蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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事情聴取

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 幣原 密は3日後に特別病棟の一室に移された。だが未だに事情聴取の為の面会許可は出ていない。そこで雫は御影 三日月を呼んで事情聴取を行う事にした。特務室の場所は極秘扱いなので、警察庁に場所を借りて行われる事になった。 

「病院で軽く聞いたけれど、もう少し詳しく話してもらえるかな?」 

 雫が訊き、拓真が記録をする。取調室ではなく来客用の部屋で聴取は行われる事になった。 

「まず、幣原 密君が朔耶の異母弟だと知ったのはいつ?」 

「中等部1年の一学期の終わり頃です」 

「きっかけは?」 

「兄が…紫霄から出られない身だと知らされて、彼はショックを受けていました。私も心臓病の事もあって両親の残酷さが許せなかったんです」 

「朔耶が異母兄だと知ったのは?」 

「その頃です」 

 中等部1年生と言えばまだ12~3歳だ。ショックでなかったらおかしい。 

「幣原は同室でした。部屋で荒れ狂う私を見て、心配して話を聞いてくれました。すると彼は私以上にショックを受けた様子を見せたんです」 

 朔耶の心臓病は皆が知る所だった。症状や発作を抑える投薬だけで、静かに学院生活をしている彼を、密はどのような気持ちで見詰めていたのだろうか。 

「最初は兄を尊敬しているとか何とか言ってました。でも違う気がして私は繰り返し理由を尋ねました。そして…幣原は自分が兄の異父弟だと白状したのです」 

「それは君も驚いただろうね?」 

「はい」 

「でも朔耶には言わない事にした」 

「約束を違える事になりますから」 

 御影家が既に朔耶を捨て駒にしていたのは約束を違える事にはならないのか。雫は思わず口にしそうになった。雫にとっても朔耶は既に弟同然の存在だった。血の繋がった弟は母そっくりの顔で、人形のような感情のない眼で雫を見る。雫にはそれが気味悪く思えるくらいだった。紫霄で過ごした月日が弟と相容れない関係をつくってしまった。 

 家を捨てた今ではむしろ、パートナーである清方の家族が、雫には愛しく大切に想えるのだ。愛情は血の繋がりで発生するのではない。義勝がそう言っていたのを思い出す。 

「少なくとも君は、御影家のやり方には反対だったんだな…」 

「月耶もです」 

 子供たちはこんなにも真っ直ぐなのに、何故親たちはそれを理解しないのだろうか。いつの時代も同じだと雫は思った。

「幣原は兄さんを崇拝していました。それは私から見ても異常な状態でした」 

 兄弟と名乗れない。それだけが及ぼした歪みには思えなかった。周に出逢う前の朔耶は、かつての夕麿以上に孤高だった。 

「彼が変わったのは紫霞宮さまが、学院にお出ましになられてからです」 

 薫を学院から救い出す。それは薫の為に学院に残る朔耶の未来をも変える。そして現実になった。 

 心臓手術を受け、朔耶は卒業して学院を去った。理事資格を得て学院に出入りするようになった朔耶は、彼を知る誰もが驚く程の変化を見せている。感情をほとんど見せなかった彼は、喜怒哀楽を豊かに見せるようになり、周の横で嫉妬したり拗ねたりする姿は誰も見た事がなかった。痛々しく思う程の凛とした孤高さは微塵もなかった。 

「幣原はその頃から兄の事を口にしなくなりました」 

 後ろでPCのキィボードを叩いていた拓真は、三日月の言葉にかつての同級生を思い出していた。 

 板倉 正巳…… 夕麿に憧れ恋した彼。最初は武のただ一人の理解者だった。唯一の友人だった。だが夕麿と武が愛し合って結婚し、夕麿が変わって行く姿を見て武に対する憎しみを抱いた。 

