蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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 周の口から語られた旧特別室の最後の住人についての話は、夕麿には驚き以外のなにものでもなかった。ましてや彼が自分の血縁者だという事実に深い悲しみすら感じた。

「だから夕麿、武さまがお引き取りになられる手続きをなされたが、このピアノの相続権はお前にある」

「うん。これは夕麿のピアノだよ?」

「理解はしましたし、私が相続するのに支障はありませんが…二台もどうしましょう?」

 困った顔をする夕麿に、武がちょっと考え込んでから答えた。

「じゃあ、希が生まれて来たら、ピアノを教えてあげてよ。俺たちがロサンゼルスにいる間は、母さんが教えて…帰国したらさ?」

「それではピアノ教師の資格を取得しなければいけませんね」

 武の言葉にまた来への夢が繋がった。生まれて来る希にピアノを教える。ピアニストとしての道は捨ててもピアノと関わり続けて行く。

 もし希に才能があったならば……そろそろ誕生する筈の義理の弟へ夕麿は想いを馳せた。


 周が名も無き宮のいみなを今上から賜わり、今は無き宮家の名前を彼に与える為にはいかないので、彼は紫霞宮家に名前を連ねる事になり、祭祀も紫霞宮家が引き受ける事になった。

 諡は『ほたる王』。 儚く薨去した彼には相応しく、美しく儚い名前が与えられた。 夕麿自身は会った事はないが、自分に似た面差しだったと言われて、そっと持ち歩いている母翠子の写真を思う。安らかに旅立って欲しいと思う。 黄泉ではどうか幸せと祈らずにはいられない。 身内縁の薄い夕麿には薄幸の螢が身近に感じられた。

「武、周さん、ありがとうございます。 螢さまに代わってお礼を申します」

 誰も不幸など望んでいない。 ただ静かに愛する人々と生きて行きたいだけ。 そう望むのは欲張りなのだろうか?

 夕麿は武に優しく微笑みかけた。



 午後のお茶を終えた後、周が高辻の来訪を告げた。 武の精神状態も気になっていた夕麿は、高辻が来てくれた事を喜んだ。 だが彼に続いて入って来た弟を見て、おめおめと自分や武の前に顔を出せる彼を不快に思った。

「周さん、高辻先生、これはどういう事でしょうか?」

 苛立ちに声が低くくなる。

「俺が呼んだんだ、夕麿」

 食器を片付けにキッチンにいた武がリビングに戻って来て答えた。

「ちゃんと話し合って欲しい」

 真剣な眼差しに夕麿は武の好意を、不本意ながら一度だけ汲む事にした。

「……良いでしょう。 何か申し開きがあるならば、一応、聴いてあげます」

 すると透麿はその場に座って手を突いて、床に額擦り付けるようにして言った。。

「兄さま、ごめんなさい。 僕…何も知らなくて…本当にごめんなさい!」

「それは何に対しての謝罪ですか、透麿? 第一、謝罪する相手が違うでしょう?」

 夕麿自身は弟に謝罪される理由はないと思っていた。 どうやら誰かから何かを聴いたらしいが、透麿の謝罪の理由が佐田川一族の所業ならば、今更謝罪されても何の意味も持たない。 不愉快なだけだ。

 透麿は少し怯えたように目を伏せ、助けを求めるように周と高辻を見た。夕麿は二人に首を振る。 二人はそれに応えるように黙って見守っていた。

 助けを得られないと悟った透麿はもう一度、真っ直ぐに自分を見据える夕麿に視線を合わせ、耐え切れずに背後に立つ武へと視線を移したがすぐに嫌悪感を露わにして、武を睨み付けてからプイと視線をそらせた。

