蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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身分尊き者の責任

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 武は講堂の舞台袖からそっと集まった生徒たちを眺めて溜息吐いた。

 紫霄の生徒たちはどちらかというと市井の学校と比べればおとなしい。他校では優等生と言われそうな者が普通で、さらに身分が高い者は模範としての言動や成績が望まれる。これが時の高等部で最も身分が高い生徒会長に対しては、カリスマ的な分析力、常に冷静な判断力や決断力、確かな実行力と統率力が求められる。

 最も身分が高い者が選ばれるのも、身分の低い会長では高い者が他にいた場合に従わない可能性があるからだ。そのもっともたる理想が夕麿である。これは歴代の高等部の生徒会長の評価として記録に明記されている。これだけは彼よりも身分が尊き武にも敵わない事実だった。

「えっと、ここにいる者で俺の顔を知ってるのはどれくらいいる?」

 武の言葉に三年生らしき集団から、数名の生徒が手を挙げた。

「じゃあ、名前だけは聞いたことがあるのは?」

 この質問にはそこここからパラパラと手が挙がった。

 武自身が思っていたよりも多めの生徒が手を挙げたので、幾分はホッとした顔をした。そこで袖にいる夕麿を手招きした。

「彼を知ってる者は?」

 静麿の異母兄として知られているだろうと予想はしたが、武の場合とあまり変わらなかった。

「答えてくれてありがとう。やっぱり知らないってわかって良かった」

 武が傍らに立つ夕麿に笑顔を向けた。どれくらいの生徒が認知しているのかを、ちゃんと確かめた方が気持ちが切り替えられると助言したのは彼だった。

「ついでに言うと俺の周囲にいるのは皆、生徒会執行部経験者だ。当然ながら会長や副会長の経験者も多数いる」

 この紫霄がっこうにおいては生徒会は特別な存在だ。特に高等部は都市にある中・高・大の三つ中で最も影響力があり、実際に強い発言権と実行権を保持している。

 だからこそ薫を表にした葵の意向が、都市を萎縮させてしまったとも言えるのだ。

「今回、前例のない一年生が会長を含めた執行部になったわけだが、様々なことを心配する者もいるとは思う。だが知って欲しいのは就任した彼らも、たくさんの不安を抱えて皆のために頑張ろうとしているんだ。

 実は俺も高等部からの異例の編入者で、入学時はただ一人の特待生だった。で、その時の会長がここにいる夕麿だった。調べてもらえばわかるけど彼は在任中から伝説的だと言われて、俺から見れば完全完璧な会長で、正直に言って後に続くのは物凄~くプレッシャーがあった」

 武の言葉に夕麿が隣で困った顔をする。この部分の提案をしたのは月耶だ。反対したのは夕麿一人。

 少なくとも同級生と周や雫は、武がそのプレッシャーに迷い苦しんでいたのを知っている。と同時に多かれ少なかれ、前任者が無能でない限りは、ほとんどの者が同じことで悩む。

 武の後任者である敦紀にしても悩んでいたのを、その後任者である通宗みちむねは見聞きしていた。

 恐らくは夕麿には『前任者』というプレッシャーはなかっただろう。周と慈恩院 司じおんいん つかさの代は会長よりも副会長が有能に仕事をしていたと認識していたからだ。それよりも雑多で不要な仕事が多くて、それを整理することに集中してしまった。そこが武が夕麿とは未だにわかり合えないことでもあった。

「前任者や身内、知り合いが優秀だと苦労するもんだ。これは生徒会とかだけじゃなく、多かれ少なかれ皆も経験あるんじゃないかな?」

 武はそう言って全体を見回した。

 見事だと舞台袖にいる者たちは頷きあった。草案をベースにしているとは聞いている側は思わないだろう。何しろ武は原稿など一切手にして話さない。内容がかなり多くなったとしても全て記憶してしまうからだ。

 元々IQの高い武の記憶力あってのことだが、紫霞宮としての言動において必要なことはすべて記憶する......ということの必要性を教えたのは夕麿だった。もちろん武には可能であるのを理解しての上でだ。

 皇族や王族は基本として人の顔を含む情報を記憶して対応する。たとえ千人を超えようとも、顔・名前・経歴等を記憶しなければならない。これは歴代の天皇・皇后が実行してきたことではある。後方に控えている侍従長が相手の名前を耳打ちすることはあるが、名前を耳にして瞬時に相手の経歴等の記憶を蘇らせる。近々の情報なども含めた話題を口にして、相手を和ませると同時に、如何にして相手のことに心を動かしているのかを示すのである。

