蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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疑心暗鬼

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  柏木 克己の部屋からは、板倉 正巳の事件やロサンゼルスでの事件での関与に関する、詳細に書き連ねられた書類が発見された。ただ、今回の一件は完全に彼の意思によるものだった。彼のポケットから遺書が発見されたからだ。幣原 密を外部で射抜いた時点で、自分の生命が絶たれる覚悟をしていたと思われた。

 武を暗殺しようとする存在は余程、正体を明らかにされたくはないらしい。

 柏木 克己が狙撃されたすぐ後、雫は配置されていた警官を含めて銃を調べた。特に狙撃班のライフルを念入りに。もちろん、どの銃身も冷たかった。数日前からから警備を配置していたにも関わらず、犯人が進入した事になる。

 ライフルはそのままのサイズで持ち運ぶとかなり目立つ。ゴルフバックなどに入れて運ぶ手もあるが、美術館にそんなものを持ってくる者は普通はいないだろう。恐らくは分解して運び込み、どこかに隠していたと考えられる。バラバラの部品で持ち込まれると判断が付きにくい。

 犯人は誰か。招待客の中にいたのか。警備に就いている警察官か警備員の中にいるのか。誰も疑いたくはないが状況がそんな甘えを許さない。特に仲間である警察官を疑いたくはなかった。だが確実に心臓を貫いた事から、一番疑わしいのは警察官だった。分解したライフルを組み立てる事は訓練を受けたものにしかできない。銃撃の正確さから考えてもプロフェッショナルにしか出来ない。雫自身がオリンピック級の射撃の腕を有するからこそ、柏木 克己を狙撃した人間の実力がわかる。

 警察の中に黒幕がいる?もしそうならば、身内である警察官を信用出来なくなる。

 確実に信用できるのは執務室の仲間と良岑刑事局長だけになる。もしもそれ以外が敵だとしたら……

 雫は頭を抱えた。確かな証拠がない事を口にして、皆を不安に陥らせる訳にはいかない。だが…考えれば考える程、今回の警備に参加した者に犯人がいると感じてしまう。これが事実ならば今回の警備状況は全て、相手側に筒抜けになっていた可能性がある。

 執務室の人数では、大掛かりな警備は不可能。だが仲間である筈の警察官の中に敵がいるとしたら……口に出来ない疑惑に四苦八苦していると、貴之がそっと雫に耳打ちした。

「室長…身内にいるようですね、黒幕は」

 息を呑んだ雫に彼は告げた。

「まだ俺たちしか気付いてはいません」

「貴之…刑事局長に相談するべきだろうか?」

「いいえ。黒幕もしくはその協力者が、父である可能性もあります」

「君は……本気で言っているのか?」

「ええ。父ならあり得ます」 

 雫には信じがたい話だった。良岑刑事局長がいてくれるからこそ、特務室はその特殊な二面性を保持していられるのだ。もし彼の力がなくなれば特務室の存続自体が危うくなる。 

「室長、疑心暗鬼は良くはありませんが、誰が敵でも対応出来る覚悟をしておくべきです」

 紫霞宮家に刃を向ける存在は、ある程度事情を知っている者である。その条件でプロファイルをするならば、確かに良岑 芳之の存在は外す事が出来ない。 

「室長、俺は良岑から勘当された身です。もし父が武さまを暗殺する企てに関与しているならば、俺は一番の邪魔者になります。同性の恋人を持ったとか、俺が自分の望むように生きられるように…それは都合の良い理由だったのかもしれません」 

「それは幾らなんでも考え過ぎではないか?」 

「そうでしょうか?父は間もなく公安委員長に指名されます。名誉職でありますが、警察トップへの階段であると言われています。この事に加わるもしくは、その黒幕となることでそれが約束された可能性もあるわけです。 

 それに…この特務室は紫霞宮家の警護の為に作られました。何かあった時に我々に全面的な責任を負わせて、簡単に闇に葬る事が出来ます。 

 お忘れですか?ここを作ったのは父ですよ?」 

「しかし……」 

 余りに冷静に自分の父親を分析する貴之に雫の顔は色を失った。 

「俺たちが卒業して渡米する時、何かあった時にと夕麿さまに連絡先をお伝えするように父は突然言って来たのです。それまではただの一度も、10年前の板倉 正巳の件すらも知らない顔を決め込んでいた父がです」 

