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微光
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誰にも会わないように非常階段から外に 出た。 フラフラと施設の敷地を抜けて木立の中へと踏み出した。 シャツとスラックス だけの軽装のまま靄の中を歩いて行く。
もう何も感じなかった。 ただ涙だけが溢れ続けていた。 自分さえいなくなればみんな幸せになる。 これ以上学院で生き続けていればまた、誰かに辛い想いをさせてしまう。 だから消えてしまおう。 誰もいない場所で静かに眠ろう。 決して目覚める事のない夢を見続けよう、幸せな夢を。 現実には叶えられない…… 叶えてはいけない夢を……
足が向くままに前へと進み続ける、倒れて動けなくなるまで。
出来るだけ遠くへ
誰もいない場所へ
誰も来れない場所へ
来るんじゃなかった。 透麿はなかなかみんなの会話に入れなくて二階の部屋へと戻って来た。 廊下の突き当たりの非常階段に通じるドアを、武が開けて出て行くのを目撃した。 シャツとスラックスだけだった。 地熱が高い…とは言っても外は冬なのだ。 ドアに駆け寄るとそっと開けて覗いた。 武は魂が抜けたようなフラフラとした足取りで施設の敷地を横切って行く。 透麿はそれをじっと見つめていた。 やがて敷地を抜けた武は、そのまま保養所を取り囲む木立の中へ入って行く。 その姿が見えなくなるのを確認してから透麿は部屋へ戻った。
きっちり30分を待って部屋を出た。 武自身が自分で出て行ったのだ。 だが知らせなければまた夕麿を怒らせてしまう。 透麿は階下にゆっくりと降りて行き、まだ皆がいる蓮華の間に入り、 敦紀に近付いて口を開いた。
「武さまが…」
「透麿君?」
「武さまが非常階段から外へ……出て行かれるのを見ました」
その言葉に貴之が蒼褪めた。
「成瀬警視!」
「何事ですか?」
「武さまが非常階段から外へ出られたと…」
全員が沈黙した。
「透麿君、詳しく説明して?」
雅久の問い掛けに透麿は頷いた。
「僕…部屋に一度戻ったんです。 それで…自販機でジュースを買おうって思って、部屋から出たら……音がしました」
事実とは違う話を並べる。
「部屋のドアとは違う感じで…だから廊下の突き当たりの非常階段のドアを開けて覗いたら、武さまが森の方へ走って行かれるところでした」
「夕麿さまは?」
「…兄さまは…お部屋じゃないかと…」
「雅久、夕麿の様子を見て来てくれ」
「はい」
「透麿、武さまはどのようなお姿だった?」
周が一番蒼褪めていた。
「遠目なのではっきりとはわからないけど…上着は着ていらっしゃらなかったみたい…」
「大変だ…武さまは先日の検査で、出来るだけお身体を冷やされないようにと、担当医から指示が出ています!」
全員が慌てて部屋へ上着を取りに行く。 雅久は夕麿の様子を確認に走った。 その慌て様と実際には武が出て行ってから、かなり時間が経過している事実に、透麿は残酷な笑みをひとり浮かべていた。 武さえいなければ夕麿は六条家に帰って来てくれる…と。
コートを取りに戻った雫は高辻を部屋に留めて周を招き入れた。
「何です、雫?」
「あの坊やだが、言う事を鵜呑みにしない方が良い。多分、武さまはもっと前に出ていかれたのだろう」
「何故私たちだけに?」
「彼らは夕麿さまに近過ぎる……坊やが彼の弟だというだけで警戒もしない」
「流石は警察官。
周、あなたはこんな事態に至った原因に心辺りがあるようですね?後でゆっくり訊かせていただきます。
急ぎましょう」
御園生の御曹司、しかも最近誕生した末っ子と同じく、有人の実子と噂されている武がいなくなった。従業員はそう言われて懸命に周囲を探していた。彼らには病気がちなのを悲観して発作的に飛び出した。そう説明していた。
雫は連絡係りというもっともな理由を付けて透麿を施設内に残した。もし彼が武を発見した場合、何をするかわからないからだ。
不意に携帯が鳴った。義勝からだった。夕麿は部屋にいた。武は彼が追い掛けて来れないようにして外へ出たらしいと。雫はそれを高辻に知らせた。 今更、どうやって夕麿が追えないようにしたか…なぞ、大人同士なら説明は必要ない。 武の意外な部分での周到さに溜息しか出ない。 頭が良過ぎて純粋な人間は、生き方の計算は出来ないのにこんな事の計算はする。
だが昨夜寝込んでいた武に、そんなに体力があるとは思えない。 軽装で気温の低い中で体力が尽きたら生命に関わる。 武の精神状態をもっと把握しておくべきだったと、雫は自分の甘さを痛感していた。
周は何度かハンティングの経験があった。 外交官だった祖父が亡くなるまで夏休みや冬休みに、欧州の貴族とハンティングを楽しみに行く所に連れて行かれたからだ。
木立の中で武の歩いた痕跡を探してそれらしいものを発見した。 それは雫の言葉を裏付けていた。 走った痕跡ではなく余り足元が安定していない歩き方としか思えないものだった。
動物の場合、痕跡は足跡と糞や小枝などに付着した毛を指す。 人間の場合は足跡や踏み締めてたり身体に接触して折れた小枝を指す。 走っている人間が通り過ぎた場所は、足跡が半分であったり歩幅が大きい。 枝は身体に当たった部分の折れ方が激しく、地面上の枝は折れて蹴散らされる。 だが武が通ったと覚しき所は一歩ずつ踏み締めた足跡が不安定に乱れて続いていた。 身体に当たる部分の枝はほとんど折れておらず、地面上の枝も踏み締めて歩いたのを示すように一ヶ所で粉砕されていた。
周は携帯で雫に武の足跡を発見したと告げた。 すぐに雫と高辻が駆け付けて来た。
「そう言えば、ハンティングの経験がありましたっけ?」
高辻の言葉に周は無言で頷いた。 3人は微かな痕跡を追って木立の中を前進する。 かなり進んだ所で激しく枝が折れていた。 明らかに転んだ痕跡だった。
「マズいですね、体力を相当消耗されています」
しばらく行くとまた転んだ痕跡がある。
「近くにいらっしゃる筈です」
周が指した足跡は歩幅がもうほとんどなかった。
「雪だ…この先はもっと冷えるぞ」
僅かに積もった雪の上を足跡は引き摺るような形で続いている。 3人は駆け出した。 そこは緩やかな上り坂だった。 坂の上には青空が見える。 その青空を背景にしてうずくまる人影があった。
「武さま!!」
真っ先に駆け出したのは周だった。 コートを脱いでうずくまる武の身体を包んだ。 武は意識はあったが寒さに朦朧となっていた。 雫が抱き上げて元来た道のりを進んで行く。
周が義勝に武を発見した連絡を入れる。 高辻は夕麿の側にいる雅久に武の無事を告げた上で、露天風呂に武を入れる準備を指示した。 早急に身体を温めなければならない。 意識がある為、低体温症にまでは陥っていないが、再び肺炎を起こせば大変な事になる。 時折雫が立ち止まって武の頬を打って叫ぶ。
「武さま、御眠りになってはなりません!」
眠れば体温が急速に下がる。 途中で貴之と出会って貴之が武を受け取って駆け出す。 周はその後をずっと追い続けていた。 保養所の敷地に入った所に義勝が待ち受けていた。 彼は武を抱いて非常階段を駆け上がりすぐに部屋へ飛び込む。
「武!」
「武君!」
夕麿が露天風呂への引き戸を開けて、中で衣類を脱ぎ捨てて湯に入る。 雅久が武を脱がせて義勝が運ぶ。
「爪先からゆっくりと! 急激に温めるのは危険だ!」
遅れて駆け込んで来た周が叫んだ。
「雅久君、バスタオルを!」
「は、はい!」
それを受け取ると湯に浸けて武の肩を包む。 周は服のまま湯に入り武の爪先をマッサージして血行を促進する。 夕麿がそれを見て片腕で武を抱いて、片手の指先をマッサージする。 義勝が手を伸ばしてもう片方をマッサージする。 武は無言でされるままになっていた。
それでも効をそうしたのか武の全身に赤みが指してきた。もう大丈夫だと判断した周の言葉によって、武は湯から出されて布団へと運ばれた。
雅久が用意してくれた着替えを慌しく身に付けた周は、武をホテルが呼んだ医師に任せて自分の部屋へ半ば逃げるように戻って来た。
目の当たりにした夕麿の裸体は眩しい程美しかった。数時間前に武が抱いたばかりで、肌に所々に口付けの跡が花びらのように残っているのが、彼の白い肌を一層際立きわだたせて視線を伏せる事が難しかったのだ。
武の状態に心を向けていたとはいえ抱かれた後に彼がまとう色香は、どんなに周が振り払っても周の欲情を刺激した。雅久が衝立を用意してくれなかったら、周は濡れたままここに逃げ戻ったかもしれない。
「入りますよ、周」
高辻が部屋へ入って来た。続いて雫も入って来る。
「雫、私のカウンセリングの邪魔はしないでもらえませんか?」
「カウンセリング?これが?変わったやり方だな?」
「雫…」
高辻は彼の強引さに深々と溜息を吐いた。
「夕麿さまの裸だろう?まあ…俺もチラッと見たが…ありゃ、目の毒だな?武さまと二人分は確かに猛毒だ」
「そこ、静かに!」
「はいはい」
高辻は項垂れて座る周の横に座った。雫が同じようにその横に座った。
「まず、何故こんな事になったのですか?あなたには思い当たる事があるように見えますが?武さまは何にショックを受けられて、あんな行動に出られたと思うのです?」
周は窓の外を見るようにしてポツポツと話し出した。
この保養所の暖かさに冬眠しないで、施設内を動き回っている2m程の白い蛇の事。夕麿が幼い頃から異常なまでに蛇を怖がる事。