 武も夕麿も一度会った人間の名と顔は忘れない。身分が高ければ高いほど、記憶する能力の高さが求められる。ゆえに身分の高い人間の『知らない』は拒絶の意味を示していると言っても良い。


 武はゆっくりと講堂に集まった生徒たちを見つめた。彼らの顔には多少の戸惑いはまだ残ってはいるが、それでも武の存在は理解したように見えた。無論、彼らが『紫霞宮』を受け入れるか、その側近たちを信頼するかはこれからである。

「俺がここに来れなかった間、皆にはいろいろと迷惑をかけたと思う。誠に申し訳ない」

 生徒たちが息を呑むのがわかった。この学院において最も尊き存在である『皇家の貴種』が、謝罪を口にして頭を下げた。葵の暴走、彼を制せない薫を見て来た彼らには、有り得ない光景であっただろう。

「この後、『暁の会』の活動も再開させる。相談がある者は今日は......」

 と武が言うと清方が舞台に歩み出た。

「彼に相談して欲しい。で俺たちは数日滞在する予定だが、それを過ぎたならば下河辺先生か、生徒会の相談役を担っている御影 月耶に」

 講堂の脇に立っていた二人が頷いた。

「もちろん、会長や副会長に相談してもらってもいい。俺はここに閉じ込められる人間をなくしたい」

 今度は武の言葉に顔を見合わせる生徒がかなりいた。

「ここにいる護院 清方先生も『暁の会』で外に出られた方だ。俺の周囲にはたくさんのそういう人がいる。諦めないで欲しい。手を尽くして必ず外で当たり前の生活をできるようにする。本人が希望する限り、絶対に道はひらく」

 葵が『暁の会』の活動を否定してしまったために、武は復帰した行長にまずこれの調査を命じていた。中・高等部だけではなく大学部や都市の住人にまで。

「俺はずっと学院の改革に取り組んで来た。後退した部分もあるだろうが、改めて一からやる気持ちで取り組むつもりだ。どうか皆の協力をお願いする。皆でここをもっと良くしよう」

 改革を生徒たちに押し付けない。今現在の問題点をまだ把握しきれてはいない状態では、絶対にしてはならないことであるし、できないことだと武たちは思っている。必要な情報を集めるためにはやはり、生徒ひとり一人の協力が必要になる。

「先ほども言った通り、今期の生徒会長に就任した六条 静麿も、同じように皆のためにできることを実行している。彼に協力することはお前たち自身の紫霄での生活を、在りし姿を取り戻してさらなる明日に進めることだ。どうかこれを忘れないでいて欲しい」

 静麿は壇上で話す武と傍らに立つ異母兄を見上げていた。実は武たちが生徒会室から出た後で、会長執務室で行長に叱責されたのだ。

 武たちの来訪を見た生徒たちの様子を見て、彼らへの認知度をあげるためにも必要と感じての依頼だった。

 静麿の認識では武はこの様なことに慣れていて、簡単に済ませてくれると思っていた。もちろん、本来は先に予定として組んでおくべきであるのは重々承知の上だった。

 だが......武が実はかなりの人見知りで、本来は目立つことをするのは苦手としているなどとは、これまで一度も感じたことはなかった。異母兄を中心に彼の周囲を取り巻く者たちが、武のそういった部分を上手くカバーして来た事実を行長に言われて改めて知ったのだ。

 先程から時折、刺すような視線を感じる。異母兄が怒っている。彼は六条家よりも血の繋がった異母弟よりも、生涯の伴侶であり主でもある武を最優先する。彼にとっては武を害する者は身内であろうとも、すべてが忌むべき敵なのだといまさら思う。

 そのことに幾分の反発がないわけではない。すべてを武に捧げ尽くすことが静麿には良いことには思えないからだ。

 二人のこれまでがどうであったのかは、目の当たりにしたこと以外は話としては聞いている。だがすべてを聞いているわけではないし、当事者にしかわからない事実もあるだろう。

 静麿は多々良の事件を知らない。かつての中等部で何が起こり、どのような悲劇が被害者たちを襲ったのかを。そしてその一人が異母兄であったことも。

 静麿はただ六条家の次期当主として、自らに課せられた責任を果たしたいと心から願っているだけであった。

 今回のことについては自分に非がある。素直に謝罪したいとも思っている。だが、夕麿とは今後のことについてはしっかりと話し合わなければならない。

 彼の観ているものと自分が観ているものは違うのだ。六条家が夕麿の実家であるのは事実ではある。しかも現在、家が対面を保てているのは夕麿が多額の費用を負担しているからだ。

