蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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 無事に学祭は終了した。 

 終業式の日、再び武たちが学院に集まっていた。理事会に出席する為だった。定例会ゆえに取り立てて議題もなく、この日は薫と葵の婚姻についての話だけで終わった。理事会の会議は職員室横の会議室で行われる。そこから校舎の外に出るとちょうど全てを片付け終わった、生徒会のメンバーがゲートへ向かう所だった。薫は葵と指を絡ませるようにしてしっかりと手を繋いでいた。 

「あれ?月耶、三日月は?」 

 集団の中で三日月だけがいない。朔耶の言葉に月耶が首を振った。 

「気が付いたらいなかった」 

 学院のゲートは終業式の日は17時に閉じられる。それ以降は如何なる理由があっても、生徒たちは学院から外へ出られないのだ。 

 月耶と行長の間は以前よりよそよそしい。行長も理事資格を持っている為に会議に出ていたが、教職員はもう学院から離れていた。学院都市に閉じ込められる者以外は。 

「下河辺、クリスマスパーティー、今年も来るだろう?」 

「ええ、お邪魔させていただきます」 

「今年はホテルの方な?」 

 すっかり参加人数が増えてさすがに御園生邸では、賄い切れなくなり今年からホテルで行われる事になったのだ。 

「その前に結婚式が2つあるから、そっちも忘れないでくれ」 

「承知しております」 

 薫と葵、通宗と榊の結婚式が行われる。 

 薫は武の姿を見ていた。将来、自分も同じようになりたいと思う。 

 葵も武に寄り添う夕麿を見詰めていた。これからの自分のお手本として。彼らという前例があったからこそ、自分たちはここから出て行ける。葵はそれをしっかりと胸に刻んでいた。 

 螢王の話は周から聞かされた。学祭の終了した都市に隣接する森林の奥で、彼ら旧特別室の宮たちの墓が見つかった事も。最後の住人が螢王で夕麿の母方の大伯父だった事。その妃である長尾 光俊ながおみつとしが雅久の父方の大伯父だった事など。 

 光俊の手による最後のメッセージのコピーを薫と葵は渡されていた。 

 彼の悲願が叶ったような、武の今の生活。それをまた戻してしまう事がないように。決して悲劇を繰り返さない為に。薫と葵の覚悟を促す為でもあった。 

 傷だらけになりながらも、最愛の人と家族を守った武。そんな事が繰り返されてはいけないが、それでも覚悟はして置かなければならない。薫の高等部所属期間の間は、絶対に注意や警戒を怠ってはならないのだ。前例を特例にして葬ってしまう……そのような考えの人間が存在する。古い因習で子供たちの生命すら彼らの掌の上の玩具だ。

 武を中心としたグループは、悲惨な状況を身を以て経験して来た。薫たちに未だそこまでの覚悟は出来てはいない。ボウガンの矢一本では危機感はまだまだ低いだろう。

 初々しい薫と葵の姿に守ってやりたいという気持ちはわく。今はそれで良いと周は思っていた。

 行長と月耶の間はギスギスしたままだ。片想いはどうしてやる事も出来ない。ましてや相手に既に最愛の人がいるならば。

 様子を見に行った周に行長は二日酔いの一点張りだった。だから周も敢えて無理には聞こうとはしなかった。月耶は朔耶に話をして落ち着いたのか、今は何とか普段通りの顔をしている。ただ朔耶との間にあったわだかまりが解けたのか、今日はグループに加わっていた。三日月も渋々一緒にゲートに向かっていたが、いつの間にか姿を消していた。 

 恋愛はいつもスムーズに行くとは限らない。むしろスムーズに行かない方が普通なのだ。別々に生まれ育った人間が心を交わし触れ合うのだ。そして共に人生を歩むならば、互いの違いがすれ違いになる。 

 双子ですらいさかう。人間は互いの違いを認識し、理解を深める事で成長して行く生き物だ。決して安易な事ではないのは武と夕麿の紆余曲折うよきょくせつを見て来た者にはよくわかっていた。たとえ武の暗殺を目論む者たちがいなかったとしても、2人は余りにも違う感覚で育っていた。すれ違いくい違い、互いに想う故に苦しんだ。 

 薫の卒業を待って葵も学院都市を離れると言う。薫は国内の大学に進学を望んでいた。未だに将来の夢はわからないと言う。だから外に出て朔耶のように社会勉強の為に仕事をしてみたいと言う。 

