですか?」
「うん。母さんがぬいぐるみ好きだから、クリスマスプレゼントにどうかなって」
「それは良いですね。きっと喜ばれます」
「一緒に選んでくれるよね?」
「もちろんです。今は私のお義母さんでもあるのですから」
「じゃあ、行こうよ」
トレイを片付けて武は今一度、店内を振り返った。もうファーストフード店には入る事はないのかもしれないと、それ程馴染みがあったわけではないが、少しだけ寂しく感じた。そっと夕麿の指に指を絡めて、今の自分を確かめるように手を繋いだ。
「おもちゃ屋…とかにも行った事がないのですが」
「玩具店とも言うけど…結構面白いよ? あ、テレビゲーム買って帰って、みんなで遊ぼうよ?」
「それは私にも出来るでしょうか?」
「なれたらきっと、夕麿は名プレイヤーになると思うよ? テーブルゲームとかもあるし…」
答えながら武はチェスは避けたいと思った。板倉 正己の暗示は解けているが、やはり余り気分の良いものではないだろうから。
手を繋いだ二人を訝しげにジロジロと見て行く人もいる。こちらが視線を向けると慌てて視線をそらす。だが二人ともそんな事は気にしない。やましい事などないからだ。両親が認めて結ばれた二人。二人でいる事が必要でもある。だから誰にも恥じるものではないし、確かな絆で結ばれているから胸を張って堂々と歩く。 道行く男女のカップルと何ら変わる事はない。
平日の昼間のデパートは、確かに人が疎らだった。
「やっぱり人が少ないね」
「デパート業界は変動期にあるようです。株価も余り良くないですから」
「そうだよね…俺も手を出そうとは思わないなあ…」
デパートの客足を見て、株価の話になる所が紫霄学院の特待生らしい。
「エスカレーターとエレベーター、どちらで上がりますか?」
「さすがにエレベーターは混んでるね。エスカレーターにしようよ」
狭い空間で香水や化粧品の匂いがしたら、また夕麿の調子が悪くなりそうだと思った。
デパートの一階は近年改装されて、スイーツの店が並んでいた。甘い香りが漂う。その中を歩いて行く。
「あ、葛岡君!」
以前の姓で呼ばれて、武は思わず顔を強ばらせて立ち止まった。見回すと女の子が二人、笑顔で駆け寄って来る。
「久しぶり!」
おぼろげに記憶に浮かぶ顔は、中学のクラスメートだったと告げていた。
「あ…久しぶり…」
「公立蹴って私立に行ったって聞いたんだけど…引っ越したの?」
「うん…母がその…結婚したから」
「じゃあ、そっちで住んでるんだ?」
「えっと…普段は学校の寮にいるから…」
「そうなんだ」
少女は嬉しそうにしながら、一緒にいる夕麿を気にする。だが武は敢えて紹介しない。
「ごめん、急いでるから」
「そうなの?呼び止めてごめんね」
「あ…うん。じゃあ…」
「またね~」
手を振る彼女たちにお義理程度に振り返してその場を逃げ出した。
夕麿はずっと黙っていた。その沈黙が怖い。
エスカレーターの近くまで来た瞬間、その向こうにある階段の影に引っ張って連れて行かれる。
「あの…夕麿…ン…」
いきなり抱き締められて唇を重ねられた。
「ン…ンン…」
もがくとすぐに離されたが、抱き締める手は緩まない。
「何するんだよ、こんな場所で…幾ら何でも、誰かに見られたら恥ずかしいだろ!」
そう言って見上げた夕麿の顔を見て武は絶句した。いつもの嫉妬だと思ったのに、そこにあった顔はとても悲しそうだったのだ。
「夕麿…?どうしてそんな顔するの?」
「先に話し掛けて来た女の子が、夜想曲の子でしょう?」
「そう…だったと思うけど、それがどうかしたの?」
「いえ…いつもの嫉妬です」
「本当に?」
武が問い返すと夕麿の睫が揺れた。
「単なる同級生だよ?」
わかってはいる。それでも揺らぐ心を止める事が出来ない。ひとつのIFを見てしまったから。
「信じてないだろ? 怒るよ?」
「信じないのでは…ありません」
「じゃ、何だよ?」
「私が愚かなだけです」
「何それ? 有りもしない事を考えたんだろ?」
「ごめんなさい」
「謝るならそんな事考えんな。行くよ?」
手を掴んでエスカレーターへと歩き出すと夕麿は微笑んだ。武はやれやれという顔で溜息を吐いて夕麿に耳打ちした。
「あんまりつまんない事を考えるとお仕置きするよ?」
囁かれた夕麿は真っ赤になった。あの夜以来、武と夕麿が逆転した行為はしていない。 本質的に武は夕麿に抱かれる方が自然だと思っている。だからこそこういう時に効き目がある。
「女の子と仲良くしたのは、武でしょう? お仕置きされるのは、武の方だと思いますが?」
「う…」
いつもの口調で切り返されて、思わず怯んでしまう。こういう時の気迫は、絶対的に武に勝ち目はない。
「今夜が楽しみですね」
「………」
墓穴を掘ってしまったと気付いても後の祭りだった……
「やっぱり大きいのが良いかな~」
「それにしてもぬいぐるみというものは、随分と種類があるのですね」
「これ一部だよ?店によって置いてある種類は違うかな?
夕麿も何か買う?」
「それはお義母さんにという意味ですか?」
「ううん、夕麿の」
「必要を感じませんが?」
「ちょっとこれ持ってみて」
武が手渡したのは大きなウサギのぬいぐるみだ。
「うぷぷ、似合わない~」
「当たり前です!」
ぬいぐるみを抱いたまま真っ赤になった夕麿を携帯のカメラで写す。
「何をするんです!消しなさい!」
「やだ」
「武!」
「よし、そのウサギにしよう」
笑いながら夕麿の手からぬいぐるみを奪ってレジに持って行く。夕麿は周囲にいる人が笑いを堪えているのに気が付いて一層赤面した。ぬいぐるみの配達を依頼して、今度はゲーム機とソフトを見に行こうと歩いていると再び貴之と遭遇した。
「あれ?貴之先輩、良く会うね?」
「武さまと夕麿さまこそ、変わった場所にばかりいらっしゃるんですね」
「夕麿の社会見学だよ」
「どういう意味です、それは?」
貴之は学院で会う夕麿とはまるで違う、彼の様子に驚きながらも微笑んだ。一連の事件による心的外傷が著しかった夕麿が、どこにでもいる普通の高校生のように豊かな表情をする。高辻医師のアドバイスを武や御園生家が受けたと聞いていたが、それがここまで効力を見せているのに驚いていた。
「あの…貴之さん、この方々を紹介してはいただけません?」
ひとり蚊帳の外に置かれていた女性が痺れを切らすように言った。貴之は一瞬、不快そうに顔を歪めてから笑顔をつくった。
「武さま、夕麿さま、紹介いたします。俺の許嫁の十河 梓さんです」
「初めまして御園生 夕麿と申します」
「御園生 武です」
「まあ、ご兄弟ですの?」
「戸籍上は」
夕麿のどこか素っ気ない物言いに梓が戸惑う。
「梓さん、そろそろ行きませんか」
「えっ、でも」
貴之にしても余り武たちの事を彼女に詮索させたくはない。武の身分や立場を説明する事は出来ないし、ましてや二人の関係をこんな他人のいる場所で話すのは避けたい。少しは空気を読んで欲しいのに、どうしてこの女は何でも知りたがるのか…と思う。
その時、人混みを掻き分けて刃物を手に突進してくる若い男が目に入った。
「武!」
「武さま!」
咄嗟に夕麿が武を庇い貴之が、二人と男の間に入って刃物を叩き落とした。なお掴みかかろうとする男を、貴之が取り押さえた。関節を押さえ込まれてもがく男の顔には見覚えがあった。
「お前…佐田川 和喜か!」
夕麿の義母だった詠美の甥 和喜が、学院祭で騒動を起こして退学になったのは記憶に新しい。彼は貴之の拘束を逃れられないとわかって、武を庇うようにして立っている夕麿に顔を向けた。
「畜生!夕麿、お前だろう!よくも……」
「何の事です?」
「しらばっくれるな!うちの事を洗いざらい通報したのは、あんただろうが!」
絶叫する佐田川 和喜の言葉が夕麿には理解出来ない。第一、佐田川一族に何があったのだろう?
すると武が夕麿を制して歩み寄った。
「夕麿は何もしていないし知らない。貴之先輩に命じて事実を徹底的に調査させたのは俺だ?もちろん当局への通報も俺が命令した」
「何だと!てめぇ…よくも…」
「自業自得だろう?調査されて出て来たものは、お前の一族が犯した罪だ。俺が通報しなくてもいつかは露見したさ」
佐田川 和喜を見下ろす武の目は氷のようだった。
「俺は佐田川一族が夕麿にした事を忘れない。夕麿には何の罪もなかった。なのにお前たちは何をした?俺はお前たちだけは許さないと誓ったんだ。全てはお前たち自身が招いたものだ。俺も夕麿も貴之先輩も、恨まれる筋合いはない」
武と貴之が調査の結果を黙っていたのには大きな理由があった。多々良 正恒が輪姦させた少年たちの相手は、全て佐田川と何等かの取引があった者たちだったのだ。そして佐田川は最後に夕麿を競売にかけるつもりだったのだ。義理とはいえ詠美は保護者である。彼女は学院から夕麿を連れ出せるし、転校などの手続きをとれる。外に出して高額でそういう嗜好の人間に売り飛ばして、排除しようと目論んでいたのだ。しかも夕麿の父、六条 陽麿はそれを知っていて放置したという。
知らされた武の怒りは凄まじいものだった。今にも自らの手で六条夫妻を殺しに行きそうな状態を、みんなで懸命に説得したのだ。この事実を知らないのは夕麿だけ。義勝や雅久、御園生夫妻もその場にいて知っている。出来れば夕麿に知られないままで、佐田川一族を潰したかった。
「武…あなたは、何をしたのです…?」
「別に。コイツ等の犯罪を暴いただけだよ。夕麿は気にしなくて良い。全部終わったから」
「武!貴之、これはどういう事です?」
「申し訳ございません」
貴之は首を振って口を噤んだ。佐田川 和喜を駆け付けた警察官に渡し、事情は後で話しに出頭すると説明した。
御園生家の車を呼んで貴之と梓を伴って御園生邸に戻った。佐田川 和喜の襲撃は既に知らされていた。
「武!夕麿さん!怪我はないの?」
「大丈夫だよ、母さん。貴之先輩が捕まえてくれたから」
小夜子はそれ以上何も言えなかった。
武に学院へ呼ばれた有人が、怒り狂った武の凄まじさを彼女に語ったが、そんな息子の姿は今まで一度も見た事がなかった。武はいつも穏やかで、感情の起伏など滅多に見せない子供だった。聞かされた事実も、余りにも残酷非道であったが。全員がとったのは一つは多々良 正恒絡みのもの以外の犯罪を、警察庁の高官である貴之の父親に通報した事。そして佐田川一族の所有する、全ての企業の乗っ取りと倒産の工作だった。乗っ取りの為の株の買収は、夕麿を除いた生徒会執行部全員が協力して行った。武は佐田川一族を丸裸にして破滅に追いやったのだ。
「武、説明して下さい。貴之は何を調べてたのですか。あなたがそこまで怒っているという事は、私の知らない事実がまだあったのでしょう?」
武に迫る夕麿を制して貴之が答えた。
「俺が話します、武さま。夕麿さまにこれ以上隠すのは無理でしょう。その前に梓さん、あなたは帰りなさい。これはあなたには関わりのない事だ」
「でも」
「あなたが首を突っ込んでも、何の益にもならない。家族であっても個人情報は、話してはならないというのは常識の筈です。しかもあなたはこの方々とは、今日あったばかりです」
貴之の言葉に梓は更に不機嫌な顔になって、バックを乱暴に掴んで立ち上がった。
「文月、このお嬢さまをお宅までお送りして」
「はい、奥さま」
小夜子の言葉に文月が居間のドアを開けて彼女を促した。
「貴之さん!」
「本当に俺の妻になりたいなら、その好奇心は必要じゃない。本日の事は申し訳ないが父に話します」
もうウンザリだった。警察庁高官の家のあり方を少しも学ばず、自分の我と好奇心ばかりの女性は。親同士が友人というだけで決められた許嫁など、貴之には邪魔でしかなかった。
「父が黙ってはいません!」
「ではお父上にこう申し上げて下さい。皇家の貴種の関わりに好奇心は無礼だと。
もう良いでしょう?
