蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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悲哀

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 クリスマス。予定していた御園生家のクリスマスパーティーは中止になった。武と夕麿に急遽きゅうきょ、公務が入ったのだ。本来、公務は3ヶ月以上前から予定が組まれ、きちんとした準備が行われる。 

 武は特に体調や発作への気遣いが必要だ。それなのに急に公務が差し込まれたのは、武の生命を守る為の配慮だと考えられた。同時に実際に雫に内々にその間に何某かの進展を、という話が宮内省から通達された。同行するのは主治医である周と助手として朔耶。雅久と義勝。警護には康孝と拓真が派遣される事になった。 

 雫と貴之は引き続き狙撃犯の捜査に専念する事となった。 

 慌ただしく旅立った彼らを見送って、薫は葵と内輪のクリスマスを過ごす事になった。 

 周が朔耶を助手として連れて行ったのは武の配慮だった。30日の午後には帰国する予定になっている。クリスマスの影響がないアジアの小国が行き先で、未だ王を戴く国へ。差別をしない国へと彼らは旅立って行った。 

「久留島さんは、兄さま方の御公務を知ってたの?」

「いいえ。俺も昨日、午後から出勤して聞いたんです。本当に急遽、決定したみたいですよ?」

 希の質問に成美はそう答えた。現に武と夕麿は今朝、宿泊していたホテルから空港に直行した。

「だよね…だってホテルでお休みをしてたんだもの…」

 予定されていたパーティーは、御園生邸で二人を抜きにして小さく行われる事になった。料理などはホテルから運ばれて来る。

「久留島さん…葵、遅くない?」

 柱時計を見ながら薫が呟いた。

 染料が足らなくなった……葵がそう言って出掛けたのは午後1時前。友禅染めの染料は武や小夜子が使う糸を染める染料とは状態が違う。もう少し粘り気を持たせて、細かい塗りが出来るように工夫されている。友禅染め用の染料が手に入るように小夜子が、御園生系列の百貨店の画材店に手配しておいた。葵は午前中に全部揃えう事を電話で確認して警護の岳大と共に出掛けたのだ。

 だが既に午後4時を過ぎている。葵は余り歩き回らない性格だ。百貨店と御園生邸は車で片道10分程で、揃えられた商品を受取るだけでさほど時間は必要ではない……幾ら何でも遅い。

 成美は岳大の携帯をコールした。返って来たのは電源が入っていないか、電波が届かない所にいるというアナウンス。薫も葵をコールをしたが、同じだと言う。慌てて雫に連絡を取った。携帯やスマートフォンのGPSは、電源が入っていないらしく反応がなかった。御園生家が紫霞宮家に用意している車の専属運転手の携帯は、GPS機能を持ってはいないものだったがコールに応えがない。ただ車にはカーナビが設置されていて外部からの位置確認が出来る機能を持たせてあった。

 そして………車は発見された。公道を離れた山道脇の木立の中で。運転手は車中で射殺され、岳大は車から離れた場所で意識不明の状態で倒れていた。着ていたスーツには幾つもの銃痕があり、ボディーアーマーが防がなければ確実に死亡していた。

 至近距離から口径の大きな銃での狙撃。周囲の草木が激しく損傷している事から、恐らくは葵を守ろうと犯人と争ったと思われた。如何にアメリカ軍が開発したボディーアーマーでも、至近距離の狙撃の衝撃までは防げない。肋骨が何本も損傷し、腹部は内出血で膨れ上がっていた。救急車で御園生系列の病院へ直行する。車内には三人の携帯やスマートフォンが、破壊された状態で放置されているのが発見された。 

 武と夕麿が日本を離れた。それがこんな形で跳ね返って来るとは…誰も思ってはいなかった。警戒はしていたが何故こんな事になったのか。誰も言葉を紡げなかった。 


 岳大は緊急手術が行われ、日付が変わる前に目を覚ました。本来は会話など許可されない状態だったが事態は急を要する。保の立ち合いの元で雫と貴之が事情聴取を行った。その結果、葵が誘拐された経緯が判明した。御園生邸を出てしばらくして、一台の白バイが近付いて来た。運転手が車を止めて窓を開けると白バイ警官は手帳を開いてこう告げた。 