 葵は染色で身を立てたいと望んでいる。武の組み紐と近い部分があり、工房を御園生が用意するという話になっていた。紫霄では芸術家への道を望む者が多い。実際に歩まなくても、才能のある者が多いのも事実だ。 

 声楽家として順調に公演活動を続ける、赤佐 実彦。 

 UCLA在学中に発表した絵がセンセーションを呼び、若き天才と呼ばれて精力的に創作を続ける、御厨 敦紀。 

 御園生で特別チームの専属秘書を行いながら、紫霞宮家お抱えの舞楽師として今上の覚えめでたき、御園生 雅久。 

 御園生ホールディングスの中核でありながら、天才的才能を後進の若者に教える、夕麿。 

 同じく御園生ホールディングスの中核でありながら、蓮華の名前で組み紐や手織り布の小物を発表する、紫霞宮武王。 

 それぞれがそれぞれの生き方を大切にしていた。麗のようにパティシエとして頑張る者もいる。周は先日、御園生の水族館の夜間営業用のBGMとして、ギター演奏を提供したばかりだった。



 既に校舎は閉鎖されている為、全員が大回りしてゲートに向かう。 

「!?」 

 武がそれに気付くのと、すぐ側にいた行長が動いたのが、ほぼ同時だった。一本のボウガンの矢が風を切り裂いて、武を庇う行長の胸に刺さった。 

「下河辺!」 

 武の腕の中でゆっくりと行長の身体が崩れ落ちた。 

 雫たちが駆け出す。理事として来ていた成美が全身で薫と葵を庇う。 

 殺気すら感じなかった。武が感じたのは恐怖と戸惑いだった。だから反応が一瞬、遅れてしまったのだ。だが行長の位置からは、ボウガンの矢の先が見えた。角度からして武を狙っている事も。 

「下河辺!しっかりしろ!」 

 武は行長を抱き締めて叫んでいた。 

「武さま、離れてください」 

 周と保が駆け寄って来た。見かねた夕麿が武を引き離した。 

「下河辺!おい!僕の声が聞こえるか!?」 

 周の言葉に応えるように彼は目を開いた。その間に衣服を引き裂いて保が状態を確認する。 

「急所はそれています。恐らくは打った人間に躊躇ためらいがあったのでしょう。出血も多くない。 

 このまま車で運びましょう」 

「貴之、麓に救急車を」 

 周の要請に貴之は頷いた。義勝が行長を抱き上げゲートに急いだ。 

 戻って来た雫たちは首を振った。ボウガンだけが落ちていたらしい。 

 姿なき暗殺者。狙われたのは間違いなく武だった。前例を消して、その影響力をなくしてしまう。夕麿が武の意志を継げば彼をも狙うだろう。 

 蒼白になって泣いている武を夕麿が抱き上げた。恐怖に震える薫を成美が、葵を岳大が庇いながらゲートへ急いだ。彼らが警戒しながらエントランスに姿を現すと、三日月が副会長の幣原 密ぬさはら ひそかと談笑していた。 

「何事ですか?」 

「月耶を連れて早く帰りなさい」 

 そう言ったのは朔耶だった。 

「巻き添えになりたくないでしょう?」 

 その言葉を聞いてようやく、ぐったりとしている行長に気付いた。 

「早く!」 

 三日月は慌てて月耶の腕を掴んだ。抗う弟に有無を言わせず迎えの車に押し込んだ。密も慌てて自分の車に乗った。二台は急発進してエントランスを離れて行く。 

 薫と葵はそのまま、成美と岳大に付き添われて御園生邸へ。雫は都市警察と現場検証の為に学院に残り、武と夕麿に先に貴之が付いた。彼は先にゲートの安全確認に出ていた。雫の連絡を受けて急いで戻ったのだ。 

 行長が搬送された御園生系列の病院で、武と夕麿は手術が終わるのを待っていた。御園生邸に入った薫も蒼白で葵に縋り付いたまま離れない。 

 春のボウガンは木に刺さっただけだった。だが………恩師が目の前でその胸に矢を受けた。突き刺さった場所から血が出てシャツを染めて行く光景は、恐らく脳裏から生涯消える事はないだろう。二人の精神状態を考慮して義勝と雅久がリビングで向き合っていた。 