 だから密の変化を似ていると感じてしまう。 

「歴史は繰り返される…か」 

 誰に言うでもなくそう呟いた。 

「何の歴史だ、逸見?」 

「あ…申し訳ありません」 

「謝らなくて良い。君は何を思い浮かべた?」 

「10年前の板倉 正巳の事件です」 

「板倉 正巳…?ああ、最初は学祭の時に事件を起こしたのだったな」 

 拓真が掻い摘んで事件を説明すると雫は大きく頷いた。 

「なる程。逸見は板倉 正巳の心情と、幣原 密の心情を似ていると分析するわけだな?」 

「まるっきり同じだとは思いませんが、近い感情があったのではないでしょうか?」 

「朔耶の相手ではなく…武さまを全ての元凶と考えた?」 

「それは後付けではないでしょうか?」 

 そこに柏木 克己が関わっている。理由は未だ不明だが柏木教授の側にも、何だかの理由で武を抹殺したい想いが存在した。 

 武を失えば元の朔耶を取り戻せると告げて誘導したのではないだろうか?幾ら何でも朔耶の事から武を恨む…では突飛過ぎる。普通ならば周が憎まれる筈なのだ。だが密が周を憎んだ形跡はない。朔耶の恋人である周を一足飛びに抜かして、武が生命を狙われる理由がわからない。朔耶と周の恋愛に武は一切関わってはいない。逃げ出した周が見付かった時夕麿がその背中を押しただけだ。それすら武は知らない事だった。

 疑問だけが残る。だがここで解消する事は出来はしない。やはり密の回復を待つしかなかった。

「逸見」

「はい」

「三日月君と個人的に話をしたい」

「わかりました」

 拓真はPCの電源を落とすと持って部屋を出て行った。

「お話は何でしょう?」

「君は朔耶を想っているね?」

「弟ですから、一応は」

「隠さなくて良い。こちらにはベテランの精神科医がいるんだ。君が彼を見る目は兄弟の愛情のものではない。もっと熱い……恋愛の目だ」

 そう気が付いたのは清方だった。彼はそれを雫にだけ漏らしていた。もちろん周も朔耶も知らない、気付いてはいない。

「私は……」

 三日月は俯いて唇を噛み締めた。

「君を責めているわけじゃない。誰かを想う気持ちは止められるものではないからな。口外はしない。これも何かの縁だと想って、ここでぶちまけてみないか?」

「それで…私に何の益があると?今更、兄を取り戻せはしないし、私は彼の幸せを壊すつもりもありません」

 取り返したい……何度そう思っただろうか。だが叶わない夢だった。感情を押し殺すようにして生きていた朔耶が、別人のように泣いた姿を見たあの時から、どれだけ得られぬ苦しみに眠れぬ夜を過ごしただろう。声を立てて笑う姿が眩しくて、何も言えなくなってしまった。どの道、自分の性癖では朔耶は幸せにはならない。ただ傷付けるだけの想いならば、封印してしまった方が良い。

 三日月はそんな事を雫にいつの間にか話していた。

「そうか…すまない。最初、我々は君を疑った」

「でしょうね。私には動機がある…そう思われても仕方がなかったのは確かです。でも私なら何があっても周先生を狙います。紫霞宮さまを狙っても意味はありませんから。でも…周先生を狙っても、欲しいものが手に入るわけではありません」

 三日月の眼差しには一点の曇りもなかった。彼は自分の気持ちに彼なりに、きちんと決着を付けていたのだ。 

「君はこのまま朔耶とは別の立場でいるつもり?」 

「それは……」 

 雫は朔耶が薫を守り支える者を欲している事を話した。 

「武さまのように?」 

「そうだ。確かに武さまをお支えお守りする我々は、薫さまや葵さまをも当然ながら同じようにお支えお守りする。だが朔耶は薫さまと葵さまの為の集団を作ろうとしている。君たちは薫さまが必要以上に友人をつくる事を妨げて来た。同時に君たち自身も友人を限定して来た」 

「はい。兄の場合は仕方なかったと思います」 

「そうだろうな」 

 清方に同級生の友人がほとんどいないのと同じだと雫にはその理由が理解出来る。学院内に閉じ込められる人間には、親しい友達を作る虚しさがある。共に内部に残る人間は多くない。まして特待生は少数だ。一般生徒との交流は1年の頃には普通にあるが、進級するにつれて特待生の授業が先行してしまう為に、思うように交流出来なくなるのである。故に特待生は特待生同士の交流だけになってしまう。限られた少人数の中で、親しい者をつくれば後に残るのは孤独感だけだ。 

