蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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恩師

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 危険だからと呑気に構えてる暇は武にはない。警護に取り囲まれながらの日々の生活が経過していく。その中で下河辺 行長が退院した。彼はそのまま御園生邸の住人となった。


 ……薫と葵の結婚式の日が来た。警備上の事を考えて招待客は最小限に限定されたが、それでもホテルの会場をいっぱいにした。高齢の為に現在は車椅子生活になった、二人の祖父である今上皇帝も孫たちの顔を見に御忍びで訪れた。

 招待客の中には三日月と月耶、密もいた。三日月と密にはずっと監視が付いている。 結局、雫たち特務室は3人の誰にも犯人としての決め手を得る事がなかった。

 薫を育てた御影夫妻は欠席の返事を伝えて来た。三条家からは代理人の形で、葵の叔母が出席した。葵は慈園院 保が後ろ盾になり、薫の妃として婚儀に望んだ。

 集まった人々が皆、味方だというわけではない。全員が武と夕麿という前例があるにしても、皇家の血筋の同性婚を認めているわけじゃない。

 10年前、武と夕麿はどんな想いで、集まった人々の眼差しを受けたのだろう。不安に薫は葵の手を握り締めた。

 そこへ武が来た。 

「笑え、薫。良いか? 弱気な所を見せたら、懐柔し易いと侮られる。幾らでも鬱陶しいのが寄って来るぞ?」 

「はい」 

 10年前の結婚式で武が夕麿にそっと耳打ちされた言葉だった。この言葉がどれだけ正しかったか、武は身に沁みて生きた歳月だった。 

 それでもまだ緊張した顔の薫に、武はこう耳打ちした。 

「周さんが朔耶のヤキモチに、右往左往させられてるの知ってるか?」 

「え?」 

 薫は思わず振り返り並んで立つ二人を見た。 

「周さんは昔、遊び回ってたからな。たまにその相手に遭遇するんだよ」 

 薫は思わずキョロキョロとしてしまう。 

「この中にいるの、武兄さま?」 

「いたみたいだな。さっきから周さん、必死で朔耶の機嫌取ってる」 

 その言葉に薫が吹き出した。 

「それで良い。そうやって笑ってろ」 

 薫の笑顔を引き出す為に、引き合いに出された周が可哀想だが…武には他にネタがなかったらしい。 

 いつまでもクスクスと笑い続ける薫に、同じく武の話を聞いていた葵は苦笑した。だが同時に人の扱い方を良く理解している武に関心もさせられた。薫は10年後、どんな姿に成長しているだろう。その時、自分はどんな事が出来ているだろう。互いに交わした指輪を見詰めながら、葵は見果てぬ未来へ心を走らせた。 

「葵、浮気しちゃダメだからね」 

「いたしません、絶対に。私が抱き締める方は薫ただ一人です」 

「うん。私も葵だけだから」 

 互いに言葉を交わし、誓うように唇を重ねた。 

 薫は薫で武の強さを欲していた。愛する人や家族を守る為に、自分の身を囮にしても守ったと聞いた。優しくて脆い部分を持ちながら、守るべきものの前では強い武。その勇気はどこから来るのか。いつも守られるだけだった薫には、まだ良くわからない事だった。 

 武は何故を自らに問い掛けた事はない。薫にそんな事まではわからなかった。それでも好きな人と人生を共に歩くと誓い、こうして御披露目するのは恥ずかしい反面、誇らしいとも思う。 

 皇家は誰かに利用される事を回避しなければならない。ただただ、国民の為に存在する。国民の尊崇を集める存在としての立場と、古代からの儀式を守りながら。首相が被災地に行っても、人々を歓喜させて勇気をもたらさない。だが皇家の方々の訪れが、どれだけ打ち拉がれた人々を救うだろう。その事実をどれだけの国民が理解しているだろうか。 