「この車に爆弾を仕掛けたという連絡がありました。走り出してから後、内部の重量が変化するか、一定の時間が経過すると起爆装置が作動するそうです。 

 また携帯やスマートフォンを車内や周辺で使用するのも危険だと言われました。本官は一番近い位置におりましたので、特務室の成瀬警視正の要請でお知らせに参りました」 

 起爆装置解除や安全に葵たちを車外に出す準備をして、周囲に影響を与えない場所で待機していると。岳大は多少不審に思ったが、警察手帳は正真正銘の本物だった。それで白バイの誘導で車が発見された場所へ行ったと。 

 おかしい……と思った次の瞬間、警官の合図で窓を開けた運転手の頭に銃が突き付けられた。運転手や自分を犠牲にしても葵を守らなければならない。 

 岳大は脅しに屈しなかった。車は防弾耐衝撃処理がされている。前後の座席の間にも防弾の特殊樹脂製の仕切りがある。後部座席にいる限りは葵は安全である。運転席側からは後部座席の操作が、出来ないように既にロックをかけた。紫霞宮家の専用車は戦車より丈夫なのだ。 

 だが警官はそれすらも承知のようだった。ドアを開けさせて恐れ戦慄おののく運転手を射殺した。次いで警官が差し出したのは、ダイナマイトを何本も束ねた爆弾だった。彼が示した時限装置のタイマーは5分。それを投げ込んで彼は白バイに跨がって逃げ出した。 

 もう迷っている余地はなかった。銃を取り出して葵の手をひいて車を飛び出した。外部からの衝撃に強くても内部は強化されてはいない。 

 木立の中に飛び込んだ瞬間、銃声がして岳大は胸に衝撃を覚えた。狙撃されたのだと瞬時にわかった。衝撃の強さに息が詰まった。だが倒れるわけにはいかない。葵を守らなければ……その一心で岳大は立っていた。 

 すると木立の翳りの向こうから銃を構えた警官が、枯れ枝や落ち葉を踏みしめて歩いて来るのが見えた。岳大は銃を構えた次の瞬間、再び衝撃を感じた。岳大も撃ったが苦痛に照準が定まらない。再び衝撃が走った。警官は躊躇ちゅうちょなく、歩みながら次々と銃を連写して来る。

 次々と受ける銃弾の衝撃にさすがに耐え切れずに岳大は膝を着いた。白バイ警官のブーツが岳大を無感情な目で蹴り上げた。

 恐怖に立ち竦む葵にスタンガンを押し付け、警官は倒れ込んだ彼を抱え上げた。這うようにして追いすがる岳大に、もう一度、銃弾を撃ち込んだ。岳大が記憶しているのはそこまでだった。

「白バイ警官が示した手帳に記されていた、姓名を記憶しているか?」

「はい。那波なは……房教ふさのりとありました」

 この答えに貴之が悲鳴のような声を上げた。

「有り得ない!彼は……彼は8年前に事故で死んでいる!」

 那波 房教は父 芳之の妹の夫、つまり貴之には義理の叔父にあたる人物だった。8年前、紫霄を卒業して武が渡米した夏に、叔母の登久子とくこと共に乗っていた車が断崖絶壁から転落して死亡した。今、良岑家にいる従弟たちの父親だった。

「なぜ那波警視か…確かにあの人ならば確かに優秀な警官だった。狙撃の腕も……」 

「叔父の筈がありません!」 

 そう言うと貴之はスマートフォンの中から、叔母夫婦も一緒に写った写真を出した。渡米する前に良岑家で、祝いのパーティーをした時に、出席者全員で撮影したものだ。 

「この中にその警官はいるか?」 

 そう問われて岳大が指し示したのは、那波 房教本人だった。 

 死んだ筈の人間が生きている? 

 貴之の顔から血の気が引いた。やはり父 芳之が関わっている?たった一人の妹の夫を、養子にした甥っ子たちの父親を殺人犯に? 

 いや、ならば何故…貴之が狙われ、芳之が庇った?命令したのは別の人間? 

 貴之はいてもたってもいられなかった。岳大の病室を飛び出して、父親の病室へと向かう。雫がその後を追った。 

「貴之です、開けてください」 

 インターホンにそう告げると、母の弥生子が顔を出した。 

「何の用ですか?」 

「刑事局長に至急、伺いたい事があります」 

 後ろから追い付いた雫が答えた。 

「伺いたい事?」 

 訝る母の腕を掴んで貴之が叫んだ。

「葵さまが誘拐されたんだ!親だ子だ、勘当だなんて言っている場合じゃないんだ!」

 

 葵が誘拐された……運転手は殺害され、警護の任に就いていた岳大は重症。知らされた事実に薫は、ソファで幸久と一緒に震えていた。三日月が月耶を連れて、御園生邸に駆け付けて来た。