文月さん、彼女をお願いします」
彼女はまだ何か言っていたが、文月が取り合わずに連れて行ってしまった。
「申し訳ございません」
貴之に罪はない事は小夜子もわかっている。
「弁えのない困った方ですわね。当家からもお口添えして置きますわ」
「ありがとうございます」
これで破談になるだろう。貴之はホッと胸をなで下ろした。
貴之から真実を聞かされた夕麿は、声も出せない程の衝撃を受けた。もしその企みが成功していたら…考えただけで身の毛が弥立つ。身体の震えが止まらなかった。
「夕麿、もう大丈夫だから。俺が絶対に守るから」
腰に腕を回して抱き締める。すると反対側に小夜子が座って、夕麿を抱き締めた。
「夕麿さん、あなたの家はここよ。私はあなたのお母さまには適わないけど、でも今はあなたの母親だわ。感情を押さえ込もうとするのはお止めなさい。あなたは泣いて良いの。叫んで良いの。あの人たちを怨んで良いのよ?」
「お義母さん…」
夕麿は小夜子に縋り付いて泣き出した。父が自分を捨てたのはわかっていた。だがこのような仕打ちを知ってなお、放置するなど…考えた事もなかった。
小夜子に縋って泣く夕麿の背を武は抱き締めた。義勝と雅久も近寄って肩を抱いた。貴之はその手を握り締めた。
「夕麿、ここにいるみんなが家族だよ。貴之先輩もね」
眼には眼を歯には歯を。
自分たちが痛い目にあっても、決して反省したり悔い改めたりしない人たち。ならば二度と立ち上がれなくなるまで叩き潰すだけ。傷付いて泣いた人たちに、せめてもの餞。 生きる光を失って死んだ、慈園院 司と星合 清治の魂も、これで少しは癒されただろうか。武はそうであって欲しいと祈らずにはいられなかった。
だが夕麿には本当に知らせたくなった。御園生邸での家族の団欒が、少しずつ癒しをもたらしていたのに、結局また傷を深める事になってしまった。 泣くだけ泣いて落ち着きはしたが、不安定さが増したように見えた。
「ピアノを…弾きたい」
ポツリと呟いた言葉に全員が顔を見合わせた。このリビングには夕麿の為にグランドピアノが用意されてある。武の話を聞いて小夜子が購入したのだ。さすがに夕麿が持つ、戦前のベヒシュタインのような逸品は無理だったがベーゼンドルファーが手には入った。
小夜子も無縁ではなかったので、子供たちがいない間の寂寥感を慰めるものになっていた。
小夜子は夕麿を立ち上がらせて、ピアノの前に連れて行った。
「ベーゼンドルファー…?」
「ええ。 夕麿さんのベヒシュタイン程ではないけれど」
「私の…為に…?」
義勝がその間にセッティングし鍵盤を守る布を取った。夕麿は震える指を鍵盤に置いたかと思うと、いきなり『幻想即興曲』を弾き始めた。
「夕麿!」
義勝が慌てて止めさせる。
「指を潰す気か!すみません、蒸しタオルを熱めで! 武、マッサージを手伝え!」
人間の筋肉は急に激しく運動すると様々なトラブルを起こしやすくなる。それは指でも同じ。細い指を支える筋肉や骨、それらを動かす神経は脆い。ピアノがなくてもピアノ奏者は、毎日、指を動かす訓練は続けているが、実際に重い鍵盤を叩くとなると違う。指全てを動かして温めてからでなければ、間違いなく傷めてしまうのだ。
武は夕麿の左手を、義勝のする事を見よう見真似でマッサージする。そこへ運ばれた蒸しタオルで手を包んでマッサージを続ける。夕麿は無表情で座ってされるままになっていた。
「よし…いきなりはダメだ。緩やかな曲から始めろ」
義勝の言葉に小さく頷いた夕麿の指が、ドビュッシーの『月の光』を奏で始めた。 いつか武が好きだと言った美しい曲。 武は微笑んで礼を口にした。
「ああ…何て美しい色…」
雅久がうっとりとする。『月の光』は光そのものの音を、ドビュッシーは聴けたのではないかと思わせる旋律が続く。偉大な作曲家には共感覚者が多かったと言われている。共感覚と絶対音感が、結び付いているからかも知れない。共感覚者は皆、絶対音感を持っているからだ。絶対音感の開花で共感覚も開花した者も多い。 少なくとも乳児は皆、共感覚を持っているのだ。鍵盤を叩く夕麿の表情は、陶酔したように見えるものに変化した。
「武…あなたの言う夜想曲は…これでしょうか?」
そう言って夕麿が短く奏でたメロディーに武は首を振る。夕麿は指を止めて少し考え別の曲を奏で始めた。
「あ、これだ」
「夜想曲 変ロ短調…ショパンの夜想曲の代表のような曲です」
高音の響きが美しい曲はその流れような旋律と相まって、題名や作曲家を知らなくても一度は耳にした事がある曲である。 感情を豊かなこの曲は、弾いている者の心を露わにする。
音楽は演奏でも歌でも舞でもその者の内面を露わにする。心が乱れればそれも乱れる。冷酷な者に本当の意味での美しさは表現出来ない。
美とは天上の光そのものである。
夜想曲を弾き終わった夕麿が一度手を止めて、再び弾き始めた曲は幻想即興曲』よりも激しい曲だった。
『革命のエチュード』
それはショパンがフランスにいる時に故郷のワルシャワが、侵略された知らせを聞いて怒りと悲しみの中で作曲したと言われている。全体のほとんどがffで構成され、鍵盤に指を叩き付けるように奏でる。まさに怒りと悲しみは今の夕麿の気持ちそのものだった。どこにこれだけの激しさを隠していたのかと思うほど、夕麿は感情を全てぶつけるように全身で鍵盤を叩き続ける。弾き終わればまた最初から。プレーヤーのリピートのように。
雅久が声なき悲鳴に失神した。夕麿の感情が音となりそれが色彩の嵐となって雅久を襲ったのだ。その凄まじさは雅久にしかわからない。だかそれは夕麿の感情の奔流を表していた。 誰も声も出せず、鍵盤を叩き続ける夕麿を止める事は出来なかった。
ショパンは生まれ故郷のポーランドが他国に蹂躙され、戻れなくなった作曲家である。 故郷を想い故郷を愛した人だった。その故郷が繰り返し他国によって蹂躙され、支配されるままになるのを悲しみ続けた。
その想いは生まれた家に捨てられた夕麿の心と、通じるものがあるのかもしれないと武は改めて思った。多分、夕麿は自分が何故ショパンを好むのか、その理由をわかってはいないだろう。感情を抑圧する事になれてしまった心は、ピアノの音色として空間に解き放つ。ピアノが夕麿を支えて来た由縁かもしれない。
夕麿が手を止めたのは夜も更けてからだった。義勝は再び蒸しタオルで夕麿の指をマッサージしてから、武に部屋へ連れて行かせた。彼は放心状態だった。心のありったけを鍵盤に叩き付けてしまったのだ。
義勝は奏者のいなくなったピアノに座り、端から端まで指を滑らせた。
「お義母さん、明日、調律師を呼んで下さい」
「え…?」
「二つ程、今の夕麿の演奏でズレました」
余りの激しさに音を奏でるピアノの弦が緩んでしまったのだ。
「あの調子で指先が裂けるまで弾き続けて、弦を切ってしまった事もあります」
「義勝さん…あなたもピアノを弾かれるのですね」
「夕麿には適わないと諦めましたが…趣味として今でも続けてはいます」
「そう…夕麿さんのピアノは、繊細で精巧に造られた美しいガラス細工のようね。
儚くて…脆くて…哀しいわ」
過酷な宿命はどこまで無慈悲なのだろうか… …小夜子はこの先に息子たちを待ち受ける運命、少しでも幸多き時間がある事を静かに天に祈るのだった。
不安定さに揺らめく夕麿の心を少しでも、和らげたいと武は彼を連れて閑静な住宅街を散歩する。毎日少しずつ距離を延ばして、その日は外れにある公園に踏み入れた。かつては資産家の屋敷があったという公園は、木々に包まれた静かな雰囲気だった。冬枯れの木立は枝々を絡ませて空に模様を描き出していた。
「夕麿、寒くない?気分は?」
「私は大丈夫ですが…武こそ、寒くはないですか?」
「俺は大丈夫」
武の状態を聞き返すというのは、調子が良いという証拠でもあった。
ふと見ると池の向こう岸を貴之が歩いていた。背の高い男性と一緒だった。それを見た夕麿が顔色を変えて携帯を手にした。
池の向こう岸の男性が携帯を取る。
「あなたはそこで何をしているのです、周さん」
常にない低く冷たい声音が響く。向こう岸の男性がこちらを向いた。夕麿は携帯を切って、足早に池を周り始めた。
武は慌てて後を追う。
向こうもまわって来た為、途中で彼らと対峙した。
「周さん、高等部に上がった時にお願いした筈です。私の周囲の者に手を出さないで下さいと」
「契約は不履行に終わったものを守る義理はないと思うけど、夕麿?」
「あれはあなたがやめたのでしょう?」
「…何をしても無反応なお前を抱いても面白くなかっただけだ」
「要求したのはあなただった筈です」
「もう少し可愛げがあると思ったのだけど…不感症相手では幾ら僕でも萎えるよ?」
二人の冷ややかな会話を聞いて、武は耐え切れずに夕麿の手を握り締めた。
「ん?随分と可愛い坊やだな。どう夕麿なんかやめて、僕とイイコトしない?」
次の瞬間、夕麿は周を渾身の力で殴り倒していた。
「何をする!」
「あなたの節操と見境のない自堕落さには、ウンザリします」
「フ…お前が宗旨がえしてたとはな…抱かれる方はダメでも、そっちは可能なわけだ?」
「どちらも相手次第なだけです。
貴之、周さんだけはやめなさい。この男は快楽にしか興味がない。我が従兄ながら嘆かわしい男です」
「氷壁と呼ばれたお前に言われたくはないね。それともその坊やに溶かしてもらったか?」
「あなたという人は!」
夕麿は周の襟を掴んでもう一度殴った。
「夕麿、手を傷めるからやめて」
再度殴ろうとした夕麿を武が慌てて制止した。
「ほら、傷が出来てるじゃないか。ピアノを弾く大事な手なんだから」
傷が出来てしまった夕麿の手にハンカチを巻いて周の方へ向き直った。
「これをどうぞ、血が出てます」
不機嫌に武が差し出したハンカチを引ったくった周は、口許を拭おうとし、ハンカチの刺繍に顔を強ばらせた。
「これは…御印…あなたは…?」
「何故私が殴ったか、わかったでしょう?あなたも学院にいるのですから、高等部の噂くらいは耳にしている筈です」
夕麿は武を抱き寄せた。
「周さま、武さまは夕麿さまのご伴侶です」
沈黙していた貴之が周に囁いた。
「伴侶って…」
「夏休み中に結婚しました、彼と。聞いていないとは、驚きですね?久我家にも通知された筈ですが…さては、帰っていないのですね?」
「お母さんが煩くてね」
「夕麿、もう行こう」
「そうですね」
「貴之先輩、あなたが誰を選ぼうと俺が口出しする事じゃないけど…夕麿の気持ちだけは踏みにじらないで」
「はい……」
「久我 周さん……でしたよね。貴之先輩が傷付くような事をしたら、それなりの報いを受けていただきます」
「報い…?」
「俺にはあなたが夕麿に要求した事だけでも、許し難い気持ちなんだと記憶しておいて下さい。
行くぞ、夕麿」
踵を返して歩き出した武を夕麿が慌てて追う。周は武に手渡されたハンカチを握り締めたまま茫然としていた。
「武…待って下さい…」
