蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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   Campus Life

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 UCLAに入学して夕麿たちが困ったのは食事の問題だった。 キャンパス内のカフェテラスには和食もあるが時折、首を傾げたくなるような物がメニューにあったりする。欧米人の多くにとっては米は野菜と認識されている。その為だろうか、飯の部分を他の物に置き換えたのが、和食として並べられていたりするのだ。

 もとより夕麿たちはファーストフードも炭酸飲料も口にはしない。幸いにも湯のサービスはある為、彼らは茶葉を持参するようになったが、紙コップで飲むのは何とも味気なくてうんざりとしてしまう。

 結局、昼食時間に合わせて弁当を届けてもらい、常に日本茶の入ったポットを所持する羽目になった。

 入学一年目、授業は一般教養から始まる。 近年アメリカの大学では、『ホメロス』や『イーリアス』などの古代ギリシャ叙事詩がカリキュラムに入れられている。 ネイティブ・アメリカンの神話は別にして、移民国家であるアメリカには独自の神話がない。 そこでギリシャ叙事詩を学ぶ運びになったと言える。

「アメリカに来てギリシャ叙事詩とはな」

 義勝がウンザリして言う。

「今更な気がしますね」

 雅久もウンザリ顔だ。

「俺…原文のギリシャラテン語で、中等部時代に読んだ」

 貴之もげっそりしていた。

「仕方がないでしょう。 読んだり学んだりした事がある者の方が少ないのですから」

 夕麿だけがゆったりと構えている。

 近頃、御園生が買収した食品工場で真空パック詰めして、小夜子の手料理が送られて来る。 また少量だが武の手料理も入っていて、それらが弁当のおかずになっている事が多い。

 医学部の大学院生になった高辻も加えて、5人でカフェテラスで弁当を食べていると、赤毛の男が近付いて来た。

「おい、日本人。日本人は自分の国の神話を知らないって本当か?」

 彼は蓬莱皇国を知らないらしく、同じ言語を話す夕麿たちを最初から日本人と決めて掛かっていた。この男は有色人種カラードが嫌いらしく、ここで度々いろんな東洋人に絡んでいるのを目撃していた。 そんな男に蓬莱皇国の事を説明しても理解はしないと思われた。

「日本の神話ですか? 『日本書紀』は無理ですが、『古事記』なら暗記しています。ご希望でしたらお聞かせしますが?」

 雅久が涼しい顔で答えた。

「ついでに言えば『ホメロス』も『イーリアス』も暗記してるぜ?」

 義勝が吐き捨てるように言う。 夕麿はチラッと視線やったきり見向きもしない。

「はったり言ってんじゃね~!」

「嘘を言って何の特になるんだ?」

 貴之も視線を移さずに言う。

「このっ…イエロー野郎が…」

「君! 言葉を慎みたまえ! 夕麿さまに対して、何と言う口の効き方をする!無礼であろう!」

 背後から鋭い叱責がとんだ。その声に夕麿たちは弾かれたように振り返った。その声に聞き覚えがあったからだ。

「お久しぶりです、夕麿さま」

 歩み寄って来た人物を見て、夕麿以外が引きつった顔をした。そこにいたのは死んだ筈の慈園院 司だったからだ。

「久しいですね、たもつさん。

 こちらに留学されていたのですね?」

「はい。昨年は弟 司の事でお世話になりました」

「私は何も。全ては武さまのご希望です」

「そうでございますか。紫霞宮さまによろしくお伝えくださいませ」

「わかりました。

 保さんはこれからお食事ですか?よろしければご一緒に如何です?」

「よろしいのですか?」

 この光景をカフェテラス中の学生が強張った表情で見ていた。慈園院 保はUCLAでは有名な人間だった。気位が高くまさに特権階級そのものの立ち振る舞いで、周囲を畏怖させたり屈服させていたのだ。

 UCLAでの彼の渾名はMarquisマーキス。つまり『侯爵』と呼ばれている。その誇り高い男が、夕麿に対して最上級とも言える敬意を示している。 日本語の会話の意味はわからなくても、立ったままで頭を下げる保と、座ったままでにこやかに対応する夕麿の姿だけで、身分の差がはっきりする。 欧州では身分の高い相手の前では、跪く以外には座ったり寝転んだりはしてはならない。 常に身分の高い方が、座るなどの寛いだ姿勢でいるのだ。

「Marquis…」

 無視されていた赤毛が唸るように呟いた。

「まだいたのか? 良いか。 この方は蓬莱の皇家に連なる御身分だ。 今度、あのような無礼な真似をしたら、ここらか叩き出す!」

「I beg your pardon.(失礼いたしました)」

「Get down.(下がれ)」

 保は冷酷なまでに醒めた声で赤毛の男を追い払った。 だが夕麿はそんな事は気にもとめず、席に着いた彼を紹介した。

 彼はの名は慈園院 保。 昨年死亡した司の2歳上の兄である。 日本で在籍していた学校は紫霄ではない為、夕麿以外は面識がなかったのだ。

「保さん、私の事をよく御存知ですね?」

 留学中の彼がしかも表向きにならない武と夕麿の事を知っているのが不思議だった。

「一番上の兄が宮中に、お仕えしていますので聴き知っております」

「ああ、なる程」

 保は勧められるままに、夕麿たちの弁当に箸を伸ばした。彼も弁当組らしい。

「大変美味ですね」

「ありがとうございます。義母、御園生 小夜子に代わってお礼をもうします」

「小夜子さまの?」

「ええ。私がこちらの食べ物にどうしても慣れなくて…」

「夕麿さまは学院にずっといらっしゃったから、ファーストフードなどご存知ではなかったでしょう?」

「それがそうでもないのです。一度、武さまがご案内くださいまして」

「ああ、武さまは小夜子さまのご結婚までは、庶民として御育ちでしたね」

「いろいろな事を教えていただきました。でも、ファーストフードは口に合わなくて…」

「全体的にアメリカの料理は、塩分が多いように思います」

「わずか1ヶ月程で痩せてしまったのを、お二人が心配してくださったのです」

「そうでしたか。

 ……帰国中は大変な目に合われましたね」

「そこまでご存知なのですか?」

 保の情報力に驚く。

「いろいろとね…夕麿さまのご存知ないだろう事も、兄から聴き知っております」

「私の知っている事など、わずかだと思っています」

 まだ成人になったばかり。 すぐに渡米してサロンにすら出入りした事がない。 宮中に上がったのも正月の宴の時だけでそれも顔出しを表にしない状態でだ。 特別に調べなければ何もわからない。

「対立候補が存在した事は?」

「成瀬 雫さんですね。 夏休みの騒動で警護の指揮に派遣されて来られてましたから、お目もじいたしました」

「お会いになられたのですか!?

 彼の事はどれくらいご存知でいらっしゃいますか?」

「そうですね…」

 夕麿は貴之が調査して周に送った内容を掻い摘んで話した。

「成る程。 表向きの調査としては完全ですね」

 保のその言葉に貴之が問い掛けた。

「まだ…何かあるのですか、慈園院さま」

「保で構わないよ? 私は姿も声も双子のように弟と似ているらしいから…司を知っている君たちには、姓で呼ぶのは抵抗があるだろう?」

「ありがとうございます、保さま」

 雅久が礼を口にして夕麿以外が頭を下げた。

「質問に答えよう。

 彼は少年を愛でる趣味がある。 過去に彼が寵愛したのは、中等部の生徒ばかりなのです、夕麿さま」

「そんな…」

 夕麿の顔から血の気が引いた。 雫は学院内で武の警護を続けている。 そして武の所へ透麿が出入りしているのだ。

「弟が…中等部にいます。 武さまがいろいろと面倒を見てくださっております」

「武さまの側にはまだ、成瀬 雫がいるのですね?」

 夕麿は頷いた。

「実は小夜子さまが成瀬 雫ではなくあなたを望まれた一番の理由は、彼のその嗜好が大きく関わっていたのです。

 小夜子さまがどこから得られたのかはわかりません。 考えても見てください。 10代でいらっしゃる間は、彼も武さまを愛しく想うでしょう。 けれど20代、30代と生きて行く中で、どんなに武さまが愛らしい方でいらしても、成瀬の情が続くとは思えないのです。

 名前だけ形だけの婚姻は悲劇でしかありません。 私たち貴族として育った者ならば、ある程度の教育を受けておりますから…家の為と割り切る事がまだ出来ます」

「確かに…武さまにはご無理でしょう。 ストレスで倒れてしまわれる程、繊細なお心をお持ちですから」

 夕麿は昨年の板倉 正己の事件を思い出していた。 あの時、策略で夕麿に裏切られたと思い込まされた武は、ただ自分を押し殺した。 もし事実がわからないままその状態が続いたなら、武は食物を一切受け付けなくなり、痩せ細って生命を落としたかもしれない。

「成瀬の行状が表向きになっていないのは、彼自身が非常に巧妙だった事と、母方の揉み消しがあったからだと聞いております」

「母方…」

 雫の母は母が違うものの現皇帝の末の妹である。

「司のように…そのような経験は人間の心に傷を与えます。それは夕麿さまが一番おわかりであると思います。 弟君の為にも武さまにこの事実は、お知らせになられた方がよろしいかと」

「わかりました…彼がそんな人物だったなんて…」

 夕麿の指先がかすかに震えていた。 いつもすぐに反応する高辻が動かない。 見ると彼は蒼白になっている。 周が成瀬 雫の事を電話で問い合わせて来てからどうも様子がおかしいのだ。貴之が問い質しても首を振るばかりで、誰も高辻に何が起こっているのかがわからない。

 見兼ねた義勝が動いた。

「夕麿、落ち着け。 お前の弟は大丈夫だ。 武がいる。 下河辺や千種もいる。 お前のようにはならない」

 暗示にかけるように言葉を紡いでそっと手に触れると、不安に睫を震わせながら義勝を見上げた。

「武さまには俺からお知らせいたします」

 貴之の事場に夕麿が辛うじて頷く。

「夕麿さま、あなたは…あなたも、弟のようにあの件から苦しんでいらっしゃるのですね…」

 保は悲しそうに目を伏せた。

「私は…二人を追い詰めた両親が許せずにいます。 あの二人を引き裂く必要が、どこにあったのでしょう? そのまま二人を国内から出してしまえば、済んだ筈の事なのです。そうすれば二人は生命を絶つ程、追い詰められはしなかったと思います。

 司は…ただ清治と共に生きたかっただけなのに…」

 夕麿たちは保のこの言葉を、武に伝えてやりたいと思った。司と清治の死を一番悲しんで、悔やんでいるのは武であったから。慈園院家が司の遺品の受け取りを放棄し、形見分けしなかった物は今も生徒会室に保管されている。

「保さん…司さんの遺品を…」

 雅久が慌てて夕麿の言葉を継いだ。

「司さまの遺品を、高等部の生徒会室に保管いたしております。もし差し障りがおありでなければ、お引き取りになられませんか?」

「処分したのではないのですか!?」

「武さまが忍びないと胸を痛められて、縁の者たちに形見分けした以外を、生徒会室で保管する事を望まれたました。

 それと…『暁の会』が「TUKASA」の名前で、司さまの詩を出版いたしました。よろしければ後ほどお届けいたします」

「ああ…ありがとうございます。感謝しても仕切れません。どちらも喜んで受け取らせていただきます」

 そっと涙を拭う保に、夕麿たちはホッと胸を撫で下ろした。 これで司の御霊みたまも少しは安まるだろうと思う。

「保さん…クリスマス休暇は帰国されませんか」

 幾分気分が回復した夕麿が言った。

「武さまにお会いになっていただきたいのです。 今の言葉…武さまがお聞きになられたら、きっと喜ばれます。

 もしも慈園院家に戻られるのがお嫌ならば御園生家に滞在ください」

「すぐにはお返事は致しかねます」

「構いません」

「ありがとうございます」

 思いもかけない出会いだった。 司への後悔が少し晴れたような気がした。

 そして小夜子の判断の正しさに感謝した。



 保とのカフェテラスでのやりとりから、学生たちは夕麿を『Highnessハイネス』、つまり『殿下』と渾名するようになった。


 どっぷりと勉強漬けのアメリカの大学は甘くない。出席日数が少なかったり、成績が基準に届かないと直ちに放校処分を受ける。昨日までキャンパスを歩いていた学生が、次の週にはもういなかったりする。

 一般受講者を募る教養講座も人気がある。

 紫霄学院も都市部を抱えた巨大な学校であったが、UCLAの広大さには到底及ばない。学部学科は多彩であり、三年目からは専攻学部へとそれぞれが分かれていく。二年の間に本当に学びたいものを熟考し、選択する猶予が与えられているのである。ただ人気のある講義は受講申し込みが殺到する為、権利を得るのに熾烈な争いがある。

 夕麿たちは大学と仕事の二足の草鞋をこなしてはいるが、会社に毎日顔を出しているわけではない。社長以下重役や秘書室の一部が横領で解雇されて、ひとまずは夕麿たちの役目は段落が着いていた。事業の立て直しも順調に行っている。新しい経営陣は有人が日本から派遣した者が中心になっている。

 夕麿たちは週に2回程度、顔を出せば良くなった。 秘書室の顔ぶれも変わり、皇国の公立大学を卒業した男が現在の室長になった。体制が変わったが偏見の眼差しまでは変えようがなかった。 だがそれとは別に確かな成果を上げた夕麿たちが蔑ろにされる事はなくなった。

 偏見は偏見で、能力は能力。 アメリカらしい割り切り方だった。



 そんな日々の繰り返しの中で貴之だけがひとり取り残された心地でいた。 高辻との関係は途切れ途切れながら続いていた。

 誰かの身代わりにされている……… そんな感覚があった。

 心が伴わない快楽だけの関係。 もうそんな日々に心が麻痺している気がした。 誰かを想っても報われないならこのままで良い。

 カフェテラスの片隅に座って、ぼんやりと考えていた。

「貴之? ひとりですか、珍しいですね?」

 聞き慣れた声に顔を上げると雅久が立っていた。

「雅久か…お前こそ珍しいな? 義勝はどうした?」

「夕麿さまと二人で国文学を研究している教授に捕まってます」

「捕まったのは夕麿さまだろ?」

「多分。 私が見た時には、義勝が一緒でした」

「まあ、研究者にすれば夕麿さまの話は聞いてみたいだろうな。 何しろ日本と蓬莱双方の古史古伝の類全てに通じていらっしゃる」

「そうですね。

 ……それで、あなたはここで何をしていたのです?」

「みんなを待ってるに決まってるだろう?」

「………ねぇ、貴之。 いつまで続けるつもりですか、高辻先生と」

 二人の身体だけの間柄を夕麿は杞憂していた。夕麿の杞憂がなくても雅久も彼が心配だった。

「あなたには誰か好きな方はいないのですか?」

「いたよ…昔は。 完全な片想いだったけど…な」

「片想い? 振られたのですか?」

「いや、相手に生涯をかけて想う人がいた…というだけだ」

「まだ、その方を?」

 問い掛ける雅久に貴之は寂しげに笑って答えた。

「昔だと言っただろう?」

 そう、もう昔だ…と貴之は心の中で呟いた。 どんなに想っても、決して振り返らない相手。 目の前にいてもそういう意味で、その手を伸ばす事が出来なかった。

「貴之…」

「俺の心配は良い。 どっち道、良岑には俺以外の子供はいない。 見合いでもして適当に結婚するさ。それまでの楽しみだよ」

 それ以外に何がある? 同性を想っても自分の立場では、結局は泣きを見るしかない。 何となく刹那的で退廃的な関係を繰り返していた、周の気持ちが今ならわかるような気がした。

 周には異母妹いるが一人息子だ。 家を嫌い逃げ回っている周。

 結局はご同輩というわけか… …とうそぶいた。

「夕麿さまがたいそう気になさっています」

「申し訳けなくは思ってる。 だがこればっかりはどうにもならない」

「貴之…あなたは…」

 だが雅久はそれ以上言葉を紡げなかった。 夕麿と義勝がカフェテラスに姿を現したからだ。

「全く…しつこいな…夕麿、いっその事、講座でも開いたらどうだ?」

「冗談でもそれはやめてください。 本当にやらされそうですから」

 夕麿がうんざりした顔で言う。

「お疲れさまです。 車を呼びました」

 貴之の言葉に夕麿が頷いた。 カフェテラスを出て、キャンパスを歩いて横切る。 慈園院 保との再会から、夕麿はすっかり有名になってしまった。女子学生の猛烈なアタックに結婚している事を、説明するのを繰り返してようやく静かになった。

 それでも衆目が集まり、そこここで囁きが響く。 義勝たちも似たようなもので、特に雅久はその美貌ゆえに男女構わず寄って来る。 結婚していると言えば引き下がるが、それでも写真や絵のモデルの要請がひっきりなしに来る。 義勝が血相を変えて断っているがおさまる気配すらない。

 貴之は柔道や空手、剣道のクラブからコーチや練習試合の申し込みが来ていた。身体を鈍らせない為に、道場を借りたのが災いしたらしい。

 それでもそれなりに彼らは異国でのCampus Lifeを楽しんではいた。

 迎えの車に乗り込みホッと一息付く。 すかさず雅久が備え付けの湯で日本茶を淹れる。

「武は大変そうだな?」

「ええ、中等部生徒会長の会議の妨害と、中東の小国の王子の編入。

 かなり困らされているようです」

「昨年、中等部は御厨が苦労していたみたいだからな…」

「御厨君という重石が取れて、拍車がかかったみたいですね」

「毎年、学祭の時期はいろいろありますが…昨年の事件は別として、何だか年々酷くなってはいませんか?」

 貴之が夕麿に向かって言う。

「中等部の状態が悪くなっているのも事実ですが… 今までのような形で、学院を維持して行く事自体がもう、限界に来ているのかもしれません」

 武の言うような改革を、本当に必要な時代が来ているのだろう。

「私は相談にのるか、愚痴を聴くくらいしか出来ません。 武がどう対処して行くのか…それ次第でしょう」

 手を貸したくても太平洋を、隔てていては何もしてはやれない。

「その、王子の事ですが…わがまま過ぎて人望がない様子です。 彼は第三夫人の息子ですが…第二夫人の産んだ第二王子との間に後継者争いが起こっています。

 第二王子は温厚で大変人気があるとか。 ハキム王子と第二王子は同い年で、誕生日も数日、ハキム王子の方が早いだけとか」

「随分とお盛んな国王だな? 同時に二人か?」

「首長間での地位を上げる為に、縁談がひっきりなしに来るそうです。

 ちなみに両王子にも既に妃がいます」

「それで何故、日本に? 紫霄に編入した理由は?」

 雅久の疑問は最もだった。 夕麿が記憶している学院の歴史には、紫霄学院が留学生を受け入れた記録はない。 貴之が改めて調べた結果も同じだった。

「恐らく、暗殺を避ける為だと思われます。 紫霄は閉鎖地域ですし…外国人は目立ちます」

 貴之の言葉に義勝が眉を吊り上げた。

「日本人を雇われたら打つ手はないだろう? 貴之、警察省や外務省は把握しているんだな?」

「一応は、都市警察に警備の強化をさせています。 ただハキム王子がSPの同行を拒否したらしいのです。 サマルカンド側も何かあっても我が皇国の責任は問わないと」

 つまりハキムは既に王太子として失格の判断がほぼ下されているという事だ。

「余所の国の王子なんかどうでも良い。武が巻き込まれたらどうする?

 そっちの対策はしたのか?」

「それなんですが…警護官だけを派遣するのは、学院側が渋っているのです。しかし希望通り皇宮警察の者となると…成瀬 雫しか適任者がおりません」

 車の中でハキムの事を持ち出したのは、雫を再び学院へ派遣する承諾を、夕麿から得てくれるようにと父親に頼まれたからだ。

「わかりました。武の生命には代えられません」

「夕麿さま!透麿さんは、弟君は如何なされるのです!?」

 雅久が慌てた。

「弟にはしばらく高等部へ行かないように話しておきます。武の多忙さを見ている筈ですから、それを理由に納得させます」

 弟よりも武を優先する事に対して夕麿に迷いはなかった。



 それでもやましさを覚えない訳ではない。夕麿は冷酷にも無情にもなれない。弟への申し訳なさに胸は痛む。

 夕麿は耐え切れずにピアノに向かった。兄として何もしてやれないだけでなく、こんな仕打ちをするしかない自分を情けなく思う。

 それでも武は守らなければならない。

 全てを頭の中で整理しながら鍵盤を叩いていると、背後でドアが開閉する音がした。手を止めて振り返ると高辻が立っていた。 彼はそのまま後ろ手に鍵を卸した。

「何かご用でしょうか?」

 夕麿は高辻の方向に座り直して問い掛けた。

「私を警戒なさらないのですね」

「あなたはご自分の患者に手を出すとは思えません。それにそのような事をすれば、武が報復するのをご存知だと認識しておりますが?」

 高辻は自分よりも、武の行った事を知っている気がした。

「なるほど」

「それでご用件は? 貴之との事に干渉は致しませんよ、相手があなたならば」

「皇国の人間ならば…ですか?

 申し上げておきますが、あれは半分は治療です」

「治療? 」

 夕麿は高辻の言葉に眉をひそめた。

「言い訳は見苦しいですよ、先生?」

「確かに自分の欲求も満たしてはいる事は事実です」

 高辻は悪びれる様子もなく、近くの椅子を移動させて座った。

「彼は過去に強く想った相手がいますね? けれどそれは一方通行の片恋だった。 告白も出来ずただ自分の胸に秘めた恋だった。

 違いますか?」

 夕麿は答えなかった。

「その相手があなたではないのはわかっています。 彼はどんな手を使っても、絶対に相手の名前を言いません。 考えられる理由はただ一つ。 その相手が身近な人間だからです。

 武道家として一途に真っ直ぐに、不器用な生き方しか出来ない彼をかなり長く苦しめて来た。 それから逃れる事が出来たのは、皮肉にも周と付き合った事だった。 けれど周との事も結局は終わってしまった。

 夕麿さま、彼はもう恋愛に夢も望みも抱いてはいないのです」

「知っています。 けれどそれは…結局は、貴之本人の問題です」

 貴之が周と別れるきっかけをつくったのは、自分だと夕麿は思っていた。 周が貴之に本気になるとは、あの時には思っていなかった。

「あなたならおわかりになられる筈です。 誰かを愛するのも愛されるのも、諦めて望みを捨て去った生き方が、どんなに虚しく哀しいものであるかを。

 あなたは大切なご友人を、そんな状態のままにして置くのですか?」

「それは……」

 夕麿は答えに窮した。

「私は…ある程度の予測はつけています。 ですが候補が複数でどうしても、どちらか…という判断がつかないのです。

 ……何となく、知っているのはあなただけのような気がします」

「…」

「それで? どちらなんですか、貴之の想い人だったのは?

 義勝君…?

 雅久君…?」

「………お答え出来ません」

 言える筈がない。 貴之すら口にしない相手を。

 だが高辻はこう言った。

「ありがとうございます。 今のあなたの反応で判断がつきました」

「!?」

「人間は意外と正直者なんです、夕麿さま。 訓練をした者には相手の表情や仕草で、感情の変化が見えるのです。

 ……私も名前を口にするのはやめておきましょう。 でもこれで先へ進めます。

 お邪魔を致しました」

 立ち上がり部屋を去ろうとする彼に、今度は夕麿が疑問をなげかけた。

「あなたは何故、周さんを…あんな状態のままで捨て置かれたのですか?

 あなたなら…」

「彼のご母堂…浅子は私が彼に近付くのを嫌がるのです」

「嫌がる…あの人らしいと言えばらしいですね」

 武との事もわざわざ御園生邸に押し掛けて来て、犠牲だの認めないだのと言っていた。

「では、もうひとつ。

 成瀬 雫とあなたの関係は?」

 高辻が息を呑むのがわかった。

「昼間の保さんの話から考えて、あなたが中等部の時期に、彼は高等部にいた計算になります。

 そして、彼の性癖…」

「そこまで判断をなさっていて、何故お聞きになられます、夕麿さま?」

「私がわかるのはあくまでも外側の事実だけです。 関わったあなたと成瀬さんの内側の真実までは見えないのです。だからあなたの口から、真実を聞かせていただきたいのです」

 夕麿の瞳には一点の曇りもなかった。 高辻はその真っ直ぐで真摯な眼差しからは逃れられないと感じた。 10歳以上も年下の彼に気圧されてしまう。

 武にしても夕麿にしても、こんな時代では惜しいと思う。 どちらも世が世なら玉座に就くに相応しい。 いや武が玉座に就くならば夕麿は、良き宰相になって国を富ませたに違いない。

「わかりました、お話いたしましょう。 あなたなら…本当の事を信じてくださいますでしょう」

 真実は別に存在する。 何故だろう。 高辻の様子を見ているとそんな気がして来た。

 事実と真実……似て非なるもの。 それこそが悲劇を生む。

 夕麿はそれをよく知っていた。

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