 思い込みであって欲しかった。だがプロファイルすればするほど、犯人像にぴったりと当てはまるのは父しかいない。貴之は自分がたどり着いた結果に呆然となったのだ。 

 そこで柏木 克己の生家について調べてみた。 

「これでもまだ信じられませんか?」 

 貴之が差し出したのは柏木 克己の生い立ちについての資料だった。 

「清方先生と同じく彼は、別姓を名乗らされていた人間でした」 

 そう言われて雫は慌ててファイルを手に取った。 


 『柏木 克己。 本名 地蔵院じぞういん 克己』

 その一行を見ただけで雫は絶句した。地蔵院家は古京の門跡寺の管長の血筋である。摂家でも最も身分の高い九條家から別れた家だった。 

「彼は現当主である臣克おみかつ氏の双子の弟です。しかも生母は九條家の令嬢、友鶴子ゆづこさま。柏木教授は紫霄の常識から行くと、宮さま方の次に外へ出られない方でした。 

 ……室長、良岑家は九條家とはかつて主従関係にありました」 

 貴之の苦渋に満ちた声が響いた。雫はその言葉に答える術がなかった。 

 雫は抱えた問題を誰にも言えなかった。 

 貴之のプロファイルが間違っていないか。自分でもプロファイルをしてみた。良岑 芳之刑事局長が九條家の意向で、一連の事件の黒幕である可能性は80%と出た。それ以上高い数値が出せないのは、まだ未知数な部分が幾分存在しているからだ。 

 警察庁もしくは警視庁に所属している貴族はさほど多くはない。良岑 芳之とこの特務室所属の人間を除いては3人しかいない。だがどのように調べてみても彼らには、九條家及び地蔵院家との関わりは見えない。彼らは紫霄に在校していた事も、何かの理由で関与していた事もない。自分たち特務室の人間以外では、良岑 芳之刑事局長しか該当する人物はいないのだ。 

 信じたくはなかった。もちろん貴之にしても本心はそうだろう。しかしプロファイルでこのような結果が出た限りは、父親であっても疑惑の目を向けなければならない。もし本当に良岑刑事局長が実働部隊の黒幕だったなら、貴之はどうなるのだろうか。貴之自身はどうするのだろうか。忠義心の篤い彼がこの場合、どのような選択をするのかが心配だった。 

 雫はこの時ほど自分が選択した職業を恨めしく思った事はなかった。 

「雫、一体何をそんなに思い悩んでいるんです?」 

 食欲が低下し夜も余り寝ていない。閨事もどこか上の空だ。清方は医師でしかも特務室に関わっている。通常の守秘義務は理解している。それでもなお雫が口にしない何か。どうやら今回の事件や武の暗殺事件に、関与しての事であるらしいのまではわかるのだ。 