返事もなしに武は無言で足早に歩いて行く。自分と出会う前の事とはいえ無性に腹立たしかった。御園生邸に戻ると夕麿の手を掴んで、奥の自分たちの部屋へ連れて行く。途中ですれ違った文月に、誰も近付かないように言って、夕麿を部屋へ押し込んだ。
「俺が怒っている理由、わかっているよね、夕麿?」
夕麿は目を伏せて頷いた。
「どうして、自分を大事にしなかったんだ…傷付くだけじゃないか」
「あの頃の私は…自分の事は、どうでも良かったのです。周さんが最初に目を付けたのは雅久でした。雅久を、彼を守りたかったのです」
「だからって…他に方法はなかったの?」
そう言うと武は夕麿をベッドに引き倒した。彼が着ていたコートとセーターを脱がせ、中のシャツのボタンを引き裂いた。千切れたボタンが飛び絨毯の上に転がる。
「この身体をあの人に触らせたの?」
「嫌悪すら感じませんでした…」
「そんな事を聞いてるんじゃない!他には?まだいるんだろ?」
荒々しく夕麿の顎を掴んでその瞳を見つめた。その瞳に見る見るうちに涙が浮かび溢れて頬を零れ落ちた。武は息を呑み躊躇うように、視線を揺るがして夕麿を放した。
「ごめん…」
自分のしているのが愚かな振る舞いだったと、夕麿の涙を見た瞬間に気付いて頭が冷めた。黒く醜い嫉妬心…出会う前の事を非難しても、意味がないと頭ではわかっている。それでもその相手を目の当たりにすると、自分の中に生まれる感情を制御出来ない。過去を問い詰めても愛する人をただ傷付けるだけ。
「本当にごめん…」
背を向けて言葉を紡いでも、一度放たれた言動を取り消すのは不可能だ。
「武…」
身を起こした夕麿がそんな武の想いを受け止めるようにそっと抱き寄せた。
「あなたを…傷付けるつもりはありませんでした…」
武が他の生徒とはしゃいでいるのを見て嫉妬心にかられる夕麿にすれば、周の登場がどれだけ武を傷付けたかを理解出来る。もし武の過去にそんな相手がいたら、嫉妬で暴走する自分を止められはしないだろう。
「きちんと話しておくべきでした…私の…そういう相手の事を…」
嫌われるのではないかと臆病な心がずっと口を噤ませていた。今回は偶然の外での出会いだった。
久我 周は現在、学院大の医学部に籍を置いている。今まで遭遇しなかっただけだ。高等部にいる相手ならば……もっと早くに接触していただろう。
3年生はもう卒業だが同じ2年生には……とは言っても周の時のようなものばかり。それでも聞けば嫌であるだろう。今日のように相手の口から聞かされるばなおの事である。
「武…聞いて下さい。周さんとは先程彼が口にした通りです」
「周さんだけ…?」
「ええ…この前のあれ以外は…」
武は背を向けたまま、麿の腕の中で小さく頷いた。
「逆は…3人程いました。ただ…そちらも未遂です。どんなに相手の淫らな姿を見ても、私の身体が反応しませんでした…」
武はその言葉に頷いてからハッとして振り向いた。
「待って…夕麿。じゃあ…夕麿が初めてちゃんと抱いたのって……」
「武、あなたですよ。温室のあの光景を見た瞬間…あなたを欲しました」
「そんな事、一言も言わなかったじゃないか!」
「言い難いかったのです…」
夕麿の意外な告白だった。
「周さんはあなたが私と一緒にいるのを見て、反応を見たかったのだろうと思います。あの人はそういう人なのです。貴之に関わっているのも、私への嫌がらせの部分が存在していると思います。彼は…他者を玩具くらいにしか思わない。ある意味で最も貴族らしき男だとも言えます。次々と新しい玩具を手に入れるように手を出して、飽きて熱が冷めたらあっさりと捨ててしまう……貴之は風紀委員として、周さんに捨てられて絶望した生徒を見た来た筈なのですが…」
「今回は本気…というのは?」
「有り得ません、彼の性格からすると。第一、本気の相手の前であのような態度をとれるものでしょうか?」
「そう…言われればそうだね…」
「周さんは必ず相手を溺れさせます。自分しか見えないように、あらゆる手練手管を使うのです」
「なるほどね、それに夕麿をのせられなかった意趣返しって事だね、さっきのあれは…」
「貴之はそう簡単に溺れるようなタイプではないと思います」
「そうだね…だから構うのか…あの人は」
先程あった久我 周は、笑っているのに笑っていなかった。かと言って慈園院 司のような退廃的な妖艶さはない。強いて表現するならば、蛇が獲物を見付けて舌なめずりする感覚がした。
「あの人、本当に従兄なの?」
「ええ…彼の母親が父の…姉なのです。六条の血を引く者は、私を含めてどこか歪んで異常なのです」
「違う、夕麿!……夕麿は異常なんかじゃない。そんな風に思っちゃダメだよ?夕麿は悲しい事や辛い事がたくさんあり過ぎて、心が疲れてしまってるだけなんだから。
今度自分の事をそんな風に言ったら怒るからな?」
「はい…」
「それにしても…本当に感じなかったの?」
「全然…あッ…悪戯しないで、武」
武は返事をしかけた夕麿のはだけた乳首を、いきなり口に含んで歯を立てたのだ。
「こんなに敏感なのに?」
今含んだのとは違う方を指で摘まんで押し潰すと武を抱き締める腕が震えた。再び片方を口に含んで残った方に爪を立てると夕麿の口から甘い声が漏れた。
「ああッ…武…武…」
力が緩んだのを見てベッドに押し倒した。
「抱いてもイイ?」
「この状況で聞かないで下さい…」
羞恥に頬を染めて消え入りそうな声で夕麿は答えた。
「お迎えに上がりました」
「ご苦労さまです」
進み出て答えた夕麿を見て文月は息を呑んだ。顔の腫れはかなりひいてはいたが、それでもなお酷い状態であった。
学院内での事件・事故は、きちんと保護者や身元引受人に報告する決まりになっていた。当然、今回の事も御園生家に報告されており、夕麿の怪我についても執事である文月は知らされてはいた。だが聞くのと実際に見るのとでは違う。ましてや顔や頭部の怪我は、実際の状態よりも重く見えるものである。
「見た目程ではありませんので」
夕麿はそう言って、8人乗りのロールスロイスに武を乗せ、義勝や雅久を促して自らも乗った。
「夕麿、傷は痛まない?」
「今のところは大丈夫です」
腫れている側が引きつる為、なかなか笑顔が造れない。それでも笑顔を武に向けたいと思う。
夕麿の精神状態は決して安定したわけではない。雨に対する拒絶反応は以前より重くなっている。地面を湿らしただけの小雨にすら今は反応を見せる。それでも生徒会長としての責任と義務、それに対する夕麿自身の誇りが終業式に至るまでを全うさせたのだ。当然ながら顔色は余り良くない。口腔内に傷がある為、思うように食事が摂れなかったのも、体調が良くない原因でもあった。
「夕麿、ほら、横になって」
武が強制的に夕麿の頭を自分の膝に乗せて横にならせる。
「あんまり寝てないんだから、無理しちゃダメだよ?」
「では…甘えさせていただきます」
本人も無理をしているのは自覚していた。熟睡する事が出来ず、微睡みの中の悪夢に苦しめられる。だが余り眠っていないというならば、傍らで不安定な状態の夕麿に常に対応している武も、この数日はほとんど眠っていない筈なのである。だがそんな様子は微塵も伺わせない。
見ている義勝は心配でならなかった。学院に編入して来た頃の様子から判断すると、武はさほど丈夫ではないように思われる。精神的には今は安定しているようには見える。武が夕麿の素を受け入れ支えているからこそ夕麿は無理が出来る。だからこそ武が無理をした結果、倒れて寝込んでしまうのは防がなくてはならない。
義勝は武の身体について最も詳しい小夜子に相談してみるつもりでいた。
高級車の中はほとんど無音、運転席と後部座席は遮断されて防音になっている。後部座席の窓は全て中を覗けないようにシールドを施してあった。この車は御園生 有人が武たちの為に注文したもので防弾処理なども施してある。全ては武の安全への配慮だった。
御園生邸に入り玄関に横付けされた車から降りると小夜子が出迎えた。
「お帰りなさい」
嬉しげに息子を抱き締め、後ろに立つ夕麿を見て悲鳴をあげた。
「夕麿さん、まあ何て事なの!綺麗なお顔に何て事を……」
彼女の言葉に苦笑した。やはり親子、武と同じ事を言う。
「母さん、夕麿を休ませたいから早く中に入れて」
「あ…ごめんなさい、夕麿さん」
「いえ、申し訳ございません」
「そんなの良いから行くよ、夕麿」
武は夕麿の手を取って中へ入ってしまう。
小夜子はそれを見送ってから、今度は義勝と雅久に向き直った。
「お帰りなさい、私の息子たち」
武に似た面差しの美しさ。高校生の息子がいるとは思えない程綺麗な女性。その彼女が満面の笑みを浮かべて両手を差し出した。
両親が離婚しどちらも親権を放棄してしまい寄る辺を失った義勝。
記憶を失ったとは言え、実母を亡くし家族の愛を失った雅久。
息子と呼ばれて胸が熱くなる。二人は躊躇う事なく差し出された手を取った。
「ただいま、お義母さん」
「お義母さま、ただいま」
帰る家が当たり前にある者にはわからない。温かく迎えてくれる家族がいる人にはわからない。それらがない者の孤独は。小夜子も武を抱えて若くして両親を失っている。だから二人の気持ちは良く理解出来るのだ。
「お腹が空いたでしょう?用意が出来てますから、一緒にいただきましょう。
文月、武たちの分はお部屋に運んであげて」
「承知いたしました、奥さま」
文月に軽く頭を下げて二人は小夜子に続いた。彼女は子供が好きで、本当はたくさん子供を産みたかったのだ。4人もの息子が出来て、小夜子は本当に喜んでいたのである。雅久との養子縁組みは、次の日には滞りなく届けが提出された。
「これで雅久先輩は、俺の兄さんになったわけだね。ねぇ、『兄さん』って呼んで良い?」
一人っ子だった武はずっと兄弟が欲しかった。だから本当に純粋に喜んでいた。
「もちろんです」
「それで義勝はいつ雅久の婿になるんです?」
「夕麿さんの仰る通りですわ」
「高等部を卒業したら……と」
「ええ~そんな先?義勝先輩、それじゃ兄さんが可哀想だよ?」
口々に言われて閉口する。
「まだ……求婚したばかりだから……」
「兄さん、OKしたんだよね?」
たたみかけるように言う武に雅久は苦笑する。
「ええ」
満ち足りた気分で笑みを浮かべて答える姿が溜息が出る程美しい。
「それなのですが…買い物に出たいと思います」
「まあ、エンゲージ?」
「はい」
「買い物なんだけどね、母さん。3人とも余り服を持ってないんだよ」
「え、それは大変だわ」
学院の生徒は内部の年への外出は全て、制服を着る規則になっている。その必要がないのは制服がない大学部の生徒だけである。
夕麿は一応は長期の休みには外に出ていたので、私服を持ってはいるが数は少ない。
雅久は一切合財を戸次家に置いて来た。
義勝に至っては小等部の途中から外に出れなくなっていた所為で、部屋着などの寮内で過ごす服があれば、後は制服があれば充分だった。
今回、御園生邸に戻るのに、用意する荷物がなかったのだ。武が急遽都市に出て、何点か購入したが断然足りない。武も身軽だがこの御園生邸に既に、山程の服が用意されているからに過ぎない。