「蛇ねぇ…夕麿さまも意外とお可愛らしい」
「雫!」
「…すまん」
うっかり口を出してまた高辻に文句を言われた。
「夕麿が縋り付いて来た時…思わず抱き締めてしまった…」
怯える夕麿を宥める…自分にそう言い訳をして焦がれ続けた身体を抱き締めた。腕の中で震える彼にはっきりと欲望を感じた自分がいた。夕麿にその気が皆無であっても武はきっと、周のそんな心と身体の状態をどこかで敏感に察知したに違いない。
「…今も同じでしょう、周?だから武さまの容態を確認せずにここへ逃げて来た…違いますか?」
高辻の言葉に周は濡れた瞳で顔を上げた。高辻は膝立ちになって周の頭を抱いて優しく囁いた。
「よく我慢しましたね?」
「清方さん…清方さん…」
高辻の胸に縋って啜り泣き出した周を見て心底雫は驚いた。普段の彼からは想像も出来ない姿だった。
「雫、ドアの鍵を」
「ん」
雫は不思議と嫉妬心がわいて来ないのを自分自身で驚いていた。壁に寄りかかって高辻と周を眺めた。 二人の関係は高辻の口から聞いてはいる。
啜り泣く周の唇に高辻の唇が重なる。
「ぅふ…ン…ンん…」
互いの口腔を貪る濡れた音が室内に響いた。 雫は二人に近付くと高辻から周を奪って唇を重ねた。
「ン…あ…」
雫の口付けに周が戸惑う。 彼は高辻の恋人。彼が16年も想い続けていた人。
「ほら、いきなり参加するから、周が驚いているでしょう? 周、余計な事は考えないで」
高辻の指先が周のシャツのボタンを外していく。 再び重ねられた雫の唇を受け入れて周の身体は快楽に震えた。
抱き締めた夕麿の身体。
湯の中で白く輝いていた肌。
武はどんな風に彼を抱くのだろう。
夕麿はどんな声を上げて、武の愛撫に身を委ねるのだろう。
過去に一度だけ触れた夕麿の肌は滑らかで艶やかだった。 周に触れられる嫌悪感に肌を粟立たせてはいたが、それでもその肌も身体も美しかった。
だが今さっき見た肌はもっと艶やかに輝いていた。 数時間前に武が抱き締めた肌。 最愛の人に抱かれた悦びを、彼の肌は輝きへと変化させていて眩しかった。
主である武を気遣う一方で、夕麿の身体を盗み見た罪悪感が募る。
「綺麗な身体だな、周さま」
「や…あ…ンぁ…」
雫の手と高辻の手。 大きさも体温も違う二人の手が、淫らに周の身体を撫で回す。
「あッ!ああッ…イヤ…一緒…噛まないで…!」
左右の乳首を同時に含まれ、同時に甘噛みされて悲鳴を上げて仰け反る。 しばらく誰にも触れられず、誰にも触れられていなかった。 夕麿程ではなくても武も、不特定多数と関係を持つような行為は、好んではいないのを知っていたから。 第一、何人かいたセフレとは一年前、貴之と付き合っていた時にあらかた切っていた。
二人の手で裸にされ二人の口付けの跡が身体に散りばめられていく。 強過ぎる感覚、周は高い嬌声を上げて、身悶えるしか為す術がなかった。 高辻の指が周のモノに絡み、雫の指が蕾を開いて体内へ侵入する。
「ああッ…成瀬…さん…」
「違うだろう、周。 雫だ、呼んでご覧」
雫は周にもう敬称を付けなかった。 腕の中で淫らに悶える可愛い彼を、もうそんな風には呼べない。
「…し…ず…く…さん…」
途切れ途切れに雫の名前を口にする。
「ひァ…ヤ…そこ…許…あッああッ…」
雫の指がご褒美とばかりに中の敏感場所を刺激する。
「こんなに濡らして…気持ちイイ?」
「イイ…あンぁ…」
素直に答えた途端、周のモノは高辻の口に含まれていた。
「ヤあ…ダメ…イく…イくゥ!!」
中の指を増やされて更に感じる場所を攻められてはひとたまりもなかった。 周は高辻の口腔に吐精し、体内の雫の指を千切れんばかりに締め付けた。 雫と高辻は余韻に震える周の髪を両側から優しく撫でた。
「清方さん…雫さん…もう…欲しい…」
二人の首に腕を伸ばして周が強請った。
「ふふ、周。 どちらのが欲しい? 私? それとも、雫?」
「言わないとやらない」
「ああ…許して…どっちも…欲しい…」
「欲張りだな? 同時には無理だぞ?」
「そういうのをヤりたがる人もいるそうだけど…壊れてしまいますよ、周?」
そう言われても困ってしまう。 今は満たされたい。 周は頭を過ぎった淫らな答えに戸惑った。 そんな事はシた事がない。
「周、どうしたいの? 私たちの前では正直になりなさい」
高辻が誘惑するように囁く。
「ああ…」
「ほら、言ってしまえ」
まだ体内に挿れられたままの指、中を広げて動かされる。
「あン…ああ…」
欲情の熱が体内で渦巻いてもっと刺激が欲しいと言う。
「…挿れて…雫さんのを…清方さんのを…咥えさせて…」
羞恥に涙が溢れた。 体内から指が抜かれ俯せにされた。 周は自ら腰を上げた。 高辻のモノを口に含み、雫のモノを体内に受け入れる。 喉深くに受け入れたモノの所為で、声すら上げられずに腰を揺らして身悶える。
周の頭からはもう夕麿の事は完全に消え失せていた。 快楽だけが周を支配していた。
朦朧とした意識が浮き沈みする。 ぼんやりと誰かの声が聞こえる。
「…水…欲しい…」
呟きに応えるように口に水が流し込まれる。 足らなくてもっと欲しくて、舌先を動かすと優しく絡められ離れていく。 けれどすぐに水が流し込まれる。 喉の乾きがおさまると、また意識が朦朧としてわからなくなる。
何度目かに意識が浮かび上がった時、ゾクゾクと背中から寒気がした。 ああ、また熱が出た。母がまた心配すると思ってしまう。
「……い…」
思うように声が出ない。
「武?」
誰かの声がエコーがかかって奇妙な響きで聞こえる。
「…寒い…」
喉から絞り出すように言った。 熱を確認するように額や首に触れる手が冷たくて気持ち良い。 すぐに離れてしまったのが残念に思ってしまう。
目を開けているのに疲れて目を閉じる。 するとまた誰かが触れて来た。 夢と現うつつの境目がわからない。 頭は痛くて熱いのに身体はゾクゾクとして震える程寒い。 また喉が渇く。
すると耳許で声がした。
「雅久が林檎を摺り下ろして来てくれました。 少しで構いませんから食べてください」
優しい声…… 今度はそれが夕麿の声だとはっきりとわかった。
「…林檎…? ん…食べる…」
すぐにひんやりした林檎が少量、口の中に入れられた。
「…美味しい…」
胸がいっぱいになる美味しさだった。 悲しさも苦しさも溶けて行きそうだった。
「武さま……」
涙を拭ってくれる手を掴んで武は身体を起こした。 目の前に美しくて優しい雅久の顔があった。 その胸に倒れ込むようにして声を上げて号泣した。
何故泣くのか。
自分でもわからなかった。 ただ悲しかった。 生きてここにいる『自分』という存在が。 とてつもなく罪深い存在に感じられた。 愛する人を縛り付け大切な人を傷付けてしまう。 だから……消えてなくなりたかった。 そうすればもう誰かが自分の為に苦しまなくて良い筈だから。
雅久からは焚きしめた香の薫りがした。 彼らしい優しい薫りだった。
「武さま…私たちは皆、あなたを愛しております…」
その言葉に胸が詰まる。 どんなに愛してもらってもいつかは傷付ける。 武の運命に引きずり込まれて。
幸せでいて欲しいのに。
笑っていて欲しいのに。
それなのに……
皆と過ごす時間は幸せでとても温かな…武にとってはかけがえのない時間となっていた。 だから幸せ過ぎて自分の事を忘れていた。 決して忘れてはいけなかったのに、失いたくはないと思ってしまったのだ…皆を
何よりも夕麿を。 だから甘えてしまった。 自分の為にいろんな事を犠牲させて。 許して欲しいと思いながら、それが許される筈のない事だとも思ってしまう。
だから……だから夕麿は……
周と抱き合う姿がありありと蘇る。 あの時には夕麿の顔は見えなかった。 遠過ぎてはっきりとはしてなかった。 けれど……幸せそうに見えた。 これで良いのだと思う裏側でどろどろした醜い感情が揺れる。 こんな感情が生まれるのはきっと、自分が大切な人の幸せを壊してしまう人間だからだ。
思い至った答えに愕然としながらそれでも納得してしまう。 全ての答えだと。 やっぱり…ここにいてはいけない。
「さあ、武さま、林檎を食べてしまわれてお薬をお飲みください」
武の涙を拭いながら雅久が言った。 その優しい声に助けを求めるように武は小さく頷いた。
夕麿が雅久に器を手渡すのが見えた。 きっとこの醜い感情を武が抱いているのを知っている。 だから…もう武は嫌がられてしまったのだ。
武はその器を雅久から受け取った。 器にはほんのりと手にしていた夕麿の温もりが残っていた。
また涙が溢れて来た。 武は泣きながら林檎を食べた。
悲しかった。
全て自分の所為だと思いながらも夕麿を失ったのが悲しかった。
夕麿は蛇を怖がる。 今、目の当たりにしていなければ武は絶対に信じなかったと思う。 こんなに震えている夕麿を抱き締めるのは一年前のあの時以来だ。
義勝が部屋を出て行って二人きりになった。
触れ合った裸の胸に夕麿の速い鼓動が直接伝わって来る。 その背中をしっかりと抱き締めて改めて武は蛇がいた場所を見た。
「ありがとうございます…もう大丈夫です。 取り乱して……申し訳ありません」
不意に夕麿が身体を離して言った。 顔を背けて。 離れてようとする夕麿を抱き締める力を強めて離れられないようにする。
「無理するな…まだ落ち着いてないだろう? 鼓動がまだ速い」
「ですが…着替えを…あなたが冷えてしまいます。 もう、大丈夫ですから」
夕麿は言葉と共に強引に身体を離した。 武は離れて行った温もりが名残惜しくて、掌をギュッと握り締め唇を噛んだ。
拒絶された?
