蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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選ばれし者

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 電子錠が開錠される音がする。続いて室内から扉を開けた際に鳴る音が響くのが聞こえた。これは防犯のためであるのだが……あだになった記憶もある。思い出したくもない記憶を頭を振って払った。

 行長に先導されてリビングへのドアを通過した瞬間、武が小さく呻いてがっくりと膝をついた。

「武⁉」

「武さま!」

 夕麿が慌てて抱き上げてソファに運んだ。すぐに周が駆け寄る。

「大丈夫だ。ちょっと残った感情にてられただけだ」

「残った感情⁉」

 驚きの声をあげたのは朔耶だった。

「残留思念みたいなものがあるのですか⁉」

 おそらくは葵の想いだろう。もう一人の住人であった薫には一年近く経過しても残るような、強い感情を持つような性格ではないからだ。彼はそこまで武と夕麿が憎かったのだろうか。血の気が引いた武の青白い顔を見つめながら、かつての葵からは想像もできない変貌を思い出すだけで悲しくなる。

 朔耶の気持ちをわかっているのだろう。無言で周に抱き寄せられた。

「ありがとう……」

 彼の手にそっと自分の手を重ねる。こうしているとやはり、あの時にこっちを選んで良かったのだと感じる。

 二人のそんな様子に皆が微笑んでいる。ここに彼らの幸せを願わない者はいなかった。

「え?」

 遅れて入って来た蓮が、リビングに一歩踏み出して固まった。しかめっ面で周囲を見回している。

「お前……」

 武が驚愕の声を呻くようにあげた。それを合図に全員が彼を振り返る。

「もしかして……君にもわかるの?」

 麗がおずおずと歩み寄って問い掛けた。

「え……私にも、とは?」

「あのね、武さまが今しがたここに入られて、御加減が悪くなられたから」

 麗の口は戸惑いがちに開かれる。『皇家の霊感』のことをどこまで、誰にまで話して良いのかがわからないからだ。

「武さまは『皇家の霊感』をお持ちなのです」

 雅久が夕麿の意をくみとって言った。

「……皇家の霊感、存在するのですね」

 今では古代の伝説か、お伽噺だと誰もが思っている。ここにいる者たちも、武に出会うまではそう考えていた。

「お前こそ、その能力ちからは何だ?」

 武はこれまで自分と同等か、それ以上の能力者にあったことがない。夕麿や雫に気配などに敏感な部分があるのは確認している。それも『皇家の霊感』かと問われれば頷くだろう。

 また、武道の訓練によって気配を敏感に察知するスキルが育つのも、貴之や成美で見ている。武のそれとは違うのはわかる。

 だが今、目の前にいる彼のそれは、自分と同じ部類のものだ。同じだからわかる感覚だった。

「『月神の賜り物』ですね。『皇家の霊感』と同じく、失われた能力と言われています。羽林貴族でありながら神事に携わる月夜野は、古来より能力者が多かったと聞いています」

 蓬莱皇国では古来より御影家と月夜野家が、月三神の神職として仕えて来た。もちろん神職のトップは皇家の血を引く斎王が行う。

 だが実際に神降ろしをしていたのは月夜野家の人間だった。もちろん稀に神降ろしができる斎王もいたが。

「あの、あなたは?」

 蓮が戸惑うのは無理もない。朔耶は自己紹介で『護院』姓を名乗ったのだ。

「ああ、私は今は護院家へ養子に入っていますが、元は御影家の人間です」

「では月耶さまの」

「ここにいる三日月と共に兄になります」

 朔耶と三日月は本来の御影家の生業を理解しているが、末っ子の月耶は気楽なものでまるで触れてこなかった。もっとも蓮が月夜野の人間だとは知らなかっただろう。

「もしかして、君が紫霄ししょうにいる理由はそれか?」

 周が単刀直入に問い掛け、彼は伏し目がちに小さく肯定の言葉を紡いだ。

「雅久と似たような理由か」

 義勝が呆れたとばかりに言う。

「能力がある人間の方が家のためになるのに、何で排除するの?」

 麗はここにいる唯一の庶民である。この辺りの貴族の態度が彼にはどうしても理解できない。雅久の実母の件があっても、彼の才能は『家』には利用価値があるはずだ。

「それは嫉妬と不都合だろうね」

 答えたのは影暁だった。

「不都合?」

「能力者がいれば他の者の立場が悪くなる。しいては一族全体の不利益になる」

「何で?」

「できる者がいるならばできない者は、その血筋や役目には不適合だと見られる懸念が生まれる」

 神々に選ばれし者が複数誕生した時代には、彼らは皆が一族の誉れだった。人々の尊崇もあった。

 しかし現代人は自分にないものを持つ者に嫉妬し、嫌悪し忌み嫌う傾向が強い。異質なモノを受け入れるのが恐ろしいのかもしれない。

 理由こそ違うが影暁も実の家族から『異端者』として排除された人間だ。ゆえに周囲の者たちの蓮への扱いがわかる気がした。

「あの、この状態を解消させていただいてもよろしいでしょうか?」

「え?」

「は?」

「何……?」

 蓮の突然の言葉に全員が振り向いた。

 この状態を解消する……?

 それはこれまで聞いたことがないものであった。もしも可能であるならば、武の苦痛を軽減させることができる。ただ見守るしかなかった事態を変えることができる。

「そのようなことが可能であるのならば、武さまの御為おんために是非とも 行ってくださいませ」

 武が夕麿を見て、夕麿が雅久に目配せをした。雅久は意を汲んでそう言った。

「可能です。お手数ですがすべてのドアを開いた状態にしてください。外のセキュリティ・ドアもです」

 本来ならば窓を開け放つことで解消できるものだが、特待生寮の高層階の窓はすべてが嵌め殺しになっている。以前に義勝がソファを投げつけたことがあるが、傷一つできないほど強固な強化樹脂がはめられている。

 蓮の言葉に武と夕麿以外が動いた。バスルームのドアや両隣の部屋への隠し通路も開かれ、当然ながらそれらの部屋のドアも開け放たれた。

「開いたぞ」

 義勝が声をかけた。隣室にいた雫たちもやって来て、全員がこの状態を興味深げにみつめている。

 蓮は彼らの注目をものともせず、リビングの中央に進み出て静かに目を閉じた。

 静寂が彼らを包み込む。かすかに空調の音が聞こえる。

 全員が呼吸すら忘れて見守る中、蓮は目を開くとおもむろに手を打ち合わせた。

 パンッと高く強い音が空間を震わせる。柏手である。柏手は神社に参拝したならば誰もが鳴らすものではある。しかし蓮のそれは常のものとはどこか違う音がした。

「あ、軽くなった」

 夕麿に寄りかかっていた武が身を起こして言った。

 否、武だけではない。そこにいた全員が室内の空気が変化したのを感じていた。武のようにダイレクトに感じるのではなく、なんとなく空気が重いと感じてはいたのだ。

「終わりました」

 静かに蓮の声が響いた。と同時に大きく息を吐いた。

 武が無言で夕麿の袖を引く。蓮が静麿の警護をしているのは、夕麿の気持ちを汲んだ武の要請だった。自分が望んだという形で、夕麿を動かしたのだ。彼はなかなか自分の身内のことを優先しない。だから武が自分の意志として動いた。もちろん夕麿は武の配慮をちゃんと理解していた。

 今、袖を引っ張る武の気持ちもわかる。だから夕麿自らが口を開こうとしたが、清方が軽く手で制して代わりに口を開いた。

「瀬田 蓮君、紫霞宮さまの側近になりませんか」

「え?私が……ですか?」

 清方の言葉に彼は酷く驚いた顔をした。

「武さまの皇家の霊感は、どうしても御身おんみ御心みこころに御負担になられます。私たちはこれまでただお見守りし、心配をいたすことしかできませんでした。このことはご伴侶であられる夕麿さまも、ずっと御心を痛めていらっしゃいました」

 清方がここで言葉を切るとしっかりと頷いた。

「あなたならば私たちには感じることごできないものを、感じ続けて来られた武さまのお気持ちがわかる。何よりもすべてではないでしょうが、今の様に良くない影響を解消できる。

 私は侍医の一人として、お身体のお弱い武さまの御負担が軽減される可能性があるのを、見過ごすわけにはいかないのです」

 今度は周と義勝が頷いた。

「発作の軽減にもなるかもしれん」

 確かに折り合いをつけられるようになって、発作が起こる頻度や重い症状は軽減されては来ている。だが皇家の霊感がもたらす影響は突然に武を見舞う。これだけは周囲が如何に神経を配ろうとも、何かをすることは不可能だった。ただ夕麿が武を抱きしめる以外には。

「静麿、これからも学院内でのあなたの警護は引き続き彼に依頼します。ですが外にいる間はどうか、武さまの御為に」

 小等部からの付き合いならば、異母弟にも彼に対する信頼などの絆があるだろう。それを武のために引き抜こうと言うのだ。夕麿は頭を下げて異母弟に許可をもらわなければならないと考えた。

「どうぞ、おつむりをお上げくださいませ。こればかりは蓮本人の意思に任せたいと思います」

 蓮の人生は蓮のものだと考えると同時に、静麿もまた武の臣下の一人として、彼のためになることはすすんで行うべきだと考えている。異母兄 夕麿のためにも、六条家のためにも。

「どうだ、瀬田 蓮。武さまの御為に側近に加わるのは嫌だろうか?」

 雫が静かな口調で問い掛ける。最終的に彼が望むのであれば、自分の傘下に入れることも考慮して。月夜野は羽林家だ。霊感を持つ者を生み出しながらも、神宮で斎王の警護をしていた一族でもある。

 武が現代の斎王(男ではあるが)ならば、側近としても警護としても最も相応しいのは蓮であるのかもしれない。

 貴之が父 芳之に彼の身元引受を依頼したのも頷ける。ただ公にして動くには彼は中等部の生徒であったし、武の側近として迎えるには月夜野家との交渉もあり、時期尚早と考えていたのかもしれない。雫にすれば自分にだけは報告して欲しかったとは思う。

「できましたらご希望にはそわせていただきたいのですが……」

 いきなりの話に面食らっているのがわかる。実家との問題も気になるのであろう。

「月夜野へは私と朔耶が交渉に参りましょう」

 いつもこの手の交渉は周が引き受けて来た。

「いえ、今回は私と雫で」

 清方が言う。武本人のための人材確保だ。後楯である護院家の人間が動くのが相応しい。

 護院家の立場で動くというのであれば、周には不満も何もない。彼は頷いて引き下がった。

「一番の憂いはこちらで取り除きます。あとはあなた自身の気持ち次第です」

 夕麿の穏やかで優しい声が響く。少しでも武のために良いことを。今の彼には純粋にその気持ちしかなかった。

「ありがとうございます」

 蓮にすれば本来ならば直答じきとうを許されない、尊き身分の相手からの直接の言葉だ。恐縮以外のなにものでもない心持ちだった。

「では我々はそれぞれの部屋に下がらせていただきましょう。

 武さま、夕麿さま、お疲れになられましたでしょう。どうぞゆっくりお身体からだをお休めになられてください」

「朝食は運ばせよう」

「皆と一緒がいい」

 義勝の言葉に武が異を唱える。

「そうですね、皆と一緒がいいですよね」

 ここへ来るために前倒しでハードに仕事を片付けて来たため、皆でゆっくりと食事をする暇もなかった。元来寂しがり屋の武は、不満こそはもらしはしないが、やはり皆でワイワイと賑やかに食事がしたいのだろうと夕麿には思えた。

「では明日朝のお時間になりましたら、お知らせいたします。どうぞごゆっくりお休みくださいませ」

 夕麿ならばスマホにコールするだけで目を覚ますだろうし、そもそも武を眠らせても起きているかもしれない。それがわかっていてあえて、雅久は知らせに来ると言う。

 実は護院家が正式に後楯に就任する運びとなって、周囲は少しずつではあるが武と夕麿への外での対応を変えつつあった。どこにどの様な目があるのかわからない。武は何を攻撃の材料にされるかわからないのだ。

 祖父である現皇帝はもう、起き上がることはできなくなっている。意識ははっきりしてはいて、仕切りに武を心配している話を久方から耳にしていた。

 『庶民育ちの皇子』は確かに庶民には受け入れられるだろう、公にされれば。だが一部の貴族には受け入れられない可能性も考えられる。特に現東宮の周囲にとっては、非常に人気があった故皇后腹であったさきの東宮の遺児である武は、継承権を保持してはいないとはいっても邪魔以外のなにものでもない。これまても繰り返し生命を脅かされて来た。それに東宮の生母の実家が関与しているのは明白である。明白ではあるが状況証拠ばかりで、確たる証拠は今のところは貴之でさえ掴めてはいない。むしろ抵触しただけで狙撃事件が起こった。

 貴之は無事であったが、彼を庇った父 芳之が凶弾で一時生命の危険に至った。

 否。あわよくば親子二人の生命を狙った可能性もあると雫は睨んでいる。貴之が黒幕を突き止めたのとは別に、上司でもある良岑 芳之は現皇帝の勅命で、武を護るために雫を長とした特務室をつくった。所属するのは武への忠義心を持つ者たちだ。彼らには武を害するには大きな壁になっているだろう。

 『何としても護らなければならない』

 これが皆の揺らぐことのない共通の決意だった。



 通宗がバスルームの用意をしてくれたので、武と夕麿はゆったりと湯に浸かった。入浴剤もシャンプーなどもすべて、武にあわせたものが整えられていた。これは行長の配慮だろうと思われた。

「何だか昔に戻ったみたいだな」

 バスタブで夕麿によりかかりながら武が呟いた。

「そうですね。でも皆、それなりに年齢を重ねましたが」

「変わらないように見える人もいるけどな」

「ほぼ全員と毎日のように顔を合わせているから、よけいにその様に感じるのでしょう」

 個々が自分の容姿に気を遣っているのは確かではある。エステに通ったり、それぞれの方法でエイジングケアしてもいる。武が大量にアルガンオイルを個人輸入した時など、老若男女かまわず欲しがった。

 それでも人は老いていく。伝説や伝承でいつまでも若い姿を保っていた人間の話はある。また『老い』にも個人差があるのは確かだ。

 愛する人のためにいつまでも変わらない姿でいたい。

 誰もがそう思う。そう願う。ゆえに不老の研究は古代から行われて来た。近年は遺伝子レベルでの研究も進んでいる。

 夕麿にすればいつまても武のために若くありたい。同時に武の年齢を止めてしまいたかった。如何に発作の頻度が減り症状の緩和が進んでいても、武の短命を改善できた訳ではない。せめて楽しく幸せに過ごさせてやりたいと願うが、いくら夕麿や周囲が努力をしても、彼を取り巻く環境は悪化はしてもよくはならない。

 武も雫たちも何も口にしないが、皇帝の容態が良くないのは夕麿も理解している。それを彼らが心配しているのも理解している。

 この先に待ち受けているのは何か……を夕麿は考えたくはなかった。

 武の父であるさきの東宮の異母弟である現東宮。生母は九條家出身。彼女は前の東宮の生母、今は亡き皇后にはその崩御後も勝てはしなかった。今上皇帝はどんなに勧められても、現東宮の生母である弘徽殿女御こきでんのにょうごを皇后はおろか准后にすら任じなかった。

 皇后への愛を貫いているとして、今上皇帝は皇国内の夫の鑑としても尊崇されている。

 だからこそ夭逝した前の東宮の遺児である武を、今上皇帝は野に埋もれさせたくはなかったのだろう。それが武生命を脅かし、残酷な後遺症で苦しめ、寿命をも縮めてしまったのではあるが。

 守りたい……と思う。武には野心はない。望むことは平穏な暮らしのみ。それは夕麿も望むことだった。

「久しぶりの紫霄ここの感想は?」

 夕麿にとっては高等部卒業までの住処てもあった。それを武はよくわかっている。わかっているからこそ悪い方向へ変わって欲しくないと武は思う。

「そうですね……少し寂しく感じました」

「だよなぁ……静麿はこれから大変だ」

「私は異母弟おとうとを信じたいと思います」

 彼もまたかつての夕麿と同じ様に学院で生きて来た。ここを憎む人間もいないわけではない。憎んで憎んで逆に利用されてしまった人間を、武も夕麿も見て来た。彼らは皆、哀しい末路を迎えた。

 けれども学院都市ここを故郷の様に感じる者が多いのは、武の代から始まった学祭のOBの訪問を見ていればわかる。わかるからこそ学院の闇と呼ばれるものをすべて、取り払いたいと武は思うのだ。



 もつれ込む様に部屋へ入り、綺麗にメイキングされたシーツの上に、唇を重ねたま二人して倒れ込む。

 幾度かの口付けを繰り返した後、互いに熱い眼差しで見つめ合う。双方の口元に穏やかな笑みが浮かんだ。

 十年以上の歳月が流れても、二人の間には『倦怠期』など存在しない。ほとんど朝の目覚めから夜の眠りで共にいるが、嫌だと感じたことすらこの二人にはなかった。喧嘩をしてどちらも折れないままであっても、二人は一緒にいるのが当たり前であった。

 確かに武の側から夕麿が長期間離れるのは、理由の如何にかかわらず許可がいる。許可が下りなければ期間が一方的に決められ、それを超えれば武は何処かに幽閉されてしまう。

 とは言っても夕麿が喧嘩をしても側を離れないのは、そんなことが理由なのではない。単に離れたくないだけなのだ。

 スルリとバスローブの紐を引き抜き、湯上がりのしっとりした肌を露わにする。武のきめ細やかで滑らかな白い肌は湯上がりだからなのか……それとも欲情からなのか、ほんのりと桜色に染まっている。  

 敏感肌であるのは今も変わらす、直射日光も何かが肌に触れるのも嫌う。どんなに暑い日も半袖になることはなく、自分から何かに触れに行く行動もしない。

 今度は武が手を伸ばして夕麿のバスローブの紐を抜く。露わになった彼の肌も白くきめ細やかで美しい。彼もまた滅多に肌を露出することが少ない。肌が弱いわけではないが、皇家も貴族もかつては肌を安易に見せない服装が普通であった。夕麿はその教育を受けている、現代では数少ない貴族らしい貴族だった。

 夕麿が笑みを浮かべてバスローブをベッドの足下に投げ捨てた。次いで武が着ていたものも剥ぎ取り、同じ場所に投げた。

 武が両腕を差し伸ばして夕麿を求める。

 互いの身体からだを知り尽くしてはいても、触れ合う悦びは心をも震わす。

 夕麿の長い指が頬に触れ、首筋をたどる。同時に唇が胸元に花を散らす。

「夕麿……あッああ……」

 絶え間なく甘い声が漏れ、薔薇色に染まった身体が仰け反る。

「も……欲しい」

 胸元にある頭を両手で抱きしめて武が呟いた。

 二人は夜毎に求め合い、肌を重ねるわけではない。夕麿は武の体調を配慮し、武は夕麿の疲労に気を配る。ゆえに同じベッドで寄り添って眠る夜も多々ある。

 今はまだ比較的に余裕がある時期ではあるが、それでも世界展開する大企業の経営陣として、二人は多忙を極める。

 特に夕麿は誰よりも多忙で、近頃は日帰りの出張も多い。

 けれど今夜はここの生徒であった時のように、ただ愛する人だけを見つめ、感じて過ごしたかった。

「挿れますよ?」

「うん……はやく……」

 息を乱して紅潮した顔で答える姿を、変わらず愛らしいと夕麿は思った。

 ゆっくりと身を沈めて快楽の吐息を吐き出した。

「愛してます、武」

「俺も……愛してる、夕麿」

 星の数ほど愛の言葉を交わしてもまだ足らない。胸を満たす『想い』を表す言葉が足らない。

 否。

 きっと足りる日など来ないのではないだろうか。言葉は万能ではない。万能ではないからこそ人は言葉を紡ぎ繰り返すのかもしれない。だからこそ些細な言葉に一喜一憂する。

 武と夕麿の間にも言葉のすれ違いが、それぞれの『想い』の色彩に影響を与え、互いの喜怒哀楽を揺さぶった時期があった。

 特に武は当時、強い自己否定の中にあった。夕麿と自分の育ちの差を悲しみ、自らの体内に流れる『血』ゆえに彼が自分に縛られていると考えていた。いつか夕麿が自分から離れることを望む日が来るのを何よりも恐れた。

 この部屋で愛を深め、たくさん悩んで悲しんだ。

 二人の結婚から来年は十五周年を迎える。

 この部屋でどれくらい肌を重ねただろうか。それ以外では?それこそ星の数ほど……であろう。

 今でも自分と夕麿の間には隔たりがある……と武は思っている。けれどもそれはそれぞれが異なる環境で生まれ育ったからだ。

 完全完璧に同じ景色を同じ『想い』で視ることは不可能だ。人間の脳は『もの』を95%しか認識できず、残りは経験等から繕うのだと言う。当然ながら同じにはならない。それでも人は誰かを『想い』、懸命に心を表す言葉を探して繰り返し紡ぎ、伸ばした手を握り合う誰かを求め続ける。

 人は一人で生まれ、一人で逝く。嫌いな相手とも好きな相手とも、愛する人とも大切な人とも、どんなに願い祈ったとしても別れの時が訪れるのは必然である。だからこそ人は『誰か』を想い、『誰か』を求めるのかもしれない。

「夕麿、夕麿……も、もう……!」

「イッてください。私も限界です……」

「あ……あぁああ……!」

「武……!」

 先に武が、これに引きずられる形で夕麿が昇りつめる。

「武……武……」

 余韻を示すように夕麿は口付けを繰り返す。

 武は応えるように彼の首に両腕を絡めて、汗に湿った髪を撫でて指に絡めた。





 


 





  








 
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