 屋敷も近代的なものに建て替えられ、以前よりも快適に過ごせるようになった。執事の唐橋などは明治の建物を潰すことに反対したが、家屋の維持費や光熱費などがあまりにも高額になる実情に最後には同意した。

 父 陽麿が屋敷を出てしまって当主としての責任も義務も投げ出してしまっている現状では、未成年の静麿では六条の様々なことの決定権はない。陽麿の意思もあって夕麿が必要に応じて取り仕切る。それ以外の日頃の雑事は唐橋に委ねられてはいた。

 ただ......静麿が紫霄に在学中で不在というのも関係しているのか、近年は唐橋の専横のようなものが目立ち始めている。このことについても夕麿とじっくり話し合いたいのだ。

 静麿はまだ恋愛的な意味で誰かを想う、という気持ちを知らないままであった。ゆえに夕麿がすべてをかけて武を想うことが理解できなかった。夢も希望すれもすべてが愛する人のために存在している生き方が、正しいものなのであるのかを疑問に感じる。

 血の繋がった兄弟でありながら、静麿は夕麿を理解できてはいなかった。彼にとって異母兄は遠い人だった。彼の存在は聞き知ってはいても、会うこともないだろうと思っていたのだ。

 こうして見上げる彼の姿は気高く麗しい。武の伴侶として引くべき時は引き、従う時は従う。その一方で頑固に譲らない部分もある。武と正面切って喧嘩をしているのも見ていた。

 苦手なことを懸命にする武を傍らで、優しく穏やかな眼差しで微笑んで寄り添う姿は、それだけで生徒たちの心を動かすのではないだろうか。

『伝説の生徒会長』

 こう呼ばれる者は何人もいる。伝説の内容も様々だ。実際に武の周囲には元生徒会長も元副会長も何人もいる。執行部経験者もいる。

 けれども夕麿はその中で抜きん出ている。教職員が何かある毎に『こんな時に夕麿さまがいらっしゃれば』と口にするからだ。武自身が『夕麿には敵わない』と言うのだからそうなのだろう。

 ぼんやりと考え事をしていると生徒たちから一斉に、拍手と歓声があがって静麿は我に返った。慌てて彼は壇上の武と夕麿に頭を下げてから拍手をした。

 また夕麿に睨まれた。

 本来ならば真っ先に反応しなければならない立場で、物思いに耽って出遅れた。これほと礼を欠いた行為はない。

 自分のミスに頭が痛くなった。


 講堂での集会が終了した後、再び生徒会室へと全員で戻ることとなった。

「本日は急なお願いをお聞きくださいましてありがとうございます」

 まずは感謝を口にした。武が最後には生徒たちの心を掴んでしまったのは、ぼんやりしていた静麿にもはっきりとわかった。

「先にお願いをせず、思い付きでお願いをいたしたことをお詫びいたします。申し訳ございませんでした」
 
 夕麿には叱責されるのは、武にいくら謝罪したとしても変わりはない。

「いや、俺も未だにああいうのが苦手なのが悪いんだがな。でもあれで役にたったのかな?」

 雅久が淹れたほうじ茶を飲みながら、武は不安そうに首を傾げた。

「とんでもありません。終了時の拍手と歓声をお聞きになられましたでしょう?」

「それさ、俺の立場を考えて......じゃないかな?」

 武のこの言葉に静麿は絶句した。これでは夕麿が腹を立てるはずだ。これが武の本質なのだ。

「いいえ。むしろ皆は武さまのお出ましを知らなかったのですから、あれが場の雰囲気を保つためであるならば、もう少しバラバラな反応であったと思われます。

 従ってあれは皆の正直な気持ちの表れではありませんでしょうか」

 言葉に嘘偽りもお世辞も入れてはいない。むしろ考え事をしてしまって、最後まできちんと聞いてなかったことを後悔しているくらいだ。

「だったらいいんだけどな」

 武は静麿の言葉に少し照れたような顔をした。十歳以上年齢が離れているのに、彼のこの様な部分を可愛いと感じる。

 ふと視線を感じて顔を上げれば、武の傍らにいる夕麿の視線と合う。彼が武のことに関してはなりふり構わず嫉妬深さを出す......とは聞いているし、見てもいる。

 もしかして......?