「さ…三日月~!!」

 三日月が朔耶と和解したのは聞いていた。薫と葵の結婚式には二人も来ていた。

 そこで薫は感じたのだ、三日月の変化を。穏やかな眼差しになった彼を見て薫は安心したのだ。

「それで久留島。何かわかりました?」

 学院にこの事を報告していた行長が、戻って来て成美の電話が終わったのを確認して訊いた。

「いいえ…一応、間部先輩から事情聴取は出来たみたいですが…」

 今回の事件……雫と貴之の様子がおかしいのには気付いていた。成美たちどころか清方までもが完全に、蚊帳の外に置かれている状態だった。

 成美にはこのまま御園生邸にとどまり、薫の警護を続ける事と彼を外に出さないように指示が来ただけだった。

 成美は行長の問い掛けに首を振った。

「ただ…最初の調査では柏木 克己の実家は火事で消失して、彼は身元引受を失った事になっていました。しかし…違う様子なのです。どうやら柏木教授は、清方先生と同じような立場だったみたいです」 

「同じような立場…」 

 行長が絶句した。 

「あの、わからないので説明していただけますか?」 

 三日月には未知の事だった。当然、薫も幸久も月耶も知らない。 

「周先生と清方先生が乳兄弟だというのは?」 

 行長が口を開いた。 

「伺っています」 

 三日月が答えると薫たちが頷いた。 

「清方先生は別姓を与えられて、紫霄在校時には高辻と名乗られていました。高等部までの身元引受は、周先生のご実家 久我家です」 

 行長はここまで語ると成美を見た。成美は頷いて口を開いた。 

「柏木教授の身元引受も、血の繋がった家族ではなかったのでしょう。恐らくは清方先生にとっての久我家と同じだったと考えられます」 

 成美の言葉に三日月は拳を固めた。 

「薫の君にとっての御影のようなもの…」 

「皇家の乳部とは少し、違うようですが…本質的には同じです」 

 そう答えた上で成美は地蔵院家と柏木 克己の関係、地蔵院家と貴族の総本家である九條家との関係を話した。 

「では…紫霞宮さまのお生命を狙ったのは…」 

「二つの勢力が協力する形だった事が判明しました」 

 三日月は絶句した。 

 朔耶と距離を取った結果、薫と引き離された。それ故に何も知らない状態だったのを思い知った。こんな緊迫した状況の中に朔耶は身を投じていたのだ。 

 その上で武に仕えあらゆる方面で守護する集団がいるように、薫にも同じような存在を形成しようとしているのだ。薫の乳部である御影家が中核にならなくてどうするのだ。両親に対する嫌悪感すら持っていた三日月は、自分が御影家を継いで薫を守ろうと思った。それはちょうど護院家が紫霞宮家に対して担っているものだった。

「葵さまはご無事でしょうか」

「恐らく危害は加えられてはいないと思います」

 成美はきっぱりと断言した。

「久留島、何故そう言い切れる?」

「簡単です。犯人は運転手を射殺しました。間部先輩がアーマーを着ていなければ、やはり死んでいました。そこまでしていながら、葵さまは拉致された訳です。危害を加えるなら、その場で実行した筈です」

「何故、葵さまを拉致した理由は?」

 背後で声がして振り返るとまだ少し髪から水を滴らせた敦紀が立っていた。どうやらアトリエから出て入浴して来たらしい。

「こんな様で申し訳ありません」

 敦紀は薫に頭を下げてからゆっくりと座った。影暁はまだ帰宅していない。小夜子も有人も不在である。行長はいるが彼は御園生邸の住人ではない。敦紀は皆の不在を埋めるのは自分の役目だと思っていた。そして行長はこの後輩には敵わない事を身に沁みて知っていた。

「葵さまが本日ご使用になられたのは、武さまがお使いの車でした。葵さま用の車はまだ整備が終了していなかったのです」

 夕麿たちがいたならばこう言ったかもしれない、『逢う魔が時』と。普通ならばあり得ない事が起こり凶事に繋がる。ロサンジェルスで経験した彼らは恐ろしさを知っている。いや、武と貴之はその前に10年前の特別室での事件でも経験していた。人間の無力さを嘲笑うかのような偶然の重なり合いが逢う魔が時なのである。

「まさか…葵は武兄さまと間違えられたの?」

「ええ、そう考えるのが妥当だと思います」

「でも武さまではなかった…」

「室長と貴之先輩は犯人からの連絡を待っています」

 武は海外に出る為に携帯を別なものに変えて行ったのだ。行き先の国ではあまり携帯は繋がらない。衛星に直結出来るタイプのものを二人の護衛が持って行く。その上で普段使用している携帯を雫に預けて行ったのだ。夕麿も同じように携帯を置いて行った。

