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王立中央図書館を訪れるのは、実に七年ぶりのことだった。
アリスは扉の前でふと立ち止まり、深く呼吸を整える。心の奥に、幼い日々の記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。十代の自分が、寒空の下で凍えた手をこすりながら、ようやく辿り着いたこの扉。重たく軋むその音が、どこか懐かしく感じられる。
胸の奥が、きゅうと締めつけられるようだった。けれど、それは悲しみだけではない。今だからこそ、もう一度向き合いたいという、決意に似た想いがあった。
そっと扉に手をかけ、アリスは静かに中へと足を踏み入れる。
途端に、空気の密度が変わった。書物の匂い、磨き込まれた木の香り、誰かがページをめくるかすかな音。それらすべてが懐かしく、心の奥の柔らかな部分を優しく撫でていく。
書架の並びはほとんど変わらず、天井の高い空間にはあの頃と同じ静謐が漂っていた。だが、よく見ると照明はわずかに明るくなり、閲覧席の椅子には新しいクッションが敷かれている。時は確かに流れ、図書館は静かにその姿を整えながら、変わらぬ居場所であり続けていた。
その空間に一歩ずつ踏み出すたび、アリスの心は少しずつ、あの頃の自分へと引き戻されていった。
「まあ……もしかして、アリス嬢?」
奥のカウンターから、懐かしい声が響いた。
顔を上げると、そこには年配の女性司書――かつてアリスがまだ少女だった頃、よく優しく声をかけてくれた司書長が、信じられないというような面持ちで立っていた。
「やっぱり、アリス嬢ね!まあまあ、なんて綺麗になって……まるで誰かと思ったわ!」
その言葉に、アリスは思わず頬を染めた。
「そんな……私なんて、綺麗なんて言われるような器量じゃありません」
「とんでもない!あの頃の可憐さはそのままに、でも今はすっかり貴婦人の風格ですもの。歩き方も、立ち居振る舞いも――まるで違うわ」
その声を聞きつけて、他の司書たちもカウンターの奥から次々と顔を出す。皆、かつてアリスが通っていた頃とほとんど変わらない表情で、嬉しそうに彼女を迎え入れた。
「ご結婚されたと聞きました。男爵さま……でしたよね? かなり年上の方だったとか……」
「それに、ご病気だったとも……大変だったんじゃありませんか?」
心配をにじませる言葉に、アリスはゆっくりと首を振った。
「……はい、確かに歳も離れていましたし、病も患っていました。でも、クロード様は……とても、素晴らしい方でした」
名前を口にした瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「私にとっては、人生で初めて心から信頼できる人でした。何も強いることなく、ただ静かに、いつも私を見守ってくれて……」
言葉にするたび、記憶があふれる。病に伏しながらも微笑んでくれたあの顔。彼の声。温かな手の感触。アリスの心を、あの優しさがいまも静かに包んでいる。
「体調がいい日は、庭を一緒に歩いたり、静かに紅茶を飲んだり……。何でもない時間が、どれほど尊くて、幸せだったか……」
そこまで言うと、アリスの瞳からひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「……今でも、朝は“おはよう”と声をかけてから一日を始めて、夜は“おやすみなさい”と伝えてから眠るんです。……もうこの世にいないのに……変ですよね」
彼を語るその声音には、深い愛とともに、癒えきらぬ痛みがにじんでいた。
「あっ……すみません、いきなりこんな……」
アリスは慌てて手袋の甲で涙を拭ったが、司書たちはその姿を見て、そっと彼女の手を包み込むように寄り添った。
「いいのよ。こちらこそ、不躾なことを聞いてしまって……ごめんなさいね」
「でも……本当に、愛し合っていらしたのね。あなたとご主人様」
「……はい。心から、愛していました」
その言葉に、誰もが静かに頷いた。アリスの表情には、喪失の悲しみとともに、誇り高い愛の証が宿っていた。
――そんなやりとりを、静かに見つめている男がひとり、書架の陰にいた。
ノエル。
彼の瞳は、アリスの一挙手一投足に釘づけになっていた。
(……まさか)
あの栗色の髪が揺れた瞬間、息が詰まった。もう何年も前に会えなくなった、忘れ得ぬ少女。自分にとって、恋という感情を初めて教えてくれた存在。――アリス。
ここ数年の間、彼はこの図書館に通い続けていた。仕事の合間、休日のひととき、ふと思い立った夕暮れ時――期待しているつもりはなかった。けれど、ほんの少しだけ、「もしかしたら」と願っていた。
今日も、その「もしかしたら」は裏切られると思っていた。もう来るはずがないと、わかっていた。
けれど――彼女は、いた。
そこに、立っていた。
自分が想像していたよりもずっと大人びて、美しく、そして……誰かを深く想う女性として。
アリスの口から語られる、クロードという夫の存在。愛した言葉。涙。微笑み。声の震え。
そのすべてが、ノエルの胸に突き刺さる。
(……彼女はもう、僕の知らない時間を、生きてきたんだ)
指先が震えていた。手にした本の背表紙をじっと見つめながら、ノエルはどうしようもない喪失感に襲われていた。
七年の歳月。アリスを忘れられなかった自分の想い。
そのすべてが、今ここで、静かに崩れ去っていくようだった。
(……アリス……)
遠い存在になってしまった彼女を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