 それでも清方は耐え続けた。唯一の救いが周の存在だった。いつかは周も学院を去る日が来る。恐怖は如何ばかりだったのだろうか。 

「朔耶は懸命に一人で頑張ろうとしている。彼を手助けしてはくれないか?」 

「…それには一つ条件があります」 

「条件?」 

 問い掛けた雫から目を背け三日月は俯いた。 

「ある人を…学院から、出してあげて欲しいのです…」 

「つまり『暁の会』に救済を申請すると言う事か?」 

「はい」 

「その人の資料を揃えられるか?」 

「はい」 

「では、武さまと夕麿さまに申請書を提出してみよう。彼の名前は…?」 

「長与…長与 秀一先生です」 

「長与…?ああ、君の相手の一人か」 

「何もかもご存知なんですね…」 

「仕事だからな。もちろん、口外はしない。清方が全任されているが、武さまと夕麿さまにもお話申し上げるよ。春休みには出られるように間に合わせよう。学院の教師を続けるかどうかは本人に任せる。 

 これで良いな?」 

「はい、ありがとうございます」 

 三日月の口元に笑顔が浮かぶ。

「他の者は良いのか?特待生でなくても今は、一定の条件を満たせば救済対象になる」 

「今は…長与先生を。順番にお願いするかもしれません」 

「わかった。それも通しておこう」 

 一度に審査するのは不可能だと考えて、時間をずらす配慮をする三日月に感心する。 

「君は、将来は何を?」 

「弁護士を希望しています」 

「それは良いね」 

 何故か医者と警察官ばかりになった集団に、一番欲しい人員かも知れなかった。 




 密の事情聴取の許可が出たのは3日後だった。それも30分と時間が区切られた。 

 最初は雫と康孝が足を運んだ。だが密は口をつぐみ続けた。 

 雫たちをうんざりさせたのは幣原夫人だった。部屋からの退出に応じてくれず、雫の尋問に対して、いつもオロオロとして口を挟む。最終的に強制で出しても密は頑なだった。2日経過しても3日経過しても進展がなくて困り果てる雫に朔耶が協力を申し出た。説得してみると言うのだ。朔耶にしてみても今回の事件に一定の目処がつかなければ、周は自分の側に朔耶を戻さないような気がしていた。そう朔耶は未だに高子と久方の部屋にいるのだ。 

 雫にしても清方の事が気になっていた。ほとんど無言で食欲も低下しており、何かに苦しんでいるのは確かなのだ。 

 清方は弓道はしない。いや武道とは一切縁遠いタイプだ。マンションのフィットネスは利用してはいるが、あくまでもそれは健康と医師としての体力つくりの為だった。今まで清方は雫と離れていた歳月の自分自身の事を、ある程度は話してくれてはいた。もちろん全ては話してはいないだろう、 清方自身記憶に余り残ってはいない事もあるだろう。 

 多久 祐頼の事があって積極的に口を開いてくれた時期もあった。だがその中に柏木 克己の話はなかったと記憶している。雫にわかっているのは、周が深く関わっているらしいと言う事だけ。 

 朔耶にしても今の状態は不安だろう。事情聴取に朔耶の協力を受け入れると同時に、雫は三日月にも協力を要請した。その方が密の口は開くと判断したと同時に、二人の仲直りをさせるつもりであった。

 朔耶と三日月を連れて病室に入ると幣原夫人が顔色を変えた。雫は無視してここの警備にあたっている警察官に室外へ連れ出させた。 

 密はその間、ずっと朔耶を見つめていた。朔耶も冷ややかな眼差しで、言葉も発さずに彼を見下ろしていた。 

「事情聴取を始める前に何か言っておく事は?」 

 雫はその問い掛けを朔耶に向かって言った。今回の事で心理的に一番傷付いたのは、間違いなく朔耶だった。 

「ありがとうございます」 

 彼は雫に笑顔で答えて、再び密へと視線を動かした。その顔は元の冷ややかな顔に戻っていた。 

「始めに言っておきます。私にとって弟は三日月と月耶だけです。血の繋がりがあっても私には意味がありません。護院 高子を母と思っているように弟は二人だけです。君は私との血縁をたとえ三日月だけにでも、絶対に話すべきではなかった。 

 それは御影家との約束を破った事になる」 

 苦しみ悩んだ末の答えだった。朔耶にとって生母は育ての母である御影夫人よりも遠い存在だった。朔耶が本当に母親を感じたのは高子だけだったのだ。彼女は嘘偽りのない愛情で朔耶を包んでくれる。時には厳しく叱られる事もある。今回の事で彼女への信頼はこれまで以上に強く深くなった。だからこそ密を弟とは思えないのだ。 