 そこへ行長の身体から無事に矢を除去する手術が終わり、最初の保の見立て通り生命に別状はないという連絡が来た。取り敢えず全員がホッと肩から力を抜いた。 

「武兄さまは…ご自分は安全だって…言われたのに…」 

 涙を流して薫が言う。 

 義勝と雅久は顔を見合わせた。彼らにとっては今回の一件は、至極当然の成り行きだった。薫を学院に留めるには武の生命を奪うのが一番確実。だからこそ警戒していたと言うのに…………… 

「ご自分が一番狙われると、紫霞宮さまはおわかりだったのでしょう」 

 葵には武が薫に敢えて偽りを言った気持ちがわかる気がした。自分の伴侶を守り家族を守り通した彼ならば、新たなる危機に於いてもまた同じくと。 

「そうだな。武は自分が傷付く事は嫌わない。だが自分の所為で周囲が傷付くのは極端に嫌う。それだけは夕麿も変える事が出来なかった」 

 葵は義勝の言葉に頷いた。 

 守られるのが当たり前……身分高き者には自らの生命を最優先にする責任がある。だが武はそれだけは今でもはっきりと拒否する。 

「お茶をお淹れいたしましょう」 

 無言でいた雅久がそう言って立ち上がった。 

「雅久さん、幸久君は…?」 

 リビングに幸久はいない。 

「朔耶さまと敦紀さまが一緒にいてくださってますから」 

 それは義理とはいえ息子より、紫霞宮家大夫としての役目を果たそうとする気持ちの現れだった。その姿勢に葵は頭が下がる。 

 忠義。 

 言葉にするのは簡単である。だが貫き通すには強い意志が必要である。追従するだけが忠義ではないからだ。お茶を淹れに行った雅久を視線で追い、ふと振り向くと義勝と視線が合った。穏やかに優しく細められた目は、全てを受け入れて守り支える男のものだった。 

 周と行長から取り敢えず、御園生邸の住人の人間関係は聞いてはいる。朔耶は武を守り支える彼らと同じか、それ以上のものをつくりたいと心から願う。 

 武の周囲は妃である夕麿の友人が中心になっている。そこに武の同級生と後輩が加わり、二人の縁に繋がる者が集う。 

 朔耶の想いを受けて葵は自分の周囲を考えた。同級生は皆、高等部卒業と同時に学院を去っている。朔耶の同級生ならばまだ学院内に留まっている。三日月や月耶の同級生ならばもっと良い。だが一番の相談相手の行長が、このような事になってしまった。 

 誰もが言葉をなくしていた。 

 雅久が淹れたお茶を飲みながら、ただ静かに時間が流れて行く。 

 ほぼ同時に武を連れた夕麿たちと、現場検証を済ませた雫が帰って来た。夕麿が抱き上げている武を、無言で義勝が引き受けた。どうやら鎮静剤で眠らされているらしい。 

 本来ならば病院で一夜、様子を見た方が良いのはわかっている。警備上の都合や他の入院患者の事を考えたら、武は御園生邸に連れ戻るのが一番だと判断された。義勝が武を連れて部屋へ運ぶ。絹子が急いであとを追い、周がそれに従った。 

 夕麿は蒼白な顔色でソファに座った。 

 雫が帰って来たのを聞いて、敦紀が朔耶と幸久を連れてリビングに姿を現した。 

 そこへ義勝と周が戻って来る。 

 取り敢えず眠る武に清方が処方した点滴を投与して、二人はリビングに戻って来たのだ。 

「現場検証の結果をご報告いたします」 

 本来、警察では調査上の事は一切、口外するような事はない。雫が率いる特務室だけに許された行為だった。 

 紫霞宮家を巡る騒動は表には出してはならない。極力特務室だけで解決する。故に当事者である彼らにも、捜査の詳細を説明して協力を仰ぐ。ロサンゼルスからこっち、暗黙で決められた事であった。彼らのそういった行動は貴之の父である良岑 芳之刑事局長が、全面的にバックアップし認めている。 