アリスは扉の前でふと立ち止まり、深く呼吸を整える。心の奥に、幼い日々の記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。十代の自分が、寒空の下で凍えた手をこすりながら、ようやく辿り着いたこの扉。重たく軋むその音が、どこか懐かしく感じられる。
胸の奥が、きゅうと締めつけられるようだった。けれど、それは悲しみだけではない。今だからこそ、もう一度向き合いたいという、決意に似た想いがあった。
そっと扉に手をかけ、アリスは静かに中へと足を踏み入れる。
途端に、空気の密度が変わった。書物の匂い、磨き込まれた木の香り、誰かがページをめくるかすかな音。それらすべてが懐かしく、心の奥の柔らかな部分を優しく撫でていく。
書架の並びはほとんど変わらず、天井の高い空間にはあの頃と同じ静謐が漂っていた。だが、よく見ると照明はわずかに明るくなり、閲覧席の椅子には新しいクッションが敷かれている。時は確かに流れ、図書館は静かにその姿を整えながら、変わらぬ居場所であり続けていた。
その空間に一歩ずつ踏み出すたび、アリスの心は少しずつ、あの頃の自分へと引き戻されていった。
「まあ……もしかして、アリス嬢?」
奥のカウンターから、懐かしい声が響いた。
顔を上げると、そこには年配の女性司書――かつてアリスがまだ少女だった頃、よく優しく声をかけてくれた司書長が、信じられないというような面持ちで立っていた。
「やっぱり、アリス嬢ね!まあまあ、なんて綺麗になって……まるで誰かと思ったわ!」
その言葉に、アリスは思わず頬を染めた。
「そんな……私なんて、綺麗なんて言われるような器量じゃありません」
「とんでもない!あの頃の可憐さはそのままに、でも今はすっかり貴婦人の風格ですもの。歩き方も、立ち居振る舞いも――まるで違うわ」
その声を聞きつけて、他の司書たちもカウンターの奥から次々と顔を出す。皆、かつてアリスが通っていた頃とほとんど変わらない表情で、嬉しそうに彼女を迎え入れた。
「ご結婚されたと聞きました。男爵さま……でしたよね? かなり年上の方だったとか……」
「それに、ご病気だったとも……大変だったんじゃありませんか?」
心配をにじませる言葉に、アリスはゆっくりと首を振った。
「……はい、確かに歳も離れていましたし、病も患っていました。でも、クロード様は……とても、素晴らしい方でした」
名前を口にした瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「私にとっては、人生で初めて心から信頼できる人でした。何も強いることなく、ただ静かに、いつも私を見守ってくれて……」
言葉にするたび、記憶があふれる。病に伏しながらも微笑んでくれたあの顔。彼の声。温かな手の感触。アリスの心を、あの優しさがいまも静かに包んでいる。
「体調がいい日は、庭を一緒に歩いたり、静かに紅茶を飲んだり……。何でもない時間が、どれほど尊くて、幸せだったか……」
そこまで言うと、アリスの瞳からひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「……今でも、朝は“おはよう”と声をかけてから一日を始めて、夜は“おやすみなさい”と伝えてから眠るんです。……もうこの世にいないのに……変ですよね」
彼を語るその声音には、深い愛とともに、癒えきらぬ痛みがにじんでいた。
「あっ……すみません、いきなりこんな……」
アリスは慌てて手袋の甲で涙を拭ったが、司書たちはその姿を見て、そっと彼女の手を包み込むように寄り添った。
「いいのよ。こちらこそ、不躾なことを聞いてしまって……ごめんなさいね」
「でも……本当に、愛し合っていらしたのね。あなたとご主人様」
「……はい。心から、愛していました」
その言葉に、誰もが静かに頷いた。アリスの表情には、喪失の悲しみとともに、誇り高い愛の証が宿っていた。
――そんなやりとりを、静かに見つめている男がひとり、書架の陰にいた。
ノエル。
彼の瞳は、アリスの一挙手一投足に釘づけになっていた。
(……まさか)
あの栗色の髪が揺れた瞬間、息が詰まった。もう何年も前に会えなくなった、忘れ得ぬ少女。自分にとって、恋という感情を初めて教えてくれた存在。――アリス。
ここ数年の間、彼はこの図書館に通い続けていた。仕事の合間、休日のひととき、ふと思い立った夕暮れ時――期待しているつもりはなかった。けれど、ほんの少しだけ、「もしかしたら」と願っていた。
今日も、その「もしかしたら」は裏切られると思っていた。もう来るはずがないと、わかっていた。
けれど――彼女は、いた。
そこに、立っていた。
自分が想像していたよりもずっと大人びて、美しく、そして……誰かを深く想う女性として。
アリスの口から語られる、クロードという夫の存在。愛した言葉。涙。微笑み。声の震え。
そのすべてが、ノエルの胸に突き刺さる。
(……彼女はもう、僕の知らない時間を、生きてきたんだ)
指先が震えていた。手にした本の背表紙をじっと見つめながら、ノエルはどうしようもない喪失感に襲われていた。
七年の歳月。アリスを忘れられなかった自分の想い。
そのすべてが、今ここで、静かに崩れ去っていくようだった。
(……アリス……)
遠い存在になってしまった彼女を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
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