そんな風にも取れる夕麿の態度だった。彼は武に背を向けて荷物を見つめている。今どんな顔をしているのだろう? 何を誰を想っているのだろう? 周と抱き合っていたのは本当に蛇が怖かったから…だけ? 訊く事の出来ない疑問が次々と胸に浮かぶ。
胸が痛い……苦しい。
でも決して言葉に出して言ってはならない。 これは醜い自分の心が紡ぎ出すわがまま。 自分には許されない……許してはならない。 この醜い心は夕麿を傷付ける。 笑わなければ……笑っていなければ。 そうすれば夕麿も笑ってくれる。 皆も笑ってくれる。 思い出の中の皆は笑顔であって欲しい。
「あの…武…あなたの着替えが尽きてしまいました。 クリーニングに出しますが…その間、どうしますか? 私のものを着ますか?」
武の想いを破るように夕麿の声がした。 ハッとして顔を上げた。
「えっと…パジャマ…ある?」
「ええ」
「それ…貸して」
「わかりました」
サイズが大き過ぎて袖を折り曲げ裾も折り曲げる。 武は細身の夕麿よりも華奢であちこちの布が余る。 それが物悲しくて自分の姿を見てクスクスと笑い続けた。
「やっぱりブカブカ…」
つられて笑う夕麿にホッとする。
「おい、入るぞ?」
声を掛けて入って来た義勝も武を見て吹き出した。
「次は俺のを貸してやろう。 絶対に下が長袴になるぞ?」
「そこまで足が短くない!」
夕麿が拗ねる武を抱き締めて笑う。 まるで何事もなかったような光景に、武の胸は一層に重苦しくて悲しかった。
「で、朝食はどこで摂る?」
「みんなと一緒が良い…」
「その格好で笑いを取りに行くのか?」
「うう~義勝兄さんの意地悪!」
睨み付けると義勝はいつものように笑う。
いつもと同じ。それが武の幸せだった。
ぼんやりと考えていると急に身体が抱き上げられた。義勝の顔が側にある。
「高い高いをしてやろうか?」
「赤ちゃんじゃあるまいし…いらないよ!」
「こら、暴れるな、落ちるぞ?このまま下へ連れて行ってやるからおとなしくしてろ。あんまり眠ってない夕麿にさせたら、二人して階段を転げ落ちそうだからな」
「歩けるよ!」
「歩かすなって高辻先生から言われている」
朝食の席に就くと武には粥が用意されていた。
「…」
「武?」
思わず唸ってしまった武に、横に座る夕麿が声をかけた。
「俺の…これだけ?」
小さな土鍋の粥かゆと梅干し。昨日の昼食は全部吐いて夕食は食べていない。摺り下ろした林檎を食べただけだ。いくら武が少食でも これでは足らない。
周が立ち上がって部屋を出て行ってしばらくして戻って来た。
「武さま、これを」
周が差し出したのはグラスに入ったオレンジ・ジュースだった。
「ありがとう、周さん」
武が周を見上げて笑うがその瞳は、暗く沈んで本当には笑ってはいない事に気付いた。周は無言で頭を下げて自分の席に戻った。
「清方さん…」
どうして良いのかわからずにそっと清方に声をかけると、
「…蛇の件がわかっても、御心の闇はまだお晴れにはならないという事でしょう」
正直、高辻も考え倦ねていた。武の闇は深い。夕麿たちが卒業して取り残され一層深まったように見える。パニック発作を繰り返す夕麿の方が、まだ対処の方法がはっきりしている。武には薬の処方だけではどうにもならない。
「誰かがガツンとやれば何とかなる…ってのはなしか?」
「そんな簡単ならば僕か夕麿がとっくにやってます。第一、誰が武さまに出来るんですか?この中で唯一やれる筈の夕麿は多分無理ですよ?」
「どうだろう…?」
高辻は周とは違う反応をした。
「武さまは父性を求められる部分がおありです。一時凌ぎくらいにはなるかもしれません。
雫、あなた、一応武さまとは身内ですよね?」
「確かに俺は武さまの父君とは従兄弟になる。つまり武さまは俺にとっては、従兄子という事にはなるが…」
「ではタイミングを見てあなたが行ってください」
「清方…俺に押し付けるなよ…」
「はい、頑張って、雫。後でご褒美をあげますから」
「おや、どんなご褒美かな?
ねぇ、周?」
「僕に訊かないでください」
「ツレないなあ…」
「では、頼みましたよ、雫」
「はいはい、タイミングがあればな」
オレンジ・ジュースはもらったがやはり粥は味気ない。 気分もあって一向に食が進まずに、レンゲでただかき混ぜつづけていた。
「武…はい、口開けて」
「ん?」
顔を上げると目の前には箸に挟まれただし巻きがあった。
「いいの!?」
「たくさんはダメですよ?」
「うん!」
夕麿の方を向いて口を開けてだし巻きを食べさせてもらう。
「美味しい~」
学院の食堂では見慣れた姿で今更武も照れたりしない。 口直しが出来た武は粥をレンゲで掬って口に運ぶ。
「武? おしわものは嫌いでしたか?」
「おしわもの? 何それ?」
多少の貴族の言葉にはなれたがこれは聞いた事がない。
「えっと…」
珍しく夕麿が言葉に困っている。 見兼ねたそっと雅久が耳打ちした。
「ああ…なる程」
「?」
「梅干しは嫌いでしたか?」
「梅干し! おしわものって梅干しの事!? いや…確かにしわしわだけど…」
梅干しを箸で摘んで武は苦笑する。
「嫌いじゃないけど…好きでもない。 何か今は気分じゃない」
「梅は薬でもありますから、食べなさい」
「じゃ…ちょっとだけ…酸っぱい~」
慌てて粥を口に入れる。 それを見てあちこちから笑いが漏れた。
「おみおつけで口直しをしなさい」
「うん」
「おかべも食べなさい」
「また出た…夕麿、日本語話してよ?」
「日本語ですよ、立派に」
「おみおつけが味噌汁なのはわかる。 おかべって何?」
「豆腐の事です」
「最初からそう言えよ」
「そろそろ覚えなさい?」
「必要なの、俺に? 学院でも使わなくても大丈夫だよ?」
「それはそうですが…何かの時に困りますよ?」
「何かって?」
「それは…」
武が公式の場に顔を出す事は恐らくはない。
「ま、いいや」
気を取り直して味噌汁を二口程飲んで夕麿に返した。 グラスを手に取ってオレンジ・ジュースを飲み干した。
「ごちそうさま」
「もうおしまいですか、武?」
「もういらない」
それは決して満腹になったという意味ではない。 喉を通らなくなったという意味なのだ。
「武、もう少し食べなさい」
夕麿の指が武の頬を撫でる。武の顔に一瞬、泣きそうな表情が浮かんだ。慌てて隠すように俯いて頷いた。優しくされればされる程辛い。零れそうな涙を必死で堪えて粥を口へ運ぶ。それで夕麿が安心するなら。
食事を終えて歓談の為に隣室へ移った。その時、座っている武とすれ違い様に透麿が囁いた。
「偽善者」
鋭い言葉が刃よりも強く心を切り裂く。去年…学院で受けた虐めよりも痛い、愛する人の弟の非難の言葉は。武はパジャマの胸元を握り締めた。俯く武の耳に響いて来た音にハッと顔を上げた。透麿が頬を押さえていた。彼の目の前にいたのは敦紀だった。
「今、武さまに何を言った!」
いつも物静かな彼が珍しく声を荒げた。
「昨日の昼間も君は武さまに酷い事を言ったでしょう!?」
「落ち着け」
頬を押さえて睨み付ける透麿に今にも、掴みかかろうとする敦紀を貴之が引き止めた。
「君は…誰のお陰で夕麿さまと再会出来たと思ってるの!?武さまがあっちこっちにお頼みになられて、君を探しだしたのに…よくそんな恩知らずな真似が出来るね!?」
敦紀は知っていた。 夕麿の代わりに自分が出来る事を武が懸命に考えていた事を。 透麿の母親は非道な人間でもその息子には罪はないのだと言って笑っていたのを。
「武さまの御心も知りもしないで…!」
貴之に抱き締められて敦紀は泣き崩れた。 透麿の名前を中等部の一年生名簿で発見したのは他ならない敦紀だった。 武の喜ぶ顔が見たかった。 夕麿の事を一心に想う武の。
それなのに… …
「武…透麿に何を言われたのです?」
夕麿の問い掛けに武は激しく首を振った。
「武、言いなさい!」
「…嫌だ…」
言いたくはなかった。 武は夕麿の手を振り払って雅久の腕の中へ逃げた。
「嫌だ…嫌だ…嫌だ…」
「武さま…」
武の発する声の色から見えるのは怯え…だった。
「武!」
「夕麿さま!」
雅久は武を庇うようにして首を振った。 これ以上は武が傷付く。
夕麿は溜息を吐くと踵を返して透麿に近付いた。
「武に何を言ったのです?」
「兄さま…僕は…僕は…兄さまの為に…」
「そんな事は訊いていません! 私は何を武に言ったのかを訊いているんです!」
「僕は…僕は…」
「この期に及んでまだ、言い逃れをしようと言うのですか、透麿!」
拳を握り締めた夕麿の背中が怒りに震えていた。
「あなたは…あなた方母子は、これ以上何が欲しいと言うのです?私から何もかも奪っておいて、まだ……奪おうと言うのですか?」
悲痛な言葉だった。怒りの中に夕麿の深い悲しみが揺れていた。見てはいられなかった。
「あ、武さま!」
雅久の腕の中から飛び出して夕麿の背に抱き付いた。
「夕麿…もう良い…止めろ…ダメだ…」
「止めないでください、武!これは兄弟の問題なのです!」
「夕麿…」
それは間違いなく拒絶の言葉だった。
「ごめんなさい…」
謝罪の言葉しか言えなかった。だった今、邪魔だと言われたのだから。普段なら冷静に判断した筈の言葉が今の武には違う意味に聞こえた。夕麿の背中から離れると、武は真っ直ぐ義勝の所へと歩み寄った。
「義勝兄さん…ごめんなさい…部屋に戻りたい」
ここにはいたくなかった。
義勝は何も言わずに武を抱き上げた。雅久が義勝に続いた。
部屋に戻った武は展望窓の側の椅子に、膝を抱えてずっと座ったまま動かない。義勝や雅久が声を掛けても武は首を横に振るだけ。
それでも二人は武から目を離さなかった。夏の騒動から夕麿の命令で武の周囲からは、徹底して刃物が排除されていた。だから今も武は刃物を一切所持していない。夕麿は元より刃物は使用しない。義勝と雅久も敢えて持ち込まなかった。周は以前のようにメスを持ち歩いてはいない。
それでも不安でずっと離れずにいた。
しばらくして敦紀が様子を見に来た。
「武さま」
「御厨…さっきは…ありがとう…」
「いいえ…我慢がならなかったので…」
「ごめんな…貴之先輩と楽しんで欲しかったのに…」
「大丈夫です…私も貴之さんも武さまが大好きですから」
「本当に付き合ってるんだ…貴之先輩と」
「まだ…お試しですけど」
「お試し?何それ?貴之先輩、そんな事を言ったの?」
「…夕麿さまが仰いました。貴之さんは恋愛に臆病な方だと。だから大丈夫です。大切にしていただいてますから」
「御厨がそう言うなら…口出しはしない」
「ありがとうございます」
物静かな敦紀が武の為に激しい感情を見せた事が武に影響を与えていた。椅子に座り直して柔らかな微笑みを浮かべた。
「夕麿に相談がある…って、貴之先輩の事だったんだ?」
すると敦紀は頬を染めて答えた。
「それだけ相談したわけじゃありません!」
武が吹き出しお茶を淹れて来た雅久も笑い出した。
「もう…雅久先輩まで…」
「ごめんなさい。でも御厨君、友人として私からもお礼を申します」
敢えて貴之が誰かに片想いをしていたらしい事は口にはしなかった。
「いえ…」
「で、他には何を訊いたの?」
「ハキム王子の事です」
「ハキムの事?来期の会長は御厨に決定してる。他の役員を誰にするかは、御厨に任せるって言っただろう?」
「はい…でも不安だったので…」
「で、納得した?」
「はい。ごめんなさい、武さまにまずお伺いするべきでした」
武を飛び越して夕麿に訊く。それはルール違反だと言われても仕方がない行為であった。
「構わないさ。夕麿は学院の今までの生徒会の記録を全部知ってるし、それで納得したんだろ?」
「はい」
来期は御厨に任せれば何も問題はないだろう。
「武さま」
「ん?」
「夕麿さまはお一人で、ピアノを弾いていらっしゃいます」
「そう…」
「行かれなくてよろしいのですか?」
「……」
「武さま?」
「俺は…もう…夕麿の側にいない方が…良いんだ」
「そんな事…」
「俺がいなければ、夕麿と透麿が仲違いする事もなかった…俺は…誰かの側にいない方が良いんだよ」
「武君!」
雅久が蒼褪めた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…全部…俺が悪い…あッ!」
いつの間にか部屋に来ていた雫がいきなり武の頬を打ったのだ。
「成瀬さん!?」
「お止めください!武さまに何て事をなさるのです!」
雅久が血相を変えて武を庇う。
「退きなさい、御園生 雅久。私は武さまの亡き父宮さまの従弟としてこの方を叱りに来た」
雅久は息を呑んだ。成瀬 雫が武の父方の身内であるのを彼自身が感じさせなくしている為、こうして改めて宣言されると強い効果があった。
「はい、申し訳ございません」
雅久には抗えない。 脇に退いて座った。 武はまだ頬を押さえたままで呆然としていた。
「本当にそれて良いのか? 本当に彼はそれで幸せになると思っているのか? 違うだろう? 相手の為と言いながら、自分の事しか考えていない。 不幸を振り撒いているとしたら、自己満足なその考え方の方だと何故わからない!