 3時間に及ぶ御披露目パーティーが終わり、客を帰したあとでもう一度、乾杯をして会場を後にした。 

 ホテルの1階ホールで、武は薫を振り返って言った。 

「本当にここで泊まりたくないのか?街の灯りを見下ろせる綺麗な部屋だぞ?」 

「今からでも大丈夫ですよ?」 

 夕麿も言葉を添える。 

「ううん、いいの。 私はみんなと一緒に家に帰りたい。だってこれで本当の家族になったのでしょう?」 

「そうだ」 

「じゃ、家でみんなといたい」 

「わかった」 

 家族と家ですごす。当たり前が薫には嬉しい。 

 笑顔で車を待っているその時だった。先に密と三日月、月耶が外に出た。御影家の車が先に来たからだ。三日月が密に軽く言葉を掛け、月耶を先に車に乗せたその時だった。何かが風を切って、一歩下がって立っていた密へと飛んだ。 

「幣原!」 

 三日月の目の前でそれは、密の胸を貫いた。飛んで来たのは一本の矢だった。 

「行け!」 

 三日月は咄嗟に車に叫んでドアを閉めた。次いで倒れた密を引きずって、ホテルのホールへと逃げ込んだ。 

 入れ替わりに雫が外を窺う。かなり離れたビルの屋上に人影が消えるところだった。他の人間を狙う可能性はないと中へとって返した。 

「幣原!しっかりしろ!」 

 三日月の声に密はゆっくりと目を開けた。血に濡れた指を三日月の側にいた朔耶に伸ばした。 

「兄さん……」 

 朔耶が息を呑んだ。 

「兄さん、彼はあなたの異父弟なんです。あなたを産んだ方が嫁がれた先で、生まれたのが彼です」 

 三日月の言葉に目を見開いて驚くしか出来ない。 

「二人共、下がってください」

 保が矢の位置を確認する。慌てて密の身体を俯せにした。

「保先生?」

 朔耶が尋ねた。

「肺を損傷しています。仰向けにすると肺の中に血液が溜まり、溺れる事になります」

 ホテル側が呼んだ救急車が到着した。保と朔耶、三日月が乗り込んだのを確認してすぐに発車する。

 いつも動く周は動けなかった。いや、周だけではなかった。清方も義勝も貴之も、蒼白になって立ち尽くしていた。

「義勝!一体、どうしたと言うのです!?貴之、あなたもです!」

 叫んだのは雅久だった。我に返って義勝が呟いた。

「何で…あの人が…」

「犯人を知っているのか!?貴之!」

 雫に叱責されて貴之は、躊躇いながら答えた。

「紫霄絡みで…こんな事が出来るのは…一人しかいません」

「あの人は…もし外部の学校に行っていたら、破る人間が出ないような記録が出せる人だった」

 周が言葉を次いだ。

「誰だ、誰の事を言ってる?」

「雫…彼は、紫霄の大学部で精神科の教授をしています。そして…紫霄で弓道を行う者の師であり、カリスマ的な天才なのです」 

「名前は!?」 

「柏木…柏木克己かしわぎかつみです」 

 柏木教授の事は夕麿も良く知っていた。彼は学院から出られない人間の一人だった。 

「柏木…克己?」 

 雫がその名前に首を傾げた。 

「あなたの4代前の生徒会長です、雫さん」 

 高等部の歴代生徒会長を記憶している夕麿が告げた。 

「ああ…そうか!道理で聞いた名前だと思った」 

 紫霄の中に閉じ込められた人間がまた、誰かの生命を奪おうとした。 

「取り敢えず皆さまはご自宅へお帰りください」 

 雫はそう言って周と清方を残して、それぞれの家へ帰らせた。貴之をはじめとする特務室の者は、全員を送ってから病院へ駆け付ける事になった。 

 雫は先に周と清方を連れて、病院へと向かう。 

「それにしても何故、幣原 密が狙われたんだろう?彼は弓道をやっていたわけではないのに」 

「柏木教授との接点がない?」 

「御影 三日月に訊いてみなければ、確証はありませんが、多分…」 

 周は薫の主治医として生徒会室に出入りしている。当然、現副会長である密とも顔見知りで、言葉を交わした事もある。穏やかな性格で言われてみれば朔耶に、どこか面差しが似ていなくもない。だが朔耶には寝耳に水だっただろう。自分を産んだ母親は彼とっては、そういう存在がいる…という認識でしかない。彼女がその後嫁いで子供を産んでいても、朔耶には関係ない存在だった筈だ。こんな形で知らされるとは……