 だが…何が彼をここまで苦しめるのかが清方にはわからない。 

 雫は分けるべき時にはきちんと、仕事と私生活を分けて考える事が出来る人間である。こんなに生活に支障を及ぼす程の何かを、抱えているなど今まで見た事がなかった。 

「このままでは身体を壊してしまいます。医師として黙って見ている事は出来ません」 

 雫は縋るような目で清方を見た。だがすぐに首を横に振った。 

「ダメだ」 

 拒絶の言葉だけが紡がれた。 

 清方には言えない。第一、プロファイルの結果と状況的な証拠とも言えないものしかない。だから口外は清方にもしてはいけない。雫はそう思っていた。 

 だが何をどうすれば良いのだろう?現状では打つ手が見えない。 


 貴之も悩んでいた。よもや自分の父を疑わなくてはならない日が来るとは、思ってもみなかったのだから。だが九條家の意向があったとしたら、父はそれに従う筈だと思う。 

 敦紀が年明けの個展の為にアトリエに篭っているから、今の自分の状態を見られなくてすむのが幸いだった。怖いのは武と夕麿の目。いや、薫も葵も結構鋭い。 

 今現在は捜査の為に彼らの警護から雫と貴之は外れてはいる。だが同じ邸内で生活している。顔を合わせないわけにはいかないのだ。 

 考えれば考える程、想いは迷宮の深くへと入り込んでいく。 

「先輩…何かありましたか?」 

 貴之や雫の様子を見兼ねた拓真が訊いて来たが、貴之は無言で首を振った。 

 当然ながら今の状態では、雫にも貴之にも警護の任務は不可能だ。紫霄卒業生の警察キャリアがいたら、特務室へ配属して欲しいという要望を出した。だが希望が叶えられるまでは時間が必要である上に、新人にSP訓練も行わなければ使えない。 



 迷い続けた貴之が動いたのは、クリスマスも近付いた日だった。 

 父 芳之にメールを送り、外で会ってくれるように要請したのだ。もし芳之が黒幕ならば貴之は刺し違える覚悟だった。 

 何を犠牲にしても武と夕麿を護る。愛する人を残して逝く事になっても。御園生邸を出る時、敦紀に宛てた手紙を文月に預けた。もし自分に何かあった時には渡して欲しいと。 

 芳之に指定したのは敦紀に告白をされた、あの裏通りのレストランだった。場所を知らない父の為に、貴之はあの時と同じように表通りで待っていた。 

 クリスマスのイルミネーションの中を行き交う人々に目を馳せた。幸せそうに手を繋いで通り過ぎる親子の姿に在りし日々の思い出が過ぎる。母は厳しい人で貴之はよく叱られた。父は職業柄多忙で滅多に顔を合わせる事はなかったが、いつも進むべき道を示してくれていたと思う。 

 貴之が最も尊敬する人間。それが父、良岑 芳之だった。自分の望む道を歩けと家から開放してくれた事を心から感謝していた。 

 それなのに…… 

 間違いであって欲しい。否定して欲しい。父を待ちながら貴之は祈るような気持ちでいた。 



 父に会いに行く。 

 雫は昨日、貴之にそう告げられた。休みを取って今、執務室に貴之の姿はない。 

 自分たち親子の問題だと言った貴之の顔が頭から離れない。 

 間違いであって欲しい。 

 雫も祈るような気持ちで彼からの報告を待っていた。 

 窓の外にはいつの間にか雪が舞っていた。



 黒塗りの公用車が止まり、芳之が降りて来た。 

 少し前から振り出した雪は、激しくなる一方だった。 

「わざわざお運びいただきありがとうございます」 

 深々と頭をさげた。 

「待たせてしまったようだな。冷えただろう。案内をしてくれ」 

 空を仰ぎながら芳之が言った。 

「こっちです」 

 父と肩を並べて歩くのは10年ぶりだろうか。貴之は胸が痛かった。 

「?」 

 不意に芳之が立ち止まった。驚いて振り返った刹那、彼は芳之に押しのけられた。。 

 空気を貫いて何かが彼の頬を掠めて飛んで来た。続いて鈍い音がした。飛んで来たのはサイレンサーで音を殺した銃弾だった。それは貴之を押しのけた芳之の胸部に着弾した。 

「おもうさん!」 

 ただ本来は貴之を狙ったそれを受けた為、心臓からは外れていた。周囲を見回すが人影はない。サイレンサーを使用すると距離は殺されて縮まるが、ライフルによる狙撃らしい。 

 貴之は雫に連絡を入れ、救急車を待った。所轄と救急車は同時に到着した。貴之は御園生の病院を指定した。どこに敵がいるかわからない状態で、警察病院は危険だと判断した。同時に周に連絡を入れた。すぐに保と緊急手術の準備をして待機すると返事があった。それから貴之は手の中の携帯を握り締めて深呼吸をした。 

 母親に連絡を入れる。警察官の妻として良岑夫人は覚悟は出来ている筈ではある。それでも父の負傷を息子の自分が、しかも父を疑った結果として知らせなければいけない。 

 震える指で母の番号を選び、コールした。 



 彼女が子供たちを伴って病院に駆けつけたのは、未だ手術室のランプが消えない状態だった。雫がその姿を見付けて駆け寄った。彼女は雫の挨拶を受けながら貴之の姿を探した。 

「貴之君は手術室の中です」 

 出血がなかなか止まらず、直接貴之の身体から輸血を行っているのだと言う。彼以外にも同じ血液型の人間が御園生から集められ今、輸血の為の採血を行っていると雫が説明する。 