何様のつもりだ? 人間が不幸を招いたりはしない。 そんなのは単なる幻だ。
清方に彼は言ったそうだ。 未来も世界も何も見えなかった自分に、それを与えてくれたのはお前だと。 愛する者の想いを今度は与えたお前が奪うのか?
彼は今度こそ死ぬぞ!」
肩を強い力で掴まれ揺さぶられるように雫は叫んだ。 だが武にはその姿に重なるようにもう一人の姿が見えた。
……ああ、今、自分を叱責しているのは成瀬 雫であって彼ではない。 武と同時に雅久は雫の声の色に重なる別の色を見ていた。
「…お父さん…?」
武の呟きに雫は驚いた。 だが武は自分でない誰かをその瞳に映していた。
『武、人は幸せになる為に生まれてくる。 だが幸せになるのに共通の方法はない。 それぞれが努力をして幸せを作り上げて行くんだ。 お前を愛してくれる人を大切にしなさい。 お前が愛する人をもっと大切にしなさい』
「お父さん…俺が…お父さんを…死なせたんじゃないの…?」
その言葉に全員が絶句した。 武を深く傷付け幸せを求めるのを邪魔していたもの。
『私は病で死んだ。 それが私の寿命だっただけだ。 お前と小夜子には苦労をさせてしまった。 だが武、私はお前が生まれてくれた事を嬉しく想っているよ。 お前は既にたくさんの人を幸せにしている。
さあ愛する人の側へ行きなさい。 そしてその手を二度と離そうと思ってはいけない』
雫は自分に起こっている事に心底戸惑っていた。勝手に口が動き言葉が紡ぎ出される。しかも自分の声に別の誰かの声が重なって聞こえて来るのだ。
「お父さん…お父さん!」
武が手を差し出した瞬間、雫がガクリと膝をついた。身体がふわりと軽くなり、同時に脱力感が襲って来た。
目の前では武が泣きじゃくっている。
「今のは…現実か?」
誰に言うともなく言った雫に雅久がしっかりと頷いた。
「成瀬さんの声の色に別の色が重なるように輝いていました。 武さまが亡き父宮さまだと感じられたなら、間違いなくここへならしゃった(来られた)のでしょう…武さまのお為に」
武の皇家の霊感と周囲が呼ぶ力は雫も夕麿が狙われた時に見ていた。
「学祭の折にも旧特別室の宮さまが、武さまの歌にひかれられて歌われていました。 録画も録音もされております。
これが武さまのお力なのでごさいましょう」
雅久は立ち上がって泣きじゃくっている武を抱き締めた。
「清方は信じてくれるかなあ…」
雫は困ったと呟きながら部屋を出て行った。
「武さま、私はあなたさまに幸せをいただいた一人でございます。 あなたさまは私に帰る家と家族をくださいました。 義勝と結婚出来ました。 あなたさまは人を不幸になどなさっておられません。 むしろ幸せになさっていらっしゃいます」
「…本当に…?」
「嘘は申し上げません」
「夕麿は? 夕麿は…幸せになった?」
「それは自分で確かめろ、武」
義勝がそう言って武を抱き上げた。
「御厨、夕麿はピアノを弾いているんだな?」
「はい、ずっと下で音がしています」
「武を宅配して来る。 雅久、部屋へ荷物を戻してくれ」
「わかりました」
雅久は笑顔で義勝に答えた。
「さっきの曲の題名は、『Je te veux(=I want you)』と言います」
夕麿にそう囁かれて武の顔の温度が一気に上がった。 皆の前で真っ赤になってしまったのが恥ずかしくて、夕麿の首に腕を回して抱き付いて顔を隠した。
夕麿が楽しげに笑う。 そのまま部屋と運ばれの奥の布団に下ろされた。
「休む…んじゃないの?」
「休みたいのですか?」
「…俺も…Je te veux…かな?」
「憎たらしいですね、どうして疑問符が付くんです」
「だって…照れ臭い」
一層頬が熱を帯びて恥ずかしさに視線そらした。
「可愛い…」
夕麿の長い指が髪を撫でる。
「でも…その前にお仕置きですね」
突然甘い囁きが低い響きに変化した。 武は抗議するように夕麿を見上げた。 雫に頬を打たれた上に父宮に叱責されたのだ。 武にすれば十分な気がしていた。
「何です、その目は? 悪い事をしたのですから、お仕置きをされるのは当たり前でしょう?」
こんな時の夕麿からは逃げられない。 それでも一応、逃げ口上は言ってみる。
「お仕置きって…あれ持ってないけど…」
旅行先まで乗馬用の鞭は持参してない。 第一、あれは学院の寮のクローゼットの中だ。
「わかってます」
そう言うと夕麿はいきなり武を抱きかかえて、俯せにしてパジャマのズボンと下着を引き下ろした。 むき出しになった尻を強い力でいきなり叩いた。
「あーっ!」
鞭とは違う種類の痛みに武は悲鳴を上げた。 そのまま如何に武が悲鳴を上げて謝っても、夕麿のお仕置きはなかなか終了しなかった。 武はひたすら泣きながら夕麿に謝罪し続けた。
確かに力任せに打たれるのは痛い。 だがそれ以上にどれ程夕麿を心配させたのか。 自分を愛してくれる心を傷付けたのか。 わかってしまうだけに辛かった。
けれど…どうしても心の中から消えない闇があった。 時折、武の心を鷲掴みにしてギリギリと締め上げる。 夕麿と愛しい人といる事を幸せを否定する。
夕麿の側にいたいのに。
夕麿と幸せになりたいのに。
それが囁く ……お前は人を不幸にしかしない と。
逃げたと思ったらいつの間にか忍び寄って武を雁字搦めにする。
怖かった。 それの囁きが本当になってしまうのが。
愛する夕麿に……
大好きな母に……
大切な義勝や雅久に……
大事人たちに……
それが真実となってしまうのが何よりも恐ろしかった。 だから消えてしまいたかった。 誰かを不幸にする前に。 夕麿を自由にする為に。
「ごめんなさい…ごめんなさい…許して…」
いつの間にか自分がここに存在する事を謝罪していた。 夕麿の手が止まった。 武の言葉の違いに気付いたのだ。
「武?」
「許して…俺は…俺は…みんなを不幸にしてしまう!」
もうどうして良いのかわからなかった。
「武…武…あなたは誰も不幸にしたりしません。 あなたは私たちを幸せにしてくれました」
「夕麿…夕麿…怖い…怖いよ…」
「私がここにいます。 あなたに一番幸せにしていただいた、私がいます」
抱き締めてくれる温もりに縋りたい。 でもそれさえも怖い。
「武、もしも、もしもです。 そんな事は絶対に有り得ませんがあなたが私を、不幸にするというならば私は喜んで受け入れます。 あなたがくださるものならば、私にはどんなものでも幸せなのです。
だから…だから私をあなたの側にいさせてください」
「出来ない…そんな事…出来ない!」
「もとよりあなたがいなかったら私は今頃生きていないか、学院の病院の奥深くに閉じ込められていたでしょう。 それ以上の不幸などあなたといてある筈がありません。 だから側にいます。 私はあなたに誓ったでしょう? 忘れたのですか、武!」
「本当に…ずっと、一緒にいてくれる? 来年の夏にロサンゼルスに行っても?」
「待っています、あなたを。 一日千秋の想いで!」
「夕麿…夕麿…うわあああぁぁぁ!!」
怖かった、独りぼっちになるのが。 特別室に閉じ込められるのが。 休みになれば夕麿が迎えに来てくれる。
それだけが希望だった。
昼間は生徒会の皆がいるからまだ誤魔化せた。 夜、誰もいない広い部屋はどんなに空調を整えても、冷たく無機質に武を蝕んだ。
もし…ずっと独りぼっちなら、気が狂ってしまう。 誰かを不幸にするかもしれない恐怖と、あの部屋に独り取り残されて生きる恐怖。 武の心はずっと二つの恐怖の間を彷徨い続けて来た。 いつか夕麿が迎えに来ない日が訪れるのではないかと。
「気付いてあげられなくてごめんなさい……あなたがこんなに苦しんで怯えているとは知らなかったのです」
本当はずっと夕麿といたい。 武はずっと孤独だった。 母と二人だけの生活でも。 良い子でいなければ母に迷惑がかかる。 学校の成績が良ければ母は皆に羨ましがられる。
だが武の優秀さは時として教師たちの不興を買った。 公立校の教師たちは頭が良過ぎる武を敬遠した。 それが虐めを加速する事があった。 学校での出来事を母には話せない。 どこにいても武は独りぼっちだった。
だから紫霄に編入し入寮のあの日にゲートで夕麿が出迎えくれた事が嬉しかった。
「夕麿、もう独りぼっちは嫌だ…」
「あと半年。 あなたが卒業してロサンゼルスに来たら、もう私たちはずっと一緒にいられます」
夕麿だけがありのままの武をわかってくれた。 本当は甘えん坊で寂しがり屋な武を。
「抱いて、夕麿。 いっぱいシて」
満たして欲しい。 夕麿だけが満たしてくれる。 さっき囁かれた言葉が身体を熱くする。 武は夕麿の首に腕を絡めて囁いた。
---Je te veux、あなたが欲しい と。
もう何も感じなかった。 ただ涙だけが溢れ続けていた。 自分さえいなくなればみんな幸せになる。 これ以上学院で生き続けていればまた、誰かに辛い想いをさせてしまう。 だから消えてしまおう。 誰もいない場所で静かに眠ろう。 決して目覚める事のない夢を見続けよう、幸せな夢を。 現実には叶えられない…… 叶えてはいけない夢を……
足が向くままに前へと進み続ける、倒れて動けなくなるまで。