 遅れて雫が清方たちを連れて病院に駆け付けると手術はまだ続いていた。 

 そして病院には知らせを受けた密の両親が駆け付けていた。 

 生母と初めて顔を合わせた朔耶は、対処の仕方がわからずに少し離れて座っていた。周や清方の顔を見てすがるような目をして安堵の表情を浮かべた。 

「朔耶」 

 周の呼びかけに立ち上がり抱き付くのを幣原夫人が見ていた。三日月が兄だと紹介した筈だ。彼女は自分が産んだ子供が成長した姿を見た事になる。その様子をしばらく観察してから雫は三日月に近付いた。 

「三日月君、少し話を訊きたい」 

「はい、成瀬警視正」 

 雫の登場に訝しい眼差しを向けていた、幣原夫人の顔色が変わった。 

「幣原君は柏木教授とどんな関わりがある?」 

「柏木教授…あれはあの方なのですか?」 

「彼の弓道の弟子3人が紫霄関係で、あの位置から確実に射れるのは、柏木 克己以外には存在しないと言っている」 

「そう…ですか…」 

 三日月は唇を噛み締めるように俯いた。 

「私からも…お話が…救急車の中で、幣原はもう一度意識が回復して…二件のボウガンの発射は自分がやったと」 

「彼が自分で言ったのか?」 

「兄さんに向かって」 

 三日月の言葉を受けて振り向くと朔耶はしっかりと頷いた。 

「ふむ…それを何かの形で仕向けたのが、柏木教授だったとしたら…口封じか…」 

「柏木教授との関係は、附属病院ではないかと思います。密は昨年、軽い腎盂炎に罹って、10日ほど入院しました。その時しか考えられません」 

「しかし、柏木教授は精神科医だ。接点があるとは思えないのだが?」 

「それは…私にもわかりません」 

「いや、すまなかった。ありがとう」 

 雫はそのまま清方たちの所へ戻り、もっと離れた場所へ誘った。 

「聞いていたな?どう思う?」 

「その…可能性はあると思います」 

 すこし気まずそうに貴之が答えた。 

「何を根拠にだ?」 

「俺が周さまとしばらくぶりにお会いしたのが…附属病院だったからです」 

「附属病院の待合室は、顔見知りと出会いやすい」 

 周は朔耶を気にしながら答えた。朔耶は周の背に回した手を強く握り締めた。 

「確認してみなければなりませんが、附属病院の今の院長は患者全てにカウンセリングが必要と考える人だった筈です。元々、学院や都市内には、心を病んだ者が多いですから」 

 それは清方が長い間、見つめ続けた光景でもあった。 

 雫からすると清方はまだ何かを隠している様子が窺えた。彼も柏木教授も紫霄の医学部の出身だ。年齢の差はあれど交流があったのは間違いないだろう。だが人前では口にしたくはないのかもしれない。周も何か事情がわかっている素振りで、時折、気にするように彼を見詰めていた。 

 と、その時…手術室のランプが消えた。次いで保が出て来た。 

「成瀬さん、これを」 

 差し出された矢を貴之が用意していた、証拠品用のビニール袋に入れた。それを確認してから保は、密の両親と向き合った。 

「傷口は無事に縫合しました。肺内や胸腔内の出血も最小限で済み、輸血はしておりません。このまま合併症等を起さない限り、生命の危険はまずないと言えます。 

 3~4日、集中治療室にて様子を観察し、異常がなければ一般病棟に移します。ただ、肺はデリケートな臓器です。今後、運動などの日常生活に、多少の影響が及ぶ事があります」 

「それは仕方がない事だと思います。本日はありがとうございました。息子が助かったのは先生のおかげです」 

 幣原氏の言葉に保は、当然のことをしただけと言ってその場を立ち去った。そのまま幣原氏はストレッチャーで運ばれて行く息子について行った。 

 しかし夫人は未だ周に縋り付いている朔耶を気にしていた。 

「朔耶!?」 

 彼女から逃げるように周から離れた朔耶が、前触れもなく胸を押さえてガックリと膝をついた。慌てて周と清方が駆け寄る。とっさに脈を取った周の顔色が変わった。ポケットから院内用のPHSを出して、外来の診察室を一つ明けて心電図計を用意するように命じた。 