 雫は二人の携帯の電源を入れて待っていた。葵が所持していた手帳は発見されていない。犯人が気付かなかったか、一緒に持ち去ったと考えられた。

 狙いは武。ならば何某かの連絡が来る筈だ。


 目を開けた葵の視界に真っ先に入ったのは視界を分断する針金だった。

「…え…?」

 驚きと戸惑いに飛び起きると大型動物を入れるようなゲージの中に敷かれた布団に、自分が寝かされていたのがわかった。

 自分に何が起こったのか。それを思い出して叫び出しそうになった。必死でマニュアルを思い出し、自分に「落ち着け」と言いきかせる。心臓はまだ早鐘のように打っていたが、葵はそっと布団から出てゲージに近付いた。着衣に乱れはなく身体のどこにも怪我はない。

 ゲージが置かれている部屋に人の気配はない。かなり広い部屋だ。当然ながら窓にはカーテンが閉められている。フローリングの床はほんのりと暖かく、床暖房が入れられているらしい。

 カウンターキッチン。人が生活している感じはあるが家具は最小限。ゲージから離れた場所のカーテンが開け放たれた場所に、ダブルサイズのベッドが置かれている。最近増えているという1LDKのマンションらしい。

 室内に自分しかいないのを確認して、葵はゲージの扉らしき場所へ移動した。大きな南京錠がかけられている。しかも不十分と思ったのか小さめの南京錠がゲージを利用して、幾つか付けられているのを確認した。ゲージの目の幅は掌の半ばまでは通る。当然ながら脱出は不可能。連絡も取れない。

 武は身体にロサンゼルス時代から、GPSが埋め込まれている。バッテリーの問題があるので数年に一度取り替えるそうだが……自分たちにも必要かもしれない。

 そう考えて葵の口元に笑みが浮かんだ。まだ自分は大丈夫だ。事態を冷静に見つめて考えられる。

 その時だった。解錠の音に続いて、鉄製ドアが開閉する音がした。この部屋の住人、葵を拉致した犯人が戻って来たらしい。

 ゲージを握り締めるようにしていると、酷く乱れた歩調で男が入って来た。余り身長は高くないが、がっちりした体型の男だ。顔色が土気色でかなり体調が悪いように見えた。

 彼はそのままキッチンへ行き、グラスに水を汲んだ。キッチンの棚から薬らしいものを取り出し、それを口に入れて水を飲み干した。男はゲージには目もくれず、フラフラとベッドへと歩いて行く。途中、床に何かを落としたが気付かずに行ってしまった。そのまま男はベッドに身を投げ出した。男がいびきをかいて眠ったのを確認して、彼が先程落とした物に視線を移した。

 息を呑んだ。男が落としたのは携帯だった。だが少し距離がある。葵は周囲を見回した。

 男が目を覚ます前に手に入れなければ…… 特務室の番号は暗記してある。緊急時にどこからでも連絡出来るように、全員が番号を記憶しているのだ。

 何とかして携帯を手に。



 特務室の全員が憔悴していた。

 葵の誘拐から4日……死んだ筈の元警察官、那波 房教について、良岑 芳之はこう証言した。

 事故の後、発見されたのは房教の妻、つまり芳之の妹の遺体だけだったと。車は断崖絶壁から下の海に落ちた。引き上げた車中からは、那波夫人の遺体しか見つからなかった。刑事局長の妹夫妻の事故という経緯もあって、担当所轄がかなり熱心に房教を探し回った。だが遺体は何年経過しても発見されなかった。

 生きているかもしれないと思った芳之は、周辺の病院を小さな所まで探したらしい。だが該当する怪我人が運ばれた記録はなかった。だから彼は諦めたのだと答えた。

 武を暗殺する企てに父は加わってはいない。そう確信した貴之は房教を生きていると考えて、プロファイルを開始した。

 那波 房教の在官時の身分は警部。彼はノンキャリアからの叩き上げだった。実力は所属が違う雫すら、よく知っている状態だった。だが数十Mもの断崖絶壁から海へ車で転落したのだ。 無傷だったとは思えない。

 貴之が記憶する叔母夫婦は家族愛に包まれた一家だった。一緒に乗っていた妻や当時小学生だった子供たちを、まるで心配しない筈がないのだ。だから芳之は義弟は遺体が出ないだけで、既に死亡しているものと判断したのだと告げた。貴之にも父のその気持ちはわかる。