「主人は本日の午後に貴之と会うと言って、今朝屋敷を出ました。それがどうしてこんな事に?」 

「貴之君は紫霞宮さまの件で刑事局長に会うと言って、本日は休みを取っていました。刑事局長は彼を庇って狙撃されたようです」 

 ただ貴之を庇ったのか。芳之がどこまで事情を知っているのか。この段階ではプロファイルは出来ない。疑惑や問題が増えただけだった。 

 そこへ武と夕麿が敦紀を連れてかけ付けた。 

「雫さん、貴之先輩のお父さんが撃たれたって…本当なの?} 

 そう言葉を紡いだ武の顔には血の色がなかった。



「良いか、絶対に外には出るな?窓にも近付くな」

 武は皆にそう言い残して、慌しく御園生邸を出て行った。

 入れ違いに朔耶と成美が来た。薫は居間のソファに座って皆を見回した。残っているのは薫と葵、駆けつけて来た朔耶と成美、静麿と行長の六人。小夜子は有人と希を連れて、武たちがプレゼントした旅行に行って不在だった。

 御園生邸の窓は全て防弾対衝撃が成されている。玄関以外の出入口には電子ロックが設置され、4桁の暗証番号は毎週別のものに変わる。門から玄関、庭の要所にはセンサーが設置され、侵入者の有無を常に監視している。玄関は来客が多い為、夜の一定の時間までは施錠されてはいない。代わりに門のセンサーが反応すると、文月が玄関に出て来客の確認をする事になっているのだ。

 武と夕麿が住む離れはもっと強固だ。壁にも厚い金属が埋め込まれて、建設用機器でも安易には壁を崩せないようになっている。床下には誰かが入り込まないように、幾重にも鉄柵が張り巡らされ、天井裏にも似たような仕掛けがされている。

 そこまでしてようやく誰もが安心をして住める状態なのだ。

「久留島、それでどんな状態なんです」

 行長にしても、貴之の父が狙撃された話しか耳にしていない。

「良岑先輩は今日、お休みを取られていたんです。それで刑事局長と昼食の御約束をされていたみたいです。俺も室長にあらましを聞いただけですが、刑事局長はどうやら先輩を庇って銃弾を受けられたらしいです」