「犯行が可能だった人間は、全部で3名おりました。 

 理事の一人、井上 真澄。 

 幣原 密。 

 そして…御影 三日月」 

「三日月はそんな事はしない!」 

 薫が叫んだ。だが即座に朔耶が口を開いた。

「三日月には動機がないわけではありません。ましてやあの場所にいたのですから、疑われても仕方がないでしょう」

 異母とはいえ実の弟を本当は疑いたくはない。だが彼には動機がある。

「あとの二人はどうなのですか?」

「理事の井上氏は今のところ、中立を貫いている」

 影暁が答えた。

「私もそのように認識しています。武さまに対しても、彼は基本的な礼儀を崩してはいません」

 夕麿がの言葉に誰もが頷いた。理事会に参加した全員が同じ事を感じていた様子だ。

「幣原は?」

「朔耶、彼はどのような人物だ?」

 周の言葉に朔耶が口を開いた。

「おとなしい性格ですが責任感は強いです。私の身体の事もよく気遣ってくれていました」

 密は表現するなら取り立てて特徴の薄い生徒だった。

「ただ、紫霞宮さまを狙う動機があるとは、私には思えないのですが…」

「う~む…埒があかんな。取り敢えず全員の身辺を、徹底的に調査するしかないか…」

 雫が唸る。

「室長」

 貴之の声に全員が振り向いた。 

「落ちていたボウガンがダミーで、実際には別の場所からという可能性は?」 

「いや、あのボウガンであの位置から発射された。弾道検査で間違いなく、下河辺 行長が矢を受けた位置や高さ、刺さった角度に相当する」 

「3人以外には怪しい人物は?」 

 義勝が言った。皆、朔耶の為にも三日月を疑いたくないのだ。 

「今のところ、他には該当する圏内に誰もいなかった」 

「皆さん、ありがとうございます。私としても弟を疑いたくはありませんが、個人的な感情でこの事態をはかりたくありません。どうか三日月も他の方々同様、平等に調査してください」 

 朔耶は夕麿が異母弟透麿を切り捨てるのを間近で見ていた一人だ。血肉を分けた弟と言えども、紫霞宮家に害を為すならば切り捨てなければならない。その覚悟がなかったら薫と葵を守るなど不可能だと。 

 そして薫は次々に起こる事態に完全に混乱していた。彼の人生はこれまで完全な無風状態だったのだ。葵とて平気なわけではない。だがここで自分がしっかりしなければ…と、そう思って歯を食いしばっているだけだった。 

「朔耶、僕は武さまの御容態を鑑みて、今夜はこちらに泊まる事にする」 

「では私もこちらに泊まらせていただきます」 

 何かが出来るとは思わないが、一人でマンションに帰るのは嫌だった。 


 次の日、薫の嘆願で行長の見舞いに行く事になった。未だ血の気のない顔で武も行くと主張した。駆け付けた雫が出した条件は、薫と武の乗る車を別にする事と何処にも寄り道をしない……という事だった。 

 御園生系列の警備員が急遽きゅうきょ病院内を固め、周辺には警察官が配置された。 

 車は病院の通用口に横付けされる。素早く貴之に守られた武が入った。武を先にしたのは、万が一の場合に薫をそのまま移動させる為だ。車は二台とも完全な防弾、耐衝撃処置がされている。武が無事に建物内に入ったのを確認して薫が乗る車が横付けされた。 

 葵がまず岳大に守られて、続いて薫が成美に守られて中へ入った。そのまま職員専用のエレベーターで最上階へ。特別病棟に向かう。病棟の入口では知らせを受けた、慈園院 保が待っていた。 

 本来ならば周が待っているのだが、今日は外来の日で手が離せないのだ。 

「お待ち申し上げておりました」 

 病室へ案内しながら、行長の容態について軽く説明を受けた。まだ微熱状態なので、面会時間は15分と限定された。 

 病室に入るのは保以外は、薫と葵、武と貴之のみ。中からのロック解除を受けて、彼らは無言で入室した。行長の傍らには昨日駆け付けた、母親が看病についていた。 

「下河辺…」 

 貴之に支えられようにして、武がベッドに近付いた。 

 薫は本当は一緒の車で来たかった。武のショックは酷く昨夜も今朝も食事が喉を通らない。夕麿はそんな彼を残して出社して行った。仕事が山積しているからだ。 

 いつもこういう時は武に寄り添う、雅久や小夜子も多忙に故に側にはいない。せめて敦紀が動ければ良かったが、彼も製作中で身動きがとれない。 

 麗もクリスマスシーズンに向けて、店を疎かには出来ないでいた。 

 皆のそんな事情を武本人は一番わかっている。大丈夫だと言い張る彼が、薫には痛々しく見えて辛かった。車の中で葵にそう言うと、武本来の性格と立場的にわがままを言えないのだろうとの答えに悲しくなった。 