学院では今までで良いだろう。
「ではみんなでお買い物に参りましょう?」
「お天気も良いみたいだから、夕麿も行こうよ?」
「そうですね、買いたい物もありますし、街を歩くのも気分転換になって良いかもしれません」
「よし、決まり!」
ただどこにでもある家族。それが彼らが一番欲しかったものだった。
「武、夕麿さんにはどちらがよろしいかしら」
同じデザインの色違いで迷う小夜子の問いかけに武は考え込んでしまう。
「う~ん…つい、白い方を言っちゃうんだよなぁ。
普段、制服着てるのばかり見てるから、なんだかそれが一番似合っているみたいに感じる」
「武、それを言ったら、全員そうでしょう?」
夕麿が苦笑する。
「だってさあ…」
「じゃあ、白を出来る限り外しましょう?私としては、違う色のものを着ていただきたいわ」
服選びに嬉々とする小夜子に武は笑った。
「雅久さんは、綺麗過ぎて服の方が負けそうね」
ワイルド系の義勝。
貴公子として申し分ない美形の夕麿。
玲瓏で性別を超えた美貌の雅久。
最近あどけなさが抜けて来たが、それでもどちらかというと可愛い系の武。
さすがにこれだけ揃うと、服選びも大変になる。
小夜子が自分で直接選びたがったので、ヨーロッパのブランド直営店を梯子して、次々と服や靴などを選ぶ。美しい小夜子が連れて歩く、4人の美しい若者は、どこへ行っても注目の的だった。
「母さん、ちょっと休もう、夕麿の顔色が悪いから」
「夕麿さん、大丈夫?」
「申し訳ございません……人混みに酔ったみたいです」
学院には男しかいない。だが街中には女性もいて、擦れ違う時に香水や化粧品の強い匂いがする。芸能人やモデルにはない気品を漂わす美形が、揃って歩いていればわざと接触していく者もいた。他人に触れられる事を嫌う夕麿には、その不遠慮な行為が苦痛になる。途中で気が付いて武と義勝がガードしたがそれでも厚かましく触れて来る。どうやら街往く女性には、一番夕麿が目にとまるらしい。
小夜子は近くのレストランを指し示した。
「私は少し行かなければならない所があるの。武、夕麿さんとそこで待っていて。ここは御園生の関連のお店だから、大丈夫よ?マネージャーには連絡したから。
義勝さん方はどうなさるの?この間にお二人の買い物をなさる?」
「そういたします」
それぞれが一度解散し、後にこのレストランに集合する事になった。武は夕麿とレストランへと歩を進めた。するとあと少しという所で、数人の女の子たちが近付いて来た。
「ねぇ、私たちとどこか行かない?」
「さっきあっちのお店にいたよね?」
どうやらつけて来たらしい。二人になったのを見て、逆ナンパに出たのだろう。
「悪いけどその気はないから」
苛立ちながら武が答える。
「ええ~いいじゃん?男同士より女の子が一緒の方が良いよ?」
そう言って彼女は夕麿の腕に腕を絡ませようとした。それを見た武は慌ててその手を、乱暴に払いのけて怒鳴った。
「夕麿に触るな!その気はないって言ってるだろ!」
騒ぎを聞きつけて店からマネージャーらしい男が出て来た。
「武さま、夕麿さま。奥さまからご連絡をいただき個室をご用意いたしました、どうぞお入り下さい」
「夕麿、行こう」
武は夕麿の背に手を回して歩き出した。夕麿は武の腰に腕を回して、身体を密着させて来た。手に触れるとひんやりしていて体温が下がっているのがわかった。
「夕麿、もう少し我慢して」
マネージャーの案内で奥の個室に入り、夕麿はテーブルに突っ伏した。
無神経な女の子たちに無性に腹がたつ。夕麿は頬のシップこそ外しているものの、頭には包帯を巻いているのだ。相手の様子や気持ちなどお構いなしに、自分たちが声をかければ男は皆、色好い返事をすると思っているのだ。
「武…」
夕麿の震える手が武の手を握り締めた。貧血を起こしかけているのだろうか、さらに冷たくなったように感じる。握った手が震え、顔からは血の気が引いている。
「すみません…香水や化粧品の強い匂いは…ダメみたいです」
武は一度しか六条 詠美に会っていないが、彼女は強い香水の匂いをさせていた。香水にも正しい使い方がある…という単純で当たり前な事に、意識が行かない女性のようだった。恐らく夕麿の嫌悪感や不快さの原因になっている…と考えた方がいいだろう。ノックがしてマネージャーが香り高い紅茶と、焼きたてのアップルパイを運んで来た。
「これをお使い下さい」
差し出されたのは冷えたお絞り。
「ありがとうございます」
武はそれを受け取って夕麿の頬に当てた。
「冷たくて気持ちいい…」
夕麿は身を起こして、お絞りを包帯の巻かれている額に当てた。
「大丈夫?頭は痛くない?」
不遠慮な女たちにはこの包帯が見えなかったというのだろうかと再び怒りが再燃する。
「慣れないといけないとは思うのですが…難しくて…」
「学院じゃ、夕麿の事はみんな知ってるからなあ……でもさっきの女の子たちはちょっと非常識過ぎると思うよ?大体、声かけて良い相手か、そうじゃない相手かくらい区別しろって言うんだ」
武の憤りに夕麿が笑った。
「武もすっかり学院に染まってしまいましたね」
「何それ?」
「街往く人々に身分とか、立場は理解出来ないと思いますよ?」
「そりゃまあ、そうだけどさ。夕麿をその辺の奴と一緒にするなんて……」
他の男と違うというのが理解出来ない女たちを不快に思う。立ち振る舞いや言葉遣いで元々の生きている場所が違うと、判断出来ない頭の軽い女たち。
「可愛い顔が台無しですよ、武」
「可愛いって言うな!」
紅茶を口にしてどうやら落ち着いたらしい。
「気分、良くなった?」
「お蔭さまで」
そう言うと武を抱き寄せて唇を重ねた。
「ん…んん…あン」
唇が離れるのが惜しいと言うように、武から甘えるような声が漏れた。
「ふふ…先程の女性たちの前で、こんな風にキスしたらどんな顔をするでしょう?」
「案外喜ぶかもしれないよ?」
「それはそれで嫌ですね」
本当に不快だという顔をする。
「今度ああいうのが来たら試してみる、夕麿?」
「私は別に気にしませんが、お義母さんがお困りになられるのでは?」
「あはは、多分平気だと思うよ?
何か言う人がいても気にしないね、きっと。第一、夕麿の事を物凄く気に入ってるしね?」
何しろ学院にいる間、小夜子は実の息子よりも、夕麿の方に電話をかけている。
「あれは武の心配をなさってかけて来られるのですよ?」
「どうだか。俺をダシにしてるだけな気がするけど?」
「それは嫉妬ですか?」
「まさか……」
小夜子の無邪気さは、そのまま武の無邪気さと同じだと思う。
そこへ武の携帯が鳴った。噂をすれば影。小夜子からだった。
「もしもし?え、あ…うん。わかった」
「お義母さんは何て?」
「なんかあの子たち、まだ外にいるみたい。義勝先輩たちの買い物が終わったから、車をここの裏に回すって」
「まだいるのですか?困った人たちですね……」
「本当に迷惑な連中…行こう、夕麿。母さんはまだ用が終わらないから、先に帰って良いって」
「そうですか。では帰りましょう」
二人は立ち上がって個室を出た。レストランの中を通過する時、ガラス越しにチラリと見ると、確かに道の向こう側に彼女たちの姿があった。
彼女たちはブランド直営店で買い物をする、言わばセレブな美形をチャンスと見たのだろう。貴族、特に夕麿のような高い身分の人間は、あまり街中を警護も付けないで歩く事はない。従って彼女たちは彼らの正体を、何処かの富豪の子息くらいにしか思ってはいないのだろう。
レストランの従業員用の出入り口の側で待っていると、マネージャーが車の到着を知らせてくれた。
義勝たちは既に乗り込んでいて、武と夕麿が乗ると車は御園生邸へと向かった。
愚かな女たちが、セレブの男を漁ろうとする昨今。成金と貴族の区別すら彼女たちはつかない。いや、巷では男も金持ちの女を漁る。中身のないものに憧れて、何がおもしろいのだろうと武は思う。本当はそんな楽しいものではない。お金があれば楽になると、本気で考えるなら夢見るだけにすればいい。そこに責任や義務が発生し、束縛が存在するのだとは思っていない。
六条 詠美の予備軍みたいな彼女たちに、武は強い嫌悪感を覚えた。
「義勝さん、この星を一番上にお願いしますわ」
小夜子の用とは吹き抜けのリビングに飾る、巨大なクリスマスツリーだった。早々に配達されたそれを武たちと一緒に飾り付け始める。脚立を複数出して、高い場所は全て身長が一番ある義勝に命じる。
とりとめのない会話に笑う。夕麿と義勝の間の皮肉の応酬を、始めて聴く小夜子が一番よく笑う。時折それに雅久が加わり、武が混ぜっ返す。すると負けずに小夜子が突っ込む。
「もう…母さん、やめてくれよ!」
「あら、夕麿さんだって聞きたいわよねぇ?」
幼い頃の暴露を小夜子がするので、武は悲鳴を上げて夕麿の耳を塞ぎにいく。
「だから!聞くなって…夕麿!」
真っ赤になる武を抱き締めて笑い転げる。それは今まで見た事がない程、明るい笑顔だった。
「笑うなよ、夕麿!母さんにバラすぞ、中等部ん時の夕麿の事!」
「何ですって、武?」
「母さん、夕麿ってさあ…ん…もご…」
慌てて夕麿が口を塞ぐ。
「中等部の夕麿?写真ありますよ、お義母さん」
「義勝!」
「あ、それ見たい!義勝先輩、持って来てるの?」
「PCに入ってる」
こうなると飾り付けはそっちのけになる。小夜子が武のアルバムを持って来た事から、義勝がノートPCに入っている自分たちの写真を出す。
「まあ、これが夕麿さん?可愛い!」
小夜子の言葉に真っ赤になった夕麿が義勝を睨み付ける。広いリビングに賑やかな声が響く。
そこへ有人が帰って来た。
「随分賑やかだねぇ」
「あらお帰りなさい、あなた」
「お帰りなさい!」
帰宅した有人まで加わって写真の鑑賞会になり再び大騒ぎになる。
文月が夕食の用意が出来た事を告げに来た時には、笑い過ぎた彼らは全員、肩で息をしている有り様だった。
食事の間も笑い声が絶えなかった。 食後、再びリビングに移って、運ばれて来たお茶を飲みながら談笑する。
ところが話が途切れた時点で、有人が夕麿に向き直った。
「夕麿君、君の進路についてなのだが」
「はい」
「希望はハーバードだったね?」
「そのつもりでいます」
留学については将来、御園生の当主となる武を補佐する為に、アメリカでMBAを取得したいと希望する夕麿の話を、武は自分が1年遅れで追う事で承諾していた。
ただ武が関わる事である為、その筋に申請を出していたのである。
「君がひとりで留学するのには、問題はないと返事があった」
「武が関わると許可は出来ないというわけですね?」
「ハーバードのハウスのシステムがあれに彼を入れるには問題があると判断されたのだよ。 必ずしも君と同じハウスに入れる保証はない。 それに武君の身分を考えても私立の大学では対応が難しいと」
そこで有人は口ごもった。
「まだ何かあるのですか?」
「夕麿君が単独で渡米する場合、武君の進学は学院の大学部に限定になる」
「え?それってどういう事?」
驚いて武が聞くと、小夜子が悲しそうに目を伏せた。