「庇って?では狙われたのは貴之さんなんですか?」

 朔耶も詳しい事は知らされないまま、清方に薫と葵の側に行くように言われたのだ。

「そのようです」

 成美にしてもそれ以上はわからない状態だった。

「あの…これも、一連の事件と関連しているのでしょうか?」

 葵にすればそこが一番、気になる部分だった。

「その…室長も良岑先輩も何も仰いませんが、お二人は何かを掴まれたようなんです」

「そう言えば…ここのところ良岑警視の様子、変だった…」

 薫が葵の顔を見上げながら言った。

「そうですね。このような事態の最中ですので、疲れておられるんだろうと思っていましたが」

 貴之の状態には葵も気付いていた。早朝から深夜まで出ていて、余り顔を合わせないにもかかわらずそんな印象を受けたのだ。

「その事について、御父君に会いに出られたのだろう」

 よもや良岑 芳之その人に疑いを掛けていたのだとは、ここにいる彼らには知る由もなかった。

「あの…今更で申し訳ないのですが、教えていただけないでしょうか」

 どちらかと言うと寡黙な方である静麿が声を上げた。

「何でしょう?」

「そもそも何故、武さまが狙われるのですか?」

 彼一人が中等部の生徒で、高等部の事情からも武たちの事情からも蚊帳の外状態だった。事の次第をかいつまんで行長が話した。 

 10年前から数年間、武を特別室に閉じ込めようとして、繰り返し夕麿が狙われた事。ロサンジェルスではついに直接的に武の生命が脅かされた事などを。 

「特別室に閉じ込められるのは、確かに良いことであるとは思いません。しかし皇家の問題では致し方がないのではないのですか?」 

 彼は未だ、紫霄の教育の範疇はんちゅうにあった。 

「歴代の特別室の方が故意に、御生命を縮められていた事実があってもですか?」 

 朔耶が真っ直ぐに静麿を見詰めて言った。 

「夕麿さまの御生命も、どうなられるかわからなかったのですよ?」 

 畳み掛けるように言う。 

「武さま暗殺の為に学院には医師まで派遣されていました。もし武さまが亡くなっていれば夕麿さまは、どの様な御境遇になられていたか誰にもわからないのです」 

 行長にとっても成美にとっても恐ろしい事であった。あの当時に在校していた者で夕麿を敬愛しない者はいないと言って良い。誇り高く美しい彼が、佐田川や錦小路親子にどんな目に遭わされたわからないのだ。 

 当時の武も自分の生命よりもその事を心配していた。 

「でも、夕麿兄さまはきっと螢さまのお妃さまみたいに、ご自分で生命を絶たれると思う」 

「そうですね。夕麿さまならばそうなされると思いますし、実際にそのような事を口にされていらっしゃいます」 

 当時を知り現在を知っている行長だからこそ、断言出来る事でもあった。 

「そんな……」 

「静麿さまは夕麿さまが武さまのお妃でいらっしゃるのを、どのように思し召していらっしゃいますか?」 

 成美が静かに問い掛けた。 

「あの……」 

「あなたの異母兄、透麿君はどうしてもその事を理解も納得もしませんでした。そして今年の夏、お二人の結婚10周年のお祝いの席で、彼は武さまに刃を向けました」 

「夕麿さまのお怒りがどれほどであられたか。同時に血を分けられた弟君に裏切られる事に、どれだけ御心を痛められたか」 

 夕麿は透麿の行為についてその後は、一切口にしてはいない事実が彼の悲しみを表していた。 

「私は…夕麿兄さまと武さまのお姿を見て羨ましいとは思っています。あのように誰かと想い合えたら、どんなに良いだろうかと」 

 静麿の言葉に全員がホッとした表情を浮かべた。 

「でしたらあなたは、武さまのおかれていらっしゃる状況を学ばなければなりません」 

 今まで黙っていた葵が口を開いた。最近彼は武たちが不在の時には、場を取り仕切るようになって来た。本来ならば薫がするべきであるが、彼にはまだそこまでの自覚も覚悟もない。 

 かつて武は自分の身分を受け入れられず、正しく振る舞う事が難しい時期があった。その時に場を取り仕切り、武の立場を守ったのが夕麿であった。年上の后妃が未だ成長過程の身分の者を、導きながら代弁者として行動するのはいつの時代にも存在した事である。 夕麿はそれを良く理解していた人間だった。だからこそ武は自分がわからない事を夕麿に委ねる行為によって、どのように対応して行かなければならないのかを学んだ。 

 葵もまたそのような妃としての在り方をしようとしていた。薫と武は生い立ちも違う。少なくとも薫は皇家の人間としての教育の基本は受けている。その辺りは庶民の中に消えて行っても良いとして、庶民感覚を持ってしまった武とは違う。理解しなければならない部分が薫と武では違っているのだ。良い悪いというような、是非で判断してはならないものだった。 

 何故ならば武の庶民感覚を個性として、魅力的に成長を果たしているのが理解出来るからだ。そこに年上の妃であり母系として皇家の血を受けた夕麿の手腕があった。また彼に助力を惜しまない臣たちの強固な忠誠心による結束があった。

 薫の周囲にはそこまでに至る筈の人材が、未だに不足している。葵にしても清華の家柄の長子に過ぎない。摂関貴族の出身で皇家の血筋である夕麿には、どうしても及ばない部分であった。皇家を助け導くのが摂家本来の使命。皇家に仕え摂家の助力をするのが清華家。その在り方の差は大きかった。確かに昔とは違って皇家が政治的な活動を行う事はない。

