蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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不安

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 薫と葵が御園生邸に帰宅したのは、武と夕麿を周が半ば強制的に病院へ連れて行った後だった。幸久は雅久の使いで出掛け、朔耶はまだ社に残っている状態だった。 

 自分に出来る事はまだまだ限られている。薫はその事実が悲しかった。武と夕麿の力になりたいのに…… 

「薫、どうかしたのですか?」 

 部屋に入ったまま座りもしないで考え混んでしまった薫を見かねて、葵が顔を覗き込むようにして問い掛けた。 

「え…あ、ごめんね。ちょっと考え事」 

 曖昧な笑みを浮かべて答えた薫を見て、みるみるうちに不機嫌になった。 

「まさかあなたもお二方のようなご無理をしたいと言わないでくださいね」 

「葵…?」 

「皇家のお血筋が就職されるのは本来、皇家の方や旧皇家の方が起こされた企業のみ。御園生家は勲功貴族に過ぎません。 

 それなのに……」 

「葵、そう言うのおかしいよ?紫霞宮家は通常の宮家じゃないんだよ?第一に私たちに将来の選択の自由が許されているのは、武兄さまのご配慮だって聞いてる」 

「それは誰が?」 

「朔耶が周先生から聞いたって。月耶も下河辺先生から似たような事を聞いたって言ってた」 

「………ご配慮って、何がどうだと言うのです?」 

 同性の伴侶を得るのが紫霄学院から解放される条件。それ以外に何があると言うのだ。行動範囲の制限は武たちにも自分たちにも課せられている。 

「武兄さまが学院から出る条件は、夕麿兄さまと結婚する事だけじゃなかったんだって。二人で御園生家の総帥になる事もなんだ。武兄さまは組紐の製作をしたかったみたいだし、夕麿兄さまもピアニストを目指していたみたい。でも、それだけに専念する事は許されてないんだよ。 

 組紐と織物は製作者としての正体を明らかにしない約束で、御園生のデパート本店でのみの販売許可が出てる。夕麿兄さまの音大の講師も無報酬だから黙認されている」 

 薫は真っ直ぐに葵を見た。すると葵は戸惑ったように目を伏せた。 

「多分…武兄さまは公務も私たちには来ないように、ご自分が全部背負われるつもりじゃないかと思う」 

 帰国して病院へ直行で入院した彼を見舞いに行って、薫は武との会話でそう感じたのだ。 

「お生命いのちを狙われている時も、ご自分たちは大丈夫だって仰って…私たちの警護を強化してくださった。 

 葵が巻き込まれた事だって、武兄さまはもの凄く悔やまれたもの」 

「それと今日の事は別の話です」 

「別じゃないよ、葵。武兄さまと夕麿兄さまは御園生に従事する人々やその家族の生活を背負ってる。責任があるんだ」 

 国際的に展開する巨大企業経営者の責任は、国の象徴としての皇家の責任に匹敵すると思う。まして御園生は紫霞宮家との関わりで、国内では特殊な立場に立つ。35歳になった時に総帥に就任する。それが課せられた条件であるならば、その立場でなければ出来ない事をする。 

 薫には武の覚悟が見えるような気がするのだ。 

「武さまが私たちには背負わせないとお考えであるならば、それで良いではありませんか」 

「葵…変わったね。前はそんな事を言わなかったじゃない。私と一緒に武兄さまへのご負担を減らそうって話をしてたよ?」 

「それは…」 

 真っ直ぐな眼差しで問い掛けられて、葵は思わず視線をそらして狼狽を顕にした。 

「まだ…怖いの?」 

 あの誘拐事件から葵はふさぎ込む事が増えた。以前は土日にはよく学院都市に出て楽しんだが、今は薫が生徒会室に用がない時は寮から出ようとはしない。酷い時には特別室に食事を運ばせて、部屋からすら出たがらないのだ。夜に酷くうなされ恐怖に震える身体を一晩中抱き締めて夜を明かす事もある。症状が改善された部分もあり、快方に向かっていると周囲に思われている。だが今改めて薫は葵の本当の状態を目の当たりにした気がした。 

「葵…義勝兄さまか、清方先生に相談しよう。夕麿兄さまだって長い間、治療されてたって聞いてるよ?このままでは酷くなってもっと辛くなる。

 私は葵にこれ以上苦しんで欲しくない」 

「薫…私は…」 

「何でもないって言うのは聞かないからね。それとも私に命令させたいの?」 

 武が夕麿を想い、夕麿の為に何かを強制する時に、敢えて命令という形を取るのを知っている。武は他の人間にも命令をする事はあるが、夕麿に対するそれは厳しいものだ。だがそこに強い愛情が秘められているのもわかっている。 

 愛が武を揺るがない強さへと導く。周囲を惹き付け忠誠心を抱かせる。 

「薫…」 

「お願い。この休みの間にどちらかの診察を受けて」 

 命令なんかしたくない。でも葵を守る為には何でもする。二度と誰かに傷付けさせない為にも。 

 失うかもしれない。あんな恐怖を味わうのはもう嫌だ。だから自分が守ると薫は固く決心していた。 

「わかりました…義勝さんにまず、相談をしてみます」 

「じゃあ今夜お願い出来ないかメールしてみる」 

 最近、外来を受け持つようになった義勝は、以前にも増して多忙になっていた。メールの返事はすぐに返って来た。 

 今夜の夕食後に部屋でと書いてあった。また葵と二人で話させて欲しいともある。 

 葵の為に何でもすると、もう一度薫は自分自身に誓うのだった。 

 夕食後、部屋で葵は義勝と向き合った。 

「お伺いいたましょう」 

 武にも夕麿にもタメ口の義勝が、葵には丁寧な言葉を使う。薫は嫌がって武たちと同じ口調を求めたのだが、逆に雅久が伏して言った。 

「私たちを兄とお呼びくださる事は嬉しく思っております。ですがどうか、私たちを『兄さま』と呼ばれるのはお止めくださいませ」 

 自分たちは身分が低い。雅久のけじめと見て、薫に彼の願いを聞くように言った。尊き身分の薫に『さま』を付けて呼ばれるのは、雅久にはとんでもない事だった。 

 武が紫霞宮と御園生 武を使い分けているからと言って、並んで真似る必要はないと葵は思っている。だから義勝のこの態度も当たり前として受け入れた。 

「それが…私には何をどう説明すれば良いのかわからないのです」 

「成る程…では幾つか質問をさせていただきます。お答えいただいた上で、もう一度お話を伺いましょう」 

 そう言って持って来たバインダーを開いた。 

「わかりました」 

「では…夜はぐっすりと眠られていますか」 

「いいえ」 

「悪夢を見る?」 

「はい」 

 サラサラとペンが紙の上を走る音がする。 

「食欲は如何ですか?以前と比べて摂取量が減られたとか、好き嫌いに変化は?」 

「最近は以前と変わらない分量を食べています。ただ…匂いが強い食べ物が、元々あまり好きではなかったのですが、それらに対する嫌悪感のようなものを感じます」 

「嫌悪感はどの様な形で現れますか」 

 嫌悪感と言っても様々な状態がある。 

「そうですね…出来るだけ遠ざかりたくなります」 

「吐き気は如何でしょうか?」 

「以前よりは減りました」 

 義勝は清方と連絡を取って、この質問の紙を受け取っていた。通常は本人に筆記で答えさせるのだが、清方は口頭で問い掛けて答えさせるようにと指示した。答えた時の表情や仕草、声の調子等を観察する為だった。 

 清方も周と朔耶に相談されていたのだ。 

 時間を掛けて一つひとつ丁寧に問い掛け、答えと反応を記載していく。未だ研修医の義勝は、紫霞宮家の侍医にはなっていない。その辺りはUCLAへ転校した周とは違う。今回は清方の指示を仰いで、まず接見を行う事になった。 

「如何ですか。何か気が付かれた事がありましたか」 

 PTSDがもたらす苦しみは安易に解消出来るものではない。乗り越えたとしても傷を負う前には決して戻れない。パニック発作はなくなっても、脳の中に記憶として刻み込まれたものは、その人間の人生に影響していく。全ての記憶を失ってしまった雅久でさえ、本人が自覚していない傷に動かされている時がある。 

「義勝さんはずっと武さまと夕麿さまを見て来られたのですよね?」 

「そうです…二人の出逢いから結婚、乗り越えた様々な事を見て来ました」 

「武さまはこれからもお生命を脅かされると思われますか」 

「恐らくは…特務室のプロファイリングでも、その様な結果が出たと聞いています」 

 九条家が諦めたという保証は存在しない。 

「あの方は全て背負われるおつもりですよ」 

 武の覚悟を理解した上で、『もしも』を憂う顔がそこにはあった。義勝は夕麿とは小等部からの幼馴染みで、無二の親友でもある。身分の差が大きいにもかかわらず、夕麿を呼び捨てにしているのを咎める者がいないのが証拠だ。 

 武の周囲にいる者たちは恐らく全員が、もしもの時の自分が何を選択するかを決めて覚悟している。目の前の義勝からもそれを感じる。 

 では自分はどうなのか。武を失えば薫は、紫霄の特別室に幽閉される。共に幽閉される覚悟はある。だがそうなると早々に薫の生命は絶たれる。その時に自分は何を選ぶべきなのか。自分の処遇はどうなるのか。 

 薫が望むように一人で生き残って、残りの人生を歩いて行けるのだろうか。出来ないのであれば夕麿のように、愛する方に殉ずるだけの覚悟を持てるのだろうか。 

 立て続けに人の死、それも尋常ではない死を見てしまったからだろうか。それとも死の恐怖を味わったからだろうか。 

 『死』そのものを考えるのが恐ろしい。自分のも他者のものも。気が付けばそんな事を葵は、ゆっくりと気持ちを噛み締めるように語っていた。 

「覚悟がたらないと、皆さまからは笑われるかもしれません」 

 眼差しを伏せて言った葵に、義勝は優しく微笑んだ。 

「普通だと思いますよ?我々は多分…慣れてしまった部分があるんだと思います。武さまが生きていらっしゃるのが、奇跡のように感じる部分がありますから」 

 遠い眼差しで答えた姿に、彼が数々の危機にどんな想いで耐えていたのか。乗り越える為にどんな痛みと傷みに苦しんだかが伺えた。まるで綱渡りをするように、危険と危険を、刹那と刹那を繋ぎ止めるように。武の生命は彼らの願いによって、この世に繋ぎ止められているようだった。 

 彼らの結束と絆の強さは、願いと祈りの強さの姿なのかもしれない。 

 武がいるという事。 

 武と共にあるという事。 

 彼らはその答えをそれぞれが見出だしているのかもしれない。だからこそ武の夢と希望を叶える為に、心血を注ぐのを厭わないのだろう。それぞれの想いと願いが祈りとなり、一つに折り合わされ組み上げたもの。 

 葵にはそれが見えるような気がした。 

 次の日、薫は葵と武の見舞いに病院を訪れた。昨日出社したのが災いして、昨夜から高熱が出ていたのだ。ベッドに横たわった武は、高熱に意識が朦朧もうろうとしていて、頬は信じられないほど紅潮していた。苦し気に乱れた呼吸を浅く激しく繰り返している。 

 傍らで看病に付いているのは、武の秘書 天羽 通宗だった。彼は時折、武の額に浮かぶ汗を拭き取っている。 

 薫と葵が入って来たのを見て、慌てて立ち上がった。 

「兄さまはどう?」 

「昨夜と今朝に周さまが投与された解熱剤が効いておられません。武さまは高等部に御在学中に、遺伝子を操作した菌によって肺炎になられています。今回はその兆候は見られないそうですが…これ以上の解熱剤の投与は難しいそうです」 

 俯いた通宗は悲しそうだった。 

「夕麿さまは?」 

「ここより直接出社されました」 

 年間数件の公務で海外に出るが、武の体質を考えたら本当は無理だと通宗は思っていた。支える夕麿もギリギリの状態だと感じる。 

「通宗…」 

 そんな思考を破るように、武の弱々しい声がした。 

「喉が…渇いた」 

「はい」 

 慌てて経口保水液の入ったボトルを取った。蓋を開けて新しいストローを差し込んで口許へ持って行く。 

 この経口保水液は葵もこの前に世話になった。最初はスプーンで一口ずつ飲んだ。点滴で必要な成分を補給しても、飲み物を摂取したいという渇望は存在する。 

 武は数口飲んで唇を放した。 

 通宗は小さく囁いてボトルをテーブルに戻して、ナースコールを押した。 

「武さまのお着替えをお願い申し上げます」 

 汗をかいて一時的にわずかに下がりはするのだが、すぐにまた上がってしまう。 

 パジャマを着替えて車椅子に座った武は、ほっそりとして小さく見えた。 

 薫はその姿をじっと見詰めた。視線に気付いた武が顔を上げて微笑んだ。それに笑みで返す。 

 ふと武が何かに気付いて移動した。薫は視線で負う。彼が向かった先にあったのは、誰かが脱いで置いていたシャツだった。それを手にして嬉しそうに抱き締めた。 

「武さま、ベッドが整いました」 

「うん…ありがとう」 

 ベッドサイドに戻った彼は、シャツを手にしたままベッドに戻った。そこへ義勝が点滴を手にやって来た。武に近付いて何かを耳打ちする。頷いてまた武が笑った。 

「周さんは外来が終わったら上がって来られるから」 

「うん、知ってる」 

「何か食べたいものは?」 

「ゼリーかプリンが欲しい」 

「麗に連絡して作らせよう」 

「うん」 

 どこか幼げな受け答えに薫と葵は息を呑んだ。 

 薫と葵は義勝と共に病室を出た。 

「義勝さん、先程のシャツは…」 

「夕麿のです。御覧になられた通り、発作の兆候が見受けられます」 

「武兄さまのご病気と夕麿兄さまのシャツって…関連がわからないのだけど」 

 薫が義勝の白衣を掴んで言った。すると彼は特別病棟専用の待合室を示す。戸惑うように薫が葵を見た。それに優しく微笑んで頷いて返した。そこへ外来を終えた周が合流する。全員が入ったのを確認して、成美がドアを閉めた。 

 義勝は薫と葵に座るように言って、自分も向かい側に座った。周はドアを挟んで成美と反対側に立った。 

「では義勝さん、先程の質問に答えていただけますか?」 

 葵は全員を見回して、少し棘のある口調で言った。 

「何故、病室に夕麿のシャツが置いてあったのか…でしたね」 

「うん。武兄さま、嬉しそうだった。どうしてなのかなって…思ってた」 

 薫は屈託のない笑顔で答えた。 

「それについては僕からご説明を」 

 口を開いたのは周だった。 

「発作時の武さまが極度の人嫌いになられるのは、ご存知でいらっしゃいますね?」 

 周の問い掛けに二人が頷いた。 

「お側によらしていただけるのは、限られた者になります。ですがそれとは別に夕麿には特別な反応を示されるのです」 

 周は発作時に夕麿との接触が低い場合の状態を、今までの経過を細かく説明した。 

「夕麿は今日は昨日の後始末にどうしても出社する必要がありました」 

 義勝が言葉を紡いだ。 

「夕麿がシャツを最初に残したのは、俺たちが高等部の卒業式の日でした」 

 互いの残り香をまとったシャツを手に、しばし離れる日々を耐える。万葉時代の恋人たちの風習を捩った行為をしたのは、精神状態が不安定なままの武を残して学院を出て行く夕麿の感傷でもあった。 

「それがそのまま尾を引いていらっしゃるのか、発作時に夕麿が不在中に彼が脱いだ衣類を抱き締められていらっしゃるのです」 

 その姿は周も義勝も幾度か目撃していた。 

「ご自分の形代として、シャツを置いて行かれた…という事ですか」 

「そうなります」 

 夕麿本人が側にいるのが一番。 それがわかっているのに、何故そんな事をする?葵には理解出来なかった。 

「おかしくはありませんか。皇家の方を何を置いても最優先にするのがルールの筈です。昨日といいどうして、そのルールがこうも破られるのでしょう」 

 紫霞宮が如何に日陰の身でも、ルールはルールだ。 

「将来の御園生の後継者と補佐役として経営に参加する。武さまが外で生活を許される為の条件の一つだからです」 

 義勝が拳を握り締めて答えた。 

「条件を無理に満たす必要はないのではありませんか」 

 武の身体の弱さは皆がわかっている筈だ。たとえ幽閉の形であっても無理をせずに、静かに暮らして行く方が幸せではないのか。紫霄学院を卒業して10年以上の時間が経過した今、あそこに再び戻される事はない筈だ。 

「薫さまが高等部に上がられる前の年の秋、夕麿を一時的に武さまから離して治療を行わなければならない事態になりました」 

 そう言った周の顔は苦渋に満ちていた。 

「その際に期限が決められ、夕麿の治療が間に合わなかった時の武さまの処遇についても…決定されました」 

「周さん…そこまで決められていたのか…!?」 

 義勝にも初耳だった。 

「僕は当時は研修中で地元には不在で…全ては後々に成瀬 雫さんから伺いました。武さまは山間部にある国立の病院の隔離病棟へ、患者として強制入院をしていただくと」 

「万が一何かを口走っても、精神疾患の患者の戯言になる…しかも病院ならば病死で終わらせる…」 

 義勝が蒼白になって震えるのを見て、薫は怯えたように葵に縋り付いた。 

「事実を知らされていなくても、武さまはご自分に時間が残されていないと、敏感に察していらっしゃった。かにどこ幽閉されて殺されるのを嫌われて、毒をお望みになられた。そしてご自分が亡くなられた後を書き記されて、ある人に託されました。その中に自分の死を夕麿には教えないで欲しいとありました」 

 今は雫の手に渡っている実物を、周は自分の目で確認していたのだ。 

「どこかに幽閉されて生きていると思わせて欲しい。夕麿が自分の力で歩いて行けるその日まで、全てを伏せて欲しいと…」 

 周がそこまで言った時だった。何かの気配を感じた成美がドアをいきなり開けた。 

「夕麿…!?」 

 蒼白になった夕麿が岳大を従えて立っていた。 

「お前、今の話を…」 

 周が絶句した。過ぎた事ではあっても今後も、武の処遇が決められる基本的な例になり、それに対する武自身の在り方を示す事実だった。 

「どういう事です、周さん!? あの時…誰もそんな話はしなかったではありませんか!?」 

「お前は間に合った。だからこの話は封印されたんだ。知っているのは僕を含めて、数人だけだ」 

「俺も初耳です」 

 ドアを開けた成美が言った。 

「誰と誰が…知っているのですか?」 

 義勝の問い掛けに岳大が軽く制止の手を上げて、夕麿に室内へ入るように促した。夕麿が入ったのを確認して成美にドアを閉めさせ、人払いの為にドアの前に立った。 

「まずは雫さん。 彼は武さまを幽閉場所へお連れする役目を与えられていた。それから…良岑 貴之。彼が知っていた理由は説明しなくてもわかるだろう。あとは保さん……久方さまもご存じだっただ」 

 そう全てを知っていた者に、護院 清方は含まれない。

「清方先生は…ご存知ではない?」 

 義勝が信じられないという顔で、立っている周を見上げた。 

「清方さんは武さまの幽閉と期限だけを知らされていた。雫さんはそれ以上は治療の妨げになると考えていたのだろう。ただし…全部ではなく一部を知っていた方はたくさんいると思う」 

 夕麿は膝を握り締めるようにして俯き、ますます血の気の失せた顔で震えていた。 

「夕麿兄さま…ダメ、手を放して。 指を傷めてしまいます」 

 夕麿の手に手を重ねて懇願した。武がどんなに夕麿のピアノが好きか、薫にはよくわかっている。 

「何故そのような事になるのですか」 

 そう言った葵も震えていた。 

「武は…薫さまを紫霄から解放しようとしています。つまり更に特別室に住まわれる方が出た場合も、同じ様に動くとわかっているから…彼らには脅威になるのです」 

「武さまを亡き者にすれば何某かの理由を作って、薫さまをまず紫霄に閉じ込める手を打つでしょう」 

 義勝も周も共に危機を紙一重で超えて来た。同時に次は守れるのか…という不安を抱いている。それでも健気に懸命に前進しようとする武を、彼らは唯一の光と思って努力を続けているのだ。 

「武…武さまが一番恐れていらっしゃる事は…私たちを乗り越えて、薫さまと葵さんへ矛先が向く事です」 

 夕麿の声が震えていた。 

「葵さん、昨年末の一件で武さまがどれ程苦しまれたかご存知ではないでしょう?お二方をあの方が守りたいという想いが、どれだけ深く強いのか…如何ほどにおわかりであらしゃいますか」 

 昨日の葵の発言については、夕麿は影暁から報告を受けているらしい。 

「皇家であって皇家でない扱いを受けながら、皇家としての心と振る舞いを要求される。その上で何かがある毎に生命を脅かされる苦痛は、すぐお側で私も噛み締めております。それでも武さまは二度と特別室に住まわれる方が、お生命を奪われる悲劇が繰り返されないようにと、ご自分の全てをかけていらっしゃるのです」 

 武の決意に夕麿はどんな気持ちでいるのか。薫には何となくわかる気がした。 

「武さまがそこまでされる必要は、おありになられるのでしょうか。一部の不満はあるとは言っても、時が経過すれば当たり前になって行くのではありませんか」 

 だが葵にはそこまでの決意が必要だとは思えないのだ。周囲を危険に巻き込んでまで、貫いて叶うものであるのかすら不明の事だと言うのに。 

「葵…10年が経っても、武兄さまはお生命を狙われているんだよ? 

 忘れたの?」 

 葵の拉致事件から薫は武と夕麿が、常に曝されている恐怖が自分なりに、理解できるようになったと感じていた。葵のPTSDを見るにつけても、二人が乗り越えて来たものがどれだけのものだったか。経験が少ない薫にも想像が出来る。自分たちを庇って前面に立つのに、恐怖を感じていないとは考えられない。でも武は逃げ出さない。夕麿も傍らにいる事を厭わない。

「一昨年の出来事は武さまにお仕えする者たちにとって、あらゆる意味で覚悟を決める局面でした」

「周さん…?」

 本当は夕麿のいる所で話したくはない内容だった。

「あの時に治療が間に合わなかったとしたら…失われるのは、武さまと夕麿の生命だけではなかった…」

 夕麿が息を呑んで周を見た。

「殉死…」

 震える声で言ったのは葵だった。

「そうです」

「周さん、それ以上は…」

 義勝が止めに入った。だが夕麿が激しく首を振った。

「私に隠さないでください!!」

 悲鳴のように叫んだ夕麿の手を、薫は武ならばそうすると考えて握り締めた。

「義勝、たとえ武さまはご存知でなくても、私は知っておかなければなりません。 妃として…知っておくべきなのです」

 握り締めた手はまだ震えている。それでも夕麿は顔をあげて自分の覚悟を示して見せた。凛とした姿を美しいと思う。武が彼ただ一人を愛する気持ちがわかる。

「私からもお願いします。真実を教えてください」

 ただ守られているだけで良いのか。疑念が心に浮かぶ。

「薫さま…ありがとうございます」

 夕麿の瞳から涙が零れ落ちた。

「僕が…知っているのは雫さんと貴之、御厨も多分…当時の状況では下河辺 行長も…第一、小夜子さまが逝かれただろう。武さまの同級生たちがどちらを選ぶつもりだったかは知らない」

「周先生…先生は?」

 どこか遠くを見ている周に、薫は何かを感じてそう問い掛けた。

「僕は…僕も、生き続ける気持ちはありませんでした」

 慈園院 保も生きてはいなかっただろう事は、彼が毒薬を用意した本人ゆえに敢えて口にしなかった。

「今は?」

「今は…不忠の極みではありますが…朔耶を残す事は出来ません。

 下河辺も同じでしょう」

 武を失う事。 それは今ある様々な事に変容を余儀なくさせる事なのだ。きっと知らされなくても武は敏感に感じとっている。その上で自分がなすべき事を考えて、生命をかけて実行を続けているのだ。

 薫と葵が加わる事で再び生命を狙われ、それでも自分の信念を揺るがせる事なくいる。

 掛かる重圧はストレスとして武を発作へと追い込む。当然ながら夕麿への負担も半端ではない筈だ。それなのに…二人はそれを当然の事だと言う。この想いの強さは、どこから生まれて来るのだろう。

「皇家の貴種のお生命を…ないがしろにするなんて…」

 葵には怒りしかない。

「そうですね…でも、歴史の裏側では繰り返されて来た事です」

 葵に答えたのは成美だった。

「あの時に武さまが…臣籍に降られる事を選んでおられたら…」

「周さん、それは言わない約束です!」

 周の言葉を夕麿が鋭く遮った。

「武さまがどのようなお気持ちで、皇家の一員に踏みとどまる決意をされたのか。あの場にいたあなたもわかっている筈です!」

「わかっている…わかっているからこそ、僕は悔しい…武さまはご自分の欲得で、今のご身分に残られた訳じゃない」

「降られれば一昨年の夏や昨年の事件はなかったのかもしれない」

 口を開いた義勝の言葉は苦かった。

「何故…今のご身分を捨てられなかったのです!?そうすればもっと皆さまが安寧に過ごせたと、武さまにもわかっていらっしゃった筈でしょう?」

 葵にはわからなかった。こうまでして『紫霞宮』という、日陰の立場に武がいたがるのかを。

「何の為であるか、わかりませんか?」

 夕麿が真っ直ぐに葵を見てそう問い返した。薫は彼の瞳の中に強い決意の輝きを見た。

「武さまはこう仰られました。『今後、紫霄の特別室に住まわれる方が出られた場合、自分と同じ条件で外に出る許しが欲しい』と。お二方がここにこうしていらっしゃるのは、その願いが実現したからなのです」

 自分だけの特例にしてしまえば、また悲劇は繰り返される。
 
 愛する人と共に未来を奪われた螢王。黄泉路を渡る事も出来ずに、朽ちかけた旧特別室に住まい続けた悲劇。

 それは成美も経験した事だった。武を探して駆け付けたそこで耳にした、螢王の幽霊の奏でるピアノの哀しい音色は今も忘れてはいない。

 閉じ込められ故意に寿命を縮められた、3人の皇家の貴種たち。特に夕麿の大伯父である螢王は妃を持っていた。雅久の大伯父である彼は、螢王の死後に自ら生命を絶って殉じた。

「私がここに葵といられるのは…武兄さまのおかげ…」

 彼の苦悩、夕麿の嘆き、皆の悲痛…その結果、自分はこうして愛する人と出逢い、共にある幸福を満喫しているのだ。

 そう想うと胸が一杯になる。

 何も知らなかった。『俺は大丈夫だ』と言って、全てを背負い込んでいた武。申し訳ない…何も知らないでは済む事ではない。

「私は…武兄さまにお詫びを…しなければ…」

 大粒の涙を溢して泣きながらそう言うと、夕麿に優しく抱き寄せられた。

「武さまの本当をご理解くださった事を感謝いたします」

 夕麿も他の者たちも、薫にはわかって欲しかったのだ。武の笑顔の向こうにある願いと苦しみを。螢王たちの悲劇はもちろん、武と夕麿が舐めた辛酸も繰り返されて欲しくない。だから自分が背負う事で、後に続く者を守る。確固たる決意があるからこそ、武と夕麿を取り囲む者たちは強い信頼の絆で結ばれているのだ。

 自分に足りないもの……それは自分の立場に対する決意なのではないか。何に対してどの様な決意をすれば良いのかはわからない。それを探すのが今の自分のやる事ではないのか。

 夕麿が武の側に行き、自分たちも帰路の車で移動する中で、薫は懸命に考え続けた。御園生邸に帰宅して自室に戻っても、薫は答えの出ない問い掛けを自分自身に続けていた。

「薫…いい加減にしなさい」

 そんな薫の思考を破ったのは、怒気の込められた葵の言葉だった。

「え…あ、ごめん」

 葵がいるのを忘れて、つい考え込んでしまった。

「薫、すぐに武さまの真似をしたがるのは、あなたの悪いところですよ?」

「え?別にそんな事は考えてないよ?ただ、私には何が出来るだろうって…思うだけ」

 武のように自分の後に続く誰かの為に、身を投げ出すようにしては生きられない。

「あなたは…何もしなくても良いのです。あなたは武さまとは違うのですかから」

「葵…それ、おかしいよ?何もしないで生きる人なんて、私はいないと思う」

「私が…おかしい…?」

 薫の言葉に葵は愕然とした。自分では至極真っ当な事を口にしているつもりだったのだ。だが思い返せば…思い当たる。自分が強く何かを言った時の周囲の反応…驚き、戸惑い、困惑…哀しみ…

 ……ああ、私はどこで間違ったのだろう…そう思った途端に全身が震えだした。言い知れぬ恐怖がわき上がる。

「葵?どうしたの?気分が悪いの?」

 薫が声を掛けると恐怖は一気に頂点に達した。

「葵?!」

 慌ててスマホから義勝に連絡を入れると、彼は今は病院を離れられないと言う。清方に連絡を入れると言ってくれた。

 PTSDは一朝一夕で治るものではないと予め説明は受けてはいた。だが実際には紫霄学院内部にいる状態では、パニック発作は鳴りを潜めていた。春休みが始まって帰宅しても、葵には取り立てての違和感はなかった。

 だから薫は安心していたのだ。葵は大丈夫だと思いたい感情もあった。葵のパニック発作は夕麿のそれとは別物だった。

 夕麿は過呼吸や吐き気、目眩により失神を繰り返したが、葵は悲鳴をあげ泣き叫ぶ。ゲージに閉じ込められて恐怖に曝された為か、それとも車での出来事が原因か…発作時は狭い場所や一人で取り残されると、後に尾を引くような状態になる。それでも学院内部では3学期の途中からは、そう言った症状は起きなくなっていたのだ。

 薫はあまり考えたくなかったが、御園生邸に帰宅してすぐは学院内にいる時と変わらなかった。だが公務に出ていた武たちが帰国してから、葵は彼らの行動を遠回しに非難している。彼らの側近たちがその行動を止めないで、容認している事実にも苛立っている。

 葵は特に武を非難しているように見えた。彼は武が普段使用している車で移動中に襲撃され、そのまま拉致監禁された。言わば武を狙った事件に巻き込まれたと言える。故に…葵の心に武を責める感情が生じたとしても、仕方がないようには思う。

 でも……もしも葵の言動がエスカレートして、武や夕麿の勘気に触れたら…取り返しの付かない事態を招かないだろうか。そう考えると恐怖に悪寒が走る。

 二人は安易な事で怒ったりはしない。だが武を一方的に責め続ける言動が重なれば、幾ら何でも身内として受け入れた相手だけに、ひと度傷付けば深くなってしまうのではないだろうか。

 特に発作時には以前よりは軽減されたと聞くが、マイナス思考に心が傾く状態は怖い。そうなれば先ず夕麿が許しはしないだろう。

 葵を愛するからこそ、不安ばかりが募ってしまう。薬で眠っている葵を見詰めながら、自分が何を為すべきであるかが見付からないのが歯痒い。

「私は葵の…伴侶なのに…」

 愛する人を救えず、守る事も出来ないでいる。

 その夜、薫は自分の無力さに涙した。だが薫はこの夜の物思いが呼んだ結果が、どんな結果をもたらすのかまでは想いが至らなかった。


 次の日の夕方、武が退院して来た。熱が下がった事と夕麿への負担を軽減する為だという。とは言っても武の発作は軽度で意識の混濁はない。下肢の麻痺がある事と幼児退行が弱冠認められるだけだ。付き添って帰宅した義勝が家族に説明した事によると最近の武は、自分の病と真剣に向き合おうとする傾向があるらしい。

 意識の混濁がない時は、自分の様々な状態を観察しているという。また脳神経医に直接、自分の状態の説明を望んだりしていた。今のような状態の時には、それなりの活動をしようと試みる姿勢も見せ始めているというのだ。ダメージが残る脳の部位はどうにもならなくても、武の努力は必ず某かの結果を出す。善き方向となるように家族で協力して欲しい。

 義勝はそう言葉を結び、居合わせた家族は未だ小学生の希も含めて、自分に出来る限りの事をすると答えたのだった。

 だが今の薫には彼らのこの結束が怖かった。



 次の日から薫たちは御園生邸で、朝から夜まで武と顔を合わせる事になった。と言うのも武は発作中であるから、出社する事があってもごく短時間で帰って来る。 

 葵は外出は今は控えた方が良いと判断された。薫も邸にいるように言われている 。 

 幸久はアルバイトをを続けているし、月耶は御影家へ帰った。行長は教師として学院での仕事に戻った。貴之と敦紀は渡米の準備で出掛けた。いつもご機嫌伺いに来る朔耶は、周がオーバーワークで倒れてしまい、看病の為に来れない。三日月は秀一と旅行に行った。 

 つまり、薫と葵は武と誰かの介入なしに、ストレートに言葉を交わす状態になってしまった。 

 ……全ては武の所為 

 言葉にしなくても葵の想いは、多分…武に届いてしまっている。けれど武を庇えば、葵はまたパニックを起こすかもしれない。薫の躊躇いに気付いたのか…それとも耐えられなくなったのか。武は部屋から出て来なくなった。 

「武はまた部屋ですか」 

 帰宅した夕麿が居間に武の姿がないのを見て問い掛けた。 

「はい、さようでございます。組紐の製作をされていらっしゃいます」 

 文月が申し訳なさそうに答えた。 

「食事は?」 

「ほとんどお召し上がりにはなられていません」 

「それは…困りましたね。周さんはまだ動けないようですし、お義母さんもお留守です。せめて私がいられればよいのですが…」 

 夕麿が本当に困った顔をしている。とっさに薫は何か言おうとして横にいる葵に袖を引かれた。振り返ると厳しい表情で首を振る。 

「夕餉を私の分も部屋へ運んでください。兎にも角にも先ずは食事を摂らせないと」 

「承知致しました」 

 文月に命じてそのまま彼は居間を出て行った。影暁と雅久・幸久は未だ帰宅していない。どうやら夕麿を先に帰宅させたらしい。 

 葵を刺激しないで武に何か出来る事をと考えてある事を思い付いた。早々にメールを打った。相手は麗だ。明日、家族全員分に混ぜて武の好物を用意してくれるように依頼した。彼から了承の返信が来ると今度は、幸久に店で受け取って持ち帰ってほしいと依頼する。返信をくれたのは雅久で、薫に感謝に言葉が書かれてあった。 

 武へのお詫びは何とかなったとは思う。だが肝心の葵にどう向き合い、何をすれば良いのかがわからない。一番苦しんでいるのは葵なのだ。 

 思いあぐねて一人で庭を散策していると話し声が聞こえた。 

「…はおそらく、イングリッシュ・ガーデンの四阿あずまやにいらっしゃると思います」 

「四阿? わかりました」 

 どうやら文月と夕麿らしい。見ていると夕麿が庭の奥へと歩いて行く。薫は何とはなしに後を着いて行った。 

 イングリッシュ・ガーデンは邸の一番奥に存在する。様々な薔薇を中心にした、初夏の花々が楽しめる。だが今は春だ。それでも四季を通じてここを好む者は多い。武もその一人で製作に行き詰まった時などに来て、ボンヤリと座って物思いをしているらしい。 

「武…服に土が着いているではありませんか」 

 軽い発作状態の武は、両足がちゃんと動かせない状態だ。四阿の傍らに車椅子がある。薫は春の芽吹きに彩られた茂みにそっと身を隠した。 

 武は四阿のベンチに膝を抱いて座っていた。夕麿はすぐ横に座って武の服を軽く叩いて払った。 

「上着を持って来ました。外はまだ寒いでしょう?」 

「少し…」 

 掛けてもらった上着に袖を通す姿が少し拗ねている様に見えた。 

「御厨君から紹介してもらった彼ですが…呼び寄せる為にはあなたの名前が必要に思えます」 

「面倒なのか?」 

「ええ。彼が持明院君の前からいなくなったのは、相当の理由があるようです」 

「なのに呼ぶのか?」 

「このままでは持明院君の為になりませんし、うちには必要な人材だと見ました」 

「わかった。その件はお前に任せる」 

「ありがとうございます」 

 たとえ伴侶であっても夕麿は、武に礼を尽くす時にはきっちりと行う。御園生 武ではなく紫霞宮武王の名を使って、誰かを呼び寄せるという事らしい。 

「武、葵さんの事をまだ気に病んでいるのですか」 

 常よりも言葉少なく膝を抱いたままの姿は、薫が普段見ている武とは別人のようだった。 

「PTSDだってのは頭ではわかっているんだ。お前の時のを経験しているのに…上手く自分を納得させられない」 

 膝に顔を埋めるようにして言う。すると夕麿が優しく微笑んだ。 

「私の時とは原因が違います。当然ながら症状も違います。あなたが対処出来なくても仕方がありませんよ、武」 

 手を伸ばして武を抱き寄せる夕麿は、常よりも遥かに優しい顔をしている。その顔に薫は彼の武への深い愛情を感じた。 

「思い…出すんだ…」 

「思い出す?」 

「葵の今の姿に…透麿が…重なる…」 

 夕麿が息を呑んだ。 

「わかってる…葵は俺を憎んでる訳じゃないって。だけど…自分でもどうにも出来ないんだ。俺は…俺を憎み続ける透麿を最後には嫌悪した。憎まれて当然の事をしたのは俺なのに……」 

「あなたが悪いのではありません…あなたは私を守ってくださっただけです」 

 武をしっかりと抱き締める夕麿を、遠目にでも見ているのが辛かった。 

「武、もう自分を責めるのはやめてください。お願いします。ああ…私の心の半分でもあなたの心と取り換えられたら…どんなに良いでしょう」 

 そうすれば互いの想いがわかるのに、と夕麿は言う。 

「でも…それが叶ったとしても、離れるときっと寂しいのは同じなのでしょうね」 

 頬を濡らして言った夕麿は、ゆっくりと優しく武の髪を撫でていた。すると応えるように武が両腕を夕麿の首に絡めた。 

「俺も…似たような事を考えた事がある。お前に抱かれている時に…このまま溶けて、一つの身体になれればいいのにって…でもきっとそれが叶ったら俺は、抱き締めてくれる腕や温もりを探すんだ。失ってしまったものを取り戻したいと願うんだ」 

「武…」 

「だって俺たちはここに生きてる。別々の人間だからこそ、触れ合う事が出来るんだ」 

「そうですね。私もそう思います。確かに一人になれば互いの想いがわかるでしょう。でもそれは…本当に幸せなのでしょうか」 

「俺はわからないからこそ良いんだと思う。わからない…だからわかりたい。100%は不可能でも、断片でも構わないから…俺はお前を理解したいと思って来た。その為の努力もして来たつもりだ」 

「私も同じです。だから…だからお願いです。透麿の事は忘れてください」 

 血肉を分けた実の弟が、兄の最愛の人を憎悪の余りに殺傷沙汰に及んだ。夕麿にとってそれは如何ほどの苦しみだったのだろう。 

 事ある毎に生命を脅かされる武。拉致され殺害されかけた後遺症の発作。伴侶として夕麿が乗り越えたり、受け入れて来たもの。武が夕麿の全てを受け入れた事から始まったのかもしれない。そう考えると薫は、自分にも葵にも今のところは、そういうものが一切存在してはいない事実に行き当たった。 

 二人よりも乗り越えなければならないものは少ない。今回の葵のPTSDが初めての問題だとも言える。 

 ああ…そうか 

 薫はやっと気付いた、自分に足らなかったものに。 

 覚悟。 

 日陰の身として外で生きる覚悟が欠けていたのだと。 

 これ以上は聞いてはいけない。薫はそっと離れて居間にへと戻った。 

「あれ、朔耶一人なの?」 

 居間では葵が朔耶と話して笑っていた。 

「薫の君、私は周とセットではありません」 

 間もなく私立大の医学部に進学する朔耶は、紫霄にいた頃の印象はすっかりなくなっていた。 

「ごめん…だって…」 

 困ったように答えた薫を見て葵が噴き出した。 

「朔耶、薫をからかって困らせるのはやめてくださいね」 

「すみません…つい、昔からの癖で…」 

 肩を竦めた朔耶を見てまた葵が笑った。葵が生徒会長の頃から二人は仲が良かったと言う。葵が肩肘も警戒もしないでリラックスしているのがわかる。居間に他に誰もいないのは、それがわかっているからかもしれなかった。 

「薫はどこへ行っていたのです?すっかり身体が冷えているではありませんか」 

 横に座った薫の頬や手に触れて、その冷たさに葵が声をあげる。 

「庭を散策してたの。ソメイヨシノはほとんど散ってしまったけど、八重桜はまだ綺麗だったよ」 

『春の庭』と呼ばれる桜の庭園にいたのは嘘ではなかった。そこから移動した場所で、文月と話している夕麿を見付けたのだ。 

「ずっと春の庭に?」 

「そうだけど…?」 

 葵は恐らく、夕麿が武を探しに行ったのを知っている。 

「どうかなさいましたか、葵さま?」 

 薫の当惑顔に気付いて、朔耶が助け船を出した。 

「いえ…」 

 今度は葵が戸惑う。 

「私ね、八重桜を見ていたら何だか、桜餅が食べたくなった!」 

 瞳を爛々らんらんと輝かせて言う姿に、葵と朔耶が同時に噴き出した。 

「どうして笑うの、二人とも?」 

「長命寺ですか?道明寺ですか?」 

 長命寺桜餅は『江戸風』、道明寺桜餅は『京風』もしくは『関西風』と呼ばれる。だが本来、関西では長命寺は桜餅とは呼ばない。 

「どちらも好きだけど…八重桜は道明寺に似てない?」 

「では道明寺になさいますか?」 

「うん」 

 薫の意向を受けて朔耶が立ち上がった。ドアを開けて、控えている文月に道明寺を用意して欲しいと言う。 

「承知致しました。結城まで買いに参りますので、3~40分程お待ちいただけますか」 

 文月の言葉に振り返って彼の言葉を伝えた。 

「ちょうどお茶の時間だし皆の分を」 

 薫の言葉を受けて、文月は承諾の意を口にして下がった。 

 八重桜が道明寺に似ている。それは嘘ではない。けれど薫は知っていた。道明寺が夕麿の好物であるのを。 

 立ち去る時に薫は、夕麿が振り返って自分を見たのに気付いた。彼は知っていて、自分たちのありのままを見せてくれたのだ。 

 だから道明寺はささやかなお礼のつもりだった。 

 午後のお茶に声を掛けると夕麿が、武を抱き上げて姿を見せた。今日は日曜日…だが、御園生邸には余り人がいなかった。影暁は人に会うと言って出掛けた。麗は店に出ているし、貴之と敦紀は渡米前の挨拶や用事を済ませる為に外出した。 

「夕麿さま、お薄をお立ていたしましょうか」 

 義勝が当直の為、雅久は邸で先程まで舞の稽古を幸久としていた。夕麿のすぐ横の床に膝を着いて声を掛けた。葵が武と夕麿を非難する言動が見られてから、雅久はこの様な姿勢を見せるようになった。彼にすれば葵が武や夕麿を薫よりも下に見ているのが腹立たしのだ。 

 確かに前東宮の直系である武よりも現東宮の息子として生まれて、双子だったという理由で出された薫の方が現状では身分が高い。だが今上より『紫霞宮』の名をいただいているのは、薫ではなく武なのだ。 

 薫本人にはそんな気持ちは欠片もない。それははっきりとわかっている。 

 雅久は紫霞宮家の大夫である。本来は『宮司みやのつかさ』であるのに、武の立場を鑑みて置かれた役職だ。しかも本来は宮内省の職員から選ばれるものが、敢えて外の人間が選ばれているのも、武が自分の立場に少しでも慣れるようにという配慮でもあった。自分よりも身分が高い周の推薦を受けて、大夫になった経緯と責任があると雅久は思っている。武と夕麿の苦悩を、それらを乗り越える姿を見て来た…共に経験して来た。武は今もたくさんの重荷を担ぎ続けている。 

 薫と葵に自分たちの苦難を味合わせたくはないと、武や夕麿が心を砕いている事実がある。二人の日常はその上に成り立っているのだから。薫より武を葵よりも夕麿を上に置く姿勢をとる事で、自分の言動がいけない事であるとわかって欲しい。同時にこれは雅久の意地でもある。 

「お薄ですか。欲しいですね」 

 穏やかで柔らかい笑みが返って来た。 

「では少々お待ちくださいませ」 

 それぞれの好みをよく知った上での気遣い。本来は茶室で立てるのが好いが、居間での団らんを壊さないように、雅久はキッチンへと向かった。 

「そう言えば…茶室に随分入ってないよな」 

 武がポツリと呟いた。取り立てて抹茶が好きな訳ではないが、茶道は紫霄に入ってから学んだものだ。 

「そう言えばそうですね。忙しさに振り回されて、その様な心の余裕を失っていたかもしれません」 

「次の休みは茶室で…と予定に入れておこう」 

 二人の間に交わされる穏やかな微笑みを、薫は眩しい程に美しいと思った。だが薫の横にいる葵は、うんざりした顔で小さく溜息を吐いた。向かい側に座っている朔耶が、悲しそうに目を伏せたのも見えた。 

 武と夕麿の幸せな姿を葵は見たくはないのだろうか。薫は愛する人の心が見えなくなっていた。 

 朔耶にしてもこのまま、葵と武の間が拗れるのは困るのだ。そんな事になれば、周が板挟みになって苦悩する。彼の武への忠義心は理解している。朔耶が薫の乳兄弟故に、周は双方の間で選択を迫られる。 

 海外での公務まではわからないが、武と夕麿の努力も苦労も伴う苦悩も、この半年間のアルバイトで朔耶は観て理解しているつもりだ。生半可な覚悟では実行出来ないという事実もわかっていた。 

 武も夕麿も自分たちに仕えてくれる者たちへの気配りは細やかだ。まだ高校生である薫にそこまでを求めるのは難しい事だとは思っている。たとえ武が高等部在学中から、その資質を顕著にしていた事実が有ったとしてもだ。 

 武は武。薫は薫だと思っている。育ち方も本人の性格も、側に付従い仕える者も違う。絶対に同じにはならないのは当たり前の事だ。だから薫は薫でいて欲しいと願う。いろんな事を経験して、成長して行けばいいのではないだろうか。周の受け売りの考えではあるが正しいと思っている。 

 問題はやはり葵だ。 

 PTSDは一応、義兄 清方のを見てはいる。だが清方は懸命に乗り越えようとしている。目の前にいる夕麿は治療の結果、完治した訳ではないが自分を制御する術を身に付けた。 

 葵には清方と義勝が協力して治療にあたっている。周の話によると彼は二人を信用していない様子だと言う。医師と患者の間に信頼は必要だ。精神科はわからないが、他の診療科よりも信頼に重きが必要だと思う。他の医師を用意するにも、紫霄学院の中には入れなくては意味がない。かといって内部の医師は信用するべきではない。 

 長く内部で診察を行っていた清方が言うのだ。柏木教授の例もある。外部からの干渉で、暗殺者になる可能性がある。葵が二人の精神科医を信用しないのは、結局は武に対する不満から起こる反発が原因だ。 

 武は葵のPTSDを理解している。だから現状に自らの体調を犠牲にしても、おとなしく耐えている。確かな懐の深さと強く大きな愛情を感じるのだ。 

 身分は確かに薫の方が高い。だが上に立つ者として人々を導き率いて行く、素養は明らかに武の中の皇家の血が与えたと思う。見出だして育てたのは夕麿と彼らを取り囲む忠臣たちだ。だから武を軽んじる言動に走る葵を、大夫であり一番の忠臣である雅久が牽制するのだ。 

 夕麿や実母 小夜子の次に雅久は、武への愛情を強く抱いていると思う。雅久の立場には自分がならなければならない。薫と葵を理解して支え身を賭して仕える。しかも雅久は義勝はかつては殉死の決意をしていたが、様々な事情が重なって現在は殉死の想いをひるがえしているという。 

 生きて御園生を支え、主人の祭祀を護り続ける。雅久の忠義なのだと周から聞かされていた。若者の精神年齢の低下が懸念される時代に生きて、10歳程の年齢差しかない彼らの何と大人な事だろうか。彼らのこの姿勢は既に高等部在学中から見られ、夕麿たちの卒業渡米によって離れた1年間に強くなった。武が合流してそれぞれの想いと決意が深まり、帰国後に発展と成長を続けている。 

 朔耶は思う。同じには絶対になれない。そこまでの人材もいない。誰かに何かを期待するのではなく、まず自分が成長しなければならない。何をおいても勉学に励め。これが周のアドバイスだった。大切なのは今の自分がやるべき事を疎かにしない…のが大切だと。自分に出来る事を一つひとつ、努力して行く気持ちが大事なのだと。 

「僕はそういうのを疎かにする者に、本当の忠義は果たせないと思っている。僕らの中で忠義者の先頭を走っているのは、貴之と雅久だと思う。彼らはあらゆる意味で、日々の鍛練や努力を忘れない。そう言う意味では僕はまだまだだ」 

 朔耶の相談に周はこう答えたが彼にしても、次々と更新される医学技術に遅れない様に、日々の勉強を決して怠らない。 

 お手本は周囲にある。主人の為は結局は自分の為でもあるのだと、彼らが証明しているのだ。朔耶は悩みに悩んだ末に周と同じ道を、総合医を目指す事を決心していた。 

 武と夕麿の体調を管理する為に奔走する周に、もっと余裕を与えたいと思うのだ。今の彼はそれこそ倒れる寸前まで、紫霞宮家の侍医としての責任を担って働いている。自分は丈夫だから…というのも、朔耶には逆に心配の種なのだ。 

「朔耶」 

 物思いに耽っていると、不意に薫に声をかけられた。 

「何でしょう?」 

「大学はいつから?」 

「入学式は4月の10日です」 

「じゃあ、高等部より遅いね」 

「そうですね」 

「外の大学って忙しいの?」 

「医学部は忙しいみたいです。でも私も勉強をしに行くのですから、それで良いと思っています」 

「皇国の大学は海外の大学に比べれば、カリキュラムのあり方が緩いですね」 

「そうだな…成績が落ちて、放校と言うのはないからな」 

 雅久と武が沁々と言い夕麿が苦笑した。 

「それは周も言っていました」 

「周さんも夜遅くまで勉強をしていましたね。いつまでも部屋の灯りが消えなかったのを覚えています」 

 ロスでの留学生活を懐かしむように、夕麿が少し遠くを見る目で答えた。 

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