 朔耶は不整脈を起していた。心臓手術から半年。未だ要観察の患者ではあるが、これは異常事態だった。今更、不整脈が発生するのはありえないのだ。 

「清方さん、そこのストレッチャーを引き出してください」

 ストレッチャーは場所をとるので、壁に穴を開けて入れてある場合が多い。この病院でもそうで、清方はそれを引き出した。 

 周は朔耶を抱き上げて横たえると急いで外来に移動した。 

 シャツを開いて心電図計測の為の器具を取り付けていく。すぐに心拍の記録が紙に記録されていく。周はそれを眼で追いながら、ペンでチェックしていく。確かに不整脈の波形が検出されていた。首を捻って考え込む周の反対側で、幣原夫人が清方に訊いた。 

「あの…あの胸の傷は…」 

「心臓の手術痕です。 朔耶は5月に先ほどの慈園院 保先生の執刀で、先天性心臓疾患の手術を受けました」 

「先天性!?」 

「ギリギリの状態でした。彼はいつ心臓が止まってもおかしくない状態で、学院で生活をしていたのです。 

 それに気付いたのが彼、周先生でした」 

 彼女は清方の言葉に蒼白になっていた。 

「清方さん、ちょっと…」 

 周の声に応えて側に行く。 

「意見を聞かせて欲しい。心臓はほぼ完治してる筈なんだ」 

 朔耶は隣へ移されて、看護師にニトロの舌下錠を投与されている。その様子を遠目に見ながら言った。 

「ストレスだと私は思います。こんなにいろんな事が一気に起こったのですから。それに私たちが到着する前に、三日月君と何かあった様子です」 

「ストレスでこんなになるものなのか?」 

「朔耶の脳はまだ心臓発作を記憶しています。だからこういう事態に過剰反応する可能性があります。ここにいるのはさらにストレスになる筈です。帰らせた方が無難でしょう。 母を呼びますから、一緒に帰ってください、周」 

「わかった」 

 そう答えて周は朔耶の側に近付いた。 

 清方は高子に電話して簡単な事情を話し、彼女自身が迎えに来てくれるように要請した。 

 朔耶は親の愛情を受けずに育ったに等しい。生母には半ば捨てられたのも同然だった。彼女には彼女の事情があったのかもしれない。だがそのような事は幼少時の朔耶にはわかる筈もない。しかも彼が生まれてすぐに御影夫人の妊娠がわかった。 

 そして……先天的な心臓疾患の発見。表向きは実の息子扱いをしていても、彼に御影家が下していた未来は、愛情があるとは絶対には言えなかった。心臓疾患の治療すら、症状を抑えるものだけしか行われてはいなかったのだ。 

 高子は孫に近い年齢の朔耶を本当に愛しんでいた。彼女は本質的に子供が好きらしいのは、生まれたばかりの清方と引き離されたからかもしれない。朔耶も『おたあさん』と呼んで、甘えているのがわかる。手放しで与えられる愛情が一番、彼のこれまでに欠けていたものだった。だから周の過去の相手にも、いちいち嫉妬するのだ。今、朔耶に必要なのは母親だと清方は判断した。

 程なく高子が駆け付けて来た。 

「朔耶さん」 

 朔耶は高子の顔を見て安心したのか、涙を溢れさせた。 

「おたあさん…」 

「怖かったでしょう?本当に大変だったわね」 

 そっと抱き締めると安心した顔で縋り付く。そこへ幣原夫人が近付いた。 

「おたあさん、幣原夫人です」 

 清方が簡単に紹介した。 

「護院 高子でございます。この度は大変なご災難でございましたわね」 

 当然ながら護院家は幣原家よりも格段上の家柄である。幣原家は平堂上と言って宮殿の建物に入る事を許されない身分だ。昇殿できる堂上という身分のトップクラスに名を連ねる護院家とはまさに雲泥の差がある。これが平安時代ならば、幣原夫人は伏していなければならない立場だ。 

