蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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     プロローグ

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 税関を抜けてすぐに、携帯にメールが届いているのに気が付いた。携帯はこちらでも使用出来るタイプに変えて来た。帝都から10時間。日付変更線を越えて、到着したのは出発したのと同じ日付の昼。

 夕麿ゆうまは携帯を開いてメールの内容を見た。

〔到着次第、大至急、電話が欲しい〕

 あまねからのメールだった。発信されたのは数時間前。嫌な予感がした。震える指でアドレス帳を開いて周の番号をコールした。

〔夕麿か?〕

 電話から響いて来る声が、明らかに緊迫したように聴こえる。

「周さん、たけるに何かあったのですか?」

〔落ち着いて聞け? お前からの電話に出られたすぐ後に倒れられた。 肺炎で先程まで熱が下がられなかった〕

「……肺炎…!?」

〔取り乱すな。 危機は一応脱した。 ただ…お前を呼んでいらっしゃる。 声を聞かせて上げて欲しい〕

「わかりました」

 肺炎と聞いて幼き日に酷く苦しんだ記憶が、夕麿の中に鮮やかに甦る。呼吸をするだけで重くて鋭い痛みが胸に走って、苦しくて辛かったのを覚えている。あの苦痛に武が今まさに苦しんでいるのだと思ったら、自分まで呼吸が出来なくなってしまいそうに感じた。

「夕麿、しっかりしろ。お前がそんなんでどうするんだ!?」

 義勝の叱責が飛ぶ。

「わかっています……」

 気持ちを懸命に保って答えたが声は不安に震えていた。携帯の向こうで周の声がした。

〔武さま、夕麿からです〕

〔夕麿…?〕

 掠れて弱々しい声がして、夕麿は息を呑んだ。

〔スピーカーに切り替えた〕

「武…武…私の声が聞こえますか…!?」

〔夕麿…苦しい…助けて…〕

 恐らくは熱で朦朧もうろうとしているのだろう。夕麿が何処にいるのか、今の武は認識してはいないのだろうと感じた。

「武……」

 痛ましさに夕麿は愛する人にどう言葉をかけるべきかがわからなかった。ショックのあまりに脳は思考を拒絶したように働かない。それでも懸命に言葉を紡いだ。

「あなたの側にいられないのが辛い…今すぐ飛んで帰ってあなたを抱き締めたい…武…武…」

 遠く太平洋を隔てた場所にいる事が辛い、どうして1年待って一緒に来なかったのだろうと後悔が胸を過ぎった。

〔夕麿…泣くなよ…俺…生きてる…から〕

「話さないで…下さい…苦しいでしょう…」

 はっきりとした言葉に意識が回復したのを感じる。

〔帰って…来る…なよ…?〕

「武!?」

 すぐにでも折り返したい夕麿の気持ちを読んだように言われて、また言葉を紡ぐ事が出来なくなった。

〔帰って…来たら…別れる…からッ…〕

 その言葉に呆然とする。

〔夕麿、誰かに代われ〕

 夕麿がもう正しい言葉を発せられないと判断したのか、周が電話の向こうで言った。聞いていた義勝が夕麿の手から携帯を奪った。

「義勝!」

 半ば悲鳴のような声を夕麿があげたのにも取り合わずに、義勝は電話に出た。

「代わりました」

葦名 義勝あしなよしかつ…だったな? 良いか、夕麿を帰国させるな。 それでなくても僕は知らせるなという御意思を破って、お叱りを覚悟で独断でメールした。これ以上武さまのお気持ちを無碍にしないように、彼を止めて欲しい〕

「それは構いませんが、容態はどうなのです?」

 義勝にしても他の誰にしても、この場にいる者は全員が武の事を心配している。

〔取り敢えずは投薬が効いてかなり熱が下がられた。今のところ意識もはっきりとして来られている。だが呼吸器系の病気は、午前中には熱が下がりやすい傾向がある。 まだまだ予断は許さないが、取り敢えずは症状が落ち着かれたというところだ〕

