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フェルディナン邸の東棟を出た帰り道──セラの胸の奥は、なぜか落ち着かないままだった。
けれど、そのざわつきは今日だけのものではない。
(……あの日から、ずっと)
ジュールの執務室で、愛を交わした日。
荒い呼吸の合間に、ジュールは確かに言った。
『……君と暮らしたい』
『レアが回復したら、離縁する』
『貴族の生活に未練はない。自然の多い場所で、二人で静かに暮らしたい』
身体を重ねた後、額を寄せて囁かれた言葉だった。その声は震え、熱くて、嘘とは思えなかった。
“レアが回復したら”その条件が、胸にしこりのように残っていた。
アラン医師は以前、「レア様の回復は驚くほど順調だ」と告げていた。
では――
レアが完全に回復したその時。
本当にジュールは離縁を選ぶのだろうか。
胸が静かに痛む。
未来を夢見るほど、その未来が揺らぐのが怖かった。
セラは小さく息を吐き、回廊の歩みを早めた。
今日は、二ヶ月ぶりの往診だった。
フェルディナン夫人の脈も、顔色も落ち着いていた。
夫人を悩ませていた、不眠、胸苦しさ、食欲不振――どれも改善傾向にあり、薬がきちんと効いている証拠だった。
それなのに。
(……なぜ、こんなに胸がざわつくのだろうか)
往診用の鞄を抱え直しながら、セラはほんの数刻前の夫人の顔を思い出していた。
──どこか“言いかけてやめた”ような表情をしていた。
「セラさん、本当に助かっているのよ。あなたの薬がなかったら、私は今ごろ――」
そう言って、夫人は笑ったが、その笑みの端に、曇りが一瞬だけ走った。
まるで何かを考えているかのように、表情を曇らせたのだった。
(夫人の体調は良さそうだけど‥何か別の不調が……?)
フェルディナン夫人の体調が気に掛かり、胸の奥で冷たい波が静かに広がっていく。
廊下を歩いていると、すれ違った侍女がセラに向かって微笑んだ……ように見えた。
だが、その瞳は笑っておらず、すぐに伏せられる。
(……あの方、いつもは明るく挨拶してくれたのに…)
胸に小さなざらつきが生まれる。
さらに玄関へ向かう途中、開いた扉から使用人たちのひそひそ声が聞こえた。
「……あの薬、強すぎるんじゃ……」
「しっ……聞こえるわよ」
セラが立ち止まった瞬間、使用人の会話はぷつりと切れ、二人は不自然なほど丁寧に頭を下げて去って行った。
(薬……?夫人に調合した薬のこと?)
理由はわからない。ただ、何かが起きている感覚だけがじわりと胸を締めつけていく。
そして最後に、夫人の曇ったまなざしが再び胸をよぎった。
(……どうしたのだろう…)
その正体はまだ影の形すら見えない。
けれど、冷たい予兆は確かに息をしていた。
セラは小さく息を吸い、夕暮れの王都の空の下へ一歩踏み出した。
胸の奥に、静かに芽生える不安とともに、フェルディナン邸を後にした。
***
翌日。
薬草の香りが満ちる調合室。
夕刻の光が机の上の薬瓶を淡く照らす中、セラは今日の処方箋をひとつずつ確認していた。
セラは慣れた手つきで薬草を刻み、煎じ、患者に合わせた調合を進めていた。
「セラさん……これ、本当にあなたの処方?」
受付の助手リナが、少し怯えたように紙を差し出した。
セラは眉を寄せて受け取り、処方箋に目を通す。
そこに書かれた薬量は、セラが決して書かない“倍量”の処方 になっていた。
「……違うわ。これ、私の字じゃない」
セラは眉根を寄せて、処方箋を見つめる。処方箋の筆跡が、自分のものと驚くほど 似ている。
助手リナが不安そうに言う。
「患者の奥様が……“セラさんの字です” と……」
セラは息を呑んだ。
明らかに自分の技量に対する疑念が生まれている。
リナはさらに言いづらそうに告げた。
「……アラン先生にも伝わってしまって……後で話を聞きたい、と」
身に覚えがなく、胸が冷たく沈む。
しかし、処方箋は“証拠”のように存在している。
「セラ?」
ふいに背後から声がかかった。
アラン医師だった。
「リナから聞いたと思うが‥」
アランの表情がわずかに曇り、処方箋の束が目の前に置かれた。
「この処方箋なんだが…覚えはあるか?」
処方箋の束の中の一枚を手に取ると、セラの指が微かに震えた。
「……え…?」
処方箋には、見慣れた文字が並んでいた。
──自分の筆跡によく似た、柔らかい文字の癖。
だが決定的に違う。
診察した覚えもなく、名前にも見覚えながない患者の処方箋なのに、セラの筆跡に似せられて、倍量だったり、出鱈目な処方がされている内容だった。