「あ…ありがとうございます…」 

「慈園院先生は優秀な外科医ですし、ここには優秀なスタッフが揃っております。 

 病室は如何されます?ここには紫霞宮さまやご家族の皆さまがご入院なされる、特別な病室もありますのよ?」 

 ひどく尊大な高子の様子に、清方も周も彼女が相当に立腹してるのがわかる。幣原夫人は重症を負った実の息子の密の側にいない。しかも朔耶の側にいても声をかける訳でもない。それが彼にどんなダメージを与えているのかすら、彼女は自覚してはいないように見えた。 

 どっちつかずの中途半端。子供と離れ離れになる痛みを知る高子だからこそ、幣原夫人の態度は許せなかった。 

「周さん、朔耶さんはまだ動かせませんの?」 

「僕が抱き上げますから、いつでも大丈夫です、高子さま」 

「そう。ではお願いしますわ。 

 清方、あなたはどうしますの?」 

「私は犯人の事で雫に協力しなければなりませんので」 

「そう。顔色が良くなくてよ?あまり無理はしないでちょうだいね?」 

「はい、おたあさん」 

「では幣原さん、ごきげんよう」 

「はい…ありかとうごさいました」 

 朔耶の母親として堂々とした高子。それはそのままで幣原夫人の状態を責めていた。母になれないならば、密には朔耶の存在を教えるべきではなかった。こんな形で知ってしまった朔耶の気持ちを、血の繋がった者たちが一番、理解してはいないし気を回さない有様を最低だと高子は思っていたのである。そして朔耶を養子にして良かったと心から思っていた。 

 まだ18歳なのだ。ずっと心に鎧を着て生きて来た彼が、純粋に子供らしさをのぞかせる。それを愛しいと高子は思っていた。

 あなたは朔耶の母親ではない。高子の後ろ姿はそう語っていた。産んだ、血が繋がっている。それだけで親になれるならばこんな楽な事はない。そんな親に振り回される、子供がどんな気持ちでいるのか。その不安定で弱く脆い立場に立ってみれば良い。子供には本来、親しか頼る存在はいないのだ。 

「朔耶さん、何か食べたいものはありまして?」 

「おたあさんのミートローフが食べたい」 

「よろしくてよ。周さん、今夜は朔耶さんを家へ返してくださいます?」 

 せめて側にいて抱き締めてやりたいと思う。母はここにいると安心させてやりたい。 

「僕は着替えて戻って来なければなりません」 

 密は重傷患者だ。保が回復するまで病院に詰めるだろうが、手術後の疲れを緩和する為に交代で見守る方が良い。周の気持ちを朔耶も高子も理解している。 

 朔耶を連れた高子が車で病院の敷地から出ようとした時、慌ただしく数台のパトカーが入って来た。密の警護を行う所轄の警察官が駆けつけたのだ。 

 雫たち特務室の者は原則、紫霞宮家とその家族を守るのが役目である。例外は御園生邸の住人と護院家、武所有の高層マンションの上層部の住人である。 

 幣原 密やその家族は対象外。しかも武を二度もボウガンで狙った犯人である。主犯格と思われる柏木 克己が、彼を口封じに殺害しに来る事を防ぐ。それが本庁から派遣された警察官の任務である。 

 病院では柏木 克己が精神科医である事を考慮して、医師は保と周しか通さない。 看護師もその日の集中治療室担当者を確認してある。幣原夫妻のみ病院に残る許可が出て、三日月は御影家へ警察官が送って行った。 

 雫は清方と貴之を連れて、本庁の警察官に任せて特務室へ向かった。全員が既に集合していた。全力で柏木 克己のプロファイルを行う為、まず貴之に彼の人となりを聴く事になった。義勝にはその後で電話で事情聴取をする予定になっている。 学院側にも彼の資料を提出するように要求した。 

 気になるのは周と清方の態度だった。二人は明日、一緒に事情聴取をしようと雫は考えていた。 柏木 克己が武を狙う、本当の理由がそこにあるかもしれない。けれども何故か雫は訊きたくはないような気持ちもしていた。清方と周のショックの受け方が、普通ではなかったからだ。 