「わかりました。 少なくともこちらでの手続きや雑事が終えるまで、帰国は思いとどまらせます」

〔その代わり1日に1回、数分程度なら電話での会話の許可をもらっておく〕

「わかりました、伝えます」

〔ではまたなにかあったら連絡する〕

 義勝が電話を切ると涙に濡れた瞳で、縋り付くように見つめる夕麿がいた。

「こんな所では一目がある。 安全面を考えても迎えの車の中で話そう」

 蒼白になっている夕麿を支えて、義勝がロビーを横切って行く。 貴之と高辻が二人の荷物を合わせて持ち、雅久も後に続く。 迎えの車はすぐに見つかり彼らは急いで乗り込んだ。

 御園生 有人が用意させた屋敷は、ビバリーヒルズの一角にあった。 元はハリウッドスターの持ち家だったとかで、セキュリティーが他の屋敷よりも厳重に張り巡らされている。

 家の一切を取り仕切っているのは、文月家の一人、御園生本家に仕えるあの文月の実弟だった。

「私も文月とお呼び下さい」

 雅久から事態を手短に聞いた彼はすぐに彼らを居間に案内して、メイドたちに荷物をそれぞれの部屋へ運ばせた。

 夕麿を落ち着かせる為に、軽い食事とお茶が運ばれて来た。 だが彼は手を付けようとはしない。

「夕麿、何でも良いから口にしろ。 武は取り敢えずは容態は落ち着いたように、久我先輩は言っていた。 お前が罹った頃とは違う。 今はもっと良い薬がある」

 だが夕麿は両手で顔を覆ったまま激しく首を振った。 後悔ばかりが胸を過ぎる。

「そのまま大学部へ進んで一年後に、こちらへ転校する方法をとれば良かったのです。そうすれば武の側にいられたのに」

 アメリカの大学は成績に問題さえなければ、転校が可能なシステムになっている。 武と一緒に来る選択もあった筈なのに……どうして思い至らなかったのだろう。 そうすればまだ学院に、武の傍らにいられた筈だった。

 だが不安におののいている時間は与えられなかった。 彼らは前以まえもって組まれている予定通り、到着と就任の報告に御園生系の企業に赴かねばならなかった。 到着したばかりの者に落ち着く暇を与えずに、即刻出社させるのはアメリカのルールから鑑みても嫌がらせ以外の何ものでもない。

 近年経営が悪化しているその企業の経営陣は、御園生直系の御曹司の登場を快く思っていないのがありありとわかる態度だった。 どのような事情があろうともビジネスの世界では配慮はない。 彼らは高辻を除いてビジネススーツに着替えて車に乗り込む。

 ロサンゼルスは広い。 狭い島国の人間の都市の感覚をアメリカの都市に当てはめる事は出来ない。 ロサンゼルス市だけで関東地方と同じくらいの広さがある。

 やがて車は高層ビルの立ち並ぶ場所へ入り、ひとつのビルの前で停車した。

 中から出て来た男が車のドアを開ける。 まず貴之が降りて周囲を窺う。 次いで、雅久、義勝、夕麿の順に車から降りた。 アメリカ人から見れば、夕麿たちは中学生くらいにしか見えない。 彼らはそれを十分に心得ていた。

 ビルのエントランス・ホールに入ると、重役たちや秘書らしい者が並んでいた。

「お疲れさまでございます」

 白髪混じりの小太りの男が進み出て来た。

「あのう…御園生みそのお 夕麿さまは、どの方ですかな?」

 自分の名も告げずに尋ねた男の無礼さに眉をひそめる。

「まずあなたから名乗られるべきでしょう。 夕麿さまに対して無礼ではありせんか」

 雅久が一歩踏み出して鋭く言った。 こういう時に彼の人並み外れた美貌は迫力がある。 男は思わずたじろいで一歩下がった。

「し、失礼を致しました…当社の秘書室長の桐原きりはらと申します」

 ポケットからハンカチを出して吹き出した汗を拭う。

「こちらが夕麿さまであらしゃいます」

 雅久が紹介はするが、夕麿は秘書室長には頷いてみせただけである。 夕麿の出自については、ちゃんと話が来ている筈である。

「社長室にご案内致します」

 桐原の先導に4人は黙って従う。 他の人々は面白そうに眺めていた。

「俺たちは珍獣か何かか?」

 義勝が皮肉を込めて敢えてドイツ語で言った。

「最初からナメられてますね」

「面白くはないでしょう。 高校を卒業したばかりの、御園生本家の養子が乗り込んで来たのですから」

 夕麿が平然と答えた。さすがにドイツ語まではわからないのか、桐原はキョトンとして夕麿たちを見ている。社長や重役たちの資料は有人にもらって一通り目を通したが、人は直接会ってみないとわからない。ドイツ語は4人とも話せる。それ以外の言語も巧く繋げば、内緒話には苦労しなくてよいだろう。

 夕麿たちはこの企業の立て直しと内部調査を命じられている。立て直しは公にされているが、内部調査は極秘である。有人に二重の仕事を命じられたわけである。若い彼らがまさか内部調査をするとは思ってはいまい。高位の貴族出身の養子の御曹司が大学留学をするのにあわせて、ちょっと社会勉強をさせる…というものくらいだと思っている筈である。

「こちらです」

 重厚な扉を桐原がノックする。義勝がチラッと夕麿を見た。夕麿が嫣然えんぜんと微笑んだ。社長室のドアは紫霄ししょう学院の生徒会室の物には劣る。それを義勝は視線で揶揄やゆしたのである。

「社長、皆さまをお連れ致しました」

 まず貴之が入り、雅久、義勝が入って軽く頭を下げ夕麿を入室させる。どこまでも夕麿を特別扱いするのを有人には許可を得てある。相手を油断させる為と後々に武が渡米した時の配慮として、徹底させておくつもりだった。虚仮威こけおどしであるが、相手にこちらの手の内を見せないようにする手段でもある。どうやら狙い通り社長は鼻白んだ顔をしたが、夕麿たちは気が付かないふりをした。

「到着早々、申し訳ありませんな。社長の大田おおた 邦夫くにおと申します」

「御園生 夕麿です」

 今度は夕麿から名乗り義勝たちが名乗る。

「大学の方と掛け持ちは大変でしょうから、まあ、講義の実習をするおつもりでいらしゃればよろしいかと」

「それはありがとうございます。後学の為にいろんなものを覗かせていただきます。こちらは義父ちちに許可をいただいておりますので」

 整った顔立ちの夕麿に笑みを向けられて、社長は赤くなって視線を泳がした。

「で、では桐原君、皆さまを部屋へご案内して」

「はい、こちらでございます」

 案内された部屋は夕麿たち全員を隔離するには十分な広さだった。

「必要なものがあられましたら、こちらのエブリン・シンプソンに命じてください」

 金髪のグラマラスな女性が歩み出た。

「シンプソンです。 本日より秘書としてお付きいたします」

 室内に強い香水の香りが広がる。

「申し訳ありませんが、秘書は私が務めさせていただきます。 そのように強い香水の香りを、夕麿さまはお嫌いになられます」

 雅久がきっぱりと言い切った。

 彼女にすれば日本から来た身分の高い、それこそアメリカ人の憧れの貴族・貴人である若い彼らを、自分の魅力で籠絡しようと考えていたに違いない。 社長や重役たちもそれを計算して彼女を配置したのだろう。 思っていたよりも美形揃いで立ち振る舞いの美しい優等生…といった彼らを見て内心、舌なめずりしていたに違いない。

 だが実際に彼らの執務室に入ってみると、一番の狙い目の夕麿が明らかに不快な顔をした。 しかも東洋美人とはこんなに美しいのか…と、見とれてしまう程の美貌をした雅久が、きっぱりと秘書はいらないと言う。しかも香水の香りは嫌いだと告げた。

「侮辱だわ!」

 ヒステリックな声を上げる彼女に貴之が近付いた。 一応、許婚者がいた彼は、夕麿たちよりは女性の扱いになれている。

「申し訳ありません、シンプソンさん。 わが蓬莱皇国の高貴な方々は、強い香りが苦手でいらっしゃいます。 夕麿さまは特に御身分が高くいらっしゃるので、あなたの香水の香りのようなものになれてはおられないのです」

 内心、貴之も強過ぎる匂いにげっそりしながら微笑んで説明をする。

「まあ…それは失礼を致しました」

「秘書などのお側仕えは作法などが、決められておりますのであなたには難しいと思われます。 出来ましたら社の事をいろいろと、教えていただければこちらとしても助かります」

 貴之の穏やかな物腰に彼女は機嫌がよくなった。

「よろしいでしょうか、夕麿さま?」

「香水を控えてもらえるなら、許可します」

 女を強調するアメリカ女性に夕麿は嫌悪しか感じなかった。 雅久や義勝は女性に興味がない程度だが、夕麿ははっきりとした女嫌いだ。 化粧品や香水の匂いで、体調を崩す程の嫌悪感を抱く。 全ては彼を虐待して、六条から追い払った継母、佐田川 詠美の所為せいだ。

 夕麿が嫌悪感を持たない唯一の女性は愛する武の実母であり、義母である御園生 小夜子だけだ。 彼女は微かに薫香を焚き込めてはいるが優しい仄かなものである。 聖母のように穏やかに、温かく夕麿たちを受け入れる彼女を、実母と同じように愛情を持って接している。

「もうひとつ、日本の高貴な方はその身体にも持ち物にも、無闇に許可なく触れられるのを嫌われます。 これも習慣ですので御配慮をお願い致します。高貴な方々はシャイなのです、特にあなたのように美しい方には」

 見事にシンプソンは、貴之に丸め込まれてご機嫌で部屋から下がった。 目を丸くしている桐原に貴之はこう言った。

「夕麿さまは既にご結婚をされておられます。御伴侶は大変身分の高い方です。 ですから不用意に夕麿さまにあのような女性を近付けないでいただきたいのです。 もし不埒な振る舞いに及ぶ者が出た場合、桐原さん、あなたに咎めが降りかかるやもしれません。

 御伴侶は夕麿さまを傷付ける方を、決してお許しになられません」

「わかり…ました」

 貴之の目が嘘や冗談を言っているのではないと桐原は悟って、青ざめながら何度も頷いて承諾した。

「では我々だけにしていただけますか?」

「承知致しました」

 まさに這々の体で逃げるように出て行く。 ドアが確かに閉まったのを確認して全員が吹き出した。

「貴之、お前、そんなにタラしだったか?」

「女の機嫌取りは母と梓でなれてるよ。 あと…舌先三寸は周さまに学んだかな?」

「それはとんだ怪我の巧妙ですね」

「まあ…俺たちを骨抜きにするつもりだったらしいが…」

「武の方が美人で可愛いですね。 アメリカ女性は慎ましやかとは、縁がないように見受けます」

「本当に。 あれで魅力的だと思っているなんて…お義母さまの爪の垢でも、煎じて飲めばよろしいのです、みっともない」

 夕麿も雅久も嫌悪感を露わにする。 雅久の嫌悪感は武の兄としての意識からだろうか。

 ここで義勝が手を上げて制した。 部屋の中を調べていた貴之が、何かを見つけ出したらしい。

「盗聴器か?」

 義勝がドイツ語に切り替えた。

「余り性能の良い物ではありませんが」

 貴之がフランス語で答えた。

「有効距離はどれくらいです?」

 夕麿がスペイン語で聞く。

「精々2~30mと言うところでしょう」

 貴之がイタリア語で答えた。

「他には?」

 再びドイツ語に戻る。

「あの絵画に隠しカメラですね。 最近は電波を飛ばすタイプの、カードくらいのがありますから。

 あれも距離は似たようなものです」

 イタリア語で貴之が答える。

 さすがにこんなに言語を切り替えたらついては来れないだろう。

「妨害は出来ますか?」

「出来ます。 明日にはセッティングします」

 今度は夕麿が手を上げ、日本語に戻す。 自分たちだけの会話、盗み聞きを防ぐ以外は日本語で。 社の人間には徹底的にQueen's Englishクイーンズイングリッシュ(イギリス英語、アメリカでは上流階級が使用する)で統一する事を決めた。

「夕麿さま」

 貴之がフランス語で言う。

「少々、俺の行動に目を瞑ってくださいませんか?」

「あなたを信用しましょう。 しかし、自分を傷付けるような事はしないでください」

「大丈夫です」

 貴之の言葉に夕麿は頷いた。

「それでは、今日はこれで引き上げましょう。 武の事も気になります」

 武の話は聞かれても気にはならない。 表向き噂の形ではあるが、有人の若い頃の悲恋の結果の実子となっていた。若い頃に小夜子と出会い恋をしたが、有人は既に結婚式を控えた身だったと。 年月を経て再会し小夜子が密かに産んだ武の存在を知り彼女と再婚した…武の本当の身分を隠す為にわざと流された噂。 有人はそれを否定も肯定もしていない。 だから逆に真実として、巷では信じられているのだ。

 武は夕麿たちの義理の弟。 そしていずれは御園生の総帥を継ぐ本物の御曹司。 彼らはそう信じている筈だ。 だから武の話は普通に会話しても差し障りはない。 もとより夕麿や義勝、雅久の3人は、自分たちが同性愛者であるのを隠すつもりはない。貴之はどうやらバイセクシャルらしいが、彼もそれを隠す気はないらしい。

 彼らは堂々と部屋を出て、重役室の並ぶ廊下の端にある秘書室の前に来た。 貴之がシンプソンを呼び、今日は到着したばかりで疲れているので帰ると告げて、明日までに揃えて欲しい資料を指定した。

 ついでに彼女の耳元に囁く。「また明日、あなたにお目にかかるのを、楽しみにしていますよ」 と。

 彼女は軽くウィンクをして、上機嫌で彼らを見送った。

 貴之はエレベーターの中で吐き捨てるように言った。 安物のステーキの厚切りを目の前に積まれた気分だと。これには全員が同意して笑った。

 
 車がビバリーヒルズの屋敷に到着するまでの時間すら今は苛々する。 肺炎は午前中にある程度症状が軽くなっても、午後になると急変しやすいのを夕麿は知っている。

 それにしても何が原因なのか…?

 卒業式の日まで必死に頑張っていた。 出来るだけ笑顔でいてくれたのを、夕麿はちゃんとわかっていた。 多分…自分たちの乗る車が見えなくなってから、堪えていた涙を流したのだろうと言うのも。 ストレスや心労、不安はあっただろう。だが空港で最後に交わした会話にもそんな様子はなかった。 逸る気持ちを抑えてとにかく夜を待つ。 屋敷に帰って夕麿は苛立つ気持ちをピアノにぶつけた。

 御園生邸に寮から愛用のベヒィシュタインを移動して小夜子にその管理を依頼した。 引き換えに御園生邸のベーゼンドルファーを、小夜子はこの屋敷に移送してくれたのである。それをひたすらに弾き続ける。 武の無事を祈って『紫雲英しうんえい(レンゲソウ)』を奏で続ける。

 到着してから水すら口にしていない夕麿を見かねて、義勝が途中で遮って無理やり、ミネラルウォーターを飲ませた。 だがそれも少量しか受け付けない。高辻が文月に医師を紹介してもらい、夕麿の為に処方箋を出してもらって、点滴と鎮静剤を用意してある。 武への電話が終了したら有無を言わせずに、投与するつもりで義勝たちに話してある。

 時計は23時を過ぎた。 皇国では今、明日の午後16時頃になっている。

 夕麿は周の携帯をコールした。 長いコール音の後、周が出た。

〔はい〕

「周さん、武の容態は…?」

〔……また熱が上がって来られた〕

 夕麿は息を呑んだ。 心配していた事が現実になっていた。不安に携帯を持つ手が震える。

〔抗生物質が効いていない。 今、別の薬を投与して様子を見ているが…かなり苦しまれていらっしゃる〕

「………意識は…?」

〔時折混濁こんだくされるが、頑張っていらっしゃる〕

「話せますか…?」

 夕麿の言葉におそらく担当医に視線を向けて問いかけたのだろう。 一瞬、言葉が途切れて周の返事が聞こえた。

〔お前の声を聞かせる事は可能だ〕

「それでも構いません。お願いします……」

〔わかった〕

 しばらくして微かに周が、武に話し掛けるのが聞こえた。

「武、しっかりしてください。お願いです、頑張って…」

 呼びかけに答えたのはかすかな声による、苦痛に喘ぐ呻き声だった。

〔夕麿、これ以上は武さまのお身体からだの負担になる〕

「わかりました。周さん、どうか武を…武をお願いします…」

〔わかった〕

 夕麿は携帯を握り締めたまま泣き崩れた。

 見兼ねた雅久が携帯を夕麿の手から取り、義勝が高辻に合図をして夕麿を部屋へ連れて行った。

「久我先輩、雅久です」

〔夕麿はだいぶ参ってるようだな?〕

 夕麿の不安定な状態は、周にもわかるらしい。 先程の社での無理が余計に負担になっているように思えた。

「はい、こちらに着いてから、ほとんど何も召し上がられていません。

 本当のところ、武さまの御容態は如何なのですか…?」

 雅久は周が夕麿の状態を考えて、全部を話してはいない気がしていた。

〔かなり危険な状態と言える。 元々余り体力がおありになられない。 だから体力がどこまで保つのか…が問題になっている。院長自らが治療に当たってはいるけれど……現在投与している薬が効いてくれる事を祈っている。恐らくは今夜が峠だろう〕

 その言葉に雅久はショックを隠せずに、電話の向こうの周に問い掛けた。

「そんな…原因は何なのです? 私たちが発ってすぐというのを、夕麿さまは大変気になさっていらっしゃいます」

 夕麿は帰宅する車の中で、誰に言うでもなくそんな事を呟いていた。

〔まあ…ストレスが、免疫力を弱めたと言えば、それが原因とも言えはする。 だが元々の武さまの体質が原因だ。 誰かに責任があるわけではない。 たまたま、こんなタイミングだっただけだ〕

 周の言葉が曖昧に聞こえた。 だが彼は医学生として、患者個人のプライバシーは決して言わないだろう。

〔とにかく夕麿にはしっかりするように言って欲しい。 ここで夕麿が倒れたら、武さまがどんなにショックを受けられるのか、考えるように伝えてもらいたい〕

「わかりました」

 周のその言葉は最もな言葉だった。

〔すまないが、君か義勝君の携帯番号とメールアドレスを、後で送って欲しい〕

 夕麿の携帯だと話せない事があると言う意味だ。

「承知いたしました。 周さま、武さまを……お願い申し上げます」

〔出来得るだけの事はするから……〕

 そう言って周は電話を切った。

 雅久はすぐに自分の携帯に周のメールアドレスを転送し、自分のと義勝の携帯の番号とメールアドレスをメール送信した。

 人の気配がしてふと見ると貴之が、うなだれて視線を逸らすように立っていた。

「貴之、あなた…何かご存知ですね?」

 雅久は彼が未だに学院内の情報網を、掌握している事を知っている。本当の原因を知っていてもおかしくない。

「夕麿さまには話しませんから、教えていただけませんか?」

 それは問い掛けでも要請でもない。こういう時には雅久は詰問しかしない。相手に望む答えを言わせるまで、恐ろしいまでの気迫で詰問する。美貌ゆえに鬼気迫る勢いは、学院の教師や夕麿すら怯む。

「……本当にお前の胸の内だけに収めてくれ。義勝にも言うな?」

「私だけの胸にとどめておきます」

「ストレスで食事が食べられなくなるのを防ぐ薬の…副作用で免疫力が著しく低下したのが原因だそうだ」

 何の為に武がそんな事をしたのか。そんなのは聞かなくてもわかる。そして、義勝に話せない訳も。

「だから久我先輩は、言葉を濁されたのですね……」

 最初に周が言った、武の『知らせるな』の理由もわかる。そこまでしてしまう武の夕麿への極端な愛情の傾け方を、雅久も貴之も危ういものに感じていた。

 そこへ高辻が戻って来た。

「先生、義勝は?」

「しばらく彼に付き添うそうです」

「貴之、先程の話は、高辻先生にはお話した方がよろしいのではありませんか?」

「話…ひょっとして武さまのご病気の事ですか? 存じてます。 担当医が泣きついて来ましたから」

「そうですか…」

「早々にお二人が離れた事による、症状が出た…とも言えます」

 高辻はちょっと上を仰いで、苦悩するような顔をした。

「義勝君には話せないからね…彼は夕麿さまへの思い入れが激しい。君たちなら冷静にサポートが可能でしょう。 問題は夕麿さまだけにあるのではないから、困っているわけです」

「武さまの方にも…? あのストレスの事以外にですか?」

 貴之と雅久は顔を見合わせた。

「あの…私の思い込みかもしれませんけど…武さまは夕麿さまとは別の理由で、依存状態なのではありませんか?」

 雅久はある意味、武に一番近い位置にいた。 実の兄弟のように武と学院で過ごして来た。 だから他の者に見えていないものが見えていたのである。

「…その通りです。 武さまは夕麿さまに依存され、必要とされる事で自分の居場所を見出していらっしゃいます」

 高辻の言葉に二人が頷いた。

「ところが武さまはご自分のその状態を、自覚なさってはいらっしゃいません。

 逆に夕麿さまは、ご自分が武さまに依存しておられるのを、自覚していらっしゃいます」

「つまり、夕麿さまはこちらへ来られたのを契機として、その依存を解消しようとお考えなのですね?」

「そうです。 けれども武さまにとっては、ご自分の居場所を失うと感じられる筈です」

 二人は絶句した。 仕事を何とか一段落させて、夕麿は武の為に帰国しようとする筈だ。

「あの、俺も一つ、懸念があります」

「それも私の懸念の一つだと言ったら?」

「先生は何でもお見通しですね?」

「一応、そちらが専門ですから。 それに…学院の外では必ずぶつかるものです」

 貴之と高辻の会話に雅久は首を傾げていたが、ようやくわかったのかみるみるうちに顔を強ばらせた。

「同性愛者への偏見ですか…?」

「そうです。 雅久さんは義勝さんが一緒ですから、プレッシャーは半減出来ます。 けれど夕麿さまはまず、お一人でそれに耐えられなければなりません」

「隠すつもりはないようですが…社のあの様子からして、夕麿さまを蔑ろにする理由になりそうです」

「だから…桐原に夕麿さまがご結婚されていると、あなたは言ったのですね、貴之」

「牽制の意味もあったけどな。 御曹司に女性をあてがおうなんて、ああいう連中は考えそうな事だ。 無闇に夕麿さまに近付かれたら、面倒な事になるだろう? 別に同性愛を言う必要はないし、知られるのは後の方が良い」

 貴之は学院に閉じ込められる側の人間ではない。 故に夕麿たちよりもそういう偏見に敏感だった。

「武さまがその事に気が付かれたら…」

「夕麿さまの障害にご自分がなられていると…思われてしまう…武さまなら、そう思われます」

 雅久が呟く。

「武さまは私生児としてお育ちになりました。 やはり強い偏見の中でご自分がいなかったら、ご母堂は普通にご結婚されていたと思われていたでしょう」

「お義母さまはあのように、お綺麗でお優しい方です。 ご縁談はたくさんあられたでしょう」

 確かに小夜子の縁談の障害に武がなった可能性は考えられる。 武をどこかに養子に出せとすすめた者もいるだろう。 そういう状況で成長したならば、武が自分を不必要な存在と心の奥深くで認識していたとしても、責める事は出来ない。

「武さまがもし、夕麿さまがご自分を必要とされなくなったと判断し、尚且つ、障害にしかならないと思われたら…」

「恐らく学院に留まる事を選ばれるでしょうね」

「武さまが学院に残られるのは難しくない…戻って夕麿さまと別れられたと申請するだけだ」

「お止めしなければ…あんな場所で、お一人で一生を過ごされるなんて…」

 雅久が震える声で言うと、高辻は静かに首を振った。

「武さまは恐らくそのような選択をされれば、一定の時間を置いてお生命を絶たれるでしょう…」

 雅久も貴之も悲鳴や唸り声しか上げられなかった。

「でも…夕麿さまが武さまに依存しない事は、治療としては必要でしょう?」

「ええ。 けれど武さまと同時に治療を進めるべきなのです。 だから…武さまに私の後任を紹介したのですが…今回の事で同時治療が困難になりました」

 どうすれば良いのか…彼らは途方に暮れるしかなかった。




   
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