胸の奥に、じわりと冷たい水が落ちていく。
気づけば唇が乾いていた。
何度見直しても、文字は、紛れもなくセラの書式に寄せられたものだ。
(誰が……こんな……)
「……覚えはなさそうだな‥。この患者の名前、うちの診療所にはいないんだ。診療歴も、俺の記憶にもない」
「……では、なぜ?」
セラの声は戸惑いに満ちていた。
アランはさらに筆跡をじっと見つめ、顔を上げた。
「……セラ。確かに、これらは君が書いたものではないな?」
「……はい。書いていません」
その返事に、アランは深く息を吐いた。
叱責ではない。むしろ強い心配を押し殺すような、静かな仕草だった。
「最近……何か、おかしなことはないか?」
「……いいえ…特には…」
フェルディナン夫人と使用人の様子に、ふと違和感が生じていたが、この件との繋がりが確証できないため、思い当たらないと返事をする。
アランは首を傾げながら、セラを心配そうに見つめる。
「無理をしているのではないかと思っていたんだ。
往診の間隔が延びてきたとはいえ、フェルディナン夫人の担当が重荷ではないかと……
それ以外でも、君の評判を聞いて、担当患者数も増えている。だから……」
そこで言葉を区切り、優しい声が続いた。
「もし“記憶違い”や“書き間違い”が増えているのなら、君に休みを取らせようと思っていた」
セラははっと息を呑む。
胸に冷水が落ちたような気がした。
「ち、違います……!そんな間違いは、しません」
「わかっている。そう断言できる君だからこそ、心配なんだ」
アランの視線は、決して疑いではなかった。
むしろ【セラがこんなミスをするはずがない】と、彼は本気で信じている眼差しだった。
だが、その信頼が逆にセラの胸を締めつける。
(私は……書いていない。でも、この紙は……私に“書いたことにしようとしている”……?)
言葉にできない恐怖が、ゆっくり脊髄を這い上がってくる。
アランは静かにセラの肩に手を置いた。
「何かあれば必ず言ってくれ。君の仕事ぶりはよく知っている。だから……ひとりで抱え込むな」
その言葉の温かさに、セラはほんの少しだけ呼吸を取り戻した。
でも不安は消えない。
(……誰が……何のために……)
処方箋の“偽の筆跡”が、机の上で淡く光を反射していた。まるで静かに告げているようだった。
──これは、まだ始まりにすぎなかった。
けれど、そのざわつきは今日だけのものではない。
(……あの日から、ずっと)
ジュールの執務室で、愛を交わした日。
荒い呼吸の合間に、ジュールは確かに言った。
『……君と暮らしたい』
『レアが回復したら、離縁する』
『貴族の生活に未練はない。自然の多い場所で、二人で静かに暮らしたい』
身体を重ねた後、額を寄せて囁かれた言葉だった。その声は震え、熱くて、嘘とは思えなかった。
“レアが回復したら”その条件が、胸にしこりのように残っていた。
アラン医師は以前、「レア様の回復は驚くほど順調だ」と告げていた。
では――
レアが完全に回復したその時。
本当にジュールは離縁を選ぶのだろうか。
胸が静かに痛む。
未来を夢見るほど、その未来が揺らぐのが怖かった。
セラは小さく息を吐き、回廊の歩みを早めた。
今日は、二ヶ月ぶりの往診だった。
フェルディナン夫人の脈も、顔色も落ち着いていた。
夫人を悩ませていた、不眠、胸苦しさ、食欲不振――どれも改善傾向にあり、薬がきちんと効いている証拠だった。
それなのに。
(……なぜ、こんなに胸がざわつくのだろうか)
往診用の鞄を抱え直しながら、セラはほんの数刻前の夫人の顔を思い出していた。
──どこか“言いかけてやめた”ような表情をしていた。
「セラさん、本当に助かっているのよ。あなたの薬がなかったら、私は今ごろ――」
そう言って、夫人は笑ったが、その笑みの端に、曇りが一瞬だけ走った。
まるで何かを考えているかのように、表情を曇らせたのだった。
(夫人の体調は良さそうだけど‥何か別の不調が……?)
フェルディナン夫人の体調が気に掛かり、胸の奥で冷たい波が静かに広がっていく。
廊下を歩いていると、すれ違った侍女がセラに向かって微笑んだ……ように見えた。
だが、その瞳は笑っておらず、すぐに伏せられる。
(……あの方、いつもは明るく挨拶してくれたのに…)
胸に小さなざらつきが生まれる。
さらに玄関へ向かう途中、開いた扉から使用人たちのひそひそ声が聞こえた。
「……あの薬、強すぎるんじゃ……」
「しっ……聞こえるわよ」
セラが立ち止まった瞬間、使用人の会話はぷつりと切れ、二人は不自然なほど丁寧に頭を下げて去って行った。
(薬……?夫人に調合した薬のこと?)