 不安に揺れる自分の心を、雫はグッと自ら潰すように拳を固めたのだった。



 一方、ホテルから御園生邸に帰った薫たちは……居間に無言で座っていた。薫と葵の結婚式のこの日を、血で染められたようなものだ。しかもそれが紫霄で弓道をしていた者とって、恩師と呼べる人物による犯行であった。 

 密をかなり離れた場所から射抜いたのは、武をいつでも狙えると宣言したのも同じだ。もちろん武本人は柏木 克己教授を知らない。薫も彼を知らない。大学に所属する葵は顔は見知ってはいた。だが話した事はない。 

 教養学部と医学部は現在、校舎も別にある。武が卒業してすぐに校舎が新設されていて、 戻って来た彼らには何一つ情報がない。 

 密が朔耶の異父弟だと言う、三日月の言葉すら衝撃だった。 

「今更だけど…当然と言えば当然ですね。朔耶君を産んだ女性はその後どこかに嫁いだ。そこまではわかっていたのですから」 

 敦紀がポツリと誰に言うでもなく独り言のように呟いた。 

「下河辺君は知らなかったのですか?」 

「初耳です」 

 行長は退院後、御園生邸で過ごしていた。武がそれを望んだからだ。 

「彼はどのような生徒だ?」 

 義勝がようやく口を開いた。 

「優秀で直向きですが、おとなしい子ですね。御影 三日月の強烈な性格を、彼が中和しているとも言えます」 

「先生…三日月は幣原先輩の事を知ってたのに…何故、朔耶に言わなかったのかな?」 

 朔耶のショックを思うと薫は胸が痛かった。朔耶は三日月や月耶にだけではなく、薫にとっても良いお兄さんだった。もう一人弟がいると知っていたならば、彼は大切にした筈だと思う。 

「薫、それは朔耶を産んだ人と御影家との約束があるからだ」 

 そう答えた武も唇を噛み締めていた。異父弟……同じ存在が武にはいる。夕麿の事でいつも喧嘩になるが、それでも血を分けた可愛い弟だ。 

「約束?」 

「そうですね。朔耶君は猶子として、御影夫人の実子に戸籍上はなっています。従って生母である幣原夫人は口外しないのが決まりです」 

「密君が知っていたという事は……」 

「約束が守られてなかったわけか?」 

「そういう事になりますね」 

 自分の産んだ子を想う。それは母親ならば当たり前の感情。だが何故、彼女は息子に朔耶が兄だと教えたのであろうか?同じ学校に入学させたのであろうか? 

「下河辺、幣原家の実状が知りたい」

 今回の場合は武はいつも調査を引き受けてくれる貴之には、今回は依頼する訳にはいかない。今回の事件は紫霄の外、街中で起こった事件だ。従って如何に良岑刑事局長が特務室に関わっていても、貴之には警察官としての守秘義務がある。

 紫霄内であれば全ては特務室々長である雫の判断に任されている済む。紫霄学院都市の警察は皇宮警察庁に所属している。特務室は良岑刑事局長によって皇宮警察所属の雫たちが、プロファイル専門の機関という表向きの顔を兼任している。同時に長である雫の権限は都市警察の署長よりも上になっている為、紫霄内での事件の操作情況は 、武たちも知らせて協力などを仰ぐ事ができるのだ。

 内と外では事情が違う。内と外の双方で起こり、外側の事件で管轄の警察が動いた以上は、雫たちが関わるにはある程度の制限が出てしまう。当然ながら武たちに捜査の内容を漏らす事はできなくなる。また貴之の調査力がいかに高かろうとも、彼が刑事局長の息子である事実を所轄が嫌うのだ。本人が意図しない現場までも。

 それでも特務室は紫霄内部での事件を調べ続けなければならない……という矛盾した情況に対応しなければならない。そこで今も学院の情報網を押さえている行長に、そういった調査を依頼した。

 貴之は卒業する折りに学院都市と学院の生徒たちの家族に対する情報を、得る為のシステムを行長と成美に分けて継承させた。通常はそこで貴之の手を離れる筈であった。しかし武が在校していた事と自分たちが留学してしまうという事実を前に、夕麿の要請によって情報システムを離さずに継承させる異例の措置をとっていた。とは言っても彼らが卒業して久しい。薫が高等部に進学して行長からの連絡が来るまでは、貴之もシステムへの関与を半ば凍結させていた。