 だが紫霞宮家が御園生の企業経営に関わっている限り、薫も帝王学は学ばなければならない。紫霄の特別室へ幽閉されるならば、今までのような純粋さで充分だった。自分がおかれている状態を、疑問を持たずに受け入れていれば良かったのだから。

 それは葵も似たようなものだった。だから彼らにとっての当たり前の在り方を武が、全ての悲劇の原因であり闇であると告げた時、電撃を受けたような強い衝撃を受けたのである。同時に過去や現在の知り合いが、刺客として自分たちの前に姿を現すかもしれない恐怖を知った。武たちはそんな恐怖を超えて生きて来たのだ。互いを想い求めるだけではダメなのだ。

 静麿は今後、どのような道を選択するだろうか。自分に代わる六条家の後継者として、夕麿は彼を相応しく教育するつもりらしい。彼は薫に年齢が近いが六条家は夕麿の実家だけに、最終的には武の臣となるだろう。 

 朔耶と二人になった葵は、彼に幾つかの頼み事があると言った。 

「私に出来る事ならば」 

 朔耶にしても葵には恩がある。それに薫の妃としての彼に、仕えるのは自分の役目だと思っていた。 

「一つはどなたかに妃としての教えを請いたいのです。通常の妃は儀の前に教育を受けます。薫さまは武さまと同じく公式の場にはお出ましにはなられませんが、やはり一人前におなりいただく為にもまず私が学ばなければならないと思います」 

 夕麿に学べれば良いが彼は忙しい。これ以上、彼の手間を増やすのは心苦しい。 

「短期間のものでしたら多分、義母が可能だと思います」 

「高子さまがですか?」 

「その辺は摂家の出身ですから。学院に戻られてからは…誰か適任者がいないか、探していただきましょう」 

「ありがとうございます」 

 これで第一の願いは何とかなった。 

「それで、他はなんですか?」 

 どんな事でも力になる。それが朔耶の決意だった。 

「その…閨事の相談なのです」 

「え…閨事…ですか?」 

 紫霄在校中はそれなり相手がいた朔耶だが、さすがに相談と言われて目を丸くした。 

「ご存知の通り私は、わずかな知識だけで…その…薫さまの妃になりました。実は今のままで良いのかどうかがわからないのです」 

「はあ…」 

 朔耶としても返事に困ってしまう。閨事は確かに年上の誰かに、教えてもらう部分がある。皇家も貴族も男子には継承者が必要とされる為、きっちりとした性教育を行う。 

 だが葵はずっと紫霄の中で、薫以外は彼を超える身分の者がいなかった。誰かとそういう意味で触れ合う事もないまま、薫の妃に選ばれたのだから仕方がないと言えば仕方がない。 

 夕麿はその経験の記憶が痛ましいものであっても、少なくとも経験があったゆえに閨事そのものには戸惑いや不安はなかった。 

 葵の不安は何となく理解出来た。この緊迫した事態の緩和になるかもしれない。 

 朔耶はそう考えた。周に相談しようか。いや、周に手取り足取り教えた人間がいるではないか。精神科医ならばカウンセリングにもなる。 

「このような時にとあなたは思っているかもしれませんが、このような時だからこそ私は薫さまとの絆を深めなければならないと考えています。

 閨事だけがそうではありませんが、肌を重ねる事は互いを思いやる気持ちが現れると思うのです。性愛と精神の愛はバランスがとれて始めて完全になると私は信じるのです。

 そして……薫さまの妃として私は今なさなければならない事。なすべき事は何であるのかがわかりません。

 薫さまの妃として何かを成す事は微力ではあったとしても、紫霞宮さまをお支えする事になると思うのです」

 知らない事を知らない。わからない事をわからない。そう誰かに言うのは時には勇気がいる。だが葵はわらにも縋る気持ちだった。

 屋敷の中に身を潜めるようにして事態が好転するのを。待ち続けるだけではダメであると心の中で声がするのだ。

 武を守りたい。武の望みを叶えたい。薫の想いを成就させる為にも、今を考えて行動をしたいと思っていた。

 柏木 克己が死に、貴之が狙われた。その父が息子を庇って瀕死の重傷を負った。

 誰が敵で誰が味方なのか。本当が見えなくなっているかもしれない。行長は暗にそういう事を示唆しているようだった。ただでさえ脆い武を苛み、傷付けているだろう。武が傷付けば薫も、何も出来ない事に悲しむだろう。