「武…あなたが学院から出られるのは、夕麿さんがいらっしゃるお蔭なのよ? 伴侶として夕麿さんがあなたの側にいる事が前提で、あなたの自由が認められているの。 だから夕麿さんが側にいられない状況になったら、あなたは学院に閉じ込められてしまうの」
「そんな……」
雅久が余りの事に絶句する。
「夕麿、行って良いよ。 行きたい所へ行って、やりたい事をやって。俺は大丈夫だから。 ちゃんと待ってるからさ」
一年だから…と、夕麿の留学を歓迎した。一年後に追い掛けて行けば良いのだ。何年も会えないのは辛いし寂しい。けれどそれはわがままだとわかっている。でも夕麿はもっともっと自分の望みを叶えるべきだと思う。
「それでお義父さん、何処であるならば武の留学が許されるのでしょう?」
「UCLAならばこちらで用意した住居で生活するという、条件付きで許可してもらえると」
それを聞いて夕麿と義勝が同時に苦笑した。
「義勝、よくよく私たちは縁があるようですね?」
「腐れ縁もここまでいくと、笑うしかないだろう」
義勝はUCLAの心理学部に進学を希望している。UCLAの心理学部は全米のトップにランクされており、メディカルセンターが完備され大学院もある。 雅久も芸術学部への進学を希望していた。
「待って夕麿、俺は良いんだから…」
「いいえ、武。それでは私が耐えられません。あなたに何年も会えないなんて…無理です。 一年でも不安なのですから」
武の愛情に依存している自分を夕麿は自覚している。 少しは自立して旅立ちたいとは思うが、武の犠牲の上に自分の進路は決められない。
「UCLAのロースクール、アンダーソン・スクール・オブ・マネージメントも優秀で難関の学校です。 少しも不足はありません」
ハーバードでなければならないという理由はない。 世界ランキングの高い大学を上げただけに過ぎない。武と比べる事など、絶好に有り得ない。
「それで構わないんだね?」
「はい」
「ではロサンゼルスの御園生の企業にバックアップの準備をさせよう。 その代わり向こうで、経営に携わってもらうよ?」
「わかりました」
「また、お前と一緒か…」
義勝が苦笑する。
「では一年後には四人が揃うのですね?」
「いや、貴之がUCLAの心理学部犯罪心理学科を希望している」
「五人一緒!? あ、麗先輩は?」
「フランスでパティシエの勉強をすると言ってます」
「ああ、和菓子司が実家だものね」
「進路が別れてもいつでも会えますよ、武」
「そうだね」
武は学祭で赤佐 実彦が歌った『ソルベイクの歌』の歌詞を思い出していた。 そう生きてこの空の下にいるならいつでも会える。
武の気持ちを肯定するように、夕麿がそっと手を握り締めた。
「夕麿、本当に良いの?」
「あなたに勝るものなど存在しません」
武は自分の不自由さが原因で、夕麿の未来をこれ以上、束縛したくはなかった。
「…ごめんなさい…」
夕麿の為なら何でもすると、そう思っているにもかかわらず、結局は自分の所為で台無しになってしまう。
「俺…生まれて来ない方が、良かったのかな…?」
「そんな事はありません」
「気休めはやめてよ。ちょっと考えればわかるよ、そんな事は。 俺が誰の子かってのを、公表出来ないのに…でも存在している限り野放しには出来ない。だから制約を付けて、身動きが出来ないように束縛する。
本当は学院に閉じ込めたいんだろう? 昔に特別室に住んでた人みたいに。
俺は何の為に生まれて来た? 俺の存在理由って…何? わからないよ…好きな人まで巻き込で…」
自分で望んだわけじゃない。
「武、武。
やめて下さい。 自分の事をそんな風に思ってはいけません。 確かにあなたは難しい立場です。 そういうものだと知っている私でも、理不尽な事ばかりあなたに要求する彼らには、腹立たしく思っています。
でも生まれて来ない方が良かったなんて…どうか思わないで。 お義母さんがどんなにあなたを愛していらっしゃるか…あなたは愛される為に生まれて来たのです。 それに…あなたが存在しなかったら、私は未来を失っていました。
武、あなたが私を光ある場所へ導いてくれたのですよ? 私だけではありません。 義勝も雅久もあなたが未来をあげたのです。 これから先もあなたは学院の闇に閉じ込められようとする者を、あなたという光が導くのだから。
あなたは必要だから、生まれて来たのです」
夕麿自身が自分の存在理由を何度も見失った。絶望に生命さえ投げ出そうとした。生まれて来なければ、こんな想いをしなくてすんだ。自分の無力さに涙を流す夜を、どれくらい過ごして来た事か。けれど今は不安定で時折哀しさに心が支配される事もあるが、愛する事も愛される事も知って、生きるのを忌まわしいとは思わなくなって来た。
「どうしても理由がみつからないと思うのでしたら、お願いです。私の為に…と思って下さいませんか? あなたがいなければ、私はきっと、抜け殻になってしまうでしょう。今の私にはあなたが存在理由なのです」
「夕麿の…為? 俺…夕麿の役に立ってる? 邪魔してるんじゃないの?」
ベッドに座ったまま背を向ける武を、背後からしっかり抱き締めた。
「邪魔だと感じた事などありません、一度も。逃げようとした事はありましたけどね。でも宿命というものがあるとすれば、武、あなたこそが私の宿命です。それに…あなたは私のものなのだから」
言葉をどれだけ紡いで並べてみても、慰めは慰めでしかないのはわかってはいた。けれど言葉を紡ぐ事と抱き締める意外に、今ここで何が出来るというのだろう。愛を得てもまだ無力な自分が悲しい。
「夕麿、シて…」
「幾らでも…お望みのままに。 明日、起きられなくなるくらいに、たっぷり可愛がってあげましょう」
武は欲望混じりの期待に身を震わせた。
夕麿は思う。武は決して同性愛者ではない。また自分のように完全に異性を排除した環境で、成長したわけでもない。本人は自覚してはいないが、例の夜想曲を弾いていた女の子に、仄かな想いを持っていたのだろうと。普通に街中の学校へ進学していれば、普通に女の子に恋をしていただろう。
紫霄学院の特殊さ故だと。
義理の母親の所為で、女性に余り良い感情を持てない夕麿とは違う。恐らく自分との関係は学院側の策略でもあっただろう。出自や双方の父親の関係などを見た上だと、今となっては安易に考えられる。多々良の事件が問題にはなっただろう。 だがそれは逆に夕麿が、同性愛に対する嫌悪感を持たない証明にもなった筈だ。 セッティングされた関係だったとしても、今の互いの気持ちには嘘偽りはない。
愛し合った後の微睡みの中にいる武を、穏やかな気持ちで抱き締めると、彼は甘えるように縋り付いて来る。 自分が彼の自由の条件なら、どんな犠牲を払っても側にいよう。 最も自分の自由も現時点では、武との関係がネックなのだ。だが自分の場合は高等部を卒業して旅立てば束縛から解放される。 生涯続く束縛に生きる武と歩んで行けば、まだまだ障害は出て来るだろう。 現に今も帰宅は出来ても旅行は許されていない。 御園生邸で過ごす時間を楽しんでいるから今はわからない。 しかし夕麿が渡米した場合、会う為に動けるのは夕麿だけ。 それも帰国を申請して武が学院から出る為の許可を求めなければならない。
進む道がそこにしかないのなら、胸を張って堂々と歩けば良い。もしひとりで歩けと言われれば、孤独に押し潰されてしまうだろう。だが二人ならきっと、支え合って生きていける。だからその為にもまず、この不安定な心を治療しなければならない。
「待っていて下さい。あなたを支えられるようになりますから、必ず」
夕麿が耳元に囁くと、眠っている武が小さく返事した。
「ん…わかった」
愛らしい微笑みに微笑み返して夕麿も目蓋を閉じた。
クリスマス間近のその日、武と夕麿は約束通り街に出ていた。目的は書店だがただ行くだけではつまらないと車を御園生邸に帰してしまった。
今朝の往診で夕麿の包帯も取れたので、そのお祝いも兼ねてのデートだった。
平日の午後を選んでの外出。この前の日曜日の人混みに懲りたので、一番、人の往来の少ない時間を選んだのだ。
「夕麿、体調が悪くなったらすぐに言ってよ?いつもギリギリまで我慢するんだから」
「我慢しているつもりはないのですが」
いつも武が気付いて慌てて対処するのが常だった。
「わかった。じゃあ、俺が気を付ける」
夕麿と歩くと道行く人々の視線が集まる。ウザい反面、ちょっと自慢でもある。
「じゃあ、約束通りファーストフードを食べに行こう!」
「あ…武、そんなに急がなくても…」
夕麿の手を取って急ぎ足になる武に戸惑う。武は一番近い店に入った。昼を過ぎた時間の所為か、店内は空いていた。
「夕麿、えっと…ああ、あそこのテーブルに座ってて。適当に買って来るから」
武は窓際の角の席を指差した。
「わかりました」
夕麿はファーストフード店には余りにも不釣り合いな、優雅な身のこなしで武が示したテーブルに歩いて行く。周囲の眼差しがそれを追う。
武は急いで販売カウンターに向かった。
席に着いた夕麿は店内を見回すでもなく一枚の絵のように座っていた。手持ち無沙汰…というのを夕麿は知らない。周囲が彼の為に動くのが当たり前の生活では待つのは普通であるからだ。ただ商品を買い求める為にカウンターに立つ武をそれとなく眺めていた。
すぐ横のテーブルに夕麿を気にしながら、女の子が二人座るが目に入ってはいない。
「夕麿さま…?」
かけられた言葉に振り向くと貴之が立っていた。
「貴之…?」
「お一人……の筈はないですね」
「貴之こそどうしてここに?」
「外を歩いていたらいらっしゃるのが見えたので…今日はデートですか?」
夕麿は貴之の言葉に赤く頬を染めて俯いた。
「学院でも実家でも一緒ですから、今更…なのでしょうけど。留学先の資料が欲しいと思いましてね」
「資料…?ハーバードのですか?」
「いえ…留学先はUCLAに変更しました」
「え…何故…ですか?」
「物言いがありました」
「武さまの事で…?」
「ハーバードに行くならば武は学院内で進学する事になると…ロースクールの期間まで入れると6年です…」
「それは…あんまりです」
「UCLAならば許可をいただけるそうなので」
「ではまた学部は違いますがご一緒出来ますね」
「御園生が家を用意して下さいますから、貴之、あなたも如何ですか?」
「ありがとうございます」
「あれ? 貴之先輩?」
トレイを持った武が驚いて立ち止まった。 貴之はすかさずトレイを受け取って運んだ。
「外を通っておりましたら、夕麿さまのお姿が見えましたので」
「そうなんだ。 一緒、する?」
「いえ、お二方のデートのお邪魔はしたくありませんし、俺の方にも連れがおります」
貴之が入口を指すとそこには髪の長い綺麗な女性が立っていた。
「では、失礼いたします」
「あ、うん」
貴之がその女性と立ち去るのを見送ってから武は夕麿を見た。
「綺麗なひとだね?」
「多分、貴之の許嫁です、彼女は」
「許嫁? ふうん…それでなの? 貴之先輩って学院じゃ、ストイックだもんね?」