出来るだけ遠くへ
誰もいない場所へ
誰も来れない場所へ
来るんじゃなかった。 透麿はなかなかみんなの会話に入れなくて二階の部屋へと戻って来た。 廊下の突き当たりの非常階段に通じるドアを、武が開けて出て行くのを目撃した。 シャツとスラックスだけだった。 地熱が高い…とは言っても外は冬なのだ。 ドアに駆け寄るとそっと開けて覗いた。 武は魂が抜けたようなフラフラとした足取りで施設の敷地を横切って行く。 透麿はそれをじっと見つめていた。 やがて敷地を抜けた武は、そのまま保養所を取り囲む木立の中へ入って行く。 その姿が見えなくなるのを確認してから透麿は部屋へ戻った。
きっちり30分を待って部屋を出た。 武自身が自分で出て行ったのだ。 だが知らせなければまた夕麿を怒らせてしまう。 透麿は階下にゆっくりと降りて行き、まだ皆がいる蓮華の間に入り、 敦紀に近付いて口を開いた。
「武さまが…」
「透麿君?」
「武さまが非常階段から外へ……出て行かれるのを見ました」
その言葉に貴之が蒼褪めた。
「成瀬警視!」
「何事ですか?」
「武さまが非常階段から外へ出られたと…」
全員が沈黙した。
「透麿君、詳しく説明して?」
雅久の問い掛けに透麿は頷いた。
「僕…部屋に一度戻ったんです。 それで…自販機でジュースを買おうって思って、部屋から出たら……音がしました」
事実とは違う話を並べる。
「部屋のドアとは違う感じで…だから廊下の突き当たりの非常階段のドアを開けて覗いたら、武さまが森の方へ走って行かれるところでした」
「夕麿さまは?」
「…兄さまは…お部屋じゃないかと…」
「雅久、夕麿の様子を見て来てくれ」
「はい」
「透麿、武さまはどのようなお姿だった?」
周が一番蒼褪めていた。
「遠目なのではっきりとはわからないけど…上着は着ていらっしゃらなかったみたい…」
「大変だ…武さまは先日の検査で、出来るだけお身体を冷やされないようにと、担当医から指示が出ています!」
全員が慌てて部屋へ上着を取りに行く。 雅久は夕麿の様子を確認に走った。 その慌て様と実際には武が出て行ってから、かなり時間が経過している事実に、透麿は残酷な笑みをひとり浮かべていた。 武さえいなければ夕麿は六条家に帰って来てくれる…と。
コートを取りに戻った雫は高辻を部屋に留めて周を招き入れた。
「何です、雫?」
「あの坊やだが、言う事を鵜呑みにしない方が良い。多分、武さまはもっと前に出ていかれたのだろう」
「何故私たちだけに?」
「彼らは夕麿さまに近過ぎる……坊やが彼の弟だというだけで警戒もしない」
「流石は警察官。
周、あなたはこんな事態に至った原因に心辺りがあるようですね?後でゆっくり訊かせていただきます。
急ぎましょう」
御園生の御曹司、しかも最近誕生した末っ子と同じく、有人の実子と噂されている武がいなくなった。従業員はそう言われて懸命に周囲を探していた。彼らには病気がちなのを悲観して発作的に飛び出した。そう説明していた。
雫は連絡係りというもっともな理由を付けて透麿を施設内に残した。もし彼が武を発見した場合、何をするかわからないからだ。
不意に携帯が鳴った。義勝からだった。夕麿は部屋にいた。武は彼が追い掛けて来れないようにして外へ出たらしいと。雫はそれを高辻に知らせた。 今更、どうやって夕麿が追えないようにしたか…なぞ、大人同士なら説明は必要ない。 武の意外な部分での周到さに溜息しか出ない。 頭が良過ぎて純粋な人間は、生き方の計算は出来ないのにこんな事の計算はする。
だが昨夜寝込んでいた武に、そんなに体力があるとは思えない。 軽装で気温の低い中で体力が尽きたら生命に関わる。 武の精神状態をもっと把握しておくべきだったと、雫は自分の甘さを痛感していた。
周は何度かハンティングの経験があった。 外交官だった祖父が亡くなるまで夏休みや冬休みに、欧州の貴族とハンティングを楽しみに行く所に連れて行かれたからだ。
木立の中で武の歩いた痕跡を探してそれらしいものを発見した。 それは雫の言葉を裏付けていた。 走った痕跡ではなく余り足元が安定していない歩き方としか思えないものだった。
動物の場合、痕跡は足跡と糞や小枝などに付着した毛を指す。 人間の場合は足跡や踏み締めてたり身体に接触して折れた小枝を指す。 走っている人間が通り過ぎた場所は、足跡が半分であったり歩幅が大きい。 枝は身体に当たった部分の折れ方が激しく、地面上の枝は折れて蹴散らされる。 だが武が通ったと覚しき所は一歩ずつ踏み締めた足跡が不安定に乱れて続いていた。 身体に当たる部分の枝はほとんど折れておらず、地面上の枝も踏み締めて歩いたのを示すように一ヶ所で粉砕されていた。
周は携帯で雫に武の足跡を発見したと告げた。 すぐに雫と高辻が駆け付けて来た。
「そう言えば、ハンティングの経験がありましたっけ?」
高辻の言葉に周は無言で頷いた。 3人は微かな痕跡を追って木立の中を前進する。 かなり進んだ所で激しく枝が折れていた。 明らかに転んだ痕跡だった。
「マズいですね、体力を相当消耗されています」
しばらく行くとまた転んだ痕跡がある。
「近くにいらっしゃる筈です」
周が指した足跡は歩幅がもうほとんどなかった。
「雪だ…この先はもっと冷えるぞ」
僅かに積もった雪の上を足跡は引き摺るような形で続いている。 3人は駆け出した。 そこは緩やかな上り坂だった。 坂の上には青空が見える。 その青空を背景にしてうずくまる人影があった。
「武さま!!」
真っ先に駆け出したのは周だった。 コートを脱いでうずくまる武の身体を包んだ。 武は意識はあったが寒さに朦朧となっていた。 雫が抱き上げて元来た道のりを進んで行く。
周が義勝に武を発見した連絡を入れる。 高辻は夕麿の側にいる雅久に武の無事を告げた上で、露天風呂に武を入れる準備を指示した。 早急に身体を温めなければならない。 意識がある為、低体温症にまでは陥っていないが、再び肺炎を起こせば大変な事になる。 時折雫が立ち止まって武の頬を打って叫ぶ。
「武さま、御眠りになってはなりません!」
眠れば体温が急速に下がる。 途中で貴之と出会って貴之が武を受け取って駆け出す。 周はその後をずっと追い続けていた。 保養所の敷地に入った所に義勝が待ち受けていた。 彼は武を抱いて非常階段を駆け上がりすぐに部屋へ飛び込む。
「武!」
「武君!」
夕麿が露天風呂への引き戸を開けて、中で衣類を脱ぎ捨てて湯に入る。 雅久が武を脱がせて義勝が運ぶ。
「爪先からゆっくりと! 急激に温めるのは危険だ!」
遅れて駆け込んで来た周が叫んだ。
「雅久君、バスタオルを!」
「は、はい!」
それを受け取ると湯に浸けて武の肩を包む。 周は服のまま湯に入り武の爪先をマッサージして血行を促進する。 夕麿がそれを見て片腕で武を抱いて、片手の指先をマッサージする。 義勝が手を伸ばしてもう片方をマッサージする。 武は無言でされるままになっていた。
それでも効をそうしたのか武の全身に赤みが指してきた。もう大丈夫だと判断した周の言葉によって、武は湯から出されて布団へと運ばれた。
雅久が用意してくれた着替えを慌しく身に付けた周は、武をホテルが呼んだ医師に任せて自分の部屋へ半ば逃げるように戻って来た。
目の当たりにした夕麿の裸体は眩しい程美しかった。数時間前に武が抱いたばかりで、肌に所々に口付けの跡が花びらのように残っているのが、彼の白い肌を一層際立きわだたせて視線を伏せる事が難しかったのだ。
武の状態に心を向けていたとはいえ抱かれた後に彼がまとう色香は、どんなに周が振り払っても周の欲情を刺激した。雅久が衝立を用意してくれなかったら、周は濡れたままここに逃げ戻ったかもしれない。
「入りますよ、周」
高辻が部屋へ入って来た。続いて雫も入って来る。
「雫、私のカウンセリングの邪魔はしないでもらえませんか?」
「カウンセリング?これが?変わったやり方だな?」
「雫…」
高辻は彼の強引さに深々と溜息を吐いた。
「夕麿さまの裸だろう?まあ…俺もチラッと見たが…ありゃ、目の毒だな?武さまと二人分は確かに猛毒だ」
「そこ、静かに!」
「はいはい」
高辻は項垂れて座る周の横に座った。雫が同じようにその横に座った。
「まず、何故こんな事になったのですか?あなたには思い当たる事があるように見えますが?武さまは何にショックを受けられて、あんな行動に出られたと思うのです?」
周は窓の外を見るようにしてポツポツと話し出した。
この保養所の暖かさに冬眠しないで、施設内を動き回っている2m程の白い蛇の事。夕麿が幼い頃から異常なまでに蛇を怖がる事。
「蛇ねぇ…夕麿さまも意外とお可愛らしい」
「雫!」
「…すまん」
うっかり口を出してまた高辻に文句を言われた。
「夕麿が縋り付いて来た時…思わず抱き締めてしまった…」
怯える夕麿を宥める…自分にそう言い訳をして焦がれ続けた身体を抱き締めた。腕の中で震える彼にはっきりと欲望を感じた自分がいた。夕麿にその気が皆無であっても武はきっと、周のそんな心と身体の状態をどこかで敏感に察知したに違いない。