 何故、武が狙われなければならないのか。理由を説明されても薫にはどうしても納得が出来なかった。自分たちが何故、外に出るのを防ごうとする人がいるのか。誰かの生命を奪ってまで、その必要があるのか。 

「何て顔をなさってるんです?一週間もすれば退院出来る軽症に、大袈裟ですよ、武さま」 

 行長の軽口に武の頬を涙が伝う。 

「…大馬鹿め…」 

 そう呟くのがやっとの状態だった。 

「下河辺先生」 

「薫さま、三条さま」 

「先生、武さまのお気持ちもおわかりなってください。お食事も喉をお通りにならないくらい、ショックを受けられたのですから」 

 葵の言葉に行長は眉をひそめた。 

「武さま、今回の事は私が私の意志で為した事です」 

 武はその言葉に激しく首を振る。薫には武の気持ちが少しだけわかる。もし自分の代わりに誰かが傷付いたら…それは自分が傷付くより痛い。確かに自分の身を一番に守れと教えられて生きて来た。きっと誰かを庇って行動するなんて、自分には出来ないと思う。第一、するべきじゃないって思う。それでも誰かが傷付くのは胸が痛い。 

「あの……」 

 戸惑いながらも声をかけたのは、行長の母下河辺従子よりこだった。 

「息子があなたを庇って怪我をしたというのは…本当の事ですか!?」 

 武はその問い掛けに無言で頷いた。 

「御園生 武さん…でしたわね?」 

 ここでは紫霞宮とは名乗れない。あくまでも御園生財閥の御曹司という立場だ。安易に自分の身分を明かせない。行長にはそれはわかっている事の内だが、中央からやや離れた土地に住む従子にはその辺りの細かい事情まではわからない。日陰の宮として暗黙の了解のもとに存在している、紫霞宮と御園生 武が同一人物であるとはわからないのだ。 

「申し訳ありません。俺が気付くのが一瞬…遅れたんです。だから下河辺が……」 

 何故、武は謝るのだろう?身分の低い者が高い者を庇うのは当たり前の事だ。薫はそれが不思議で仕方がない。 

「謝っていただいても仕方がないでしょう?何故あなたが狙われたのです?財閥の御曹司として生命を狙われるような事を、なさっているんじゃありませんの?何故それに息子が巻き込まれなくてはならないのです」 

 その言葉に武の顔が悲痛に歪んだ。と、葵が進み出た。 

僭越せんえつもほどほどになさい、下河辺夫人。あなたはどなたに暴言を吐いていると思っているのですか!?」 

普段は声を荒げるなどまるでない、どちらかと言うともの静かな葵の抑え切れない怒りの言葉だった。

「な…何ですの?」

 雅久もそうだが美人が怒りを浮かべると迫力が格段違う。

「おたあさん…武さまが御園生姓を名乗られるのは、表向きの事なのです」

 息子の言葉に彼女はようやく、自分の間違いに気付いた。

「このお方は紫霞宮殿下であらしゃる。

 控えよ、下河辺夫人」

 葵に促されて貴之の言葉が鋭く響いた。

「ひぃっ…!」

 従子は小さく悲鳴をあげて絶句した。息子は家に帰って来ても、余り紫霞宮の話はしない。ただ事ある毎に御園生家へ出向いていたのは知っていた。

 息子の同級生に紫霞宮という名前を下賜された生徒がいた。子を成す事が許されず、1歳上の同性を妃に迎えた。そういった事情は聞き及んでいた。だがこんなに安易に宮の身分にある者が、足を運んで来るとは思っても見なかったのだ。

 一方、葵にすれば……

 ここには夕麿はいない。宮大夫である雅久もいない。前大夫だった周もいないのだ。保は先ほど呼び出されて出て行った。薫の妃として間もなく紫霞宮家の一員になる責任を果たさなければならないと思った。 