理由はわからない。ただ、何かが起きている感覚だけがじわりと胸を締めつけていく。
そして最後に、夫人の曇ったまなざしが再び胸をよぎった。
(……どうしたのだろう…)
その正体はまだ影の形すら見えない。
けれど、冷たい予兆は確かに息をしていた。
セラは小さく息を吸い、夕暮れの王都の空の下へ一歩踏み出した。
胸の奥に、静かに芽生える不安とともに、フェルディナン邸を後にした。
***
翌日。
薬草の香りが満ちる調合室。
夕刻の光が机の上の薬瓶を淡く照らす中、セラは今日の処方箋をひとつずつ確認していた。
セラは慣れた手つきで薬草を刻み、煎じ、患者に合わせた調合を進めていた。
「セラさん……これ、本当にあなたの処方?」
受付の助手リナが、少し怯えたように紙を差し出した。
セラは眉を寄せて受け取り、処方箋に目を通す。
そこに書かれた薬量は、セラが決して書かない“倍量”の処方 になっていた。
「……違うわ。これ、私の字じゃない」
セラは眉根を寄せて、処方箋を見つめる。処方箋の筆跡が、自分のものと驚くほど 似ている。
助手リナが不安そうに言う。
「患者の奥様が……“セラさんの字です” と……」
セラは息を呑んだ。
明らかに自分の技量に対する疑念が生まれている。
リナはさらに言いづらそうに告げた。
「……アラン先生にも伝わってしまって……後で話を聞きたい、と」
身に覚えがなく、胸が冷たく沈む。
しかし、処方箋は“証拠”のように存在している。
「セラ?」
ふいに背後から声がかかった。
アラン医師だった。
「リナから聞いたと思うが‥」
アランの表情がわずかに曇り、処方箋の束が目の前に置かれた。
「この処方箋なんだが…覚えはあるか?」
処方箋の束の中の一枚を手に取ると、セラの指が微かに震えた。
「……え…?」
処方箋には、見慣れた文字が並んでいた。
──自分の筆跡によく似た、柔らかい文字の癖。
だが決定的に違う。
診察した覚えもなく、名前にも見覚えながない患者の処方箋なのに、セラの筆跡に似せられて、倍量だったり、出鱈目な処方がされている内容だった。
胸の奥に、じわりと冷たい水が落ちていく。
気づけば唇が乾いていた。
何度見直しても、文字は、紛れもなくセラの書式に寄せられたものだ。
(誰が……こんな……)
「……覚えはなさそうだな‥。この患者の名前、うちの診療所にはいないんだ。診療歴も、俺の記憶にもない」
「……では、なぜ?」
セラの声は戸惑いに満ちていた。
アランはさらに筆跡をじっと見つめ、顔を上げた。
「……セラ。確かに、これらは君が書いたものではないな?」
「……はい。書いていません」
その返事に、アランは深く息を吐いた。
叱責ではない。むしろ強い心配を押し殺すような、静かな仕草だった。
「最近……何か、おかしなことはないか?」
「……いいえ…特には…」
フェルディナン夫人と使用人の様子に、ふと違和感が生じていたが、この件との繋がりが確証できないため、思い当たらないと返事をする。
アランは首を傾げながら、セラを心配そうに見つめる。
「無理をしているのではないかと思っていたんだ。
往診の間隔が延びてきたとはいえ、フェルディナン夫人の担当が重荷ではないかと……
それ以外でも、君の評判を聞いて、担当患者数も増えている。だから……」
そこで言葉を区切り、優しい声が続いた。
「もし“記憶違い”や“書き間違い”が増えているのなら、君に休みを取らせようと思っていた」
セラははっと息を呑む。
胸に冷水が落ちたような気がした。
「ち、違います……!そんな間違いは、しません」
「わかっている。そう断言できる君だからこそ、心配なんだ」
アランの視線は、決して疑いではなかった。
むしろ【セラがこんなミスをするはずがない】と、彼は本気で信じている眼差しだった。
だが、その信頼が逆にセラの胸を締めつける。
(私は……書いていない。でも、この紙は……私に“書いたことにしようとしている”……?)
言葉にできない恐怖が、ゆっくり脊髄を這い上がってくる。
アランは静かにセラの肩に手を置いた。
「何かあれば必ず言ってくれ。君の仕事ぶりはよく知っている。だから……ひとりで抱え込むな」
その言葉の温かさに、セラはほんの少しだけ呼吸を取り戻した。
でも不安は消えない。
(……誰が……何のために……)
処方箋の“偽の筆跡”が、机の上で淡く光を反射していた。まるで静かに告げているようだった。
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