「…今も同じでしょう、周?だから武さまの容態を確認せずにここへ逃げて来た…違いますか?」
高辻の言葉に周は濡れた瞳で顔を上げた。高辻は膝立ちになって周の頭を抱いて優しく囁いた。
「よく我慢しましたね?」
「清方さん…清方さん…」
高辻の胸に縋って啜り泣き出した周を見て心底雫は驚いた。普段の彼からは想像も出来ない姿だった。
「雫、ドアの鍵を」
「ん」
雫は不思議と嫉妬心がわいて来ないのを自分自身で驚いていた。壁に寄りかかって高辻と周を眺めた。 二人の関係は高辻の口から聞いてはいる。
啜り泣く周の唇に高辻の唇が重なる。
「ぅふ…ン…ンん…」
互いの口腔を貪る濡れた音が室内に響いた。 雫は二人に近付くと高辻から周を奪って唇を重ねた。
「ン…あ…」
雫の口付けに周が戸惑う。 彼は高辻の恋人。彼が16年も想い続けていた人。
「ほら、いきなり参加するから、周が驚いているでしょう? 周、余計な事は考えないで」
高辻の指先が周のシャツのボタンを外していく。 再び重ねられた雫の唇を受け入れて周の身体は快楽に震えた。
抱き締めた夕麿の身体。
湯の中で白く輝いていた肌。
武はどんな風に彼を抱くのだろう。
夕麿はどんな声を上げて、武の愛撫に身を委ねるのだろう。
過去に一度だけ触れた夕麿の肌は滑らかで艶やかだった。 周に触れられる嫌悪感に肌を粟立たせてはいたが、それでもその肌も身体も美しかった。
だが今さっき見た肌はもっと艶やかに輝いていた。 数時間前に武が抱き締めた肌。 最愛の人に抱かれた悦びを、彼の肌は輝きへと変化させていて眩しかった。
主である武を気遣う一方で、夕麿の身体を盗み見た罪悪感が募る。
「綺麗な身体だな、周さま」
「や…あ…ンぁ…」
雫の手と高辻の手。 大きさも体温も違う二人の手が、淫らに周の身体を撫で回す。
「あッ!ああッ…イヤ…一緒…噛まないで…!」
左右の乳首を同時に含まれ、同時に甘噛みされて悲鳴を上げて仰け反る。 しばらく誰にも触れられず、誰にも触れられていなかった。 夕麿程ではなくても武も、不特定多数と関係を持つような行為は、好んではいないのを知っていたから。 第一、何人かいたセフレとは一年前、貴之と付き合っていた時にあらかた切っていた。
二人の手で裸にされ二人の口付けの跡が身体に散りばめられていく。 強過ぎる感覚、周は高い嬌声を上げて、身悶えるしか為す術がなかった。 高辻の指が周のモノに絡み、雫の指が蕾を開いて体内へ侵入する。
「ああッ…成瀬…さん…」
「違うだろう、周。 雫だ、呼んでご覧」
雫は周にもう敬称を付けなかった。 腕の中で淫らに悶える可愛い彼を、もうそんな風には呼べない。
「…し…ず…く…さん…」
途切れ途切れに雫の名前を口にする。
「ひァ…ヤ…そこ…許…あッああッ…」
雫の指がご褒美とばかりに中の敏感場所を刺激する。
「こんなに濡らして…気持ちイイ?」
「イイ…あンぁ…」
素直に答えた途端、周のモノは高辻の口に含まれていた。
「ヤあ…ダメ…イく…イくゥ!!」
中の指を増やされて更に感じる場所を攻められてはひとたまりもなかった。 周は高辻の口腔に吐精し、体内の雫の指を千切れんばかりに締め付けた。 雫と高辻は余韻に震える周の髪を両側から優しく撫でた。
「清方さん…雫さん…もう…欲しい…」
二人の首に腕を伸ばして周が強請った。
「ふふ、周。 どちらのが欲しい? 私? それとも、雫?」
「言わないとやらない」
「ああ…許して…どっちも…欲しい…」
「欲張りだな? 同時には無理だぞ?」
「そういうのをヤりたがる人もいるそうだけど…壊れてしまいますよ、周?」
そう言われても困ってしまう。 今は満たされたい。 周は頭を過ぎった淫らな答えに戸惑った。 そんな事はシた事がない。
「周、どうしたいの? 私たちの前では正直になりなさい」
高辻が誘惑するように囁く。
「ああ…」
「ほら、言ってしまえ」
まだ体内に挿れられたままの指、中を広げて動かされる。
「あン…ああ…」
欲情の熱が体内で渦巻いてもっと刺激が欲しいと言う。
「…挿れて…雫さんのを…清方さんのを…咥えさせて…」
羞恥に涙が溢れた。 体内から指が抜かれ俯せにされた。 周は自ら腰を上げた。 高辻のモノを口に含み、雫のモノを体内に受け入れる。 喉深くに受け入れたモノの所為で、声すら上げられずに腰を揺らして身悶える。
周の頭からはもう夕麿の事は完全に消え失せていた。 快楽だけが周を支配していた。
朦朧とした意識が浮き沈みする。 ぼんやりと誰かの声が聞こえる。
「…水…欲しい…」
呟きに応えるように口に水が流し込まれる。 足らなくてもっと欲しくて、舌先を動かすと優しく絡められ離れていく。 けれどすぐに水が流し込まれる。 喉の乾きがおさまると、また意識が朦朧としてわからなくなる。
何度目かに意識が浮かび上がった時、ゾクゾクと背中から寒気がした。 ああ、また熱が出た。母がまた心配すると思ってしまう。
「……い…」
思うように声が出ない。
「武?」
誰かの声がエコーがかかって奇妙な響きで聞こえる。
「…寒い…」
喉から絞り出すように言った。 熱を確認するように額や首に触れる手が冷たくて気持ち良い。 すぐに離れてしまったのが残念に思ってしまう。
目を開けているのに疲れて目を閉じる。 するとまた誰かが触れて来た。 夢と現うつつの境目がわからない。 頭は痛くて熱いのに身体はゾクゾクとして震える程寒い。 また喉が渇く。
すると耳許で声がした。
「雅久が林檎を摺り下ろして来てくれました。 少しで構いませんから食べてください」
優しい声…… 今度はそれが夕麿の声だとはっきりとわかった。
「…林檎…? ん…食べる…」
すぐにひんやりした林檎が少量、口の中に入れられた。
「…美味しい…」
胸がいっぱいになる美味しさだった。 悲しさも苦しさも溶けて行きそうだった。
「武さま……」
涙を拭ってくれる手を掴んで武は身体を起こした。 目の前に美しくて優しい雅久の顔があった。 その胸に倒れ込むようにして声を上げて号泣した。
何故泣くのか。
自分でもわからなかった。 ただ悲しかった。 生きてここにいる『自分』という存在が。 とてつもなく罪深い存在に感じられた。 愛する人を縛り付け大切な人を傷付けてしまう。 だから……消えてなくなりたかった。 そうすればもう誰かが自分の為に苦しまなくて良い筈だから。
雅久からは焚きしめた香の薫りがした。 彼らしい優しい薫りだった。
「武さま…私たちは皆、あなたを愛しております…」
その言葉に胸が詰まる。 どんなに愛してもらってもいつかは傷付ける。 武の運命に引きずり込まれて。
幸せでいて欲しいのに。
笑っていて欲しいのに。
それなのに……
皆と過ごす時間は幸せでとても温かな…武にとってはかけがえのない時間となっていた。 だから幸せ過ぎて自分の事を忘れていた。 決して忘れてはいけなかったのに、失いたくはないと思ってしまったのだ…皆を
何よりも夕麿を。 だから甘えてしまった。 自分の為にいろんな事を犠牲させて。 許して欲しいと思いながら、それが許される筈のない事だとも思ってしまう。
だから……だから夕麿は……
周と抱き合う姿がありありと蘇る。 あの時には夕麿の顔は見えなかった。 遠過ぎてはっきりとはしてなかった。 けれど……幸せそうに見えた。 これで良いのだと思う裏側でどろどろした醜い感情が揺れる。 こんな感情が生まれるのはきっと、自分が大切な人の幸せを壊してしまう人間だからだ。
思い至った答えに愕然としながらそれでも納得してしまう。 全ての答えだと。 やっぱり…ここにいてはいけない。
「さあ、武さま、林檎を食べてしまわれてお薬をお飲みください」
武の涙を拭いながら雅久が言った。 その優しい声に助けを求めるように武は小さく頷いた。
夕麿が雅久に器を手渡すのが見えた。 きっとこの醜い感情を武が抱いているのを知っている。 だから…もう武は嫌がられてしまったのだ。
武はその器を雅久から受け取った。 器にはほんのりと手にしていた夕麿の温もりが残っていた。
また涙が溢れて来た。 武は泣きながら林檎を食べた。
悲しかった。
全て自分の所為だと思いながらも夕麿を失ったのが悲しかった。
夕麿は蛇を怖がる。 今、目の当たりにしていなければ武は絶対に信じなかったと思う。 こんなに震えている夕麿を抱き締めるのは一年前のあの時以来だ。
義勝が部屋を出て行って二人きりになった。
触れ合った裸の胸に夕麿の速い鼓動が直接伝わって来る。 その背中をしっかりと抱き締めて改めて武は蛇がいた場所を見た。
「ありがとうございます…もう大丈夫です。 取り乱して……申し訳ありません」
不意に夕麿が身体を離して言った。 顔を背けて。 離れてようとする夕麿を抱き締める力を強めて離れられないようにする。
「無理するな…まだ落ち着いてないだろう? 鼓動がまだ速い」
「ですが…着替えを…あなたが冷えてしまいます。 もう、大丈夫ですから」
夕麿は言葉と共に強引に身体を離した。 武は離れて行った温もりが名残惜しくて、掌をギュッと握り締め唇を噛んだ。
拒絶された?