夕麿は武のその言葉に複雑な顔をした。
「ん…? 違うの?」
首を傾げる武に夕麿は深々と溜息吐いた。 視線をそらした夕麿を見て、武はそれ以上の質問を引っ込めた。
「えっと…買って来た。 これ、お茶ね。 こういう所の紅茶は、ティーパックだからなあ…一番、無難なのにしたけど」
「すみません、武。 それでこちらの紙に包んだ物はなんですか?」
夕麿が指差して聞くと隣の席で、聞き耳を立てていた女の子が驚いた顔をする。
「これがハンバーガーだよ?」
武はひとつだけ購入したハンバーガーの包みを開けて見せた。
「随分シンプルですね」
「もっといろんなのが入ってるのもあるけど、夕麿は食べにくいかなって思ったから。
お試しって事で、はい!」
夕麿は手渡されたハンバーガーを不思議そうに眺めた。
「あの…武、食べ方がわからないのですが…」
「おにぎり食べる要領で、ガブリと」
「ハンバーガーですよ、これは?」
話が通じない。
上流階級では、ハンバーガーも鶏モモの焼いたものも、フォークとナイフで食べる。それしか知らない者には、他の方法があると思わない。ペットボトルの飲み物を、グラスに入れないと飲めない人がいる。ペットボトルに口を付けて飲む行為を気持ち悪く感じて、どうやっても口を付ける事が出来ないのだ。私たちが普段当たり前なものが、彼らにはマナーに適わないものか、まるで理解出来ないものになってしまう。簡単に見えて簡単ではないのが、人間の習慣というものなのである。
「こうするんだよ?」
武はいきなり夕麿が手にしているハンバーガーにかぶりつく。
「ほら、夕麿もやってみて」
目を丸くしながら夕麿は頷いて、恐る恐るハンバーガーを口に含んだ。
「コホッ…味の濃い食べ物ですね、これは…」
「あ、やっぱり?俺も学院の味になれちゃったから、前ほど美味しく感じないなあ…」
「普通は…こういう物を食べるのですか、皆さんは…」
「身体に余り良くないって嫌う人もいるけど…普通の学生はお金ないからね。手っ取り早くこういうので済ませてしまうんだよ」
「そういうものですか?私たちの年齢は成長期ですから、もっとバランスの良いものを摂取するべきだと思いますが」
「まあね。それは正しいんだけど」
「武も学院に来るまではよく食べたのですか?」
「余り食べなかった。ひとりで来ても仕方ないし、母さんも余り良い顔しなかった」
「そうでしょうね」
それでも武がハンバーガーを食べ終わるのを、溜息混じりに見守った夕麿は改めて店内を見回した。
「確かに…私たちと同じくらいの人がいますね」
「うん。まあ、こんな機会がないと一生、縁がないと思うよ、夕麿には」
「武にもです。あなたはもう、ここにいる彼らとは違った生活をしているのですから」
「うん…これ食べてそう思った…」
「以前とは違ってしまったのは寂しいですか?」
「どうかな…さっきも言ったみたいに、こんな所に一緒に来る友達はいなかったし、今は夕麿がいて兄さんがいて…義勝先輩もいるから…」
その返事に夕麿が微笑んだ。
「それで次はどこへ連れて行ってくれるのですか?」
「う~ん…そこのデパートに、大規模なおもちゃ屋が入ってるらしいんだ」
「おもちゃ屋…ですか?」
「うん。母さんがぬいぐるみ好きだから、クリスマスプレゼントにどうかなって」
「それは良いですね。きっと喜ばれます」
「一緒に選んでくれるよね?」
「もちろんです。今は私のお義母さんでもあるのですから」
「じゃあ、行こうよ」
トレイを片付けて武は今一度、店内を振り返った。もうファーストフード店には入る事はないのかもしれないと、それ程馴染みがあったわけではないが、少しだけ寂しく感じた。そっと夕麿の指に指を絡めて、今の自分を確かめるように手を繋いだ。
「おもちゃ屋…とかにも行った事がないのですが」
「玩具店とも言うけど…結構面白いよ? あ、テレビゲーム買って帰って、みんなで遊ぼうよ?」
「それは私にも出来るでしょうか?」
「なれたらきっと、夕麿は名プレイヤーになると思うよ? テーブルゲームとかもあるし…」
答えながら武はチェスは避けたいと思った。板倉 正己の暗示は解けているが、やはり余り気分の良いものではないだろうから。
手を繋いだ二人を訝しげにジロジロと見て行く人もいる。こちらが視線を向けると慌てて視線をそらす。だが二人ともそんな事は気にしない。やましい事などないからだ。両親が認めて結ばれた二人。二人でいる事が必要でもある。だから誰にも恥じるものではないし、確かな絆で結ばれているから胸を張って堂々と歩く。 道行く男女のカップルと何ら変わる事はない。
平日の昼間のデパートは、確かに人が疎らだった。
「やっぱり人が少ないね」
「デパート業界は変動期にあるようです。株価も余り良くないですから」
「そうだよね…俺も手を出そうとは思わないなあ…」
デパートの客足を見て、株価の話になる所が紫霄学院の特待生らしい。
「エスカレーターとエレベーター、どちらで上がりますか?」
「さすがにエレベーターは混んでるね。エスカレーターにしようよ」
狭い空間で香水や化粧品の匂いがしたら、また夕麿の調子が悪くなりそうだと思った。
デパートの一階は近年改装されて、スイーツの店が並んでいた。甘い香りが漂う。その中を歩いて行く。
「あ、葛岡君!」
以前の姓で呼ばれて、武は思わず顔を強ばらせて立ち止まった。見回すと女の子が二人、笑顔で駆け寄って来る。
「久しぶり!」
おぼろげに記憶に浮かぶ顔は、中学のクラスメートだったと告げていた。
「あ…久しぶり…」
「公立蹴って私立に行ったって聞いたんだけど…引っ越したの?」
「うん…母がその…結婚したから」
「じゃあ、そっちで住んでるんだ?」
「えっと…普段は学校の寮にいるから…」
「そうなんだ」
少女は嬉しそうにしながら、一緒にいる夕麿を気にする。だが武は敢えて紹介しない。
「ごめん、急いでるから」
「そうなの?呼び止めてごめんね」
「あ…うん。じゃあ…」
「またね~」
手を振る彼女たちにお義理程度に振り返してその場を逃げ出した。
夕麿はずっと黙っていた。その沈黙が怖い。
エスカレーターの近くまで来た瞬間、その向こうにある階段の影に引っ張って連れて行かれる。
「あの…夕麿…ン…」
いきなり抱き締められて唇を重ねられた。
「ン…ンン…」
もがくとすぐに離されたが、抱き締める手は緩まない。
「何するんだよ、こんな場所で…幾ら何でも、誰かに見られたら恥ずかしいだろ!」
そう言って見上げた夕麿の顔を見て武は絶句した。いつもの嫉妬だと思ったのに、そこにあった顔はとても悲しそうだったのだ。
「夕麿…?どうしてそんな顔するの?」
「先に話し掛けて来た女の子が、夜想曲の子でしょう?」
「そう…だったと思うけど、それがどうかしたの?」
「いえ…いつもの嫉妬です」
「本当に?」
武が問い返すと夕麿の睫が揺れた。
「単なる同級生だよ?」
わかってはいる。それでも揺らぐ心を止める事が出来ない。ひとつのIFを見てしまったから。
「信じてないだろ? 怒るよ?」
「信じないのでは…ありません」
「じゃ、何だよ?」
「私が愚かなだけです」
「何それ? 有りもしない事を考えたんだろ?」
「ごめんなさい」
「謝るならそんな事考えんな。行くよ?」
手を掴んでエスカレーターへと歩き出すと夕麿は微笑んだ。武はやれやれという顔で溜息を吐いて夕麿に耳打ちした。
「あんまりつまんない事を考えるとお仕置きするよ?」
囁かれた夕麿は真っ赤になった。あの夜以来、武と夕麿が逆転した行為はしていない。 本質的に武は夕麿に抱かれる方が自然だと思っている。だからこそこういう時に効き目がある。
「女の子と仲良くしたのは、武でしょう? お仕置きされるのは、武の方だと思いますが?」
「う…」
いつもの口調で切り返されて、思わず怯んでしまう。こういう時の気迫は、絶対的に武に勝ち目はない。
「今夜が楽しみですね」
「………」
墓穴を掘ってしまったと気付いても後の祭りだった……
「やっぱり大きいのが良いかな~」
「それにしてもぬいぐるみというものは、随分と種類があるのですね」
「これ一部だよ?店によって置いてある種類は違うかな?
夕麿も何か買う?」
「それはお義母さんにという意味ですか?」
「ううん、夕麿の」
「必要を感じませんが?」
「ちょっとこれ持ってみて」
武が手渡したのは大きなウサギのぬいぐるみだ。
「うぷぷ、似合わない~」
「当たり前です!」
ぬいぐるみを抱いたまま真っ赤になった夕麿を携帯のカメラで写す。
「何をするんです!消しなさい!」
「やだ」
「武!」
「よし、そのウサギにしよう」
笑いながら夕麿の手からぬいぐるみを奪ってレジに持って行く。夕麿は周囲にいる人が笑いを堪えているのに気が付いて一層赤面した。ぬいぐるみの配達を依頼して、今度はゲーム機とソフトを見に行こうと歩いていると再び貴之と遭遇した。
「あれ?貴之先輩、良く会うね?」
「武さまと夕麿さまこそ、変わった場所にばかりいらっしゃるんですね」
「夕麿の社会見学だよ」
「どういう意味です、それは?」
貴之は学院で会う夕麿とはまるで違う、彼の様子に驚きながらも微笑んだ。一連の事件による心的外傷が著しかった夕麿が、どこにでもいる普通の高校生のように豊かな表情をする。高辻医師のアドバイスを武や御園生家が受けたと聞いていたが、それがここまで効力を見せているのに驚いていた。
「あの…貴之さん、この方々を紹介してはいただけません?」
ひとり蚊帳の外に置かれていた女性が痺れを切らすように言った。貴之は一瞬、不快そうに顔を歪めてから笑顔をつくった。
「武さま、夕麿さま、紹介いたします。俺の許嫁の十河 梓さんです」
「初めまして御園生 夕麿と申します」
「御園生 武です」
「まあ、ご兄弟ですの?」
「戸籍上は」
夕麿のどこか素っ気ない物言いに梓が戸惑う。
「梓さん、そろそろ行きませんか」
「えっ、でも」
貴之にしても余り武たちの事を彼女に詮索させたくはない。武の身分や立場を説明する事は出来ないし、ましてや二人の関係をこんな他人のいる場所で話すのは避けたい。少しは空気を読んで欲しいのに、どうしてこの女は何でも知りたがるのか…と思う。
その時、人混みを掻き分けて刃物を手に突進してくる若い男が目に入った。
「武!」
「武さま!」
咄嗟に夕麿が武を庇い貴之が、二人と男の間に入って刃物を叩き落とした。なお掴みかかろうとする男を、貴之が取り押さえた。関節を押さえ込まれてもがく男の顔には見覚えがあった。
「お前…佐田川 和喜か!」
夕麿の義母だった詠美の甥 和喜が、学院祭で騒動を起こして退学になったのは記憶に新しい。彼は貴之の拘束を逃れられないとわかって、武を庇うようにして立っている夕麿に顔を向けた。
「畜生!夕麿、お前だろう!よくも……」
「何の事です?」
「しらばっくれるな!うちの事を洗いざらい通報したのは、あんただろうが!」
絶叫する佐田川 和喜の言葉が夕麿には理解出来ない。第一、佐田川一族に何があったのだろう?