 そして行長は一応、最も信用出来る敦紀にシステムを継がせた。学院に残り教師になるという決意があった。ゆえに貴之と同じくシステムとの繋がりを断たなかった。敦紀は通宗へと歴代の生徒会執行部の誰かが受け継ぎ管理している。現在のシステム継承者は三日月だ。

 しかし今回は行長にも密が朔耶の異母弟である事が把握出来てはいなかったのである。御影家には隠す理由がないが事実を知っていたのは三日月一人だったようだ。ならば幣原家に何だかの理由が存在する……と雫と武は考えた。武の生命を脅かした理由はその辺りにある筈と。

「武兄さま、私もそれを聞いても良いですか?」

「私も事情を知っておきたいと思います」

 武に降りかかる事は薫にとっては明日は我が身なのだ。薫も葵も知らないではすまされないし、逃げる事も出来はしない。朔耶も含めて密を知っているからこそ、事実が知りたいとも思う。

「良いのではありませんか、武。柏木教授が逮捕されない限り、二人にも危険が及ぶ可能性があります」

「そうだな…」

「柏木教授の件は如何されますか?」

 行長がそう問い掛けるのは当たり前の事だとは思う。だが武には清方や周の過去の出来事を無理やり、引きずり出して暴いてしまう気がしていた。二人が捜査の為に特務室の皆に話すのはわかる。しかし自分たちが知ってしまってはいけない気がする。

「そっちは良い」

 全てを明らかにするのが正しい訳ではない。全てを同じ気持ちで理解出来るわけでもない。彼らが自ら話してくれない限り問わないでいると武は全員に説明した。

 薫にはそれはよくわからない事だった。しかし傍らにいる敦紀と葵には理解出来た。誰かが傷付かずにすむならば……という武の想いだった。

 清方は長年、紫霄に閉じ込められていた人間で、葵にはその時間の哀しみが理解出来る。こうして外へ出られても記憶は決して消える事はない。まして清方は10年以上学院に閉じ込められていたのだ。その歳月の間に様々な事があった筈だ。

 ただ一人の相手だけを思い続け、二度と会えない哀しみの中で生きる。それはどんな苦しみであったのだろう。諦めても諦めても消えぬ面影を追って、生きていくしかなかったはずだ。

 葵は進学を決める時点で、紫霄の大学への進学と身元引受放棄を言い渡された。葵の生母が病死した1年後、三条家の当主は周囲の進めで再婚した。彼女は摂関貴族絡みの出身の令嬢だった。三条家は葵を紫霄の小等部に編入させ、彼は寄宿舎での生活を送る事になった。夏休みや冬休み等には帰宅出来たが、広い屋敷の離れに乳母や数人の使用人に囲まれて過ごし、父親と顔を合わせる事はほとんどなかった。

 高等部卒業前、行長が葵を『暁の会』の対象とした。だが妨害が入った。 葵の義母の実家が学院側に手を回したのだ。事実を知った葵はその時点で希望を捨てた。

 行長は武に救いを求めるつもりだった。似たような状態だった清方を、学院から出したのは武だ。しかし、葵は既に絶望の底にいた。今思い返してみれば薫に出逢う為に、必要だったのかもしれないと風に思う。

 今日、葵は薫の妃になり、紫霞宮家の一員になった。通常の戸籍を失い皇家の一員として、系譜に名前が記載された。

 決して表に出ない日陰の宮家だが、武と夕麿という確かなお手本が存在する。何度も生命を脅かされながらも、愛を育んで来た二人が。

 自分に何が出来るのか。薫の未来への望みを守り支えていきたい。少しずつ少しずつ、自分の道を見付け始めた薫を愛しく思う。

 ふと視線を感じて見上げると、行長が笑みを浮かべて頷いた。葵はこの恩師の存在を心強く思っていた。紫霞宮家に尽くす為に学院の教師になり、敢えて中に残って生きる彼を。 彼の笑みに葵も、微笑みながら頷いて返した。



 柏木教授と行長。

 恩師と呼ばれながら選択した道は、何故こんなにも違ってしまったのだろうか………

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