そんな風にも取れる夕麿の態度だった。彼は武に背を向けて荷物を見つめている。今どんな顔をしているのだろう? 何を誰を想っているのだろう? 周と抱き合っていたのは本当に蛇が怖かったから…だけ? 訊く事の出来ない疑問が次々と胸に浮かぶ。
胸が痛い……苦しい。
でも決して言葉に出して言ってはならない。 これは醜い自分の心が紡ぎ出すわがまま。 自分には許されない……許してはならない。 この醜い心は夕麿を傷付ける。 笑わなければ……笑っていなければ。 そうすれば夕麿も笑ってくれる。 皆も笑ってくれる。 思い出の中の皆は笑顔であって欲しい。
「あの…武…あなたの着替えが尽きてしまいました。 クリーニングに出しますが…その間、どうしますか? 私のものを着ますか?」
武の想いを破るように夕麿の声がした。 ハッとして顔を上げた。
「えっと…パジャマ…ある?」
「ええ」
「それ…貸して」
「わかりました」
サイズが大き過ぎて袖を折り曲げ裾も折り曲げる。 武は細身の夕麿よりも華奢であちこちの布が余る。 それが物悲しくて自分の姿を見てクスクスと笑い続けた。
「やっぱりブカブカ…」
つられて笑う夕麿にホッとする。
「おい、入るぞ?」
声を掛けて入って来た義勝も武を見て吹き出した。
「次は俺のを貸してやろう。 絶対に下が長袴になるぞ?」
「そこまで足が短くない!」
夕麿が拗ねる武を抱き締めて笑う。 まるで何事もなかったような光景に、武の胸は一層に重苦しくて悲しかった。
「で、朝食はどこで摂る?」
「みんなと一緒が良い…」
「その格好で笑いを取りに行くのか?」
「うう~義勝兄さんの意地悪!」
睨み付けると義勝はいつものように笑う。
いつもと同じ。それが武の幸せだった。
ぼんやりと考えていると急に身体が抱き上げられた。義勝の顔が側にある。
「高い高いをしてやろうか?」
「赤ちゃんじゃあるまいし…いらないよ!」
「こら、暴れるな、落ちるぞ?このまま下へ連れて行ってやるからおとなしくしてろ。あんまり眠ってない夕麿にさせたら、二人して階段を転げ落ちそうだからな」
「歩けるよ!」
「歩かすなって高辻先生から言われている」
朝食の席に就くと武には粥が用意されていた。
「…」
「武?」
思わず唸ってしまった武に、横に座る夕麿が声をかけた。
「俺の…これだけ?」
小さな土鍋の粥かゆと梅干し。昨日の昼食は全部吐いて夕食は食べていない。摺り下ろした林檎を食べただけだ。いくら武が少食でも これでは足らない。
周が立ち上がって部屋を出て行ってしばらくして戻って来た。
「武さま、これを」
周が差し出したのはグラスに入ったオレンジ・ジュースだった。
「ありがとう、周さん」
武が周を見上げて笑うがその瞳は、暗く沈んで本当には笑ってはいない事に気付いた。周は無言で頭を下げて自分の席に戻った。
「清方さん…」
どうして良いのかわからずにそっと清方に声をかけると、
「…蛇の件がわかっても、御心の闇はまだお晴れにはならないという事でしょう」
正直、高辻も考え倦ねていた。武の闇は深い。夕麿たちが卒業して取り残され一層深まったように見える。パニック発作を繰り返す夕麿の方が、まだ対処の方法がはっきりしている。武には薬の処方だけではどうにもならない。
「誰かがガツンとやれば何とかなる…ってのはなしか?」
「そんな簡単ならば僕か夕麿がとっくにやってます。第一、誰が武さまに出来るんですか?この中で唯一やれる筈の夕麿は多分無理ですよ?」
「どうだろう…?」
高辻は周とは違う反応をした。
「武さまは父性を求められる部分がおありです。一時凌ぎくらいにはなるかもしれません。
雫、あなた、一応武さまとは身内ですよね?」
「確かに俺は武さまの父君とは従兄弟になる。つまり武さまは俺にとっては、従兄子という事にはなるが…」
「ではタイミングを見てあなたが行ってください」
「清方…俺に押し付けるなよ…」
「はい、頑張って、雫。後でご褒美をあげますから」
「おや、どんなご褒美かな?
ねぇ、周?」
「僕に訊かないでください」
「ツレないなあ…」
「では、頼みましたよ、雫」
「はいはい、タイミングがあればな」
オレンジ・ジュースはもらったがやはり粥は味気ない。 気分もあって一向に食が進まずに、レンゲでただかき混ぜつづけていた。
「武…はい、口開けて」
「ん?」
顔を上げると目の前には箸に挟まれただし巻きがあった。
「いいの!?」
「たくさんはダメですよ?」
「うん!」
夕麿の方を向いて口を開けてだし巻きを食べさせてもらう。
「美味しい~」
学院の食堂では見慣れた姿で今更武も照れたりしない。 口直しが出来た武は粥をレンゲで掬って口に運ぶ。
「武? おしわものは嫌いでしたか?」
「おしわもの? 何それ?」
多少の貴族の言葉にはなれたがこれは聞いた事がない。
「えっと…」
珍しく夕麿が言葉に困っている。 見兼ねたそっと雅久が耳打ちした。
「ああ…なる程」
「?」
「梅干しは嫌いでしたか?」
「梅干し! おしわものって梅干しの事!? いや…確かにしわしわだけど…」
梅干しを箸で摘んで武は苦笑する。
「嫌いじゃないけど…好きでもない。 何か今は気分じゃない」
「梅は薬でもありますから、食べなさい」
「じゃ…ちょっとだけ…酸っぱい~」
慌てて粥を口に入れる。 それを見てあちこちから笑いが漏れた。
「おみおつけで口直しをしなさい」
「うん」
「おかべも食べなさい」
「また出た…夕麿、日本語話してよ?」
「日本語ですよ、立派に」
「おみおつけが味噌汁なのはわかる。 おかべって何?」
「豆腐の事です」
「最初からそう言えよ」
「そろそろ覚えなさい?」
「必要なの、俺に? 学院でも使わなくても大丈夫だよ?」
「それはそうですが…何かの時に困りますよ?」
「何かって?」
「それは…」
武が公式の場に顔を出す事は恐らくはない。
「ま、いいや」
気を取り直して味噌汁を二口程飲んで夕麿に返した。 グラスを手に取ってオレンジ・ジュースを飲み干した。
「ごちそうさま」
「もうおしまいですか、武?」
「もういらない」
それは決して満腹になったという意味ではない。 喉を通らなくなったという意味なのだ。
「武、もう少し食べなさい」
夕麿の指が武の頬を撫でる。武の顔に一瞬、泣きそうな表情が浮かんだ。慌てて隠すように俯いて頷いた。優しくされればされる程辛い。零れそうな涙を必死で堪えて粥を口へ運ぶ。それで夕麿が安心するなら。
食事を終えて歓談の為に隣室へ移った。その時、座っている武とすれ違い様に透麿が囁いた。
「偽善者」
鋭い言葉が刃よりも強く心を切り裂く。去年…学院で受けた虐めよりも痛い、愛する人の弟の非難の言葉は。武はパジャマの胸元を握り締めた。俯く武の耳に響いて来た音にハッと顔を上げた。透麿が頬を押さえていた。彼の目の前にいたのは敦紀だった。
「今、武さまに何を言った!」
いつも物静かな彼が珍しく声を荒げた。
「昨日の昼間も君は武さまに酷い事を言ったでしょう!?」
「落ち着け」
頬を押さえて睨み付ける透麿に今にも、掴みかかろうとする敦紀を貴之が引き止めた。
「君は…誰のお陰で夕麿さまと再会出来たと思ってるの!?武さまがあっちこっちにお頼みになられて、君を探しだしたのに…よくそんな恩知らずな真似が出来るね!?」
敦紀は知っていた。 夕麿の代わりに自分が出来る事を武が懸命に考えていた事を。 透麿の母親は非道な人間でもその息子には罪はないのだと言って笑っていたのを。
「武さまの御心も知りもしないで…!」
貴之に抱き締められて敦紀は泣き崩れた。 透麿の名前を中等部の一年生名簿で発見したのは他ならない敦紀だった。 武の喜ぶ顔が見たかった。 夕麿の事を一心に想う武の。
それなのに… …
「武…透麿に何を言われたのです?」
夕麿の問い掛けに武は激しく首を振った。
「武、言いなさい!」
「…嫌だ…」
言いたくはなかった。 武は夕麿の手を振り払って雅久の腕の中へ逃げた。
「嫌だ…嫌だ…嫌だ…」
「武さま…」
武の発する声の色から見えるのは怯え…だった。
「武!」
「夕麿さま!」
雅久は武を庇うようにして首を振った。 これ以上は武が傷付く。
夕麿は溜息を吐くと踵を返して透麿に近付いた。
「武に何を言ったのです?」
「兄さま…僕は…僕は…兄さまの為に…」
「そんな事は訊いていません! 私は何を武に言ったのかを訊いているんです!」
「僕は…僕は…」
「この期に及んでまだ、言い逃れをしようと言うのですか、透麿!」
拳を握り締めた夕麿の背中が怒りに震えていた。
「あなたは…あなた方母子は、これ以上何が欲しいと言うのです?私から何もかも奪っておいて、まだ……奪おうと言うのですか?」
悲痛な言葉だった。怒りの中に夕麿の深い悲しみが揺れていた。見てはいられなかった。
「あ、武さま!」
雅久の腕の中から飛び出して夕麿の背に抱き付いた。
「夕麿…もう良い…止めろ…ダメだ…」
「止めないでください、武!これは兄弟の問題なのです!」
「夕麿…」
それは間違いなく拒絶の言葉だった。
「ごめんなさい…」
謝罪の言葉しか言えなかった。だった今、邪魔だと言われたのだから。普段なら冷静に判断した筈の言葉が今の武には違う意味に聞こえた。夕麿の背中から離れると、武は真っ直ぐ義勝の所へと歩み寄った。
「義勝兄さん…ごめんなさい…部屋に戻りたい」
ここにはいたくなかった。
義勝は何も言わずに武を抱き上げた。雅久が義勝に続いた。
部屋に戻った武は展望窓の側の椅子に、膝を抱えてずっと座ったまま動かない。義勝や雅久が声を掛けても武は首を横に振るだけ。
それでも二人は武から目を離さなかった。夏の騒動から夕麿の命令で武の周囲からは、徹底して刃物が排除されていた。だから今も武は刃物を一切所持していない。夕麿は元より刃物は使用しない。義勝と雅久も敢えて持ち込まなかった。周は以前のようにメスを持ち歩いてはいない。
それでも不安でずっと離れずにいた。
しばらくして敦紀が様子を見に来た。
「武さま」
「御厨…さっきは…ありがとう…」
「いいえ…我慢がならなかったので…」
「ごめんな…貴之先輩と楽しんで欲しかったのに…」
「大丈夫です…私も貴之さんも武さまが大好きですから」
「本当に付き合ってるんだ…貴之先輩と」
「まだ…お試しですけど」
「お試し?何それ?貴之先輩、そんな事を言ったの?」
「…夕麿さまが仰いました。貴之さんは恋愛に臆病な方だと。だから大丈夫です。大切にしていただいてますから」
「御厨がそう言うなら…口出しはしない」
「ありがとうございます」
物静かな敦紀が武の為に激しい感情を見せた事が武に影響を与えていた。椅子に座り直して柔らかな微笑みを浮かべた。
「夕麿に相談がある…って、貴之先輩の事だったんだ?」
すると敦紀は頬を染めて答えた。
「それだけ相談したわけじゃありません!」
武が吹き出しお茶を淹れて来た雅久も笑い出した。
「もう…雅久先輩まで…」
「ごめんなさい。でも御厨君、友人として私からもお礼を申します」
敢えて貴之が誰かに片想いをしていたらしい事は口にはしなかった。
「いえ…」
「で、他には何を訊いたの?」
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「ハキムの事?来期の会長は御厨に決定してる。他の役員を誰にするかは、御厨に任せるって言っただろう?」
「はい…でも不安だったので…」
「で、納得した?」
「はい。ごめんなさい、武さまにまずお伺いするべきでした」
武を飛び越して夕麿に訊く。それはルール違反だと言われても仕方がない行為であった。
「構わないさ。夕麿は学院の今までの生徒会の記録を全部知ってるし、それで納得したんだろ?」
「はい」
来期は御厨に任せれば何も問題はないだろう。
「武さま」
「ん?」
「夕麿さまはお一人で、ピアノを弾いていらっしゃいます」
「そう…」
「行かれなくてよろしいのですか?」
「……」
「武さま?」
「俺は…もう…夕麿の側にいない方が…良いんだ」
「そんな事…」
「俺がいなければ、夕麿と透麿が仲違いする事もなかった…俺は…誰かの側にいない方が良いんだよ」
「武君!」
雅久が蒼褪めた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…全部…俺が悪い…あッ!」
いつの間にか部屋に来ていた雫がいきなり武の頬を打ったのだ。
「成瀬さん!?」
「お止めください!武さまに何て事をなさるのです!」
雅久が血相を変えて武を庇う。
「退きなさい、御園生 雅久。私は武さまの亡き父宮さまの従弟としてこの方を叱りに来た」
雅久は息を呑んだ。成瀬 雫が武の父方の身内であるのを彼自身が感じさせなくしている為、こうして改めて宣言されると強い効果があった。
「はい、申し訳ございません」
雅久には抗えない。 脇に退いて座った。 武はまだ頬を押さえたままで呆然としていた。
「本当にそれて良いのか? 本当に彼はそれで幸せになると思っているのか? 違うだろう? 相手の為と言いながら、自分の事しか考えていない。 不幸を振り撒いているとしたら、自己満足なその考え方の方だと何故わからない!
