蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

文字の大きさ
上 下
31 / 48

白珠

しおりを挟む
 離任・着任式を数日後に控えて、その日の生徒会室は慌ただしかった。一段落ついたのは既に夜の9時前だった。特待生の正規の授業は終了しており、彼らは朝から式の準備や最後の引き継ぎを行っていた。 

「薫さま、葵さま、お茶でございます」 

「ありがとう」 

「ありがとうございます」 

 ソファで一息入れているとドアが外から叩かれた。幸久が開けて対応した。 

「どうぞ、お入りください」 

 彼が招き入れたのは護院 清方だった。 

「本日は紫霞宮殿下の名代として参りました」 

 見ると彼は一つの包みを手にしていた。この光景に行長と成美は10年前の事を思い出した。 

「葵さま、あなたの御印が決まりました」 

 そう言って清方は包みを恭しく葵の前に置いた。包んでいるのは淡い紫色の正絹の風呂敷。紫霞宮家の紋章が描かれていた。 

 葵はほっそりとした手で丁寧にゆっくりと包みを解いた。中から出て来たのは美しい蒔絵の箱だった。漆黒に緑色が鮮やかな和蘭が描かれていた。 

 ふたを開けると和蘭が描かれた和紙と手紙に『白珠-はくじゅ』と書かれた紙が入っていた。手紙の秀麗な文字は夕麿の手である事は全員が知る所だった。 

『葵さまの御印を武さまがお決めになられましたので、紫霞宮家の慣例に従い、蒔絵箱と共にお手元にお届け申し上げます。 

 御印は和蘭の白珠でございます。和蘭は東洋蘭の日本種で外来品種を混ぜない決まりになっています。 

 白珠は本来、「しらたま」と読みますが、宮さまの蓮華が「紫雲英」でございますのに倣い、「はくじゅ」と読むと御定めになられました』 

「白珠…」 

 白と名前が付けられていながら、『白珠』は花先だけが白い緑色の花である。和蘭の一番有名な品種は、『おもと』であろうか。これは細長い葉を鑑賞する。東洋蘭は和蘭と中国蘭に分類され、古代より愛でられて来た。 

 『白珠』はほのかに薫る事でも知られている品種である。決して派手ではないが、西洋蘭のほとんどが温室でしか育たないのに比べ、和蘭は風雪に耐えて成長する。 

 そこに先だっての事件で傷付いた葵を思う、武の優しい願いが込められていた。 

「ありがとうございます。この御印に恥じぬように紫霞宮家の一員として、また薫さまの妃として精進いたして参ります」 

 御印を与えられるという事は、正式に皇家に迎え入れられたという意味を表している。 

「美馬君、この御印の絵と名前の紙をコピーしてください」

「何枚ほど致せばよろしいですか、先生?」

「一応20部を」

「承知致しました」

 梓が紙を受け取り、コピー機へ向かう。

「硯に墨を。ちゃんとすってください。清方先生、この場合、用紙の色合いは如何すれば良いでしょう?」

「10年前は何色を?」

「夕麿さまは紫の薄様をお使いになられました」

「武さまと同じには出来ませんね。では夕麿さまに倣い、青系の薄様を使用しましょう」

 行長が手慣れた状態で指示を出した。これは10年前にもあった事なのだという事実を、現生徒会執行部は理解した。

「…祐筆は誰が?」

 成美が問い掛けた。薫の祐筆は普段は朔耶が担っている。だが、今ここに彼はいない。

「私でよろしければ」

 名乗り出たのは秀一だった。彼も最近はここに詰めて、行長の補助をやっている。結局、秀一は三日月の卒業を契機に紫霄学院を去る事を決意した。三日月と一緒に生きる為に。武がマンションの部屋を提供し、春休みに二人が生活出来るように取り計らった。 

 秀一は学院では名前が通った書道家であった。 

「お願い出来ますか、長与先生」 

「お任せくださいませ」 

 葵の言葉に秀一は、深々と頭を下げて答えた。 

「青系の御料紙を持って来ました。どれになさいますか?」 

 三日月が差し出したのは、20種類程の青系の和紙だった。それを清方と行長が手にして考え込んだ。 

「まず、こちらの瑠璃は夕麿さまがご使用の色ですから、外すべきですね」 

 行長の言葉に全員が頷いた。 

僭越せんえつながらこちらの薄縹うすきはなだは、私が使用いたしております。またこちらの藍は周が使用しております」 

「となるとこの二つも外すべきですね」 

「葵さま、この中でお好きな色はおありでしょうか」 

「出来ましたら、私はこの色が…」 

 葵が示したのは濃縹こきはなだと呼ばれる色だった。 

 今の色にすると薄縹は水色。縹は青。濃縹はマリンブルーになる。 

「不思議ですね。武さまが杜若かきつばたで夕麿さまが瑠璃。対して薫さまが菫で葵さまが濃縹。まるで最初から誰かが決めていたようですね」 

 成美が感慨深く呟いた。武の杜若と夕麿の瑠璃は、元々、雅久の色聴能力に見える色でそのまま武が流用した事が始まりだった。

 薫が小夜子が作った栞に付けられた、匂菫を気に入ったのは偶然だった。小夜子は幾つもの押し花を栞にして、武たちもよくもらっていたのだ。もちろん、武の御印である『紫雲英しうんえい(れんげ)』も、夕麿の御印である『蝋梅ろうばい』も栞になって二人が持っている。

 雅久は桜を、義勝は木蓮の花びら。影暁は藤、麗は苺の花。貴之は蓮で敦紀は柳、これは敦紀の絵『花開く時』に合わせて。彼女なりの印象を合わせて、基本的な押し花の栞が送られている。

 だが匂菫は、薫の為に作ったものではなかった。武たちが栞を欲しがる事があるので、作り置きしていたものの1枚だったのだ。作っているところへ薫が来あわせて、匂菫の押し花の栞を見付けたのだ。まさに天の配剤だったとも言えた。

 そして…当然ながら蒔絵箱には、『白珠』の押し花の栞が数枚入れられていた。次々と薄様にしたためた添え書きと共に、御印決定の通達をする生徒が出て行く、光景もまた行長と成美には既視感をもたらす。時は同じ事を繰り返す。しかし同じに見えてそれぞれの様を、彩り織り上げる違いにに二人は互いに微笑んだ。 

 薫と葵もこの状況を見ながら、自分たちの為に周囲が動く様を見ていた。 

 薫の周りでは今までは、時間はゆっくりと流れるだけだった。だから身を委ねていれば困る事も不自由もなかった。何かあれば朔耶か三日月が何とかしてくれた。けれど朔耶は半年前に卒業し、三日月も6月末に卒業する。しかも数日後には薫は生徒会長に就任する。 

 朔耶にすすめられて薫はこの半年、夕麿から武、敦紀、通宗といった伝説的な生徒会長たちが行った事を調べた。最後には周と影暁や清方、雫の業績も調べた。朔耶も派手ではないが、幾つかの改革を行っていた。三日月も学祭での大・高・中等部合同による演奏会など、普段はバラバラな学院内をまとめる方向を。葵はただ流されるままになっていた行事に、目標や目的、イメージなどを与える試みをして活発化した。 

 任期を業務としてこなすだけの生徒会長もいた。だが薫は紫霞宮夫妻の弟として、しかも武の10代後の第92代生徒会長になるのだ。必然的に凡庸であってはいけないと誰もが思うところになる。六条 透麿が夕麿の弟として注目されながら、『可もなく不可もなく凡庸』とされた例がある。武は学院理事としてもここ数十年で、最も身分尊き存在としても学院内部で大きな影響力を持っている。ならば弟である薫は凡庸であってはならないのだ。

 朔耶も三日月も行長も一致した考えであった。踏まえて彼らは幸久や月耶、葵を交えて話し合いをしたのだ。如何にして薫を補助して行くかを、考えている状態での葵の御印決定であった。



 全てを終えて二人が部屋に帰り着いたのは、日付が変わる少し前だった。明日は午後からの登校。インフルエンザによる学院閉鎖がもたらした遅れもようやく取り戻せた。

「お疲れさまです、薫」

「葵こそ、お疲れさま」

 二人で軽くシャワーを浴びてベッドで言葉を交わす。視線が絡みどちらともなく唇が重ねられた。互いの温もりが愛しく感じた。

「薫、あなたが欲しい」

「うん、抱いて…葵」

 覗き込まれて両手を差し出した。サラサラと葵の長い髪が肩先から零れ落ちる。薫はそれを一房掴んで、そっと口付けた。甘い香りがする。使用しているシャンプーもコンディショナーも同じなのに、葵の髪は艶やかでいつも良い香りがした。 

「薫…あの、髪を掴まれたら動けません」 

「え? あ…ごめんなさい」 

 慌てて手を放した。 

「私の髪がお好きですか?」 

「うん。綺麗だし良い匂いがして…何だかホッとするの」 

「特別な事はしていないのですが…」 

「でも…いつも良い匂いがする…葵の匂いだ」 

 柔らかく笑う薫は最近、とみに男っぽくなって来た。少年というよりも子犬と言ってしまいたい雰囲気が消え始めていた。逆に匂い立つような色気が鮮やかになりだしている。 

 葵は一方的に守らなければ…と思っていた気持ちに、守られたいという想いが混じる。薫への想いがまた深くなった。 

 葵は綺麗だと思う。優しくて何でも出来る。羨ましいと思うけど、同時に思いっ切り自慢したくなる。 

「葵…大好き」 

 初めて逢った時から胸がドキドキして、ずっと側にいて欲しいと思った。今でも…好きだという気持ちはどんどん強くなる。 

「薫…私の大切な大切な君…愛しています」 

 唇を重ねてその甘さを貪るように味わう。 

「ン…あぁ…」 

 互いの唇を銀色の糸が繋ぐ。ほっそりとして美しい指が、薫の透き通るような肌を撫でる。 

「はァ…あン…」 

 ただ触れられるだけで全身が熱くなる。 

「ふふ。 薫の肌、もう桜色で綺麗ですね」 

「葵…もっとぉ…」 

 甘く強請る声に応えるように、胸の淡く色付いた乳首を口に含んだ。 

「ヤ…ダメ…」 

「可愛い…薫、もっともっと感じてください」

「ヤぁ…ああッ…」

「もうこんなにして…イヤじゃないでしょう?」

 布越しに指で撫でる。

「ダメ!ダメぇ…」

 感じ過ぎるのか、悲鳴をあげる。

「葵…お願い…イジワルしないで…」

 目に涙を浮かべて言う姿が、葵の中の男を煽る。パジャマの下衣を下着ごと脱がして、割り込んだ脚の間に身を入れた。

「ふふ、もうこんなに濡らして」

「あッ!ああッ!」

 欲望に蜜液を滴らせたモノをいきなり口に含まれて、薫は一際高い嬌声をあげながら大きく仰け反った。いつもより過敏に反応する姿は、普段は物静かな葵に常にない嗜虐心を煽る。葵自身がその状態に少々驚いていた。

 愛しいと想う。愛しいからこそ、たくさん感じさせて溺れさせたい。

 葵のPTSDはゆっくりと快方へ向かっていた。清方による投薬やカウンセリングが、効果を表して来たのは確かだ。だがどんな薬よりも、薫に抱かれているのが一番、葵の心を癒していた。

 閨事自体を知らずたまたま、見てしまったBL本で知った事。口付けも触れられる事の快感も葵が教えたのだ。その薫が手探りで必死になって自分を抱いた。

 武が言ったのだと薫に聞いて、驚いた部分と羞恥に狼狽した自分がいた。だが薫の話を聞いていくうちに、同じように武が夕麿を抱くきっかけを知って彼の想いを知ったのだ。二人が穏やかな日々を得るまで、どんな苦労をしたのか。

 武の代わりに拉致されて、彼や夕麿の苦労や想いの片鱗を垣間見た。死への恐怖も味わった。二人はその上に愛する相手が殺されるかもしれない、という恐怖が加わっていた。

 今、腕の中で可愛い声をあげる薫が、自分と同じ目に遭う事がないように。葵は願わずにはいられなかった。

「葵…お願い…もう、欲しい…」

 頬を紅潮させて甘い声が強請る。

「薫…薫…」

「ン…葵…はやくッ…」

 いつになく優しい葵が、今はじれったく感じた。薫は脚を彼の腰に絡めて強請るように、自分のモノを愛する人のものに擦り付けた。

「くッ…やってくださいましたね?」

 互いのモノが触れ合う刺激に、葵は思わず眉をひそめた。

「今夜は容赦しませんよ?」

 自分の嗜虐心を抑える為にやった事が、逆に薫をじれさせる原因になったとは知らない。既にたっぷりと解した蕾に、既に限界になっているモノをゆっくりと挿入する。

「あッあッ…葵…熱い…」

「あなたの中も熱い…私のが…溶けてしまいそうです。」

 待ち望んだかのように薫の中は葵のモノを、包み込み締め付けながら更なる奥へと導く。

 素直で純粋で無邪気。それ故に薫は人を優しく受け止める。子供っぽいわがままはもう、今の薫は決して言わない。確かな成長を見せる彼を、誇らしく愛惜しく想う反面、少し寂しくも感じてしまう。

 武は今の自分がいるのは、夕麿の教育の賜物だと言う。ならば薫はどうなのだろうか?天羽 榊が最初の教育係になり、自分が伴侶としてそれを受け継いだ。

 武のあの刹那的な在り方を見ると胸が痛かった。薫をあのような姿にしてはいけないと思った。だから…違う方向を目指した。そうしなければ薫は、武の何もかもを手本にしてしまう。

 皇家として何よりも自分の安全を一番に考える。薫に徹底させなければならない。そう思った半年間だった。

 薫はこれから生徒会長に就任する。凡庸であってはならないというのは、きっと枷になるだろう。けれどかつての武もそれを乗り越えた。

 薫は薫にしか出来ない事を見付けられる。

 葵はそう信じていた。




 そして……薫が生徒会長に就任する日が来た。武たちが来たがったが期末の多忙さに、身動きが取れず代理として朔耶が顔を出していた。

 まず三日月が壇上に立った。

「御影 三日月です。兄 朔耶から会長を渡されて、一年。様々な事がありました。私は皆さんの望む生徒会長でいたでしょうか?歴代の会長たちの想いを、受け継いだ活動が出来ていたでしょうか?思い残す事はたくさんあります。しかし後ろを振り向いて過去へ戻る事は出来ません。過去を修復する事は不可能です。

 心残りはきっと歴代の会長たちもあった事でしょう。だからこの想いを後任である、薫さまに託させていただき、今日、生徒会長としての任を離れます。

 様々なご助力と応援をいただいた皆さま方と私を、会長と仰いでくださった皆さんに心より感謝申し上げます。

 一年間、ありがとうございました」

 三日月は数ヶ月後には、長与 秀一教諭と共に学院を去る。

 薫たちの入学式に武たちが現れてから、まさに巡るましい時間が過ぎた。

 薫が笑顔で近付いて来た。互いの記章を外し、新たなる記章を付け合う。三日月にとって薫は身分こそ違うが、共に同じ家で育ち同じ学院で学んだ弟だった。

「薫の君。後をお願いします」

 抱き締めた身体は、既に少年から青年への過程にある事を語っていた。

「三日月、ありがとう」

 薫は満面の笑顔だった。実は中等部で生徒会長になった時、イヤで仕方がなかったのだ。それでも自分の身分だと諦めたのだ。だが今は違う。薫は武たち歴代の生徒会長の後を、継ぎたいと今は本当に願っていた。

 三日月と抱き合ったあと、薫は全校生徒に向き合った。

「私は入学した時には、ここに立つ日が来なければ良いと思いました。でも今は違います。生徒会長として何が出来るのか、私にはわかりません。探しながら頑張るしかない。

 それが今の気持ちです。頼りない会長ですが、精一杯頑張りたいと思います。どうか私に助力をお願いします」

 薫が皆に向かって深々と頭を下げた。通常では有り得ない事だった。誰もが固唾を呑んで沈黙していた。顔を上げて薫は戸惑った。

 自分の言葉に何か間違いがあったのだろうか。受け入れてもらえないのだろうか。不安に胸がいっぱいになりそうになったその時、拍手が大きく響いた。

 朔耶だった。続いて行長や成美が拍手を始めた。引き込まれるように、生徒たちや教職員から拍手が起こった。

 薫はホッとしてその場に座り込んでしまった。慌てて三日月と月耶が、薫を助け起こしに駆け付けた。

 薫は他者の保護欲をそそるところがある。それが薫の魅力なのだ。

 昨夜、夕麿から電話があった。夕麿はこう言った。

「良きトップとは善き仲間に支えられてこそ、本当の意味で良き働きが出来るものです。 薫さま、あなたの生徒会執行部を信じてください」 と。

 夕麿自身が感じた事だった。義勝たちがいたからこそ、伝説の生徒会長などと言われるのだ。今も周囲の助力があるからこそ、企業のトップとして武や皆と頑張れるのだと。

 薫はその言葉を葵に言った。すると葵もそれに同意したのだ。朔耶や三日月も同意した。自分一人が生徒会を動かすわけではない。

 今更ながらそこに思い至り、薫は自分に出来る事を今まで以上に考え始めていた。舞台袖でその姿を見詰めていた葵は薫の成長を心底喜んでいた。

 明日から、薫の新たなる一歩が始まる。

 それは葵にも、新たな一歩だった。

しおりを挟む

処理中です...