「下河辺先生は殿下に臣としての誓いをなされていた筈です。臣が主たるお方をお守りするのは、当然の役目であるとあなたも貴族に名を連ねる者ならば覚悟がある筈。 

 殿下はご自分の為に臣が傷付くのをお厭いになられるお優しい方であらしゃいますが、それに甘えてはなりません」 

 そのりんとした姿に薫の胸がときめいた。 

「あ…あなたは?」 

「三条 葵と申します」 

「三条家の方!」 

 従子は葵の姓を聞いて目を見開いたが、次の瞬間に眉をひそめた。どう見ても貴族として成人している葵を集まりで見た事がないからだ。 

「葵さまは殿下の弟君、薫さまのお妃になられる方です。 

 これ以上の無礼は許されません、下河辺夫人」 

 貴之の鋭い言葉は不審者を誰何するプロとして、十分な威嚇いかくの響きを持っていた。 

「おたあさん、田舎者丸出しはやめてください。紫霄学院の事情はご存知の筈です。失礼をこれ以上重ねるならば、即刻帰っていただきます」 

 業を煮やした行長がベッドの上から言った。実は彼は母親がここに到着してから、ずっと小言を聞いていたのだ。武に対する想いや忠を全面的に否定されるような、事情すら聞こうとしない彼女にうんざりしていた。病院にしても御園生系列のもので、特別病棟に入院して至れり尽くせりの状態だ。それなのに地元の病院の方が良いと主張して耳を貸さない。 

 行長の父は官僚を勤めた後、自ら商売を始めた人だった。従子夫人は30歳を過ぎてもなかな妻を持たない行長の父に、親戚が見付けて来た花嫁だった。家格はさほど高くはないが、気立ての良い女性として選ばれた。確かに彼女は行長とその弟を産み、夫の留守を守る良き妻、良き母であった。だが年に数回開かれる貴族の集まりにいそいそと出かける一面があった。 非常に視野が狭く身分が下の者に傲慢に接するところがあり、行長には頭の痛いものになっていた。

 御園生家は勲功貴族だ。謂わば新参者であり、下河辺家は鎌倉時代から続く清華貴族だ。それだけを考えてみれは従子の態度はおかしくはない。

 地元ではかつての領主の夫人であり、地元復興に尽くす人物の夫人として当然、人々から尊敬され特別扱いされている。その癖が何処へ行っても抜けず、相手の身分や立場を聞いて態度を変える傾向があった。 

 行長は紫霄で身分の違いに対する物腰を、徹底的に教育された人間だ。故に母親の傲慢な態度に昨日から頭を抱えていた。 

「武さま、三条さま、申し訳ありません」 

 謝罪する行長の言葉に、武は肩を竦めて苦笑した。 

「俺が未だにらしくないのが悪いんだろう」 

 確かに他の皇家の人間より親しみやすいが、今の武には庶民的な顔はもう存在していない。否応無しに高みに上げられて生きて来た10年間がを塗り替えてしまっていた。 

 庶民の生活を忘れたわけではない。それを理解しながらも、自分が置かれた立場から逃げずに生きて来た。確かに皇家の人間には見えないかもしれない。だが母親の態度には本気で腹が立った。 

 時間が来て武たちが帰った後、行長は母親に帰るように言い、父親に迎えに来るように連絡した。事情がわからないならば、どんな形でも口出しをして欲しくなかった。 




 薫は車の中で下河辺夫人の言葉や態度を反芻はんすうしていた。学院では最も身分尊き者として、誰もが敬い優しかった。だが外に出ればそれが必ずしも通じないらしい。武は笑っていたが薫は悲しかった。武の努力が今の薫にはわかるからだ。理解出来ない部分もまだまだあるが、余り丈夫でない武が頑張っているのはわかる。 

 朔耶と毎日交わすメールには、武や夕麿の会社での多忙さがよく書いてある。仕事や会社はよくわからなくても、皆が疲れた様子で帰宅するのは見てる。今日だって夕麿は武の側にいたかった筈だ。でも仕事は待ってはくれない。 

 責任と義務。 

 榊が繰り返し口にしていた言葉が浮かぶ。自分に何が出来るのだろうか。 

 帰宅すると武は着替えて出社してしまった。幾分、顔色は回復してはいたが、そこまで忙しいという事らしい。 

 薫は居間のソファに座って考え込んでいた。 

「どうなさいました、薫?」 

 葵の指が薫の頬を撫でた。 

「葵…私は…私には何も出来ない…」 

 薫の頬を涙が濡らす。 

「武兄さまは…私と同じ歳で…いろんな事をなさったって…下河辺先生が…」 

「薫…」 

 葵はそっと彼の小柄な身体を抱き締めた。 

「武さまと同じ事をされる必要はないのですよ?あなたがあなたらしくいる事です。武さまも皆さまも、それを望んでいらっしゃいます。薫、あなたはまずご自分のこれからを考える事です」 