 もちろん幣原夫人にはもっと他人を感じる。護院家に養子に行って朔耶は初めて、本当の意味での家族の温もりを知った。たった半年とは思えない程、朔耶は護院家に馴染んでいたのだ。清方だけではなく他の義兄たちとも、きちんと会って仲良くなった。朔耶を嫌がる人間は護院家にはいない。ここにいる雫も義兄のようなものだ 清方との愛情の深さも、朔耶には理想とするものだった。 

「兄さん…」 

 朔耶の言葉に三日月も驚いていた。二人はずっとギクシャクした兄弟関係だった。朔耶が背負っていた、様々な重荷がなくなったからかもしれない。長い間、話だけで会った事もなかった清方を、護院家の兄弟が自然に受け入れているのを見たからかもしれない。 

 そういう眼差しで見た時、朔耶には三日月と月耶は大切な弟たちだと感じたのだ。高子に素直に話すと彼女はそれで良いのだと笑った。失ったのではなく、兄弟が増えたと思えば良い。高子はそう言った。朔耶はその言葉に救われた。

「あなたは…そうやって自分だけ幸せになるんですね」 

 密の言葉が病室に響いた。 



 その頃、御園生邸では薫と葵が、武と夕麿の部屋に呼ばれて来ていた。行長がそれぞれに何枚かの紙を差し出した。薫と葵はそれに軽く目を走らせて、互いにに顔を見合わせた。幣原家の調査書類だった。 

「短期間で良く調べてくれた。礼を言う、下河辺」 

 軽く頭を下げた武に行長は目を細めて答えた。 

「難しい調査ではありませんでした。実情は同じ名家の格では周知の事らしく、噂好きの雀のネタになっているようです」 

「そこまで酷いのですか?」 

 夕麿がうんざりした顔をした。 

 行長の調査によると幣原家は、経済状態には差し迫った問題はなかった。生子いくこ夫人は後妻で、御影家の仲立ちで幣原家に嫁いだ。幣原家当主有格ありのりには先妻との間に、既に一男二女があった。子供たちは生子が嫁いだ時には既に成人しており、 生子夫人は夫とは親子ほどの年齢差があった。 

 生子は朔耶を出産して3ヶ月後には幣原家に嫁いだ。御影家との間に何かの約束があったのは確かだ。それでも生子は幸せになる筈だった。少なくとも彼女はそれを願って、産んだばかりの息子を御影家に託して嫁いだ筈であった。 

 彼女は嫁いで数ヶ月で密を身籠った。だが……幸せである筈の結婚生活は、先妻の子供たちとの軋轢あつれきで地獄となった。先妻の子供たちは決して生子を母とは認めなかった。彼女は彼らに召使同然の扱いを受けた。生子が貴族の出身でない事や子供を産んで、嫁いで来た事等が理由だった。 

 だが生まれて来てようやく抱く事が出来る息子を、生子は手放したくはなかった。生子は幣原家の屋敷で朝から晩まで働いた。もとより昔とは違って、召し使う者をなかなか得られない時代である。有格氏もそれを知らぬ顔で見ているだけであった。 

 妻とは名ばかりの働き手。密には乳母も付けられず奥の薄暗く狭い、本来ならば使用人用の部屋へ母子共々押し込まれた。密も召使のように幼い頃から扱われた。それでも御影家から朔耶と引き換えに受け取った金で紫霄の中等部に入れたのだ。息子を救う唯一の手立てだったとも言えた。 

 そのお金も高等部に進む頃にはなくなり、密は株取引で自分の学費を稼ぐしかなかった。残りを母に渡して、彼女が少しでも楽になるようにと考えた。ところが先妻の子供たちに知れ、密は母を人質にされて金を要求されていたのだ。幣原家はさほど経済状態が良いとは言えないにしても体面を保つだけの力があった。それが密の稼ぎ出す金で一気に潤ったのである。 

 学費と学院特別寮の経費などの最低限の必要な金額を取った後の金は、月額にで1千万近い金額になった。幣原家はそれで豪奢な暮らしを始めていた。生子はその恩恵にあずかる事もなく、変わらずに使用人同然の生活をしていた。 