「その態度は何です、透麿」

 身体が震えだす程の怒りがわき上がり自然に声が荒く尖る。

 すると透麿が言った。

「母さまたちを陥れた人に、謝罪するつもりはありません」

 慌てて振り返って見た武の顔は、覚悟はしていたようではあるが、それでも傷付いた表情をしていた。

 全ては夕麿を守る為の行為。 優しく純粋な心を鬼にしてしまったのは、自分の責任だと夕麿は思っていた。 だから一方的に武が非難され、責められるのは許してはおけないし夕麿も辛かった。

「ならば私もあなたの謝罪を受け入れません」

 冷たく言い放った瞬間、背後から武の声が響いた。

「夕麿!」

「止めないでください、武!」

「ダメだ、夕麿。 俺の事は良い…良いんだ。 透麿は間違ってない。 だがお前は仲直りしろ。 二人っきりの兄弟じゃないか!」

 武の気持ちはわかる。 だがそれでは武だけが悪者になってしまう。

「武…でも…」

 まだ戸惑う夕麿に武は寂しそうな笑みを浮かべて言った。

「俺がいたら話が進まないだろう? 俺は上にいるから…ちゃんと仲直りしろ。

 良いな?」

「きけません!」

「だったら、命令だ、夕麿。 弟と仲直りしろ 」

 そう言われてしまうと抗う事は許されない。 抗う気持ちは萎えてしまった。

「……御意…」

 絞り出すような返事をするのがやっとだった。 喉がカラカラになる。 夕麿は武が寝室へと姿を消すまで、苦々しい気持ちで見つめているしかなかった。

「よく聴きなさい、透麿。 全ては私を守る為でした」

 忌まわしい記憶にじっとりと嫌な汗が浮く。 息苦しく呼吸が乱れ始めた。

「夕麿さま!」

 高辻が慌てて夕麿の脈を取った……が次の瞬間、夕麿はそれを振り払ってしまった。 触れられた不快感に肌が粟立つ。

「すみません…」

 発作が起きかけている状態では、武以外に触れられるのは苦痛でしかない。

「周、水を。 夕麿さま、薬はお持ちになられておられますか?」

 高辻の言葉に頷いてポケットから薬を取り出した。 周がテーブルに置いたグラスを手に取り薬を飲んだ。

「胸元を緩められて…姿勢を楽に」

 高辻が夕麿を落ち着かせている間に周は透麿を促して、反対側のソファに座らせ、キッチンに向かって、新たにお茶を淹れ直した。

 武の世話をするうちにすっかり、こういう事が板についてしまっていた。

「すみません…周さん…」

 まだ顔色は悪いが呼吸はほぼ正常に戻っていた。

「それでどうするんだ、夕麿? 武さまに奥の手を出されたら、拒否は出来ないだろう?」

 周が少し気の毒そうに言った。 夕麿はそれに苦笑で応えた。 高辻も苦笑している。 ただ透麿だけが不快そうな面持ちで俯いていた。

「不満そうだな、透麿?」

「当たり前でしょう? 兄さまが逆らえないのをわかっていて、命令するなんて…」

 涙すら浮かべ、階上を睨んで言った。

「あなたは…この3ヶ月近く、彼の何を見ていたのです? 彼が自分の我を無理に通そうとした事がありましたか?

 武…武さまは、いつもご自分の事は一番最後になさいます」

「武さまが一番に優先なされるのは、夕麿さまのお為を想われての事ですね」

 高辻がゆったりと笑みを浮かべて言った。その姿は今まで見た事がない程、穏やかで柔らかな雰囲気をまとっていた。

「透麿、あなたが武さまの事を許せないと言うなら、その原因を作った私に一番の咎があります……本当は私のような者が武さまのお側にいるべきではないのです…」

「夕麿!」

 周が顔色を変えて遮った。

「そうでしょう? 私ではなく別の者だったら、武さまが心を鬼になされる事などなかったのです」

 自分ゆえに愛する人が傷を負う。 武の場合はまさに心身共にだった。 左腕の傷痕を見る度に自分の罪深さを思い知る。 武を傷だらけにしてそれでもなお、側にいたいと願ってしまう。 守りたいのに。