 道が定まらないままでは、外に出ても迷うばかりだ。御園生と紫霞宮家の経済力と、薫自身の株式投資で生活こそは何不自由なく出来るだろう。だがそれだけでは人は生きては行けない。 

 長く学院に閉じ込められていたからこそ葵にはそれがわかるのだ。外に出て何がしたいのかを問われた時、葵はずっと趣味として続けていた染色を、自らの仕事にして行きたいと答えた。返って来たのは武と夕麿の笑顔だった。そして武が組み紐の製作に携わっているのを知らされた。 

 葵がやっているのは布を染めていくもの。亡き母親が友禅染めが好きだった事から始めたものだった。職人を何度も呼び寄せてもらって、繰り返し指導を受けた。技法を学び、自らの絵を描くようになったばかりだった。外の大学には染色を教える学科もあると聞いた。葵は自分の目の前の霧が、全て亡くなった気持ちになった。 

 武から組み紐をもらって、その素晴らしさに声を失った。彼の新しい組み紐が売り場に並ぶのを、ずっと待っている客がたくさんいるという。この紐に見合う染め物をつくりたい。今はそう思っている。 

 だから薫にも自分がやりたい事を見付けて欲しかった。そして人生を生き生きと歩んで欲しい。丈夫でない身体でも、武は生き生きとして輝いている。傍らにいる夕麿も共に。 

 こんな事件が起こってショックは受けても、ここでは誰もへこたれてはいない。そんな暇はないとばかりに自らの道へ戻っていく。 

 自分の道を見付けて歩く事自体が紫霞宮家への忠義になっている。これが武の望みなのだ。

「私のやりたい事…?」

 薫は葵を見上げた。葵は笑みを浮かべて頷いた。

「私は…兄さまたちのお役に立ちたい」

「では経済と経営学を学ばれて、皆さまのお仕事に参加なさいますか?」

 その言葉に薫は目を見開いた。漠然と思っていた事の道筋を葵が、確かなものとして示してくれたのだ。

「経済と経営学…兄さまたちはアメリカかに行かれた。それは皇国でも学べる?」

「はい。皆さまが取得されていらっしゃるMBAも、最近では国内で取得出来るそうです」

「本当?だったら嬉しい。私は余り外国で生活したいと思わないから」

 薫は如何に海外の大学のレベルが高くても皇国で学びたかった。第一、葵は日本にしかない学科へ行く事を望んでいる。

「もう一つ、武さまをお助け出来る事があります」

「何?」

「皇家が表立って出向けない国へ、武さまと夕麿さまは外交にお出ましになられます。お身体への負担も相当なものと伺っております」

「私が代われる?」

「武さまでなければならない事も、おありになられるとは思いますが…」 

「わかった。武兄さまを出来るだけ休ませて差し上げたい」 

「はい」 

 武は組み紐制作をもっとしたいのではないか。美しい紐を手にして葵はそう思ったのだ。そして多分…夕麿もそう思っている。だが総帥の座に武を座らせる必要がある。それが皇家と御園生の契約だった。借り物ではなく、総帥としての采配を持たせる。それが周囲の想いであるのもわかる。武にはそれだけの資質があると葵も感じていた。だからこそ支えて守る人間が幾重にもいるのだ。 

 朔耶は言っていた。薫にも同じようなグループが必要だと。葵は自分と薫自身が作り出して行かなければならないと感じていた。 

 武を支えるグループは、夕麿が会長だった81代生徒会執行部が中心になっている。準じるように82代生徒会執行部が参加し、武や夕麿の縁故の人間が集合している。また成瀬 雫と良岑 貴之の二人を通じて、警察省とも深く繋がっている。 

 医師資格を有する者が三人。御園生財閥のバックアップ。薫も自分もその中へ参加するが、それでも薫だけの為に動く人員が欲しい。 

 朔耶と幸久はいる。 

 だが……葵は静かに目を閉じた。焦ってはいけない。まだ始まったばかりだ。今は兎にも角にもこの事態を切り開く事だ。 

 暗闇ならば光を見出す努力をする。 

 闇を光に転じたい。 

 薫の為にも自分の為にも…葵はそう思っていた。

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