 それにしても那波家は九條家とも地蔵院とも関わりはない。何故、こんな事になったのだろうか?身内としても同じ警察官としても、理解出来ないし理由が見えない。

 ………と貴之の思考を破るように、室内に固定電話機の呼び出し音が鳴り響いた。

 雫が電話機の前に立った。 発信者No.には見覚えがない。那波 房教…?葵はここの番号を暗記している。犯人から直接、電話がかかって来てもおかしくはない。全員が固唾を呑む中で雫は、スピーカーに繋がっている方のボタンを押した。

「はい」

 どこの番号であるかは答えない。それが特務室のルールだった。

〔成瀬…さん…〕

 スピーカーから流れて来た声は、間違いなく葵の声だった。どこか苦しげな響きがある。

「葵さま!」

〔助けて……〕

「葵さま?葵さま!」

 だがそれっきり返事がなかった。この間、貴之は逆探知を行っていた。現在、逆探知にはさほど時間を必要としない。携帯でもすぐに探知出来る。

「逆探知出来ました!」

 葵の応答がなくても携帯は、繋がったままだった為、逆探知には有利だった。応答がないところから、彼の身に何事かあったと思える。逆探知で突き止めたマンションに雫たちは集合した。



 所轄には一応、連絡は入れた。だが事態の重さゆえに、刑事局長が病床から指示を出した。葵の身に危険が迫っている。

「内部を観察してから突入の判断を」

 そう言った所轄の言葉を雫は一蹴した。代わりに貴之が内部を赤外線でチェックした。一人分の人間の熱源がある。室内に倒れていると思われる状態だった。

「恐らくは葵さまだと思われます」

 貴之の言葉に雫は突入を指示した。雫と貴之の指揮で所轄が共にマンションのエレベーターを上がる。

 下には救急車を待機させ清方が待っていた。周は明日にならなければ帰国しない。内科的なものはわかる。御園生の病院で万全の体制で受け入れが整えられている。

 雫は管理会社に合鍵を出させて重圧な鉄のドアの前に立った。貴之がもう一度、熱感知をする。状況に変化はない。錠を外してドアをそっと開いた。チェーンがかけられていないところを見ると、犯人は今は不在と判断した。それでも銃を構えて内部に踏み込む。

 と…ムッとする熱気と共に腐敗臭が鼻を突いた。思わず口元を押さえてしまう。それでも彼らは中へと入った。すぐに室内を見回すとゲージの中に倒れている葵を発見した。

 エアコンの温度設定を見に行った所轄の刑事が余りの高さに絶句した。同時に別の刑事が奥のベットの脇で、絶命している犯人の死体を発見した。

 ゲージの南京錠を壊して葵を抱き上げると高熱を発しているのがわかった。雫は慌てて状況を清方に知らせた。

「警視正、ありゃ3日ほど経過していますねぇ」

 所轄の警部補の言葉に死体に近付いて、覗き込んでいた貴之も同意するように頷いた。

 彼は悲痛な顔で雫の側に戻った。

「間違いありません。義叔父の那波 房教です」

「そうか……」

 雫はそれだけ答えて貴之の方を叩いた。

 駆け付けた救急隊が、葵の身体をストレッチャーに乗せた。清方がすぐさま点滴を開始する。注射針への恐怖は、かなり軽減されてはいたがそれでも苦痛である。清方は歯を食い縛って点滴の針を葵の首の静脈に刺した。

 貴之が護衛の為に付き添い、彼らと入れ違いに鑑識が入る。だがその前に雫は葵が握り締めていた携帯を開いた。登録者は柏木 克己だった。

「申し訳ないがこれはこちらで預かる。機密事項に抵触する可能性がある」

 現場の指揮は執務室の室長が執る。所轄はそう命令されている為、携帯や葵の荷物を雫が持ち帰るのを阻止出来ない。抗議も出来ない。誘拐されたのは御園生財閥の子息としか彼らは知らされてはいなかった。

「体温40℃を超えています!」 

「心拍数150を超えています!」 

 処置室は半ばパニックだった。葵が陥っているのはエアコンや床暖房で、異常に温度が上昇している部屋に長時間いた為に起こる高温傷害で、『非労作性熱中症』と呼ばれる状態である。状態はⅢ度に分類される非常に危険なレベル。高温の室内に長時間いたと言うだけではなく、犯人死亡の為に一切の飲食が出来なかったと判断された。 

 冷却パットなどで全身の冷却が行われているが体温が下がらない。脳機能障害や臓器の多機能不全をなんとしても防がなければならない。 

「水をもっとかけろ!」 

「血圧80-38まで下がりました!」 

「葵さま!葵さま、頑張ってください!あなたにもしもの事があったら、薫さまはどうなります!」 

 清方が懸命に呼びかける。 

 処置室の外では保が駆け付けた薫たちに状態を説明していた。薫は三日月に抱き締められて震えていた。 

 どれくらい時間が経過しただろう。モニターを見ていた看護師が叫んだ。 

「体温37.8℃、脈拍90まで下がりました」 

「血圧は?」 

「90-48です」 

「よし」 

 まだ完全ではないがここまで回復すると一応、生命の危険は脱した事になる。 

「…ぅ…」 

 葵が首を動かした。 

「葵さま!」 

 清方が強く名前を呼んだ。すると葵はもう一度小さく呻いて、ゆっくりと瞼を開いた。 

「葵さま、私がわかりますか?」 

 その問い掛けに葵は頷いた。 

「ここは病院です」 

 再び頷いた葵の口に医療用の飲料に差したストローを当てた。 

「ゆっくりとお飲みください」 

 自分で吸って飲めるようならば回復は早い。頭を持上げて支え、呑みやすいようにする。葵は弱々しいながらも吸い上げた。細い喉が動く。 

「先生…」 

 渇きでで掠れた声を発した。 

「もう大丈夫です。あなたは救出されました。怖い事はもう起こりません」 

 極度の脱水症状で荒れた手を清方はしっかりと握り締めた。すると葵は笑みを浮かべた。看護師がストレッチャーの上に治療衣を広げた。全身を拭き清められた葵の身体をそこへ移動させる。まだ体温を下げるシートは身体に貼られて入るが、モニターの示す体温は37℃台だ。ストレッチャーはそのままICUへと入った。 



 数日後になって薫は特別病棟に移された葵の傍らに、ほっそりとした手を握り締めて付き添っていた。葵は一度目を開けてから眠り、時々目を覚ましながらも眠り続けている。周囲がどんなに言っても薫は葵から離れようとしなかった。

 葵は目を覚ますと喉の渇きを訴えた。点滴も十分に投与されている。脱水状態からは回復している筈なのに葵は飲み物を求める。犯人である那波 房教が死亡した為、葵は水すら与えられない状態でゲージに閉じ込められていた。飢餓感と死への恐怖を味わった反動だった。

 病室には毎日、絹子が通って来てはいたが、薫は自分で葵を抱き起こしてストローを口へ運んだ。

「葵、慌てないでゆっくり飲んで」

 その言葉に微笑んでストローを口に含む。薫は泣きたいのを我慢していた。

 葵を失うかもしれない恐怖がどれ程のものであるのか。武や夕麿がさらされて来た恐怖を、薫は今自分が体験しているのだと。

 葵が誘拐されてからずっと心配で心配で眠れなかった。しかも頼り武たちは留守なのだ。幸久と月耶が常に側にいてくれて、三日月は敦紀の指示を受けて電話の前にいた。敦紀は貴之と御園生邸を繋ぎ、何か連絡があると出社している有人と影暁に連絡した。 

 行長は御園生邸と学院を繋ぐ。最も学院内には敵がいる可能性が高い。だから簡単な状況しか知らせない。同時に周に状況を知らせるのも行長が引き受けていた。 


 30日、武が帰国した。葵の誘拐事件を帰りの飛行機の中でやっと聞かされたのである。自分一人が蚊帳の外に置かれていた。怒りを露にする武に全員が手を着いて謝罪した。全ては武を守る為であったと。 

 病院に直行した武は薫に謝罪した。苦汁に満ちた顔は狙われ続ける事で、周囲が傷付くのに苦しみ続けた証だった。 

「武兄さまが悪いわけじゃない!」 

 項垂うなだれる武を抱き締めて薫は叫んだ。 

「…さま…」 

 背後で声がした。薫が慌てて葵に駆け寄る。葵は目を開けて薫に手を差し出した。 

「葵?」 

「あなたさまの…罪ではございません。むしろ…私で良かった」 

 葵にもわかっていた。犯人が本当は誰を狙ったのか。何故自分が誘拐されたのか。 

「あなたさまが乗っていらしたなら…全員があの場所で死んでいました」 

 運転手は気の毒だった。彼の代わりにはならないが、家族は御園生が全力で援助する筈だ。 

「私は…この通り無事です。だからどうか……ご自分をお責めにならないで」 

 武の苦悩を取り除く方法はない。だが癒やす事は出来る。葵も恐怖を味わい、心は深い傷を負った。だが生きているのだ。 

「うん。私もそう思う」 

 真っ直ぐに武を見つめて、薫が葵の言葉に同意した。絶句して立ち尽くす武の後ろで、夕麿が満足げな笑みを浮かべた。 

「武、さあ帰りましょう」 

 空港からここへ直行したのだ。 

「わかった」 

 武が帰宅しなければ随行した者も休めない。 

「何とか明日の夕方には帰れると聞いた。周さんと清方先生が屋敷にしばらく滞在してくれるらしい」 

 心配された脳機能への影響も、脱水による血液の凝固も今のところ認められてはいない。肝機能への影響は軽度の肝炎と診断されている。生命の危険は去った。 

 武は二人に自宅で正月を過ごして欲しかった。家族に包まれ、自分たちに寄り添ってくれる人々に囲まれ、新年を迎える慶びを経験して欲しかった。武の願いは周と清方が御園生邸で、治療を継続するという約束で叶えられた。 

 帰って行った武の後ろ姿に薫は心から感謝した。 

 次の日の午後、葵は退院した。要安静という事で御園生邸では、起きていてもしばらくは車椅子だ。すぐに雫の要請で御園生邸に全員が集まった。その中には三日月と月耶の姿もあった。 

「雫さん、始めてくれ」 

 武の言葉に雫が頷いた。清方が立ち上がって夕麿の前のテーブルにICレコーダーを置く。思わず覗き込んだ武と夕麿の前でスイッチがONにされた。 

「目を閉じて…深く息を吸って…」 

 穏やかな声が流れて来た。背後に微かに聞こえるのは、カチカチという規則正しい金属音。すぐに夕麿がガックリと頭を下げた。 

「!?」 

 手で口元を覆って武は悲鳴をかみ殺した。清方は夕麿に近付いて囁いた。 

「あなたはカウント3つで目が覚めます。今自分の起こった事をきちんと記憶して、あなたは二度と同じ方法で暗示をかけられることはなくなります。 

 良いですね?」 

「…はい…」 

「1・2・3」 

 3つ目と同時に清方は指を鳴らした。夕麿の全身がピクリとしてゆっくりとまぶたを開いた。夕麿は血の気の引いた顔で言葉もなく、目の前のICレコーダーを見詰めている。 

「今のは葵さまが握り締めていらっしゃった、柏木 克己名義の携帯のSDカードに保存されていたものです。今見ていただいたように、夕麿さまの暗示に使用されたと思われます」 

 その言葉に夕麿が唇を噛み締めるのがわかった。 

「夕麿さま、少なくとも同じ方法では二度とあなたさまは暗示にはかかられる事はございません。暗示に暗示という方法ではありますが、心のブロックになるでしょう」 

「ありがとう…ございます…」 

 声を震わせるのを見て武が立ち上がって、そっと自分の胸に彼の頭を抱き寄せた。夕麿は彼の背中に両腕をまわして縋るように抱き締めた。催眠術で暗示にかけられて操られ、最愛の人を傷付けるように動かされる。それは今でも夕麿には一番の恐怖だった。 

「同じような方法が那波 房教にも使われていました」 

 雫の声が響いた。 

「SDカードの中には全ての経緯が残されていました」 

 分析をした貴之が言う。 

「清方、説明を続けてくれ」 

「はい」 

 返事をした清方は俯いて拳を握り締め、潤んだ瞳で顔を上げた。 

「那波 房教の悲劇は…偶然にも地蔵院家の別邸にある、プライベートビーチに打ち上げられた事でした」 

「事故現場から少し離れた場所に、地蔵院家の別荘があるのです。 皮肉な事に紫霄学院からもさほど遠くはない……」 

 事故現場・地蔵院家の別邸・紫霄学院……この三つが重なった為に、柏木 克己の兄 克臣は警察官である那波を利用する事を考え付いたらしい。克臣は密かに紫霄の附属病院に那波を搬送した。 

 治療の結果、事故のショックと衝撃による脳への影響で、彼の記憶は混乱していた。克臣は弟に彼を命令通りに、指定した人間を殺す殺人マシーンへと心を作り変えるように命じた。代価として与えられたのは搬入側の道を通じて、自由に出入りするパスと清方の居所であった。 

 傷の治療を行いながら、暗示は時間をかけて行われた。地蔵院家にとってもっと都合が良かったのは、那波の怪我の状態だった。脳の中に小さいが血袋が出来ていたのだ。それは半年ほど経過して発見された。恐ろしい程ゆっくりと成長していくそれは、徐々に脳を圧迫していつか破裂する。深い位置に存在する為に手の打ちようがなかった。那波 房教は時限装置付きの暗殺者になったのだ。 

 だが皇家に連なる武を狙撃するのはさすがに躊躇したらしい。それでも通り魔に見せかけた方法で、那波は何人かの政治家や有識者を殺害していた。皇家の存続を強く非難するある宗教家が、自宅で家族や信者と共に惨殺された未解決事件があった。信者たちから集めた現金や宝石が金庫から奪われているのと、宗教家が惨殺されている事から怨恨犯がと強盗の双方から捜査していた。 

「彼は心を暗示で呪縛され、記憶も封じられていたと考えられます。柏木 克己の携帯は時折不安定になる暗示を、彼が側にいなくても安定させられるようにする為のアイテムでした」 

 暗示が解ける事がないように定期的に、録音してある言葉を聴くように指示してあったと言う。 

「人間を…何だと思ってるんだ」 

 周が吐き捨てるように呟いた。身内である貴之は敦紀に抱き締められていた。

 那波に残された時間がもう残り少ない事はわかっていたと考えられた。 

 どのような手段をとっても武を暗殺する事が最後の命令だった。命令が発せられた時点では、武の公務は存在してはいなかった。緊急に与えられた公務で武たちが、蓬莱皇国を離れたのは誤算だっただろう。 

「柏木 克己は自分が殺された時を考えて、全てが闇に葬られる事がないように…私宛に全ての記録を残していました」 

 SDカードに記載されたURLには、清方の誕生日をパスワードにしたロックが掛けられていた。そこには全てが詳細に記載されていた。克己は自分と那波の人生を弄んだ兄を、道連れにするつもりで証拠をあの部屋に残していた。紫霄では残す事は不可能と考えたのだろう。 

 実際に紫霄の彼の部屋には上手く、隠蔽いんぺいしてはいたが誰かが調べたらしい痕跡があった。古い記録はある程度残されていたが欠落があった。それを全て柏木 克己はレンタルサーバーに残していたのだ。 

「相変わらずだな。紫霄に閉じ込められる者は、奴らには既に人間ではないらしい」 

「それどころか今回は、紫霄とは関係ない人まで巻き添えにするなんて」 

 地蔵院 克臣の罪は問える。だが九條家にまでは無理だ。 

「諦めたら、次をまた考えそうですわね」 

 同じ摂家貴族の出身者として高子は不快で仕方がなかった。 

「何か…方法はないの!?」 

 麗も苛立った声を上げた。 

「残念ながら…現状ではありません」 

 雫が肩を落とすようにして答えた。 

「打つ手なしか…」 

 義勝がグラスを握り締めて言う。悔しさは皆、同じだった。 

「薫、葵…ごめんな」 

「兄さまは悪くない!」 

 武の顔に浮かんだ表情は絶望としか言いようがないものだった。 

「私は…このような事で、負けたくはございません」 

 葵がきっぱりと言った。武には何の罪もないからだ。 

「私たちは戦います。武さまや夕麿さまが…皆さまがこれまで、人を人と思わない理不尽さと戦って来られたように。ここで挫けたら後に続く筈の者たちが道を失います」 

「うん。これはもう武兄さまの問題じゃない。私たちの問題でもある」 

「そうですね。紫霄に閉じ込められる者にも、人間としての尊厳はあります。諦めさせられるのは嫌です」 

 閉じ込められる側だったからこそ、朔耶にはその理不尽さがわかる。一人の人間として生きていく。望みはそれだけなのだ。 

「地蔵院 克臣は逮捕いたしました。紫霄の協力者も柏木 克己の記録を元に、今日中に全員逮捕いたします」 

 雫は携帯に入った知らせを見ながら、全員に彼らが逮捕された事を告げた。 

 雫は思っていた。九條家との攻防は恐らくこの先も、品を変え形を変えて続いて行くだろうと。早急に特務室の人員を揃え、紫霞宮家の警護を強化しなければならない。 

 問題は山積みだった。 




 那波 房教の事は表向きには伏せられた。彼は8年前に死亡した人間だった。この処理は一つには身内である良岑 芳之・貴之親子の立場を鑑みての配慮だった。彼は荼毘にふされ、やっと最愛の妻の傍らでの眠りを許された。 

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