蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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「成瀬 雫は…裏で言われるような男ではありません」

 高辻はそう呟くと踵を返して再び椅子に座った。

「でしょうね…私も、保さんに言われた時はとっさに信じてしまいました。 しかし…違うのではないかと、ピアノを弾いていて思い始めたのです」

「16年前、ひとりの少年が自らの生命を絶ちました。

 彼は当時中等部の2年生で私の友人でした。 彼の母は彼の父の屋敷に仕える身分の低い女性でした。 正室が彼の存在を許さなかったとかで、母親から無理やり引き離され学院に入れられたのです」

 夕麿は無言で頷いた。 よくあるパターンではあるが経緯は夕麿と似たようなものだ。

「彼が自殺したのは学院から出られなくなったからです。 休みに母親に会いに行くのだけが彼の心の支えでした」

「先生…それに成瀬さんがどう関わって来るのですか?」

「……彼の父親が母親に自殺の原因を失恋だと話したからです。

 死後発見された彼の日記に、学祭の指揮を執る成瀬 雫に一目惚れし、告白したけれども振られた事が書かれていました」

「自殺が成瀬さんの所為にされたのはわかりました。 けれどそれだけではあのような話にはならないと思いますが?」

「……当時、成瀬 雫の恋人が中等部の生徒だった事から、自殺した生徒の父親が成瀬 雫をそういう性癖の人間であるかのような、噂をわざと流して保身をはかったのです」

「成瀬さんは何故、抗議しなかったのでしょう? 彼の母方の力ならば、何とかなったのではないのですか?」

「…彼は…成瀬 雫は…」

 高辻は涙を浮かべて絶句した。

「成瀬さんの恋人はあなただったのですね、高辻先生…」

 成瀬 雫は今でも独身であるのは、武の伴侶候補だった事からもわかる。もしかしたら彼は今でも清方を想っているのではないのだろうか。

「出逢いは学祭でした。 雫は高等部生徒会長として私は中等部実行委員として…協力するうちに恋に落ちました。

 当時はもっと中等部と高等部は交流があったのです。

 雫は私が微妙な立場にいるのを知っていました。 彼は自分の無実を主張すれば、私に累が及ぶと考えたのです。 だから言い訳も何もしなかったのでしょう」

 全ては恋人を守る為だったと。こんなところにも学院の闇が存在したのかと夕麿は瞑目した。

「周が…私が休みに久我家に戻るのを、とても楽しみにしてくれていたのです。 だから私は高等部の途中まで休みには出られました。あの当時、まだ中等部の生徒だった私は雫との関係が知れれば、もう学院からは出られなくなる可能性がありました。

 あの時点では雫の相手が私であると、知っている人間は少なかったのです。 だから雫は全てを背負う覚悟をして、私の元を去って行きました。

 雫が無実であったのは後に証明されたからこそ彼は現在、皇宮警察に身を置いているのです」

「でも、保さんがあの話を知っているという事は、誰かがもう一度蒸し返そうとしているわけですね…何故でしょう?」

 夕麿の問い掛けに高辻は悲しげに目を伏せて首を振った。 再燃した誹謗に彼は怒りよりも悲しみを感じているように見えた。

「雫と別れてから…私は何をしても虚しかった。 その虚しさを埋める為に…私は、まだ幼かった周に手を出しました」

「え…? 今…何と…?」

「高等部に進級してすぐに知られて浅子の怒りを買い、私は学院から出られなくなってしまいました。自業自得です。

 でも中等部に入学した周が、私を訪ねて来るとは思わなかった…」

 夕麿はもう言葉が出て来なかった。 紫霄の小等部に入れられる前、周の実家の久我家の屋敷は隣にあった事もあり、夕麿は密かに彼に連れ出されて、お菓子などを貰ったり遊んで貰った記憶があった。 そう当時の夕麿には周は、優しい兄のような存在だった。

 だが中等部へ上がって再会した周は、退廃的な関係を持つ状態ではなかったが、余りにも様変わりしていたのを記憶している。

「周と私は途中から、完全に持ちつ持たれつの関係でした。 私は雫を忘れられず、周は周で想う相手に告げる事も出来ず、互いに傷を舐め合うだけの関係…」

「周さんの好きな人…?」

 それは初耳だった。 噂ですら耳にした事がない。 夕麿は周は恋愛を遊びにしか考えていないと信じ切っていた。 だが昨今の周が彼の本当の姿だとしたら、あり得るのではと思ってしまう。

「周は…彼は優しい。 優し過ぎて損ばかりしています。 彼はその優しさを自分の弱さだと思って封印してしまいました。 不器用で本当に好きな相手に気持ちを打ち明けられずに…逆に傷付けるような事をしたと言っていた事があります」

「それは…いつの話ですか?」

「……あなたが、貴之の片想いの相手を言えないように私もそれは言えません」

「わかりました。 聞かないでいましょう」

「ああ、もうこんな時間ですね。

 今夜はありがとうごさいました」

「先生、最後にもうひとつだけよろしいですか?」

「何でしょう?」

「今でも…成瀬さんを、想っていらっしゃるのではありませんか?」

「もう…昔の話です。 雫も過去の事だと思っているでしょう。

 おやすみなさいませ」

「おやすみなさい」

 ひとりピアノの前に残った夕麿は、椅子の背もたれに手を置いて考え込んだ。

 16年前に起因する複雑な人間関係。 そのもつれて絡んだ糸をまるで天が、解そうとするかのように武と自分に絡まって来る。 ぐるぐると頭の中を交差する真実に、感情がついて行かない。

 夕麿は再びピアノに向かった。 だが幾ら鍵盤を叩いても今度はまとまらない。 たくさんの事がぐるぐると、頭の中を交差し、絡み付き、もつれ込んでしまう。 気がつけばいつの間にか、夜が明けてすっかり朝の日差しが中庭の芝生を照らしていた。

 背後でドアが開いた。

「…部屋にいないと思ったら、またここにいたのか」

「おはよう、義勝。 随分と早起きですね?」

 ピアノを片付けながら言うと、背後から溜息が聞こえた。

「おはようじゃないだろ? 眠らないでピアノを弾くな。 全く、武がいないとお前の生活のパターンは、すぐに滅茶苦茶になるな」

「たまたま、朝になっただけです。 滅茶苦茶になどなってはいないでしょう?

 告げ口すると承知しませんよ?」

「俺が言わなくても、誰かが言うと思うぞ? で、高辻先生と遅くまで話していたみたいだが?」

「ただのカウンセリングです。 私がピアノを弾いているので、心配をしてくださっただけです」

「だったら良いが…弟より、武を優先させたのを気にしているんじゃないかと思ってな」

「あれでしたら、噂自体がデマだった事がわかりました。 昼にでも武に知らせようと思います」

 笑顔で答える夕麿に義勝は、何かを感じたのかスッと近付いて顔を覗き込んだ。

「なっ…何です?」

「じゃあ、何があった?」

 幾ら親友でも高辻の話を全部話す事は出来ないと思った。

「周さんの事を少し聞いたので」

「久我先輩? 何を聞いたんだ?」

「彼は貴之に振られたのが、最初の失恋だと言っていたのですが…その前に想う人がいたらしいのです」

「で?」

「それだけです」

「それは久我先輩の問題だろう? お前が気にしてもどうなるものでもない」

「そうなのですが…」

「そんな事は後にしてまだ時間はある。 起こしてやるから横になって来い」

「過保護ですね、義勝?」

「お前が今度痩せるような事があったら、間違いなく武とお義母さんの双方に叱られるのは俺だからな」

「わかりました、あなたにくどくどと説教されたくはないですから」

「後は俺が片付けておく」

「ではお言葉に甘えて」

 夕麿が部屋を出ると、ちょうど雅久が歩いて来た。

「おはようございます…まさか、ずっとピアノを?」

「気が付いたら朝だっただけです」

 夕麿はそう答えると自分の部屋へ行ってしまった。 雅久はそのままピアノ室に入った。

「夕麿さま、今度は何をお悩みでしょう?」

「俺には久我先輩の想い人がどうの…と言っていたが?」

「昨日の保さまの話ではなく?」

「あれはデマだそうだ」

「デマ…そうなのですか。

 それであなたは何故しかめっ面なのです?」

 雅久はドアを閉めて義勝に近付いた。

「久我先輩の想い人な…多分、夕麿だったと思う」

「え!?」

「だが…夕麿は気が付かないままだった。

 改めて高辻先生との話で何がきっかけかは知らないが、そういう内容になってやっと気が付いたんじゃないかと思う」

「……それは…夕麿さまはご自分を、お責めになられるのではありませんか?」

「だとしてもどうしょうもないだろう? 雅久、この話はこれで終わりだ。 間違っても武に話すなよ? 俺たちは何も聞いていない。 何も知らない」

「わかりました」

「さて片付けは終わったし、雅久、コーヒーを淹れてくれ」

「朝一番は胃に良くないですよ? カフェオレにしてください」

「はいはい、奥さまの言う通りにします」

「こんな時だけ…」

 キッチンに入りながら雅久が呟くと、義勝は声をあげて笑う。

「どうぞ」

 差し出された大ぶりのマグカップを受け取り、義勝は笑顔を雅久に向けた。


 昼休みに夕麿は少し皆から離れて武に電話を入れて真実を話した。 だが逆に聞かされた話に絶句する。

「そんな…」

 死んだ少年の家が彼の生母への言い訳についた嘘。 それを信じて同性愛を嫌悪し、高等部生徒会長を憎んだ物井。 あの嫌がらせにはそんな理由があったのか。

 蒼褪めた顔でカフェテラスに戻ると、驚いた高辻が駆け寄って来た。

「夕麿さま、お加減がお悪いのでは?」

「大丈夫です」

 椅子に座ってそう答えるのがやっとだった。 あの日、生徒会室で暴言を吐いて武に暴力を振るったのも、雫が16年前の高等部生徒会長だと知ったからではなかったか。 会議の妨害をされた日、確かに雫はかつての生徒会長だと名乗った。

「何があった?」

 義勝の問い掛けに夕麿は我に返った。

「あ…」

「大丈夫ですか、夕麿さま?」

 貴之が心配そうに尋ねた。

「大丈夫です」

「で?」

「義勝は物井教諭を覚えていますか?」

「物井? ああ、あの不愉快な奴か。 一度死んだ慈園院 司と、罵り合っていたのを目撃した事がある」

「彼は生徒会長を特に目の敵にしていました」

「お前…嫌がらせされてたなら何故言わない?」

「私ひとりだけの被害でしたから。 それに慈園院がかなり庇ってくれていました」

「お前だけの被害って…そうはいかないだろう?」

「武にも同じ事を言われましたよ。

 ……それで彼が私たち生徒会長を嫌っていたのは、16年前の中等部での自殺した生徒の身内だったからです」

 夕麿は武から聞いた話を掻い摘んで話した。

「それは…夕麿さま、成瀬警視が危険ではないでしょうか? 彼は警察官ではありますが、武さまの警護中でもあります」

「武もそれを気にしていました。

 貴之、今になって何故、虚偽の噂が再び流れているのか理由を調べてください」

「わかりました」

 そこへ夕麿の携帯から『紫雲英』が流れた。

「はい…どうかしましたか、武?」

 つい今し方、切ったばかりである。

「ええ。

 ……わかりました。

 高辻先生、武があなたに話があるそうです」

 夕麿はそう言って自分の携帯を高辻に手渡した。 武が高辻の携帯ではなく、夕麿の携帯に掛けて来た訳がわかったから。 そして、武の気持ちも。

「はい、武さま、高辻です」

〔……清方……俺だ…雫だ……〕

「!?」

 高辻の顔が驚愕に変化した。 夕麿は穏やかな笑みを浮かべて、彼に向かってしっかりと頷いた。



「夕麿さま、ありがとうごさいました」

「いいえ…礼は武さまに」

 携帯をポケットに入れて、夕麿は優しい微笑みを浮かべた。

 蓬莱皇国から戻って来た夕麿は、以前よりも安定した状態になっていた。 おとなびた雰囲気になり元々優雅だった立ち振る舞いに、深い思い遣りが込められるようになっていた。

 そして笑顔が増えた。

 昨夜のように思い悩む事があっても、それ故に不安定にはならない。

 義勝たちが不満を口にしている時にひとり穏やかにいる姿は、以前にもまして香り立つような美しい気品に満ちていた。 それは夕麿が離れていても、武の愛情を感じている証だと言えた。

 戻って来てすぐに彼は重役を務める企業で、平然とカミングアウトした。 今では堂々と武の写真をデスクに飾っている。

 偏見はある。 だがそんな事をいちいち気にはしていられない。

 結果を出せば良い。

 大学の授業のレポート、企業での仕事。 武への電話。 睡眠時間を削っても、やらなければならない事、やりたい事がある。 ピアノの練習も毎日、欠かす事が出来ない。 夕麿の日常は変わらず多忙ではあるが充実していた。



 貴之はレポートを途中まで書き上げて投げ出してしまった。 どうしても集中が長続きしない。 またひとりになってしまった。

 高辻との関係は誰かの……貴之は周だと思っていたが……身代わりなのだとわかっていて続けていた。行為の最中に周の名前を何度か、彼が口にしていたから、そう思い込んでしまったのか。 それとも思い込まされたのか。

 周の時にも誰かの身代わりにされている…と感じずにはいられなかった。 最後には自分を向いてくれたとしても…周の心からその面影を追い出すのは不可能に思った。

 誰も…貴之本人を見ない。 貴之本人を愛してはくれない。 椅子の上で膝を抱えて頬杖をつく。 自分だけ独りぼっち。 誰かを好きになっても、振り返ってもらった事はない。 いつも片道だけの想い。 諦めても諦めても、寂寥感は拭えない。

 どんなに禅定をしても、消せなくなった寂しさを持て余していた。 どんなに忙しくても、大切な友人たちに囲まれていても、孤独感は募る。 もう笑い転げていた高等部時代には決して戻れはしない。

 この孤独がおとなになるという意味ならば、おとなとはなんと虚しく侘びしい生き物なのだろうか。 だからおとなたちは身勝手で、わがままで、貪欲なのかもしれない。 求めても得られない『何か』が欲しくて。

 ここで自分は何をしているのだろう? 何をしたかったのだろう? 武の言葉に甘えずに別に住居を用意するべきだったのかもしれない。 だが今更、ここから余所へは移れない。

 そんな事をしたら武がどんなに心配するか。 夕麿が自分を責めるか。 わかっているから、こうしてここにいるしかない。

 不意にドアを叩く音がした。 開けてみると夕麿が立っていた。

「レポートを書いている邪魔をしましたか?」

「いえ、行き詰まって、ひと息入れていたので…」

「でしたらリビングで、お茶をしませんか、貴之? ひとりではつまらないので…灯りが点いていたので、誘いに来たのです」

「ありがとうございます。 すぐに参ります」

「こちらこそ、ありがとう。

 ではリビングで待っています」

「はい」

 夕麿が廊下をリビングに向かうのを見送って、机のPCを切り灯りを全て消す。

 腕時計で確認した時刻は、午前0時を少し過ぎた頃だった。

 リビングに入るとウバの葉の香が漂っていた。夕麿が自ら淹れるロイヤル・ミルクティー。 これだけはかなわないと雅久も両手を上げる。

「これも一緒にどうぞ」

 夕麿がテーブルに置いたのは、先日送られて来た御園生からの荷物に入っていた、武のお手製のクッキーだった。

「武さまの…あの、俺がいただいてよろしいのでしょうか?」

「もちろんです。 別に私専用ではありませんから」

「ありがとうございます。 ちょうだいいたします」

 クッキーを口に含むとシナモンの香が広がる。

「ああ…何だか懐かしいですね」

「でしょう? 一年前もこうして、武の手作りをいただきましたね。

 不思議なものです。 たった一年なのにもう懐かしい」

「本当に…一年前なのに」

 貴之は中等部編入だから5年、 紫霄の生徒だった。 その期間を5人で共に過ごして来た。 夕麿たちそれぞれの苦悩や悲哀をずっと見て来た。そう考えたら帰る家があり優しい両親が、出迎えてくれるのは自分だけだったと気付く。 この孤独感はその代償なのかもしれない。

「…周さんが、紫霞宮家の職大夫になりました」

「周さまがですか? でも普通は宮家は宮司みやのつかさなのでは?」

「宮司は…お義父さんに勅が降りたようです。

 多分、学院の内外を分ける為だと思います。 来年、武が留学すればまた変わるのではないでしょうか?」

 カップを片手に夕麿は柔らかな笑みを浮かべる。

「帰国されてまた、お変わりになられましたね」

「変わった…? 私がですか?」

「ええ。 何でしょう。 一層、お優しく典雅になられました」

「優しくなった?」

「はい」

 笑顔で頷いた貴之を見て夕麿は赤くなって俯いた。 その姿があの事件以前の夕麿と重なる。 可愛いと思って見つめていた、あの頃の夕麿に。 貴之は小さく笑いを漏らすと、恥ずかしがっている夕麿の為に話題を切り替えた。

「この時間まで起きていらっしゃいますのは、武さまにお電話ですか?」

 すると夕麿は少し表情を翳らせて答えた。

「また、熱を出したらしいのです。 何を食しても吐くだけだとか… 周さんが様子を知らせてくださると言うので…」

 海を隔てて遠く異国の地で愛する人を想う……その寂しげな眼差しさえ今の貴之には羨ましかった。


「それで…武の様子はどうなのですか?」

〔食べ物は一応口にされているが…すぐに吐き出してしまわれる。 御不快でも僕たちの制止を振り切って、会長な顔に戻られてしまわれるんだ〕

 それは夕麿が一番心配していた事だった。 周囲の気配に合わせて被る偽りの仮面。 出会った頃の武はそうして誰も、自らの引いた境界線内に入らせないようにしていた。 閉ざした心すら見せぬように、違う顔の仮面でカムフラージュして。 喜怒哀楽全てを抑圧して、冷静沈着な優等生の仮面を着けていた。時折、救いを求めるように瞳が揺らいだが、今はわずかな変化を見分けられる者はいないのではないだろうか。 昨年…武の身分が生徒会内の同級生に知れる、タイミングが余りにも悪過ぎた。 もっと武本人を彼らが理解してからなら、こんな状態にはならなかっただろう。 せめて…板倉 正巳があんな事にならなければ……

 もう誰も武が素のままをさらせる相手がいない。

〔夕麿、八方塞がり状態なんだ。 どうすれば武さまは心開いてくださる?〕

「それは…難しいですね。 彼は自分自身が皆に慕われるとは感じてはいないのです。 今、皆が彼を大切にするのは『紫霞宮』であって、武本人ではないと…恐らくは思っています。 彼は自分の容姿に頓着がありませんし、とるに足らない平凡な人間だと思い込んでいます」

〔武さまが平凡なら、世の中の人間は大変な事になると思うが?〕

 どうにも理解出来ない…… 周の口調はそう言っていた。

〔お前はさて置き、義勝たちはどうやって心を開かせた?〕

「少なくとも同じ方法は無理ですね、周さん。 全員、武が御園生の養子として編入して来た時の態度を、ある程度は変えていないからです」

〔確かに…それは今更、不可能だ〕

 電話の向こうで周が溜息を吐く。

〔では彼らは武に対して、どのような接し方をしてるんだ?〕

「義勝は最初から武を小さいとからかっていました。 武はムキになって『まだ成長過程』と言ってましたが。 俗な言い方をしますと、『兄貴分』とか表現する状態なのだと思います。 それは今でも同じですね。

 雅久は兄と言うより姉に近いかもしれません。 一緒に料理をしたり買い物をしたり、誕生日などのイベントの準備も麗を入れて、三人でしていました。

 ああ、そうですね…周さん、あなたは今でもスコーンは焼かれるのですか?」

〔スコーン?〕

「私がまだ小等部にいた頃、食べさせてくださいましたよね? 確かあの時、自分で焼いたと言ってたではありませんか? ラズベリーのジャムを添えて、久我邸の庭でお茶を淹れてくださったでしょう?」

 遠くを見るような眼差しで、夕麿は遠い日の思い出を語る。 側で聞いている貴之が目を丸くした。

〔……あれか…乳母が焼いてるのを見て、自分で焼けばたくさん食べられると思ったんだ。 10個ほど焼いて成功したのはあの二つだけだ〕

「それを私にくださったのですか?」

 寄宿舎から帰っても、夕麿は独りぼっちだった。 食事も使用人たちが、詠美の目を盗んで持って来てくれていた。 だから時折、周がやって来て連れ出されて、お菓子やお茶をもらうのが嬉しかったのだ。

〔……あれしか成功しなかったから、お前に毒見をさせただけだ…〕

「毒見? あなたらしいですね? 私が不味いと言ったら、どうしたのです?」

〔二度と作らなかっただろうな〕

 今度は夕麿が溜息を吐いた。

 聞いていた貴之は素直に、夕麿の為に作ったと言えば嫌われないのに…と、天邪鬼な彼に苦笑する。

「ひょっとして…私にくれたものは全部、毒見だった訳ですか?」

〔食べ飽きたのやら残り物もあった。

 で、スコーンを僕に焼けと?〕

「武が好きなオレンジマーマレードを添えて」

〔それで何とかなるのか?〕

「保証は出来ません。 ただ、武はスコーンを焼いたのを見た事がないので、作り方を聞きたがるでしょう。 それがきっかけになるかもしれません。

 確か…フレンチトーストも、出来ましたよね?」

 スコーンにフレンチトースト…やはり小学生だった周が、夕麿に自分で作って食べさせたもの。 それぞれに添えたラズベリージャムも、アプリコットジャムも、周が自分で作り方を教わりながら作ったものだった。

 甘いものなど口に出来ないだろう、幼い夕麿の為に懸命に。 素直に口に出来ない性格が周の不幸だったとも言える。

 当時の夕麿にすれば、周がこっそり呼びに来るのを、毎日、首を長くして待っていたのだ。 見つかれば詠美に、酷い折檻を受けた上に、部屋に閉じ込められたけれど。 それでも周がくれるものは、当時の夕麿にとっては明日を待つ希望だった。

「試してみてください。 武はお料理を皆に振る舞うのが好きなのです。 でも、今は誰もそれを知りません。

 雅久や麗がいない今、一緒に料理を作る者もいません。 週末にはあの部屋で、皆で鍋料理をいただきました。 せめてそれだけでも出来れば、武の気持ちは変わって行くと私は信じます。

 ……周さん。 手間のかかるお願いをしているのは重々承知しています。 けれど今は…今はあなたにお願いするしかありません」

 最終的に乗り越えるのは武自身であっても、決して独りぼっちではないのだと。 武を理解したいと思う周囲の気持ちに気付けばそれは必ず支えになる。 今一番、信用出来るからこそ、周に縋るような想いで願う。

〔わかった。 しばらくやってないから、上手くいくかはわからないが…試してみよう。 武さまのお口に合えば良いけれど〕

「大丈夫です、私が保証します」

 本質的には『庶民の生活』というものを夕麿も周も知らない。 ただ武の言葉の端々から読み取れる違いは彼を苦しめ蝕む。

 特別室のスペースも夕麿には違和感はない。 だが小夜子の結婚までは、二人分の布団を並べるのがやっと…というアパートで生活していたと言う。 特待生寮の通常の部屋のリビングより狭かったと。 そのような所で育った武が、特別室にひとりで住んでいるのだ。 夕麿と一緒だった頃も『無駄に広い』と言っていたではないか。

「周さん、出来る限り、あの部屋にいてもらえませんか? 武にはあの部屋は広過ぎるらしいのです。

 多分…ストレスの一つはそこにあるのではないでしょうか?」

〔そういうものなかのか……? わかった、出来得る限り努力する〕

 武の為に…そして遠く離れて学ぶ夕麿の為に、周は本当に骨身を惜しまないつもりだった。

〔兎に角、実行して様子を見る事にしよう。

 遅くまですまなかった〕

「いえ、こちらこそありがとうございます……どうか、武をお願いします」

〔わかった。

 ……また電話する〕

「はい。

 ごきげんよう、周さん」

〔ごきげんよう……〕

 通話を切って夕麿はまた溜息を吐いた。
 
 貴之はその姿にいたたまれずに口を開いた。

「驚きました。 周さまが…料理をなさるなんて…」

「少なくとも私の知る彼は何でもソツなくこなす人です」

「そう…なのですか…」

 この期に及んで一時期付き合っていたというのに、周の事を何も知らないままだったのを貴之は自覚してしまった。

 ソツなくこなす筈の彼が、夕麿にだけは天邪鬼で不器用になる。 お菓子を上げていた兄のようなままだったなら、夕麿は周の方を向いていたかもしれない。

 いや…心を凍り付かせた夕麿に、それは通じたかは今となってはわからない。

 貴之との間に確かに甘い空気はあった。 あのまま続いていれば、恋人と呼べる関係になれたかもしれない。 しかしそれでもきっと周の心の中から、夕麿への想いを追い出すのは不可能だろう。

 周が武に忠義を尽くすのは、確かに武自身の魅力からだとは思う。 でもそれ以上に夕麿が一途に愛する相手だから、彼の杞憂を少しでも減らす為に。 夕麿がこのロサンゼルスの地で思う存分学ぶ事が出来るようにと。

 周の夕麿への想いは 、そこまで昇華してしまっているのだろう。 報われぬならばせめて愛する相手の幸せを願う。 そして手助けに奔走する。

 だから周は武や夕麿を裏切らない。 周の想いを知らなくても、夕麿は彼の決意だけは理解して信じている。 それは多分…今の周には無上の歓びだろう。

 自分に…到達出来るだろうか? 貴之は似たような立場の周を思う。 周が見出した愛情の在り方に、自分は至る事がいつか出来るのだろうか。

 愛する気持ちを友の仮面で隠し続けて来た。 想いを告げてしまったら、今のような立ち位置にはいられない。 報われない想いならば友として、仲間として、側にいて笑っている事を選んだ。

 無理やり引き千切った恋心。 彼さえ幸せであるならば苦悩も痛みも耐えられた。

 後悔はしていない。 周とは違う境地ではあるが、想う相手の友として生涯関わって行く。 孤独に今はまだ、苛まれてしまうけれど。

 周の在り方が苦しむ貴之に一条の光を与えた。

 もうないものねだりはやめよう。 いつか相愛の誰かが現れるかもしれない。 現れないかもしれない。どちらでも構わない。 ここにいる事が今この時が幸せだと思うから。

 夕麿がおやすみを言って部屋へ行った。 貴之は食器を片付けてリビングの灯りを消して自分の部屋へと戻る。

 レポートの残りを書き上げなければ……

 時計は午前2時を差していた。

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