 夕麿のようには出来なくても良い。薫の道標になりたかった。

「お気持ちはよくわかりました。義母や義兄に葵さまのお気持ちを話してみます。きっと良いアドバイスをくれる筈です。

 それと……私では役立たずかもしれませんが、何か出来る事がありましたら仰ってください。多分、幸久も同じ気持ちだと思いますし、先程、三日月もそのように言って参りました」

「ありがとうございます。そのお心が力や勇気になります」

 御影兄弟は優しい故にずっと本心を隠して生きて来た。葵はそう思っていた。敢えては口にせずにいたが。

 薫は大丈夫だ。彼の為に人が集まりつつある。ゆっくりとで良い。薫も自分もまだ、成長過程にあるのだから。

 葵は早々に電話をかける朔耶を、優しい眼差しで見詰めて笑みを浮かべるのだった。 



 目が覚めると敦紀に手を握り締められてていた。途中で武が呼び集めた者からの採血が間に合い、既にギリギリの量を輸血していた貴之は精神的にも限界だった。それで周が彼に鎮静剤を投与したのだ。

 如何に警察官であっても、実の父親が自分を庇って目の前で狙撃され重症を負ったのだ。動揺しない筈はない。しかも自分の傍らで手術が行われているのを見ているのだ。すべての専門用語を全てわからなくても、状況くらいは見当がつく。

 警部補以上の資格を持つ警察官は、解剖学を学び、簡易検死が出来る。それだけ人体についての知識を有している事になる。

 執刀している保から次々と発せられる指示。出血を吸引する音。それだけで芳之が危険な状態にあるのがわかってしまう。なかなか止血が出来ない様子で、手術スタッフの声が飛ぶ。

 ……死ぬな、死なないでくれ

 貴之には祈る事しか出来なかった。

 補助をする周も必死になっていた。

「手術は!?」

 飛び起きて激しい眩暈に傾いだ身体を、敦紀が慌てて支えた。

「急に動いたらダメです、貴之!

 手術はまだ続いています。終了次第連絡をもらえますし、周さんが説明に来てくださるそうです」

「今…何時だ?」

「17時15分前です」

 芳之と待ち合わせたのは正午だった。実際に彼が来たのはその10分程前。どんなに遅く見積もっても、12時半には手術が開始された計算になる。既に4時間以上の時間が経過していた。