 考えたことすらないものに唖然とする。どう見ても武は夕麿以外を見てはいない。べったりで甘々な二人の間に入ろうとする猛者は存在しないのではないだろうか。

 夕麿が武にすべてを捧げてしまう姿勢は賛同できない。だが今の様な彼は武とは別な意味で可愛いと思う。きっと武も同じなのではないだろうか。

 結局は似た者夫婦であるのだと微笑ましく思う。

 武と夕麿の周囲にいる人々の言葉通り、二人の身が平穏無事であるように祈るしかないのだろうか。

 継承権を与えられず、本人の心には野心は欠片も存在してはい 。それでもなお生命を狙われ続ける現実を理解できない。まだまだ静麿には皇家の血を巡る争いまではわからない。久方の血を吐く様な想いを込めた言葉も知らない。


 武の前を辞して会長執務室へ入る。すぐに夕麿が入って来た。

「今回のことは私の配慮が足りませんでした。申し訳ございません」

 静麿は異母兄に深々と頭を下げた。厳しい叱責への覚悟はできている。

「叱りませんよ。あなたが間違いに気付いたのですから。武からも止められてます。同じ過ちを繰り返さないようにだけ気を付けなさい」

「はい、ありがとうございます。そのお言葉肝に銘じます」

 講堂であれだけ睨まれたのだ。当然ながら激しく厳しい叱責があるものと考えていた。ゆえに少々拍子抜けな気分だった。

「実は、夕麿さまに御相談があるのです」

「相談?聞きましょう」

 静麿は異母兄にカウチをすすめた。

「執事の唐橋のことです」

「実は私の話にも彼が関わっています。ですが、まずはあなたの話を聞かせてください」

 夕麿の言葉に静麿は驚いた顔をしたが、六条邸の現状を彼がある程度は把握しているのかもしれないと考えた。

「私が普段は不在なのも原因であるとは思います。しかし少し度が過ぎるように感じるのです」

 夕麿は無言で頷いて続きを促す。

「六条が体面を保つためのおたからは、夕麿さまがお出しくださっていらっしゃいます。でも最近、彼はそれを忘れているのではないか......とさえ思えるのです。確かに彼が取り仕切ってくれているからこそ、屋敷は順調に動いております。新たな使用人も増えました。私が不在の時は彼が六条のトップの代行でもあります。けれど......唐橋の使用人たちへの態度を見ているとまるで自分こそが主と言いたいのではないかと感じるのです」

「なるほど。それは由々しき事実ですね。昔は非常に優秀な執事であったと聞いていましたが......」

 彼も高齢になった。現状の歪んだ状態はそれゆえかもしれない。

「では私の話を。

 瀬田君の事なのです。彼の身元引受けが唐橋であるのは知っていますね?」

「はい」

「彼の身元引受けが唐橋になった経緯は私たちも知らされてはいないのですが、それを盾にとって無理強いをしている様子です」

「私が帰宅してまで彼が護衛をするのを疑問に思ってはいましたが......」

「私たちが当初知らされていたのは、刑事局長である良岑 芳之氏が引き受けたことでした。これは貴之が渡米するためにできないと言う理由からです」

「蓮はその、良岑 貴之さんをとても尊敬しています」

「でしょうね。貴之は皇国で武道をする者ならば目標であるでしょう。

 それで先ほど、刑事局長に成瀬 雫さんが問い合わせてくださいました。

 ......どこかから物言いがあったそうです」

「それはどのような?」

「良岑家に彼が身を寄せることは一切ありません。そこを指摘されて公職の立場を問われた様です」

「そこに唐橋ですか?おかしくはありませんか?」

「私もそう思います。なので武さまは雫さんに調査を依頼されました」

「わかりました」

「それで瀬田君の身元引受けを当面は影暁さんがすることになりました。最終的には貴之あたりが、雅久にとっての幸久君のように養子に望むのではと思われます。

 もし彼が望まないのであればそのまま、影暁さんが養子に迎えたいそうです」

 蓮の現在の立場から考えると貴之の所が一番だが、彼のパートナーである敦紀が了承するかにかかっていた。

「わかりました。蓮に私からも話してみます」

「お願いします」

 夕麿も静麿も唐橋が現実に裏で何をしているのかが気になった。それが武に害を及ぼさない行為であるのを願わずにいられない。

「これはまだ未定な話ではありますが、父は当てにはなりませんので、浅子伯母さまに屋敷に入っていただこうと思います」

 浅子は周に執着していた頃とは打って変わって、現在は六条の企業の経営者として手腕を奮っている。大変優秀な経営者で、六条の企業は黒字に転換できている。

「それは心強いです」

 浅子は静麿の実母とも顔見知りらしく、周をこれ以上は自分の思う通りにはできないのだと悟った彼女は、今では静麿にかなりの目をかけている。この点は周も認めている。彼も一応は六条の企業に関与しているからだ。