 そう幣原家は見事なくらいに葵や夕麿と逆の状態だったのだ。 

「酷い事をするな…」 

 武は不快極まりない顔をして、吐き捨てるように言った。 

「武兄さま…何とかならないの?」 

「難しいでしょうね」 

 答えたのは葵だった。 

「私もそう思います。幣原家は言わば金の成る木である密君を決して手放しはしないでしょう。かと言って今までのように圧力をかけても、夫人と密君を追い詰めるだけでしょう」 

 葵と夕麿の言葉に武が唸った。 

「今回の事件の処置はどうなる?」 

「彼がボウガンを使用したのは紫霄学院の中です。私も担任教師として穏便に済ませたいと思っているのですが」 

 行長の言葉に武が驚いた顔をした。 

「お前…被害者だろうが?」 

「けれど私は自分の生徒に罪を負わせたくありません」 

 行長の言葉に全員が黙ってしまった。 

「わかった…それは一応、雫さんに伝えておく。だが俺でもどうしようもない事はある。そこはわかって欲しい」 

「はい」 

 今回、密が矢で射抜かれた事件と連動している為、例外的に外部の扱いになる可能性があった。その場合は武はどんな形でも口出しは出来ない。唯一出来るのはボウガン事件の被害者である行長が、情状酌量の嘆願書を提出する事だけである。それ以外には密に優秀な弁護士を手配する事。 

「紫霄の外では、俺は無力だな」 

 悲しげに呟いた武を見て薫は胸が痛かった。 

「どうして…こんな事になっちゃったのかな……」 

 薫には人間の悪意がよくわからない。紫霞宮の名を持つ武が自分は無力だと嘆く。それ以上に幣原家の生子と密への仕打ちが理解出来ない。朔耶の心臓病を放置していた御影家も理解出来なかった。 

 だがこれは余りににも酷過ぎる。 



「いつも犠牲になるには最も弱い者ですから」 

 密が誰に言うとでもなく呟いた。

「それはどういう意味だ?」

 問い返したのは雫だった。

「そのままの意味です」

「ご大層な事だな。悲劇の主人公のつもりか?」

 雫はかつての生徒会長として幾つもの悲劇を見て来た。恋人である清方も長い歳月を閉じ込められて生きて来たのだ。武や夕麿と出会って繰り返される理不尽な事にも直面して来た。紫霄学院の闇は今も誰かの心を蝕み続けている。

「君はまだ恵まれている方だ。君の立場は調べさせてもらったので、一応は理解はしている。俺は君よりも悲惨な生徒たちを何人も知ってる。朔耶にしてもこれまでどんな想いで生きて来たのか、知らないわけではないだろう?弟だと思うならば、何故彼の幸せを喜んではやれない?少なくとも三日月君は弟として、朔耶が幸せでいるのを喜んでいるよ?」

 雫の言葉に朔耶は驚いて目を見開き、密の顔は怒りに歪んだ。

「兄さんには兄さんの人生がある。兄さんが紫霄に閉じ込められるなら、私は御影家を月耶に任せて共に残るつもりだった。でも兄さんは自分で幸せを掴んだんだ。周先生がそのきっかけをつくったけれどね。だから私は私の望む道へ進む事にした。

 幣原、君は変わらない日常を本当に変えようと思った事があるのか?」

 三日月はいつもの彼とは違う口調で、密に滔々と問い掛けた。

「変える?どうやって?」

「せめて下河辺先生に相談すれば良かったんだよ」

「紫霞宮殿下の側近のあの人に?」

 嘲るように口にした密に、朔耶の表情が変わった。

「あの方の何を知っているというんです、あなたは?」

「知る必要はないでしょう?皆にちやほやされてお幸せな方の事なんて」

「君は本当にそう思っているのか?」

 雫が溜息を吐いた。

「殿下がどれだけの目に遭われたのか、今の表面しか知らない人間はそう思う。殿下ご自身もご苦労をお顔にお出しになられる事はほぼない」

 朔耶がその言葉に頷いた。

「少なくとも君は、特別室の住人の末路を知らないだろう」

 雫はこれまでの住人が武以外、故意に生命を絶たれた話をした。

「殿下は学院を卒業されてもなお、執拗にお生命を脅かされてこられた。それは御伴侶の夕麿さまや我々、お側にお仕えする者にも及んだ」

「殿下は高等部に編入されるまで、ご生母小夜子さまと庶民の暮らしをされておられた」 

 ロサンジェルスでの事は朔耶も周から聞かされていた。

「あの方は今でもその時の後遺症に苦しまれていらっしゃる。

 それでも笑顔でいらっしゃるんだ。

 そのご努力を君は知らないだけだ」

 雫にとってもロサンゼルスでの経験は、大切な相手を護る…という事の難しさを知ったものだった。

「武さまの周りにいらっしゃる皆さま方は、誰かが集められた訳ではないのです。皆さま一人ひとりが武さまのお人柄に惹かれて、忠誠を誓われた方々なのです。

 雫さん、あなたもそうですよね?」

「そうだ。

 俺はかつて、あの方の伴侶の候補の一人だった。だから殿下の生い立ちについては、夕麿さまよりも詳しいだろう。だがデータよりもご本人は、皇家のお血筋そのものの資質を持っておられる」

 言葉で説明してもわかりはしないだろう。雫はそうそう感じていた。

「幣原 密。

 何故君は、武さまのお生命を狙うのですか。私が憎いならば私を狙えば良い」

 自分の周囲のゴタゴタに、何故武が巻き込まれなければならないのか。

「私か周を狙うならばまだ、君の行為は理解出来ます。

 しかし、武さまを何故狙わなければならないのですか」

 どこまでも朔耶の言葉は冷たかった。

「全ての元凶があの方だからです」

「なるほど、柏木 克己が君にそう教えたのか」

 雫は密の言葉に聞き返したりはしなかった。

「あの人も…紫霞宮殿下の所為で、大切なものを失われたのです」

「ちょっと待ってください。私をその数に入れないでいただけませんか?あなたの思い込みにつき合わされるのは、申し訳ありませんが真っ平です」

 朔耶の心底迷惑そうな言葉に、密は唇を噛み締めた。

「殿下は柏木教授と面識どころか、その存在すらご存知なかった。それでどうしてあの方が責められる事になると言うのかね、君は?」

 武は身近な者が傷付けられでもしない限り、他者を傷付けるのを極端に回避しようとする性格だ。その存在すら知らぬ相手をどうやって傷付けると言うのだろうか。

 やはりそこに清方と周が関係している気がする。

「君は愚か者ですね。君とご母堂を武さまならお救いくださったかもしれない。君はそれを今回の件で捨てたのだと言う事を肝に銘じておくのですね」

「それはどうかな?殿下は懐の大きなお方だ。何とかしようと奔走なさるのが、あの方らしい所だ」

 雫の言葉に密は心底驚いた顔をした。

「そう言えば…周が昔、夕麿さまを好きだったのを武さまはご存知だったと」

「そうだ。武さまは好きな気持ちを簡単に捨てられるならば、誰も苦しい想いはしない。そう言われて想い続けるだけならばと、お許しになられたんだ。それだけではない。ロサンジェルスで『納曾利』を夕麿さまと周が務めた時、武さまは夕麿さまに舞の中でその真心に応える様に申されたようなんだ。

 周はそれで長い間の想いに終止符を打てたんだろうと思う」

 それは朔耶が初めて耳にした話だった。

「柏木教授の感情の原因に心当たりがないわけでもない。だが、武さまは無関係だ。単なる逆恨みでしかないだろう。そのようなものに乗せられて、君はあの方の生命を脅かした。今回の事がなければ、紫霄学院の中の事で片付けられた。

 だが君が外で狙われた為に、警察庁はそれが出来なくなったんだ」

「だからどうしたと言うのです?」

「わからない子だな。柏木教授は口封じだけで君を射抜いたわけではない。恐らくは外部の事件にして、武さまと俺たちを巻き込む事にしたんだ」

 最初のボウガンの矢が放たれた時、武が感じていた純粋な殺気は恐らく、柏木 克己が放っていたものであろう。

「そろそろ30分だな」

 雫が腕時計を見て呟いた。

「一通りは聴いた。後は傷を治しなさい。

 朔耶、三日月君、行こう」

「はい」

「じゃあな、幣原」

 これ以上何を訊いても無駄と判断して、雫は病室を後にした。

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