すると武が夕麿を制して歩み寄った。
「夕麿は何もしていないし知らない。貴之先輩に命じて事実を徹底的に調査させたのは俺だ?もちろん当局への通報も俺が命令した」
「何だと!てめぇ…よくも…」
「自業自得だろう?調査されて出て来たものは、お前の一族が犯した罪だ。俺が通報しなくてもいつかは露見したさ」
佐田川 和喜を見下ろす武の目は氷のようだった。
「俺は佐田川一族が夕麿にした事を忘れない。夕麿には何の罪もなかった。なのにお前たちは何をした?俺はお前たちだけは許さないと誓ったんだ。全てはお前たち自身が招いたものだ。俺も夕麿も貴之先輩も、恨まれる筋合いはない」
武と貴之が調査の結果を黙っていたのには大きな理由があった。多々良 正恒が輪姦させた少年たちの相手は、全て佐田川と何等かの取引があった者たちだったのだ。そして佐田川は最後に夕麿を競売にかけるつもりだったのだ。義理とはいえ詠美は保護者である。彼女は学院から夕麿を連れ出せるし、転校などの手続きをとれる。外に出して高額でそういう嗜好の人間に売り飛ばして、排除しようと目論んでいたのだ。しかも夕麿の父、六条 陽麿はそれを知っていて放置したという。
知らされた武の怒りは凄まじいものだった。今にも自らの手で六条夫妻を殺しに行きそうな状態を、みんなで懸命に説得したのだ。この事実を知らないのは夕麿だけ。義勝や雅久、御園生夫妻もその場にいて知っている。出来れば夕麿に知られないままで、佐田川一族を潰したかった。
「武…あなたは、何をしたのです…?」
「別に。コイツ等の犯罪を暴いただけだよ。夕麿は気にしなくて良い。全部終わったから」
「武!貴之、これはどういう事です?」
「申し訳ございません」
貴之は首を振って口を噤んだ。佐田川 和喜を駆け付けた警察官に渡し、事情は後で話しに出頭すると説明した。
御園生家の車を呼んで貴之と梓を伴って御園生邸に戻った。佐田川 和喜の襲撃は既に知らされていた。
「武!夕麿さん!怪我はないの?」
「大丈夫だよ、母さん。貴之先輩が捕まえてくれたから」
小夜子はそれ以上何も言えなかった。
武に学院へ呼ばれた有人が、怒り狂った武の凄まじさを彼女に語ったが、そんな息子の姿は今まで一度も見た事がなかった。武はいつも穏やかで、感情の起伏など滅多に見せない子供だった。聞かされた事実も、余りにも残酷非道であったが。全員がとったのは一つは多々良 正恒絡みのもの以外の犯罪を、警察庁の高官である貴之の父親に通報した事。そして佐田川一族の所有する、全ての企業の乗っ取りと倒産の工作だった。乗っ取りの為の株の買収は、夕麿を除いた生徒会執行部全員が協力して行った。武は佐田川一族を丸裸にして破滅に追いやったのだ。
「武、説明して下さい。貴之は何を調べてたのですか。あなたがそこまで怒っているという事は、私の知らない事実がまだあったのでしょう?」
武に迫る夕麿を制して貴之が答えた。
「俺が話します、武さま。夕麿さまにこれ以上隠すのは無理でしょう。その前に梓さん、あなたは帰りなさい。これはあなたには関わりのない事だ」
「でも」
「あなたが首を突っ込んでも、何の益にもならない。家族であっても個人情報は、話してはならないというのは常識の筈です。しかもあなたはこの方々とは、今日あったばかりです」
貴之の言葉に梓は更に不機嫌な顔になって、バックを乱暴に掴んで立ち上がった。
「文月、このお嬢さまをお宅までお送りして」
「はい、奥さま」
小夜子の言葉に文月が居間のドアを開けて彼女を促した。
「貴之さん!」
「本当に俺の妻になりたいなら、その好奇心は必要じゃない。本日の事は申し訳ないが父に話します」
もうウンザリだった。警察庁高官の家のあり方を少しも学ばず、自分の我と好奇心ばかりの女性は。親同士が友人というだけで決められた許嫁など、貴之には邪魔でしかなかった。
「父が黙ってはいません!」
「ではお父上にこう申し上げて下さい。皇家の貴種の関わりに好奇心は無礼だと。
もう良いでしょう?
文月さん、彼女をお願いします」
彼女はまだ何か言っていたが、文月が取り合わずに連れて行ってしまった。
「申し訳ございません」
貴之に罪はない事は小夜子もわかっている。
「弁えのない困った方ですわね。当家からもお口添えして置きますわ」
「ありがとうございます」
これで破談になるだろう。貴之はホッと胸をなで下ろした。
貴之から真実を聞かされた夕麿は、声も出せない程の衝撃を受けた。もしその企みが成功していたら…考えただけで身の毛が弥立つ。身体の震えが止まらなかった。
「夕麿、もう大丈夫だから。俺が絶対に守るから」
腰に腕を回して抱き締める。すると反対側に小夜子が座って、夕麿を抱き締めた。
「夕麿さん、あなたの家はここよ。私はあなたのお母さまには適わないけど、でも今はあなたの母親だわ。感情を押さえ込もうとするのはお止めなさい。あなたは泣いて良いの。叫んで良いの。あの人たちを怨んで良いのよ?」
「お義母さん…」
夕麿は小夜子に縋り付いて泣き出した。父が自分を捨てたのはわかっていた。だがこのような仕打ちを知ってなお、放置するなど…考えた事もなかった。
小夜子に縋って泣く夕麿の背を武は抱き締めた。義勝と雅久も近寄って肩を抱いた。貴之はその手を握り締めた。
「夕麿、ここにいるみんなが家族だよ。貴之先輩もね」
眼には眼を歯には歯を。
自分たちが痛い目にあっても、決して反省したり悔い改めたりしない人たち。ならば二度と立ち上がれなくなるまで叩き潰すだけ。傷付いて泣いた人たちに、せめてもの餞。 生きる光を失って死んだ、慈園院 司と星合 清治の魂も、これで少しは癒されただろうか。武はそうであって欲しいと祈らずにはいられなかった。
だが夕麿には本当に知らせたくなった。御園生邸での家族の団欒が、少しずつ癒しをもたらしていたのに、結局また傷を深める事になってしまった。 泣くだけ泣いて落ち着きはしたが、不安定さが増したように見えた。
「ピアノを…弾きたい」
ポツリと呟いた言葉に全員が顔を見合わせた。このリビングには夕麿の為にグランドピアノが用意されてある。武の話を聞いて小夜子が購入したのだ。さすがに夕麿が持つ、戦前のベヒシュタインのような逸品は無理だったがベーゼンドルファーが手には入った。
小夜子も無縁ではなかったので、子供たちがいない間の寂寥感を慰めるものになっていた。
小夜子は夕麿を立ち上がらせて、ピアノの前に連れて行った。
「ベーゼンドルファー…?」
「ええ。 夕麿さんのベヒシュタイン程ではないけれど」
「私の…為に…?」
義勝がその間にセッティングし鍵盤を守る布を取った。夕麿は震える指を鍵盤に置いたかと思うと、いきなり『幻想即興曲』を弾き始めた。
「夕麿!」
義勝が慌てて止めさせる。
「指を潰す気か!すみません、蒸しタオルを熱めで! 武、マッサージを手伝え!」
人間の筋肉は急に激しく運動すると様々なトラブルを起こしやすくなる。それは指でも同じ。細い指を支える筋肉や骨、それらを動かす神経は脆い。ピアノがなくてもピアノ奏者は、毎日、指を動かす訓練は続けているが、実際に重い鍵盤を叩くとなると違う。指全てを動かして温めてからでなければ、間違いなく傷めてしまうのだ。
武は夕麿の左手を、義勝のする事を見よう見真似でマッサージする。そこへ運ばれた蒸しタオルで手を包んでマッサージを続ける。夕麿は無表情で座ってされるままになっていた。
「よし…いきなりはダメだ。緩やかな曲から始めろ」
義勝の言葉に小さく頷いた夕麿の指が、ドビュッシーの『月の光』を奏で始めた。 いつか武が好きだと言った美しい曲。 武は微笑んで礼を口にした。
「ああ…何て美しい色…」
雅久がうっとりとする。『月の光』は光そのものの音を、ドビュッシーは聴けたのではないかと思わせる旋律が続く。偉大な作曲家には共感覚者が多かったと言われている。共感覚と絶対音感が、結び付いているからかも知れない。共感覚者は皆、絶対音感を持っているからだ。絶対音感の開花で共感覚も開花した者も多い。 少なくとも乳児は皆、共感覚を持っているのだ。鍵盤を叩く夕麿の表情は、陶酔したように見えるものに変化した。
「武…あなたの言う夜想曲は…これでしょうか?」
そう言って夕麿が短く奏でたメロディーに武は首を振る。夕麿は指を止めて少し考え別の曲を奏で始めた。
「あ、これだ」
「夜想曲 変ロ短調…ショパンの夜想曲の代表のような曲です」
高音の響きが美しい曲はその流れような旋律と相まって、題名や作曲家を知らなくても一度は耳にした事がある曲である。 感情を豊かなこの曲は、弾いている者の心を露わにする。
音楽は演奏でも歌でも舞でもその者の内面を露わにする。心が乱れればそれも乱れる。冷酷な者に本当の意味での美しさは表現出来ない。
美とは天上の光そのものである。
夜想曲を弾き終わった夕麿が一度手を止めて、再び弾き始めた曲は幻想即興曲』よりも激しい曲だった。
『革命のエチュード』
それはショパンがフランスにいる時に故郷のワルシャワが、侵略された知らせを聞いて怒りと悲しみの中で作曲したと言われている。全体のほとんどがffで構成され、鍵盤に指を叩き付けるように奏でる。まさに怒りと悲しみは今の夕麿の気持ちそのものだった。どこにこれだけの激しさを隠していたのかと思うほど、夕麿は感情を全てぶつけるように全身で鍵盤を叩き続ける。弾き終わればまた最初から。プレーヤーのリピートのように。
雅久が声なき悲鳴に失神した。夕麿の感情が音となりそれが色彩の嵐となって雅久を襲ったのだ。その凄まじさは雅久にしかわからない。だかそれは夕麿の感情の奔流を表していた。 誰も声も出せず、鍵盤を叩き続ける夕麿を止める事は出来なかった。
ショパンは生まれ故郷のポーランドが他国に蹂躙され、戻れなくなった作曲家である。 故郷を想い故郷を愛した人だった。その故郷が繰り返し他国によって蹂躙され、支配されるままになるのを悲しみ続けた。
その想いは生まれた家に捨てられた夕麿の心と、通じるものがあるのかもしれないと武は改めて思った。多分、夕麿は自分が何故ショパンを好むのか、その理由をわかってはいないだろう。感情を抑圧する事になれてしまった心は、ピアノの音色として空間に解き放つ。ピアノが夕麿を支えて来た由縁かもしれない。