「瀬田君の身元引受けの変更は、こちらから働きかけますので、あなたは了承だけしておいてください」

「承知しました」

 頭を下げた異母弟に対して夕麿は深々とと溜息を吐いた。

「静麿、私とあなたは母が違うとはいえ、血の繋がった兄弟です。もう少し打ち解けてはいただけませんか?公の場では今の態度で良いでしょう。ですが、他人行儀が過ぎて私としては寂しく感じます」

 夕麿と静麿はちゃんと兄弟をやるべきだ。武はそう言った。もっと親密になって静麿がこちらに相談も信頼もできるように。そ!が兄としての夕麿がやらなければならないことではないのか。
 
 武に諭されてハッとした。透麿のことがトラウマになって、『異母弟』という存在に構えていた部分があるのかもしれない。静麿はどちらかと言うと武にも自分にも礼を弁えてくれている。だが、互いに他人行儀である事実は認めなくてはならない。

「透麿のことがあって私が身構えてしまうのが原因であるのはわかっています。あなたは彼とは違う。私のことを考えてくれるし、六条のことも考えてくれています。感謝しなければならないのに、どこかで距離を置いていました。今更ですが後悔しています。本当に申し訳ない態度でした」

 立ち上がり頭を下げた夕麿を見て静麿は慌てた。

「どうかおつむりをお上げくださいませ。謝罪しなければならないのは私の方です。ずっと一人だったからでしょうか、何でも自分だけで決めてしまうことが多々あります。できるだけ気を付けているつもりではございますが......やはり皆さまに対して、二歩も三歩も下がっているのかもしれません」

「いいえ、あなたがその様な状態なのはやはり、私の配慮が足らなかったのだと感じます。私は私の置かれている身分上の立場があまりにも当たり前になっていましたから、突然押し上げられることこ苦労や心労を考えたことがありません」

 夕麿はそう言って少し遠くを見た。

「こう言い切ってしまうと聴く者によっては傲慢な思考にきこえるやもしれまそんが私にはずっと、それこそ物心ついた時から当たり前でした。むしろ誇りでもありました」

 生母は近衛家の末娘、しかもその母は後継者が耐えた宮家の姫宮。同じ摂関貴族の中でもそれは『特別』と考えられ、扱いも他の生徒たちとは違った。当然ながら背負う期待や責任は重く、『こうあるべき』という理想を周囲の大人も子供も押し付けてくる。

 夕麿にはそれが当たり前の生き方だったのだ。

「武の時に彼の急速な立場の変化による心への配慮ができませんでした。多分、今でもその部分は彼の中で『疵』となっているでしょう。

 それなのに私はあなたのことを配慮できなかった。このことに気付いて指摘したのは武なのです......」

 いつもいつも己の未熟さに恥じ入るばかりだと夕麿は言う。そこに彼のこれまでの人生が物語られているように静麿には思えた。

「ですから、静麿。私はあなたとちゃんと兄弟になりたいのです」

 静麿にとって異母兄 夕麿は近くて遠い存在だった。唐橋が何かにつけて夕麿との違いを口にして、彼が当主としてここにいないのを嘆いてもいた。

 もちろん静麿は夕麿が六条家を出た経緯を聞いている。武が六条家の問題を解決した後に、呼び戻された唐橋が夕麿によって管理を任されたことも。

 静麿は唐橋の言葉はさほど気にはしていない。年寄りの繰り言にしか感じてはいない。だがそれを屋敷の中で前面に押し出してしまわれては、どうにも立場がなくなるのも事実なのだ。

「唐橋の代わりを探さなければなりませんね」

 と言いはしたが実は、自分たちが御園生から出るにあたって、やはり執事を探している最中なのだ。できれば御園生 有人ありひとの息がかかっていない人物を。武の立場が立場なだけに安易に選ぶことはできないでいる。すべての事情を理解した上で忠心をもって仕えてくれる人材が欲しいのだ。