「夕麿さま、あなたには罪はありませんよ? 全ては武さまが御自ら選択なされた事です」

「いいえ…いいえ…」

 首を激しく振って否定する。 どんなに前向きに生きる決意をしても、武が自分の為にした事で責められれば、心の傷が口を開いて鮮血を溢れさせる。 全てはそこに原因があるのだと。 時折、何故あの時に生命を終わらせなかったのかと思ってしまう。 そうすれば武は別の誰かを伴侶にしていた筈だと。

「夕麿、自分を責めるな…」

「周さん、皇家のお妃候補の一番の条件は、何であるかご存知でしょう?」

「それは…」

 皇家のお妃候補の一番の条件は『純潔』。 口付けの経験すらない事が望ましいとされている。

「あれは…同性での婚姻には、関係ないだろう…」

「成瀬さんの報告書を読んでいて、それを言いますか?」

 雫と夕麿。 武の伴侶として双方が候補に上がった時、最初にほぼ雫に決定していた一番の理由は、中等部での事件が懸念されたからだ。

「透麿…夕麿が何を言っているのか、お前は理解しているか?」

 急に話を降られて透麿が狼狽する。 ほとんど意味がわかっていなかったからだ。

「お前が武さまを許さないなら、夕麿は際限なくこうやって自分を責め続ける。 夕麿は被害者だ。 だがそれは皇家との婚姻に置いては大きな問題とされる。

 だが武さまは夕麿を選ばれた。 そしてご自分の生命を危険にさらしても、夕麿を守ろうとされる」

 透麿にはそう言われてもやはりよくわからない。

 周はその様子に溜息を吐いた。 武とは別の意味で子供過ぎると思った。

 武はどこまでも周囲を気にする。逆に透麿は自分の感情、自分の気持ちしか向いていない。それが誰かを傷付けようと、透麿には自分の想いと立ち位置が優先なのだ。

「お前は…何をどれくらい知ってる?全部知っていたとしても夕麿が、これまでどんな気持ちで生きて来たのか知らないだろう?

 武さまと出逢う前の夕麿が、どんな状態だったのかも」

 それは周にもある種の痛みを伴う事実だった。そっと夕麿から視線をそらして苦悩の表情を浮かべた。

「止めなさい、周」

 今度は周が自分を責めていた。

「透麿、あなたが武さまをどのように思おうとも、全ての原因はあなたの母親とその一族にあります。先程あなたは私に謝罪しました。それはあなたの血に連なる人々の罪をあなたが背負うという意味ですよ?

 あなたにその覚悟はないでしょう?あれば武さまを責めたり出来ない筈です。第一、武さまは彼らの犯罪を暴いて告発しただけ。武さまでなくてもいずれ誰かが同じ事をしたでしょう」

「でも、でも兄さま…」

 追い縋るように口を開く弟に夕麿はうんざりした。

「ではあなたも私と同じ目にあってみますか、透麿?」

「兄さま…?」

「夕麿、止めろ!」

「一番大切に思う方の目の前で薬を打たれて陵辱されれば、私の痛みも武さまのお怒りも理解出来るでしょう」

「夕麿!」

「もうたくさんです…あなたも結局、彼女と同じ種類の人間なのですね。 自分の思うままに物事を進ませようとする。 それで誰が傷付いても、自分の望みが満たされれば満足なのでしょう?」

「夕麿さま、結論を急がれてはなりません。 今日はこれで終わりになさいませ。 このような事には時間が必要です。

 武さまにもそう説明されれば、おわかりになられる筈です」

 蒼褪めている夕麿を覗き込むようにして、高辻は優しく諭すように言った。 怒りに任せて口走った事に、自分がダメージを受けていた。 泣かないようにするのが精一杯で、それ以外の感情が制御出来ない。 両手が震え始めている。