夕麿が手を止めたのは夜も更けてからだった。義勝は再び蒸しタオルで夕麿の指をマッサージしてから、武に部屋へ連れて行かせた。彼は放心状態だった。心のありったけを鍵盤に叩き付けてしまったのだ。
義勝は奏者のいなくなったピアノに座り、端から端まで指を滑らせた。
「お義母さん、明日、調律師を呼んで下さい」
「え…?」
「二つ程、今の夕麿の演奏でズレました」
余りの激しさに音を奏でるピアノの弦が緩んでしまったのだ。
「あの調子で指先が裂けるまで弾き続けて、弦を切ってしまった事もあります」
「義勝さん…あなたもピアノを弾かれるのですね」
「夕麿には適わないと諦めましたが…趣味として今でも続けてはいます」
「そう…夕麿さんのピアノは、繊細で精巧に造られた美しいガラス細工のようね。
儚くて…脆くて…哀しいわ」
過酷な宿命はどこまで無慈悲なのだろうか… …小夜子はこの先に息子たちを待ち受ける運命、少しでも幸多き時間がある事を静かに天に祈るのだった。
不安定さに揺らめく夕麿の心を少しでも、和らげたいと武は彼を連れて閑静な住宅街を散歩する。毎日少しずつ距離を延ばして、その日は外れにある公園に踏み入れた。かつては資産家の屋敷があったという公園は、木々に包まれた静かな雰囲気だった。冬枯れの木立は枝々を絡ませて空に模様を描き出していた。
「夕麿、寒くない?気分は?」
「私は大丈夫ですが…武こそ、寒くはないですか?」
「俺は大丈夫」
武の状態を聞き返すというのは、調子が良いという証拠でもあった。
ふと見ると池の向こう岸を貴之が歩いていた。背の高い男性と一緒だった。それを見た夕麿が顔色を変えて携帯を手にした。
池の向こう岸の男性が携帯を取る。
「あなたはそこで何をしているのです、周さん」
常にない低く冷たい声音が響く。向こう岸の男性がこちらを向いた。夕麿は携帯を切って、足早に池を周り始めた。
武は慌てて後を追う。
向こうもまわって来た為、途中で彼らと対峙した。
「周さん、高等部に上がった時にお願いした筈です。私の周囲の者に手を出さないで下さいと」
「契約は不履行に終わったものを守る義理はないと思うけど、夕麿?」
「あれはあなたがやめたのでしょう?」
「…何をしても無反応なお前を抱いても面白くなかっただけだ」
「要求したのはあなただった筈です」
「もう少し可愛げがあると思ったのだけど…不感症相手では幾ら僕でも萎えるよ?」
二人の冷ややかな会話を聞いて、武は耐え切れずに夕麿の手を握り締めた。
「ん?随分と可愛い坊やだな。どう夕麿なんかやめて、僕とイイコトしない?」
次の瞬間、夕麿は周を渾身の力で殴り倒していた。
「何をする!」
「あなたの節操と見境のない自堕落さには、ウンザリします」
「フ…お前が宗旨がえしてたとはな…抱かれる方はダメでも、そっちは可能なわけだ?」
「どちらも相手次第なだけです。
貴之、周さんだけはやめなさい。この男は快楽にしか興味がない。我が従兄ながら嘆かわしい男です」
「氷壁と呼ばれたお前に言われたくはないね。それともその坊やに溶かしてもらったか?」
「あなたという人は!」
夕麿は周の襟を掴んでもう一度殴った。
「夕麿、手を傷めるからやめて」
再度殴ろうとした夕麿を武が慌てて制止した。
「ほら、傷が出来てるじゃないか。ピアノを弾く大事な手なんだから」
傷が出来てしまった夕麿の手にハンカチを巻いて周の方へ向き直った。
「これをどうぞ、血が出てます」
不機嫌に武が差し出したハンカチを引ったくった周は、口許を拭おうとし、ハンカチの刺繍に顔を強ばらせた。
「これは…御印…あなたは…?」
「何故私が殴ったか、わかったでしょう?あなたも学院にいるのですから、高等部の噂くらいは耳にしている筈です」
夕麿は武を抱き寄せた。
「周さま、武さまは夕麿さまのご伴侶です」
沈黙していた貴之が周に囁いた。
「伴侶って…」
「夏休み中に結婚しました、彼と。聞いていないとは、驚きですね?久我家にも通知された筈ですが…さては、帰っていないのですね?」
「お母さんが煩くてね」
「夕麿、もう行こう」
「そうですね」
「貴之先輩、あなたが誰を選ぼうと俺が口出しする事じゃないけど…夕麿の気持ちだけは踏みにじらないで」
「はい……」
「久我 周さん……でしたよね。貴之先輩が傷付くような事をしたら、それなりの報いを受けていただきます」
「報い…?」
「俺にはあなたが夕麿に要求した事だけでも、許し難い気持ちなんだと記憶しておいて下さい。
行くぞ、夕麿」
踵を返して歩き出した武を夕麿が慌てて追う。周は武に手渡されたハンカチを握り締めたまま茫然としていた。
「武…待って下さい…」
返事もなしに武は無言で足早に歩いて行く。自分と出会う前の事とはいえ無性に腹立たしかった。御園生邸に戻ると夕麿の手を掴んで、奥の自分たちの部屋へ連れて行く。途中ですれ違った文月に、誰も近付かないように言って、夕麿を部屋へ押し込んだ。
「俺が怒っている理由、わかっているよね、夕麿?」
夕麿は目を伏せて頷いた。
「どうして、自分を大事にしなかったんだ…傷付くだけじゃないか」
「あの頃の私は…自分の事は、どうでも良かったのです。周さんが最初に目を付けたのは雅久でした。雅久を、彼を守りたかったのです」
「だからって…他に方法はなかったの?」
そう言うと武は夕麿をベッドに引き倒した。彼が着ていたコートとセーターを脱がせ、中のシャツのボタンを引き裂いた。千切れたボタンが飛び絨毯の上に転がる。
「この身体をあの人に触らせたの?」
「嫌悪すら感じませんでした…」
「そんな事を聞いてるんじゃない!他には?まだいるんだろ?」
荒々しく夕麿の顎を掴んでその瞳を見つめた。その瞳に見る見るうちに涙が浮かび溢れて頬を零れ落ちた。武は息を呑み躊躇うように、視線を揺るがして夕麿を放した。
「ごめん…」
自分のしているのが愚かな振る舞いだったと、夕麿の涙を見た瞬間に気付いて頭が冷めた。黒く醜い嫉妬心…出会う前の事を非難しても、意味がないと頭ではわかっている。それでもその相手を目の当たりにすると、自分の中に生まれる感情を制御出来ない。過去を問い詰めても愛する人をただ傷付けるだけ。
「本当にごめん…」
背を向けて言葉を紡いでも、一度放たれた言動を取り消すのは不可能だ。
「武…」
身を起こした夕麿がそんな武の想いを受け止めるようにそっと抱き寄せた。
「あなたを…傷付けるつもりはありませんでした…」
武が他の生徒とはしゃいでいるのを見て嫉妬心にかられる夕麿にすれば、周の登場がどれだけ武を傷付けたかを理解出来る。もし武の過去にそんな相手がいたら、嫉妬で暴走する自分を止められはしないだろう。
「きちんと話しておくべきでした…私の…そういう相手の事を…」
嫌われるのではないかと臆病な心がずっと口を噤ませていた。今回は偶然の外での出会いだった。
久我 周は現在、学院大の医学部に籍を置いている。今まで遭遇しなかっただけだ。高等部にいる相手ならば……もっと早くに接触していただろう。
3年生はもう卒業だが同じ2年生には……とは言っても周の時のようなものばかり。それでも聞けば嫌であるだろう。今日のように相手の口から聞かされるばなおの事である。
「武…聞いて下さい。周さんとは先程彼が口にした通りです」
「周さんだけ…?」
「ええ…この前のあれ以外は…」
武は背を向けたまま、麿の腕の中で小さく頷いた。
「逆は…3人程いました。ただ…そちらも未遂です。どんなに相手の淫らな姿を見ても、私の身体が反応しませんでした…」
武はその言葉に頷いてからハッとして振り向いた。
「待って…夕麿。じゃあ…夕麿が初めてちゃんと抱いたのって……」
「武、あなたですよ。温室のあの光景を見た瞬間…あなたを欲しました」
「そんな事、一言も言わなかったじゃないか!」
「言い難いかったのです…」
夕麿の意外な告白だった。
「周さんはあなたが私と一緒にいるのを見て、反応を見たかったのだろうと思います。あの人はそういう人なのです。貴之に関わっているのも、私への嫌がらせの部分が存在していると思います。彼は…他者を玩具くらいにしか思わない。ある意味で最も貴族らしき男だとも言えます。次々と新しい玩具を手に入れるように手を出して、飽きて熱が冷めたらあっさりと捨ててしまう……貴之は風紀委員として、周さんに捨てられて絶望した生徒を見た来た筈なのですが…」
「今回は本気…というのは?」
「有り得ません、彼の性格からすると。第一、本気の相手の前であのような態度をとれるものでしょうか?」
「そう…言われればそうだね…」
「周さんは必ず相手を溺れさせます。自分しか見えないように、あらゆる手練手管を使うのです」
「なるほどね、それに夕麿をのせられなかった意趣返しって事だね、さっきのあれは…」
「貴之はそう簡単に溺れるようなタイプではないと思います」
「そうだね…だから構うのか…あの人は」
先程あった久我 周は、笑っているのに笑っていなかった。かと言って慈園院 司のような退廃的な妖艶さはない。強いて表現するならば、蛇が獲物を見付けて舌なめずりする感覚がした。
「あの人、本当に従兄なの?」
「ええ…彼の母親が父の…姉なのです。六条の血を引く者は、私を含めてどこか歪んで異常なのです」
「違う、夕麿!……夕麿は異常なんかじゃない。そんな風に思っちゃダメだよ?夕麿は悲しい事や辛い事がたくさんあり過ぎて、心が疲れてしまってるだけなんだから。
今度自分の事をそんな風に言ったら怒るからな?」
「はい…」
「それにしても…本当に感じなかったの?」
「全然…あッ…悪戯しないで、武」
武は返事をしかけた夕麿のはだけた乳首を、いきなり口に含んで歯を立てたのだ。
「こんなに敏感なのに?」
今含んだのとは違う方を指で摘まんで押し潰すと武を抱き締める腕が震えた。再び片方を口に含んで残った方に爪を立てると夕麿の口から甘い声が漏れた。
「ああッ…武…武…」
力が緩んだのを見てベッドに押し倒した。
「抱いてもイイ?」
「この状況で聞かないで下さい…」
羞恥に頬を染めて消え入りそうな声で夕麿は答えた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる