蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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貴之の帰還

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 その連絡が雫に入ったのはちょうど武と夕麿を御園生邸に送っている最中だった。

 雫は簡素に貴之からの国際電話を受け、彼が緊急的に帰国することになった理由を問いかけた。

「見付かった?で、帰国は可能なんだな?……ああ、なるほど。特別チャーター便で明後日の早朝だな。……了解した。どこで誰の妨害が入るかわからん。御厨君共々無事に帰国してくれ」

 見付かった、とは何のことだろうか。帰国云々の言葉が出たということは誰かをアメリカで探していた?貴之はFBIに研修に行っていたのではなかったのか。彼が敦紀と共に渡米して二年余りが経過していた。わざわざアカデミーに入ってまで研修を受けていたはずなのに、すべてを捨てても帰国するのは何故なのだろうか。

 何も知らされていない武と夕麿は互いに顔を見合わせたが、夕麿が何かに気付いてハッと息を呑んだ。

「雫さん、『彼』が見付かったのですか?」

 夕麿の言葉に彼は振り返ってしっかりと頷いた。

「こちらが求めている情報込みです。あちらさんはそれなりに渋った様子ですが歳月も経過しておりますし、刑事事件における引き渡しの条約もありますので何とかなった様子です」

 二人だけでなくハンドルを握っている久留島 成美も意味が分かっているらしい。車中で意味が分からないのは武一人。これに気付いてプイっとばかりに横を向いた。

「申し訳ございません、武さま。夕麿さまはお気付きになられてしまったので仕方ございませんが、これについての情報の開示は貴之が帰国しないとしてはならないと命令を受けております。そうかご了承ください」

 雫に頭を下げられて言われては武には怒ることもわがままを口にすることもできない。よほどの事情がある相手なのだろう。当然ながら夕麿も言わないだろう。無理やり言わせるわけにもいかない。

「わかった。明後日に帝都空港に到着するとして、すぐには面会できないんだろう?」

「そうですね。精神鑑定などを行って害意がないのを確認しなければなりません」

「御園生邸で会うのか?」

「いえ、それは避けたいと思っています」

 近年、御園生邸だけで話したことが外へ漏れている。使用人たちは執事の文月が遠ざけているので、彼らの中にスパイがいても盗み聞きは不可能だ。少なくとも文月は執事の誇りにかけて情報を漏らしたりはしないと信じる。

 盗聴器の類を何度調べても出て来ない。ただし居間での会話の都度調べているわけではない。定期的に調べているのを鑑みて、必要に応じて設置したり除去したりしていたらこちらが追うのは難しい。盗聴器自体は非常に小型の物やカード式の物もある。小型だと半径500m以内であれば受信可能である。

 外部からガラス窓にレーザーを当てる方式の盗聴器や盗撮機器もあるが、御園生邸の居間には窓はないので不可能である。

 貴之がいればその都度に妨害する方法を施せるのだが……渡米中の人間の不在を言っても意味がなかった。

 ゆえに重要な話はほぼ雫と清方が住んでいるマンションの部屋か、こうして車の中であることが多くなった。車にしても御園生が用意した武と夕麿の車を古くなったと言って特務室で用意し、運転も彼らの誰かが行うようになった。

 また長きに亘って夕麿が押さえていた御園生系のホテルの部屋を借りるのをやめて、今は護院家が所有する新しいホテルの最上階へと変えた。ここは武と夕麿のの専用として、高子と久方がホテルを建てて用意した者であった。

 既に誰が味方で誰が敵であるのか……が御園生邸では判別がつかない。むしろ最近は当主である有人自身に全信頼を置くことができなくなっていた。良くも悪くも彼は大企業のトップであり、時と場合によっては皇家はの忠義と尊崇よりも金品や経営に重きを置く人間である。その方面から圧力や懐柔がかかればわからないのだ。

 そして……武にとって辛く感じるのは小夜子がもう、『御園生夫人』としての生き方へ傾いてしまっている事実だった。むろん、これは仕方がないことではある。それは武にもわかってはいる。しかしこの現実は御園生に武の居場所がなくなりつつある、ということも含んでいるのだ。

 御園生の養子たちと呼ばれる皆は武の味方であり、夕麿の乳母である絹子も武を守ろうと頑張ってくれている。だから護院家が用意を進めている新しい場所の完成を待っているのだ。転居の許可は出ている。

 それでも時の流れがもたらす残酷な現実は武の心を引裂く。

「例の所がほぼ完成しましたので、細かい部分のご指示をいただきたいとのことですので、あちらで面会されるように手配をいたしたく存じます」

「ついに入れるのか?」

 場所すら地図と数枚の写真でしか武も夕麿も見てはいない。すべて護院家に任せっぱなしになっていたのは、やはり慎重に安全にを考えてのことだった。

 お陰でどれくらいの敷地にどういう形で、自分たちの新しい住処が建設されているのか……すら知らなかった。武たちが知っているのは旧市街の外れにある土地であり、皇家の貴種が邸宅を構えるのには相応しい場所だと聞いていた。

 護院家は現在の武の扱い方を変えるように、病床にある現皇帝の称制している皇太子に進言している。現状としては彼の生母である弘徽殿御息所が猛反対していると言う。

 皇太子自身は前皇太子であり異母兄の遺児である武は、前皇太子が存命であれば将来は高御座が約束されているはずであった。それがいくら隠して育てられたとはいえ、現在の扱いは確かに理不尽極まりないものであると彼も考えてはいたのだ。

 久方と高子は皇太子のこの様子を見て、武暗殺を企てているのは彼ではないと判断していた。やはり九條絡みでの謀略なのであろうと。万が一にも武が高御座に就くことになれば、外戚としての利権はすべて水泡と化す。今の立場ではいられなくなるのだ。

 愚かなことだと二人は思っている。元より何があっても武が高御座を望むことはあり得ないし、危急の場合でも彼が立つ必要はない。協力を求められれば動くではあろうが、武には権力への欲求は皆無と言える。

 結局は人間は自分が観ている景色が全てで、自分以外も同じ景色を観ていると思い込む。しかし人の数だけ景色は存在し、似た様なものを観ていてもどこかが違う事実を理解しない。違うのだとわかっていても自分の景色に振り回されてしまう。

 自分の景色を良い方向へ使える者もいれば、他者を否定する方向へと使ってしまう者もいる。その結果、思う様な結果が得られないと相手を恨んだり憎んだりする。

 元より武には何の罪も咎も責任もない。ただ父が前皇太子であり、彼の薨御こうぎょ(皇太子の死亡時に使う言葉)後に宿っているのがわかり、当時の状況から隠されて誕生して育てられただけだ。本人が望んだものではなく、母である小夜子も愛する人の形見としての子を大切に産み育てただけなのだ。

 皇家の歯車から外れた皇子が存在しただけ。歯車に戻ることは望んではいない。権力を握る側も望んではいないであるなら、最初から黙殺すればよかったのだ。存在しない者として。現皇帝が純粋に祖父として孫に会いに行くのだけ認めていればよかった。

 彼らは武に首輪を付け、鎖に繋ぎたがった。檻に閉じ込めてしまいたいとさえ考えて来た。現皇帝の寿命が尽きようとしている今は生命をも奪おうと考えている。

 彼らは武の人となりをどれだけわかっているのだろうか……いや、わかっているからこそ消してしまいたいのかもしれない。

 武にはあまりにも蓬莱皇国に於ける『賢帝の器』の条件が揃っているように護院夫妻には見えた。だからこそ何としても守らなければならない存在なのだと感じている。

 武を高御座に上げようとしているのではない。すべては彼が穏やかに幸せに日々を過ごせるように望んでいる。だからこそいつまでも日陰の宮ではいけないと考えるのだ。これは武の側にいる者全員の想いでもあった。




 全員が揃うように雫はワゴン車で御園生邸へ迎えに来た。玄関先でちょっとしたトラブルがあったが、雅久が防いで無事に乗り込んだ。

 車は旧市街を抜けて帝都の外れに出た。新市街の外れの方は現在、宅地化がすすんでいるのだが、旧市街側は貴族の所領地が未だに多く残っているため宅地開発は進んでいない。すぐに森林や草に覆われた丘陵地が見えて来た。

 ちなみに御園生邸があるのは新市街から少し離れた地域にあり、これから向かう地域の正反対の場所になる。また紫霄学院と都市には旧市街から延びる道の先にある山地に入る。一応は山地全体が皇家の御料地に存在している。ゆえに庶民にはあまり知られていない。

 車は途中まで紫霄に向かう道を進み、途中で新たに引かれた道へと入った。立ち並ぶ木々の中を通り過ぎすぐに重厚で美しい装飾に飾られた門が見えて来た。森林が途切れて門の前は広い空間が作られている。門の両側は高い塀が奥へと続いていて、どこまで続いているのかはここからは見えない。ただ双方にも別の出入り口があると雫が言った。

「右側は我々警護官と医療スタッフの通用口になります。左側は御厨君のアトリエ、雅久君の歌舞練場や衣装・楽器類の保存用建物などがあります。そういった建物より中央に向けてそれぞれの住居となるものが両側に並んでおります」

 ここまで言って雫は言葉を止めた。門が音を立ててゆっくりと開いたからだ。実は無音の門を設置するのも可能であったが、音を立てて開閉させるのも一つの防犯である。

 車はゆっくりと玄関前に停車した。そこには護院夫妻とその子息たちがいて出迎えた。門の側には平屋の建造物があり、ここには皇宮警察から派遣された人員が配置される予定になっている。今は監視カメラやセンサー等で機械的に警備されている。

「ようこそいらっしゃいました、殿下」

 口を開いたのは清方のすぐ下の弟 宗方むなかたである。どうやら彼がここに武がここに移ったのちに、大夫たいふの任に就くらしい。

 長きに亘ってその任を務めてくれた周と雅久にはたくさんのことをしてもらった。周には紫霄を夕麿が卒業したあとの時期を支えてもらった恩がある。ロスアンゼルスでの不安定な時期もずっと彼がいてくれたからこそ乗り越えられた。雅久は常に兄のように病弱な武の傍らにいてくれた。

 二人はいわば暫定的な人事で複雑な立場の武に仕えてくれた。本当に感謝しかなかった。

「どうぞお入りになられてください」

 観音開きに開いた扉を通って中に踏み込むと廊下が左右に分かれており、真正面にもう一つの扉があった。開かれたドアの向こうは控室だという。その向こうにさらにドアがありソファなどが置かれた部屋へ入った。

「謁見室です」

 ……と言われて武は目を白黒した。皇族や王族に会うのに普通に使われる言葉だが、武の場合は敢えて極力この手の言葉を使用しないように周囲は配慮して来た、ゆえに突然言われたこの言葉に驚いたのだ。

 宗方はそれに気付かず奥にある衝立を動かした。するとそこにもドアがある。

「ここは可動式の扉と壁になっておりまして、奥のホールと一つにできます。パーティーなどの大人数が集まる場合に広く使用できます」

 謁見室だと説明されたへやよりもかなり広い部屋に出るとそこに、敦紀と貴之が深々と頭を垂れて立っていた。

「あ、本当に帰国したんだ!お帰りなさい」

 満面の笑みで二人に歩み寄った。

「武さま、御厨 敦紀ただいま帰国いたしました」

「良岑 貴之、無事に帰国いたしました」

「うん、二人ともお疲れ様。無事に帰って来てくれて嬉しいよ」

 二年ぶりの二人だった。敦紀は雰囲気がシャープさを増して、以前にもまして美貌が際立って見える。貴之は逞しくなった。

「立ち話も何ですから兎に角座りませんか」

 夕麿が促すと武は素直に座った。

「え~」

 部屋の説明をできない状態で宗方が遠慮するように声を上げた。

「あ、ごめん」

 案内の途中だった……と謝罪すれば今度は宗方が目を白黒させた。普通は皇家に属する人間はめったに謝罪などしない。何かの途中であっても優先されるのは皇家の側の意向だからだ。

「ここの後は話が済んでからでいいかな?」

「は、はい」

 武の言葉に一々驚く宗方に苦笑しながら清方が口を開いた。

「これくらいで驚いてどうするんです?宮中で傍若無人に振舞う方と武さまを一緒にしてはなりませんよ」

 続いて雫が呼ぶまで下がっていてくれるように告げた。彼は小さく返事をして下がった。

「失礼を致しました。弟は武さまとあまりお会いする機会がなかったので」

「ははは……俺がらしくないのが原因だから気にしてないよ」

「ありがとうございます」

「ここは主だった者が集まるための部屋でございます。様々なセキュリティを施してはおりますが御園生邸の例もございます。ここにまず入ってもらった貴之に昨日一日を費やして最終チェックをしてもらいました」

 清方の謝意の後を雫が言葉を継いだ。武は双方に頷いて応えた。

「それで俺たちをここへ呼んだ理由を教えてくれ」

 やはり知らないのは自分だけという気配に武は不満を抱いている様子だ。

「はい……」

 貴之が少し低めの声で返事をして立ち上がった。そして先ほど通った扉を開けて声をかけた。

「入りなさい」

 その声に応えて姿を現した人物に武は息を呑んだ。

 そこにいたのは十数年前に武暗殺の手駒として高等部の紫霄学院高等部の元校医、佐久間 章雄さくまあきおたちに利用されたかつての同級生である板倉 正巳いたくらまさみだった。

「実は貴之の任務はFBIでの研修だけではなく、彼を探し出してアメリカの司法当局だどと交渉して、連れ帰ることもございました」

 自分と同じ薬物を投与されたもう一人。しかも今一人の本庄 直也ほんじょうなおやよりも期間が短く、より武に近い後遺症を起こしている可能性がある彼は、今後の治療に関しても絶対的に必要だった。

 武が言葉を失っているのを見て、何と声をかければよいのか夕麿ですら迷った。

 すると正巳はスッと武に近付いてその足下に跪いた。

「俺がやったことをお許しいただけるとは思ってはおりません。今ここでどのような目に遭わされても従います」

 彼が紫霄に在校していた頃には例の暗殺集団が接触していたことは判明している。当時の集団の長だった柏木 克己かしわぎかつみ元教授が残したデータに残されていたからだ。彼は自分の身に何かあった時に部屋にあるものを含めてすべて破棄されるのを察していた。だから操り人形にした貴之の義理の叔父 その連絡が雫に入ったのはちょうど武と夕麿を御園生邸に送っている最中だった。


 
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「右側は我々警護官と医療スタッフの通用口になります。左側は御厨君のアトリエ、雅久君の歌舞練場や衣装・楽器類の保存用建物などがあります。そういった建物より中央に向けてそれぞれの住居となるものが両側に並んでおります」

 ここまで言って雫は言葉を止めた。門が音を立ててゆっくりと開いたからだ。実は無音の門を設置するのも可能であったが、音を立てて開閉させるのも一つの防犯である。

 車はゆっくりと玄関前に停車した。そこには護院夫妻とその子息たちがいて出迎えた。門の側には平屋の建造物があり、ここには皇宮警察から派遣された人員が配置される予定になっている。今は監視カメラやセンサー等で機械的に警備されている。

「ようこそいらっしゃいました、殿下」

 口を開いたのは清方のすぐ下の弟 宗方むなかたである。どうやら彼がここに武がここに移ったのちに、大夫たいふの任に就くらしい。

 長きに亘ってその任を務めてくれた周と雅久にはたくさんのことをしてもらった。周には紫霄を夕麿が卒業したあとの時期を支えてもらった恩がある。ロスアンゼルスでの不安定な時期もずっと彼がいてくれたからこそ乗り越えられた。雅久は常に兄のように病弱な武の傍らにいてくれた。

 二人はいわば暫定的な人事で複雑な立場の武に仕えてくれた。本当に感謝しかなかった。

「どうぞお入りになられてください」

 観音開きに開いた扉を通って中に踏み込むと廊下が左右に分かれており、真正面にもう一つの扉があった。開かれたドアの向こうは控室だという。その向こうにさらにドアがありソファなどが置かれた部屋へ入った。

「謁見室です」

 ……と言われて武は目を白黒した。皇族や王族に会うのに普通に使われる言葉だが、武の場合は敢えて極力この手の言葉を使用しないように周囲は配慮して来た、ゆえに突然言われたこの言葉に驚いたのだ。

 宗方はそれに気付かず奥にある衝立を動かした。するとそこにもドアがある。

「ここは可動式の扉と壁になっておりまして、奥のホールと一つにできます。パーティーなどの大人数が集まる場合に広く使用できます」

 謁見室だと説明されたへやよりもかなり広い部屋に出るとそこに、敦紀と貴之が深々と頭を垂れて立っていた。

「あ、本当に帰国したんだ!お帰りなさい」

 満面の笑みで二人に歩み寄った。

「武さま、御厨 敦紀ただいま帰国いたしました」

「良岑 貴之、無事に帰国いたしました」

「うん、二人ともお疲れ様。無事に帰って来てくれて嬉しいよ」

 二年ぶりの二人だった。敦紀は雰囲気がシャープさを増して、以前にもまして美貌が際立って見える。貴之は逞しくなった。

「立ち話も何ですから兎に角座りませんか」

 夕麿が促すと武は素直に座った。

「え~」

 部屋の説明をできない状態で宗方が遠慮するように声を上げた。

「あ、ごめん」

 案内の途中だった……と謝罪すれば今度は宗方が目を白黒させた。普通は皇家に属する人間はめったに謝罪などしない。何かの途中であっても優先されるのは皇家の側の意向だからだ。

「ここの後は話が済んでからでいいかな?」

「は、はい」

 武の言葉に一々驚く宗方に苦笑しながら清方が口を開いた。

「これくらいで驚いてどうするんです?宮中で傍若無人に振舞う方と武さまを一緒にしてはなりませんよ」

 続いて雫が呼ぶまで下がっていてくれるように告げた。彼は小さく返事をして下がった。

「失礼を致しました。弟は武さまとあまりお会いする機会がなかったので」

「ははは……俺がらしくないのが原因だから気にしてないよ」

「ありがとうございます」

「ここは主だった者が集まるための部屋でございます。様々なセキュリティを施してはおりますが御園生邸の例もございます。ここにまず入ってもらった貴之に昨日一日を費やして最終チェックをしてもらいました」

 清方の謝意の後を雫が言葉を継いだ。武は双方に頷いて応えた。

「それで俺たちをここへ呼んだ理由を教えてくれ」

 やはり知らないのは自分だけという気配に武は不満を抱いている様子だ。

「はい……」

 貴之が少し低めの声で返事をして立ち上がった。そして先ほど通った扉を開けて声をかけた。

「入りなさい」

 その声に応えて姿を現した人物に武は息を呑んだ。

 そこにいたのは十数年前に武暗殺の手駒として高等部の紫霄学院高等部の元校医、佐久間 章雄さくまあきおたちに利用されたかつての同級生である板倉 正巳いたくらまさみだった。

「実は貴之の任務はFBIでの研修だけではなく、彼を探し出してアメリカの司法当局だどと交渉して、連れ帰ることもございました」

 自分と同じ薬物を投与されたもう一人。しかも今一人の本庄 直也ほんじょうなおやよりも期間が短く、より武に近い後遺症を起こしている可能性がある彼は、今後の治療に関しても絶対的に必要だった。

 武が言葉を失っているのを見て、何と声をかければよいのか夕麿ですら迷った。

 すると正巳はスッと武に近付いてその足下に跪いた。

「俺がやったことをお許しいただけるとは思ってはおりません。今ここでどのような目に遭わされても従います」

 彼が紫霄に在校していた頃には例の暗殺集団が接触していたことは判明している。当時の集団の長だった柏木 克己かしわぎかつみ元教授が残したデータに残されていたからだ。彼は自分の身に何かあった時に部屋にあるものを含めてすべて破棄されるのを察していた。だから操り人形にした貴之の義理の叔父、那波 房教なはふさのりに所持させていた携帯のSDに圧縮ファイルを忍ばせていた。

 勧誘と同時に監禁して脅迫し、催眠術を利用しての洗脳。彼の夕麿への憧れを利用して武への虐めを指令した、また佐久間と協力させての様々な犯行も行われた。学院都市内で収監された後も佐久間によって利用され、薬物を投与された上にアメリカに連れて行かれ、さらなる武の暗殺に利用されてしまった。

 正直、正巳本人でさえもどこまでが自分の意思で、どこからがやらされたことであるのかの判断が付かない。  

 貴之はこうした事実を把握した上で、渡米中にあちこちと交渉してようやく彼の居所を突き止めた。しかしそこからが大変だった。彼の引き渡しを渋られたからだ。事件から既に十年以上が経過しており、薬剤投与や催眠誘導などで犯行を手伝わされたことは判明している。そこを繰り返し説明し、まず彼への面会を強く求めた。

 ロサンゼルスの事件の時、彼は貴之を刺した後で『お前が嫌いだった』と言い残した。だが貴之は彼に嫌われたり恨まれる理由がわからなかった。

 一連の企ての全体像が見えた時、その理由も朧気ではあるが感じられるようになった。

 けれども正巳は武にはなんの恨みもないはずだ。夕麿への想いは憧れを利用してすり込まれた、偽の恋心だったのだから。

 何としても板倉 正巳を連れて帰る。

 貴之の強い決意の下に彼の帰国は叶ったのである。
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