「透麿、武さまを非難する事は夕麿を非難しているのと同じだ。 それともお前は夕麿に武さまと離別しろと言うのか?」

 周の言葉に彼はきまりが悪そうに顔を背けた。

「…それはこの部屋にあの方を幽閉するという意味だと、わかっていて言っているのか?」

「幽閉…?」

「武さまは公式には存在しない。 そういう事になっている。 いてはならない方を閉じ込める為に本来、この部屋は存在するんだ。 過去にも何人もそのような方が存在された。 皆、幽閉されてたったお一人で、儚くお生命を散らされた。 どの方も30歳前後で薨去なされている」

 夕麿と周は螢のピアノを振り返った。 幽閉される悲劇がどのようなものか、そのピアノが物語っていた。

「透麿君、君の一番の望みは何? 夕麿さまに六条家へお帰りいただく事? 君だけのお兄さまでいて欲しいの? でもそれは夕麿さまにとってのお幸せかどうか考えてみた事がありますか?

 その辺をよく考えてみてください。 医師としてあなたへの宿題です。

 わかりましたか?」

「……はい」

 透麿が渋々頷いた。

「周、彼を誰かに送らせなさい。 武さまに専用車の使用のお許しをいただいていましたね?」

「ええ。 透麿、行くよ?」

「専用…車…?」

「知らなかったのか? あの車は武さまの為に用意されたものだ」

「え?」

 専用車は武本人が使用する頻度が低い為、周が高等部への移動にも借りていたし、中等部から透麿が高等部へ移動するのにも武が許可を出していた。

「ついでに言うと夕麿が学院の出入りに使用しているのも、御園生が武さまの為に用意した特別車だ」

 透麿は驚きの余り声が出ない。

「双方の車は全体に防弾・対衝撃が施してあります。 武さまの存在を良く思われない方が、未だにいらっしゃるのです。透麿、あなたが武さまを嫌うならば…いずれそのような方々が、あなたを利用しようとするでしょう。 あなたは私たちの敵になりたいのですか? 私はこの生命を奪われても、武さまのお側から離れる気はありません。

 高辻先生の宿題と合わせてよく考えてみてください」

 夕麿は話が終わったというように立ち上がった。 武の側にいたかった。 透麿に背を向けて螺旋階段を駆け上がった。

 寝室のドアを開けた彼の目に映ったのは、ベッドに横たわっている武の姿だった。 次いでサイドテーブルの上の物が目に入り血の気が引いて行く。

「高辻先生!」

 悲鳴のように叫んだ。 高辻が螺旋階段を駆け上がって来る。 周も階段の下まで駆け寄った。 高辻も室内の様子を見て顔色を変えた。

 だが、中へ入って薬の状態を確認して安堵の息を吐いた。

「ご心配には及びません。 処方に従ってお飲みになられています」

 その言葉に夕麿は全身から、一気に力が抜けてしまった。 ドアに手をかけたまま、崩れるように座り込んでしまった。

「夕麿!?」

 周が慌てて駆け上がり夕麿を助け起こしてベッドに座らせた。

「すみません…」

 不様さに自分で笑いたくなってしまう。 武の事になると何も見えなくなってしまう。

 高辻は夕麿を周に任せて、武の脈拍や体温などを診ていた。

「大丈夫です、眠っていらっしゃるだけです。むしろ眠る方へ逃げられたので、身体への負担は少なくなるでしょう。

 夕麿さま、お目覚めになられましたら、抱き締めて差し上げてください」

「はい」

 手を伸ばして眠る武の頬に触れ笑顔になる。愛しいと想う気持ちが胸を満たした。武の側にいられる事はこんなにも幸せであるのだという事実を夕麿は噛み締めていた。

 夕麿の穏やかで幸せそうな姿を、遅れて上がって来た透麿が覗き見ていた。

「夕麿さま、あなたさまもお休みください。薬の服用で症状は鎮静されていますが、御心もお身体も疲労なされていらっしゃいます」

 今休まなければ次に発作を起こした時に症状が重くなる可能性があった。夕麿は高辻に頷くと隣部屋へ着替えに向かう。その間に高辻は夕麿を眠らせる為に、鎮静剤を注射器に満たした。

「透麿、行くよ?」

「あ…はい」

 周に言われて戸惑いながら透麿は特別室を出た。

「周さん…兄さまは、どこがお悪いのですか?」

「身体は健康そのものだ。幼児期から受けて来た虐待と陵辱を受けた所為で、心に深い傷を負って様々な症状を起こしているんだ。 場合によっては武さまがいらっしゃらないと錯乱状態になる。武さまを失えば間違いなくお前の兄は発狂する。 それを覚えていろ」

「…はい」

 透麿は恐怖と不安に引きつった表情を浮かべた。

「残酷なようだが透麿、全てはお前の母親が夕麿の自殺か発狂を望んだからだ。 疑うなら試してみるか? 母親に面会に行って『夕麿が発狂した』と言ってみろ」

「え?」

「その時の彼女の態度に真実がある」

 とても残酷な事を口にしている自覚はしていた。 だが先程の夕麿の姿を見ていて、周は痛ましさに耐え切れなかったのだ。 相手が弟であり加害者の息子だからこその態度は、そのまま夕麿の心の傷の深さを物語っていた。

 周は隣室の敦紀に透麿を預けて特別室へととって返した。二人が心配でならなかった。


 夕麿が目を覚ましたのは明け方近くだった。 少しまだ頭がぼんやりするが不快感はない。 傍らで眠る武に手を伸ばして触れてみる。

「ん…」

 武が反応した。 薬物による睡眠では絶対に寝返りを打たない。 故に致死量以下であっても、処方を超えて大量に摂取するのは危険なのだ。 体重が掛かる部分の細胞が、長時間の圧迫によって破壊されてしまう。 故にその部分の切断を余儀なくされる者が後を絶たない。 声を発したり身じろぎするのは薬が切れ始めている証である。

 夕麿は身を起こすと未だ力なく横たわっている武を抱き締めた。

「…ん…夕麿…?」

「武、辛い想いをさせてしまいましたね…」

 人間は半覚醒の時にたまに本心を口にする。 夕麿はそれが訊きたかった。 困らせたり悲しませないように、武は何もかもを胸に秘めてしまう。 そして一人で苦しみ続ける。

「ねぇ、武。 あなたは何が悲しいのですか?」

 髪を撫でて耳許に囁く。

「……」

 武は眉間に皺を寄せて唇を噛む仕草をした。

「私には言えない事ですか?」

「うん…夕麿には言えない…言っちゃダメだ…」

 本来なら心の中の呟きが薬の作用で言葉として紡がれる。

「何故ダメなのですか?」

「だって…夕麿が傷付く…それは嫌だ…」

「透麿の事?」

「うん…それもある…それもあるけど…」

 透麿以外の理由。 夕麿にはたったひとつしか、思い付かなかった。

「…周さんの…事でしょう?」

 意を決してカマをかけてみる。

「そう…周さん…」

 やはり気が付いていたのだと確認した事に動揺する。

「周さんの何が気に入らないのですか?」

「…周さんの気持ち…」

 ああやっぱりと思う。 周が側にいた武がそう思うならば間違いないのだろう。

「周さんの気持ち…何故…どんな風に嫌なの、武?」

 腕の中で首を振って嫌がる武にそっと口付けて促した。

「誰にも言わないから聴かせてください」

「周さんは俺の知らない夕麿をいっぱい知ってるから…昔の夕麿を…一生懸命に助けてたから…」

 過ごした歳月の差。 確かにそれは武には求めても埋める事は絶対に出来ない。

「俺は…醜い…周さんが悪いわけじゃないのに…嫌なんだ…許せないんだ…」

 夕麿に出会い、『誰かを想う』という感情を初めて知った武。 多分、嫉妬すら初めて抱いた筈だ。

「醜い心だから…夕麿はきっと…俺の事を…嫌になる…」

 夕麿の潔癖さはきっとドロドロとした感情を嫌うと思ったらしい。 夕麿にすれば嫉妬心ならば自分も当たり前に抱く感情だ。 独占欲は相手を想うからこそ起こる。 当たり前の感情なのだと嫉妬心なのだと、武にはわからないらしい。

「大丈夫ですよ、武。それは誰かが好きならば当たり前の感情です。私はそんな事であなたを嫌いになりません。

 さあ安心してください。目を閉じてもう一度眠って、武。

 愛してます、私の武」

「うん…俺も…愛してる…おやすみなさい…」

 ある意味で暗示を与える行為だとは自覚している。それでも今は苦しんで欲しくなかった。

 嫉妬そのものは確かに醜い感情ではある。武を愛して自分が嫉妬深い事に気付いた。確かに醜いと感情であると自分でも思う。けれど当たり前の感情なのだと高辻に諭された。想う相手を独占したい気持ちは正常な感情だと。だから武にもわからせたかった。

 夕麿は再び眠った武を抱き締めて、その確かな温もりを胸に目蓋を閉じた。もう眠れはしないが今はこの温もりに触れていたい。髪を梳くように撫でると、武気持ちよさそうに縋り付いて来た。




 朝食後、武が食洗機に汚れた食器を入れている間にダージリンを淹れた。 席に着いた武は少し気まずいような顔をしていた。

 武が口を開く前に、麿が切り出す。

「武…その…透麿の事なのですが…」

「うん…それ何だけど、ごめんなさい。 夕麿の気持ちも考えないで、命令なんかして…あれ、取り消す…」

「武…命令は、取り消してはならないのです。 上の者が一度出したものを取り消すのは、下の者を混乱させ、信頼を失う原因になります」

 夕麿は良い機会だと感じて、命令する事で負う責任を話す事にした。 上の立場にいる者が命令を安易に変更すれば、それに従わなければならない下の者は右往左往する事になる。 命令を発したその場で誰かが諫めたり止めたりしたのならば動く前なので支障はない。

 だが時間が経過すると変更が出来なくなる場合がある。 間違いを質すリスクを上の者は重々承知していなければならないのである。

「もちろん、例外はあります。 しかし…今回は相応しくはないと思います」

「…ごめんなさい」

「いいえ、私と弟の事を考えてくださったのは、わかっています。 あなたの思い遣りだと。 ですからあなたのお許しがいただきたいのです、我が君」

 命令に対する願い。それは臣下として主に対するもの。 けじめはつけなければならない。

「許し…?」

「努力を致したいと思います。 歳月が必要だと考えられます。 弟は幼過ぎて母親の罪を十分に理解しておりません」

 夕麿の真摯な言葉に武が頷きで返した。

「時間的な猶予をいただきとうございます」

 ダイニングテーブルに手を置いて頭を下げた。

「猶予?」

「出来得るならば無期限で」

「わかった。 でもそれ言い訳や誤魔化しじゃないんだよね?」

 武がそう思うのも無理はない。 夕麿は透麿を許す気は皆無だったのだから。

「我が君に偽りは申し上げません」

「わかった。 夕麿と透麿の二人を信用する」

「ありがとうございます」

 命令という形をとってまで仲直りをさせようとする武の想いに、心底感謝しているからこそ弟の成長を待ってみようと思ったのだ。

「うん…この話は、おしまいにしよう?」

「そうですね」

 せっかくの二人の時間だ。 夕麿も楽しい話がしたい。 武に微笑みかけると、彼は含羞んだような笑みを浮かべた。 それから意を決してクリスマス休暇の期間について口を開いた。

「武…ひとつ、お話をして置かなければなりません」

「ん?何?」

「休みなのですが…私たちは明けて、4日間しかいられません」

「あ…そっか。 アメリカは新年のお祝いって、軽くするだけだっけ?」

「ええ…ですからあなたは…」

「俺もここに戻らなきゃならないんだね?」

「申し訳けありません」

 武を冬休みで閑散としたここへ一人で戻らせなければならない。 そして……卒業までの半年間は逢う事も、武が外へ出る事も、一切が不可能になってしまうのだ。 当然ながら間に存在する春休みには、学院で武はひとり過ごす事を余儀なくされる。

 生徒会長を離任して白鳳会の長にはなる為に、既に春休みにはする事などないだろう。

「ううん、仕方ないよ。 早く帰国してここへ来てくれたんだから、十分だよ?」

 笑顔で答える姿に胸が詰まる。 せめて御園生邸に戻る許可はもらえないだろうか? 屋敷に閉じ込められる状態でもここよりはマシな筈だ。

 周に相談しようと夕麿は思った。

「万歳!やった!」

 バスルームから出て来ると突然、武が叫んだ。

「何事ですか、武?」

 驚く夕麿に武はこれ以上ないと言う笑みで答えた。

「夕麿! 生まれた!」

「え…?」

 一瞬何の事かわからなかったがすぐに、小夜子が無事に出産したのだと悟った。

「お義母さん、御出産なされたのですね? それでお二人ともおするするであらしゃりますか?」

 普段は武に向かって極力貴族だけで通じる言葉を使用しない事にしている。 しかし希の誕生は夕麿も待ち詫びていたのだ。 喜びの余り興奮してしまった。

「うん。 二人とも元気だって」

「おめでとうございます、武。 これであなたもお兄さんですね?」

「えへへ……」

 照れる姿が愛らしい。 思わず横に座って抱き寄せた。

「武…」

 身体を預けて来る温もりに夕麿の心も暖かくなる。

「良かった…夕麿、透麿が生まれた時、どうだったの?」

 今の状況を気遣いながらも、尋ねて来るのにすら、愛情を感じてしまう。 武の想いは純粋で偽りがない。 夕麿にはそれが嬉しかった。

「…嬉しかったですよ…弟が出来たのですから…近付く事は、許してもらえませんでしたが…」

 穏やかな気持ちで答えられる自分に驚いていた。

「そっか…それは辛かったね? じゃあ…赤ちゃんって、希が初めて触る事になる?」

「間近に見るのも初めてになります」

「そっかぁ…俺と同じだね?」

「武もですか?」

「うん。 希にいろんな事を教えてあげよう。 俺たちの留学が終わる頃にちょうど小学生だなぁ…」

 先を見つめる武の言葉に無言で頷いた。

「ねぇ、夕麿」

「何ですか?」

「希と兄弟でいるのに、俺の身分でダメな事ってある?」

 武の懸念は理解出来る。 制約の多い今の生活から考えて、前以まえもって知っておきたいのだろう。

「そうですね…取り敢えずは、普通で構わないと思います」

 皇家は自分の子供や兄弟を抱かない。 母親でも抱く事はない。 だが…そこまで武に制限を与えるのは夕麿も嫌だった。

「成長する過程であなたの身分や立場については、お義母さんが教えて行かれるでしょう」

「良かった…せっかく弟が生まれたのに、お兄さんらしい事を出来ないのは悲しいから」

 生まれた弟に触れる事も、近付く事も許されなかった夕麿。 紡がれる言葉にはそんな夕麿を気遣う響きがあった。

 兄弟でも身分が違う。 夕麿と透麿もその母の身分違い故に、使用人たちが区別をするのを詠美が嫌っていたのを記憶している。それは彼女にとっては翠子と自分の差でもあった筈だ。 貴族社会との交流では出自の差による、身分違いははっきりと線引きされる為、彼女は六条家に嫁ぐ前から、コンプレックスの塊だったのだろうとは思う。 彼女の置かれた立場は理解出来ても、数々の仕打ちを許す事は出来ない。

 夕麿にも夕麿の誇りがある。 摂関貴族の一員としての矜持にかけて、自分と母の名誉と誇りを穢されたのだ。

 そして武にはまた別の身分違いが存在する。 表の立場としての御園生姓と本来の立場である紫霞宮武王の名前。 二つの間を使い分けなければならない。 むろん夕麿も同じではあるが元々摂関貴族として、また母方を通じて皇家の血が流れる者として、成長過程でしっかりとした教育を受けている。

 故にさほど使い分けを面倒だとは感じてはいない。 しかし武は多少は小夜子に教育を受けてはいても、庶民の中である程度違和感を持たないレベルでしかない。小夜子は本気で武と二人で、庶民の中へと消えて行く覚悟だったのだろう。 武の存在が知れればどうなるのかを彼女は熟知していた筈である。有人との結婚も本気で悩んだだろう。 勲功とはいえ御園生家も貴族の末席に名を連ねている一族だ。 一応、然るべき所へ結婚の届けを出さなければならない。 自分の幸せの犠牲にしてはならないと、小夜子ならば本気で悩んだであろう。 我が子を愛するから。

 ただ武の祖父である今上皇帝が亡き子息の忘れ形見を、幽閉させたくなかったのだと成瀬 雫に聞かされていた。

 希が成長すれば否が応でも兄弟でありながらも、身分の差を区別しなければならない日が来るだろう。 それは武にも希にも辛く哀しい事になるかもしれない。 出来ればそんな日が来るのが、遠い未来であって欲しいと、夕麿は祈らずにはいられない。

 出来れば武の苦しみも悲しみも辛さも、その身からは遠ざけてやりたいと思う。 けれどもそれは多分、不可能だ。 だから支えになれるようになりたい。 武は全てをくれたのだから……

 疲れ果てて眠る武を、夕麿は身を起こして見つめていた。 暗示も無駄だった。 武の心の中から周への嫉妬は消えず、夕麿との結び付きすら揺るがせている。

「武…あなたは、どうしてあなた自身の魅力を理解しないのでしょう…」

 泣きながら縋り付いて来た武の姿に、胸が引き裂かれてしまいそうだった。この生命が奪われようとも、 武を裏切ったりしない。

 しかし心を形には出来ない。 自分の想いは信じられてはいる。 だが夕麿がいなければここから出られなかったり、夕麿の未来まで決められているのをとても気にしてしまっている。 夕麿を自分の宿命に縛り付けていると。

 夕麿自身はそれを束縛であるとは思っていない。 明確な未来が存在する事は夕麿にとって決して嫌な事ではない。 ピアニストの夢を見なかったと言えば確かに嘘になる。 それでも今はピアノよりも武が大切なだけなのだ。 完全に捨ててしまえば、武は安心してくれるのだろうか?

 否。

 そんな事をしたら武はもっと自分自身を責めるだろう。 武には自分の優秀な頭脳などとるに足らないように思えるらしい。 いくらこの紫霄学院がずば抜けて、優秀な生徒の集まりでも武の優秀さは群を抜けている。 彼は自分の取り得は他にはないと信じ込んでしまっていた。 現生徒会長としての人気すら、理由は他にあると思っている。

 周の夕麿への想いは決して本人が口にしない所を見ると、応えを欲しいわけではなさそうに感じる。 夕麿にすれば気が付かないふりをするだけで問題にはならないと思っていた。

 だが武がここまで悩んで苦しむならば、彼を遠ざける事も本気で考えなければならない。

 来年の夏までは周が必要だと思うのに…… 武を苦しめるならば…

 だが周の代わりは誰が出来るのだろう? 自分がいない間に誰が武を守ってくれるのだろう?

 夕麿は立ち塞がる難問にどう答えを出して良いのかわからないでいた。
 
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 渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。  もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。  オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。  ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。  特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。  でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。  理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。  そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!  アルファポリス限定で連載中  二日に一度を目安に更新しております

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話

子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき 「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。 そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。 背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。 結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。 「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」 誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。 叶わない恋だってわかってる。 それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。 君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。

【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。 そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

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