「今、武さまにお仕えできる人材を、護院家で探してもらっています。高子伯母さまも心当たりをあたってくださっているので、六条の方も打診してみましょう」

「お手数をおかけいたします」

「だからその様な物言いは必要ないですよ」

 やはりすぐには態度を改めるのは難しい。それでも静麿は夕麿の気持ちを嬉しく感じていた。

「その、ゆっくりとでいいでしょうか」

 わざわざこう問いかけるところが可愛いく思う。もっとも本人に言ったら嫌がるだろうが。

「生徒会のことでもあなた自身のことでも、遠慮などしないで相談してください。ただし、今回のような急には控えてください」

「はい。以後、気を付けます」

 確かに静麿は問題を抱えているかもしれない。だがそれは自分も同じだった。武が編入して来なければ、あのままで生きて行けたのかすら不明だ。むしろ静麿の方が当時の自分よりもしっかりしているのではないだろうか。

 夕麿は目の前の異母弟を見つめた。身長はほぼ同じだが、身体付きは静麿の方が幾分がっしりしている気がする。

「それと要らぬお節介だとは思うのですが、あなたはもっと執行部の皆を信頼しなければいけません。高等部の生徒会は執行部の結束が高くないと、学生たちをまとめられない部分があります」

「わかってはいるのですが......どうも距離をおかれているんです」

「では下河辺先生と御影 月耶君に相談してみなさい。下河辺先生は私たちが卒業して学院都市を離れた後に、副会長として武さまを支えてくれました。月耶君は見るべきものを誰よりも真っ直ぐに見ている人です。二人ともあなたのことを心配してますから、力を貸してくれるでしょう」

「わかりました」

 現執行部のメンバーを観察したが、どうも全体的におとなしいように感じられる。それが葵の気を引かなかった理由でもあるのだろうが、二年間の期間はかなり辛いものになるかもしれない。

「本当に困ったことなどがあったら言ってください。私たちにもどえにもならないものはありますが、できるだけのことをしますから」

 一人で抱え込まないで欲しいと夕麿は思う。彼はもう弟を失いたくはなかった。同時に夕麿から弟を奪ったと武が苦しむのも見たくはなかった。静麿は透麿のようにはならない。それはわかっている。だが過去に周囲の人間から、形こそは違っても武に害を成す者が出て、その一人が異母弟だった事実は、やはり夕麿を深く傷付けていた。

「何を憂いておられるのですか」

「透麿のことを。彼は結局、自分の母親の一族が犯した数々の罪を理解できないで、すべてを武さまの責任にしました。あの方は私と六条家を守ってくださっただけだったのです。でもやはり彼も弟。本当は兄弟として仲良くいたかった」

 武にも言ったことがない言葉だった。言えば彼は傷付く。

「詳細は周さんから聞いています。私も残念に思います。けれども武さまにも夕麿さまにも何の責任もおありにならないと私は思います。彼らは自業自得。私ももう一人の兄に会ってみたかった気もしますが、また問題を起こすようで怖いですね。もう、忘れるのが一番ではないでしょうか」

 二人は悪くはないのにすべてを背負ってしまうべきではない。静麿は異母兄を真っ直ぐ見つめて言った。

「そう......かもしれませんね。どの道彼では六条家を継いで行くのは難しかったとは思います。ですがあなたに全部押し付けてしまったようで、心苦しくもあるのです」

 武を愛したことに後悔は微塵もない。最愛のひとと共にあることはこれ以上ないほどの歓びであり、幸福である。それでも衰退を続ける実家を憂わない日はない。

「大丈夫です、兄上。まだまだお力をお借りしなければならないことはたくさんあるとは思いますが、私は六条家を立て直します、必ず。これは私自身の希望でもあるのです」

 自分が六条家の子息であるのを知らされていながら、外に出られない生活をずっとして来た。未来も見えず、目標もなかった。けれど夕麿が現れてそこから出してくれた。六条家を任せてもらい、明日を見れるようになった。

「私は本当に皆さまに感謝しているのです」

 六条を継承するのは重い責任を背負うことである。だが静麿は知っていた。異母兄が紫霞宮家の後ろ盾のひとつになって欲しい、そう願っているのを。

 自分が当主になっても若輩であるのは変わりはない。だが六条の家格は貴族の間でも宮中でも、彼らを庇護する大きな力になる。

 誰にも侮られないようになりたい。

 静麿の今の目標だった。

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