 貴之は震えていた。自分の代わりに父が撃たれた。その父を疑ったのだ。

「大丈夫です、貴之。保先生と周は優秀な医師です。お父上も頑張られています。信じて待ちましょう」

 抱き締め返してくれた敦紀からはかすかに顔料の匂いがする。

 そうだった。彼は今、来年の春の個展の為に精力的に制作に没頭していた。

「すまない…制作中に…」

「怒りますよ、貴之?他の方の事は知りませんが、いいですか?愛する方の危機に駆け付けないなんてありえません。たかが絵です。誰かの生命には代えられません」

「ありがとう」

 彼が側にいてくれるだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。

 すると敦紀の携帯が鳴った。周からだ。

「はい………ええ、つい今し方…はい……………わかりました、お待ちしています」

 通話を終えて貴之を見ると、彼は縋るような目をしていた。

「手術は無事に終了したそうです」

 その言葉にはっきりとした安堵の表情を浮かべた。

「周さんがすぐに来てくださるそうです」

 恐らくは手術室の前で待っていた人々には、執刀医である保が説明しているのだろう。


 言葉通り、周はすぐにやって来た。

「一応、銃弾は摘出し、止血も成功した。だが予断を許さない状況だ。体内の血液を全部入れ替えたに等しい失血量だった。今夜が峠だと覚悟して欲しい」

 周の苦渋に満ちた言葉に、貴之は唇を噛み締めた。

「会えますか…?」

「ああ、車椅子を持って来させよう。お前は今日はこのまま入院だ。

 御厨、彼が無茶をしないように見張っていてくれ」

「もちろんです。私としても貴之を信用しています。ですが朔耶君が余計な心配をするとまた、貴之が気をもみますから。私がいれば彼も文句は言えないでしょう?」

 いつぞやの仕返しとばかりに敦紀は嫌みを口にした。これだけは周に言っておかなければ、気がすまなかったのだ。貴之だけを悪者にして欲しくないから。

「あの事は…申し訳なかったと思っている。朔耶にはきちんと言い聞かせた。

 すまなかった…」

 周はそう言って二人に頭を下げた。

「周さま…」

 貴之は戸惑っていたが敦紀は平然とそれを受け止めた。久我家と御厨家の家格が、ほぼ同列であるという事もあった。同時に敦紀にとって、何よりも大事なのは貴之なのだ。彼が自ら望んで泥を被りに行こうとも、原因をつくった周を許せない気持ちでいた。頭を下げられても気持ちは揺らがない。これが敦紀の愛し方でもあった。

 周にしても頭を下げたぐらいで、許されるものでもないと思っていた。だから敦紀の冷ややかな眼差しも甘んじて受ける。

 二人の間に流れる空気に、貴之は言葉をなくしていた。

 その空気を破ったのは車椅子を運んで来た看護師だった。ホッとした貴之は、敦紀の手を借りて車椅子に座った。看護師が車椅子に付いて、敦紀と周が同じ特別病棟にあるICUに向かう。

 特別病棟には何もかもが揃えられていた。ここに勤務する看護師たちも選りすぐりで、中には紫霄の大学病院から引き抜いた者もいる。彼らは『暁の会』の対象になり、ここで武たちが入院した時の為に勤務している。

 特別病棟が空いている時は周や保の外来や手術に立会い、技術向上の為の訓練を受けている。師長こそは女性だが夕麿の事もあるので、基本的にここには男しか配置されていない。ただ小夜子が出産の為に入院した時だけ、女性の看護師が配置されていた。この病院に勤務する者には待遇も給料も良い人気の職場である。

 だが技術的に優秀なだけでは配置されない。口の堅さと実直さも求められる。まさに選りすぐり中の選りすぐりなのだ。

 現在、紫霄から引き抜かれた看護師が半分を占めている。彼らは他の者と違って一般病棟の医療スタッフとは接触しない。


 貴之は瀕死の状態の父の手を握り締めて声もなく泣いていた。その姿を見ている武を拓真に任せて、雫は夕麿を隣室に誘った。敦紀が待っていた。敦紀は夕麿に文月から受け取った手紙を差し出した。

 無言で読んだ夕麿は言葉を失った。手紙には父、良岑 芳之が一連の事件の黒幕である可能性がある事。それを問い質しに行く事。もし疑惑が事実であるならば、父と刺し違えても止める事。

 そして…恋人としての不実を詫びる内容だった。

「柏木 克己は地蔵院家の現当主の双子の弟でした。それがわかった時から貴之は、刑事局長が実行犯の指揮者ではないかという、疑念を抱いて苦しんでいました」

「地蔵院…まさか、九條家が…」

 九條家と地蔵院家、それに良岑家の関係は夕麿の知るところだった。

「九條家は皇家の血筋を守るのが本来の役目。その視点から武さまを排除しようというのですね」

 敦紀は至って冷静だった。

「恐らく貴之の情報収集は九條家の事も含まれていたと考えられます。故に生命を狙われた。刑事局長は完全な無関係だとは言えないのではないでしょうか」

「何某かの関与をしていたと?」

 夕麿の言葉に真っ直ぐな眼差しで、雫はしっかりと頷いた。

「全員を御園生に集めてください」

 今まで隠れていた本当の黒幕と本当の理由が見えたのだ。これは全員で向き合わなくてはならない。

「武さまにもお知らせに?」

「いえ…これ以上のストレスは、武には無理でしょう。義勝に眠らせてくれるように手配を頼みます。

 雫さん、その代わりに武…武さまの警護を強化してください」

「はい」

「貴之と御厨君の警護も強化してください」

「御意」

 雫の同意に全員が頷いた。

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