何様のつもりだ? 人間が不幸を招いたりはしない。 そんなのは単なる幻だ。
清方に彼は言ったそうだ。 未来も世界も何も見えなかった自分に、それを与えてくれたのはお前だと。 愛する者の想いを今度は与えたお前が奪うのか?
彼は今度こそ死ぬぞ!」
肩を強い力で掴まれ揺さぶられるように雫は叫んだ。 だが武にはその姿に重なるようにもう一人の姿が見えた。
……ああ、今、自分を叱責しているのは成瀬 雫であって彼ではない。 武と同時に雅久は雫の声の色に重なる別の色を見ていた。
「…お父さん…?」
武の呟きに雫は驚いた。 だが武は自分でない誰かをその瞳に映していた。
『武、人は幸せになる為に生まれてくる。 だが幸せになるのに共通の方法はない。 それぞれが努力をして幸せを作り上げて行くんだ。 お前を愛してくれる人を大切にしなさい。 お前が愛する人をもっと大切にしなさい』
「お父さん…俺が…お父さんを…死なせたんじゃないの…?」
その言葉に全員が絶句した。 武を深く傷付け幸せを求めるのを邪魔していたもの。
『私は病で死んだ。 それが私の寿命だっただけだ。 お前と小夜子には苦労をさせてしまった。 だが武、私はお前が生まれてくれた事を嬉しく想っているよ。 お前は既にたくさんの人を幸せにしている。
さあ愛する人の側へ行きなさい。 そしてその手を二度と離そうと思ってはいけない』
雫は自分に起こっている事に心底戸惑っていた。勝手に口が動き言葉が紡ぎ出される。しかも自分の声に別の誰かの声が重なって聞こえて来るのだ。
「お父さん…お父さん!」
武が手を差し出した瞬間、雫がガクリと膝をついた。身体がふわりと軽くなり、同時に脱力感が襲って来た。
目の前では武が泣きじゃくっている。
「今のは…現実か?」
誰に言うともなく言った雫に雅久がしっかりと頷いた。
「成瀬さんの声の色に別の色が重なるように輝いていました。 武さまが亡き父宮さまだと感じられたなら、間違いなくここへならしゃった(来られた)のでしょう…武さまのお為に」
武の皇家の霊感と周囲が呼ぶ力は雫も夕麿が狙われた時に見ていた。
「学祭の折にも旧特別室の宮さまが、武さまの歌にひかれられて歌われていました。 録画も録音もされております。
これが武さまのお力なのでごさいましょう」
雅久は立ち上がって泣きじゃくっている武を抱き締めた。
「清方は信じてくれるかなあ…」
雫は困ったと呟きながら部屋を出て行った。
「武さま、私はあなたさまに幸せをいただいた一人でございます。 あなたさまは私に帰る家と家族をくださいました。 義勝と結婚出来ました。 あなたさまは人を不幸になどなさっておられません。 むしろ幸せになさっていらっしゃいます」
「…本当に…?」
「嘘は申し上げません」
「夕麿は? 夕麿は…幸せになった?」
「それは自分で確かめろ、武」
義勝がそう言って武を抱き上げた。
「御厨、夕麿はピアノを弾いているんだな?」
「はい、ずっと下で音がしています」
「武を宅配して来る。 雅久、部屋へ荷物を戻してくれ」
「わかりました」
雅久は笑顔で義勝に答えた。
「さっきの曲の題名は、『Je te veux(=I want you)』と言います」
夕麿にそう囁かれて武の顔の温度が一気に上がった。 皆の前で真っ赤になってしまったのが恥ずかしくて、夕麿の首に腕を回して抱き付いて顔を隠した。
夕麿が楽しげに笑う。 そのまま部屋と運ばれの奥の布団に下ろされた。
「休む…んじゃないの?」
「休みたいのですか?」
「…俺も…Je te veux…かな?」
「憎たらしいですね、どうして疑問符が付くんです」
「だって…照れ臭い」
一層頬が熱を帯びて恥ずかしさに視線そらした。
「可愛い…」
夕麿の長い指が髪を撫でる。
「でも…その前にお仕置きですね」
突然甘い囁きが低い響きに変化した。 武は抗議するように夕麿を見上げた。 雫に頬を打たれた上に父宮に叱責されたのだ。 武にすれば十分な気がしていた。
「何です、その目は? 悪い事をしたのですから、お仕置きをされるのは当たり前でしょう?」
こんな時の夕麿からは逃げられない。 それでも一応、逃げ口上は言ってみる。
「お仕置きって…あれ持ってないけど…」
旅行先まで乗馬用の鞭は持参してない。 第一、あれは学院の寮のクローゼットの中だ。
「わかってます」
そう言うと夕麿はいきなり武を抱きかかえて、俯せにしてパジャマのズボンと下着を引き下ろした。 むき出しになった尻を強い力でいきなり叩いた。
「あーっ!」
鞭とは違う種類の痛みに武は悲鳴を上げた。 そのまま如何に武が悲鳴を上げて謝っても、夕麿のお仕置きはなかなか終了しなかった。 武はひたすら泣きながら夕麿に謝罪し続けた。
確かに力任せに打たれるのは痛い。 だがそれ以上にどれ程夕麿を心配させたのか。 自分を愛してくれる心を傷付けたのか。 わかってしまうだけに辛かった。
けれど…どうしても心の中から消えない闇があった。 時折、武の心を鷲掴みにしてギリギリと締め上げる。 夕麿と愛しい人といる事を幸せを否定する。
夕麿の側にいたいのに。
夕麿と幸せになりたいのに。
それが囁く ……お前は人を不幸にしかしない と。
逃げたと思ったらいつの間にか忍び寄って武を雁字搦めにする。
怖かった。 それの囁きが本当になってしまうのが。
愛する夕麿に……
大好きな母に……
大切な義勝や雅久に……
大事人たちに……
それが真実となってしまうのが何よりも恐ろしかった。 だから消えてしまいたかった。 誰かを不幸にする前に。 夕麿を自由にする為に。
「ごめんなさい…ごめんなさい…許して…」
いつの間にか自分がここに存在する事を謝罪していた。 夕麿の手が止まった。 武の言葉の違いに気付いたのだ。
「武?」
「許して…俺は…俺は…みんなを不幸にしてしまう!」
もうどうして良いのかわからなかった。
「武…武…あなたは誰も不幸にしたりしません。 あなたは私たちを幸せにしてくれました」
「夕麿…夕麿…怖い…怖いよ…」
「私がここにいます。 あなたに一番幸せにしていただいた、私がいます」
抱き締めてくれる温もりに縋りたい。 でもそれさえも怖い。
「武、もしも、もしもです。 そんな事は絶対に有り得ませんがあなたが私を、不幸にするというならば私は喜んで受け入れます。 あなたがくださるものならば、私にはどんなものでも幸せなのです。
だから…だから私をあなたの側にいさせてください」
「出来ない…そんな事…出来ない!」
「もとよりあなたがいなかったら私は今頃生きていないか、学院の病院の奥深くに閉じ込められていたでしょう。 それ以上の不幸などあなたといてある筈がありません。 だから側にいます。 私はあなたに誓ったでしょう? 忘れたのですか、武!」
「本当に…ずっと、一緒にいてくれる? 来年の夏にロサンゼルスに行っても?」
「待っています、あなたを。 一日千秋の想いで!」
「夕麿…夕麿…うわあああぁぁぁ!!」
怖かった、独りぼっちになるのが。 特別室に閉じ込められるのが。 休みになれば夕麿が迎えに来てくれる。
それだけが希望だった。
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もし…ずっと独りぼっちなら、気が狂ってしまう。 誰かを不幸にするかもしれない恐怖と、あの部屋に独り取り残されて生きる恐怖。 武の心はずっと二つの恐怖の間を彷徨い続けて来た。 いつか夕麿が迎えに来ない日が訪れるのではないかと。
「気付いてあげられなくてごめんなさい……あなたがこんなに苦しんで怯えているとは知らなかったのです」
本当はずっと夕麿といたい。 武はずっと孤独だった。 母と二人だけの生活でも。 良い子でいなければ母に迷惑がかかる。 学校の成績が良ければ母は皆に羨ましがられる。
だが武の優秀さは時として教師たちの不興を買った。 公立校の教師たちは頭が良過ぎる武を敬遠した。 それが虐めを加速する事があった。 学校での出来事を母には話せない。 どこにいても武は独りぼっちだった。
だから紫霄に編入し入寮のあの日にゲートで夕麿が出迎えくれた事が嬉しかった。
「夕麿、もう独りぼっちは嫌だ…」
「あと半年。 あなたが卒業してロサンゼルスに来たら、もう私たちはずっと一緒にいられます」
夕麿だけがありのままの武をわかってくれた。 本当は甘えん坊で寂しがり屋な武を。
「抱いて、夕麿。 いっぱいシて」
満たして欲しい。 夕麿だけが満たしてくれる。 さっき囁かれた言葉が身体を熱くする。 武は夕麿の首に腕を絡めて囁いた。
---Je te veux、あなたが欲しい と。
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