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しおりを挟む「これ、洗っておいてよ!」
甲高い声とともに、ジャンヌの足元に布が放り込まれた。従姉妹が脱ぎ捨てたばかりのワンピースだ。
冬の寒空の下、ジャンヌは荒れた手を吐く息で温めながら、家の中庭で桶いっぱいの洗濯物に向かっていた。
水は氷のように冷たく、指先から感覚が失われていく。それでも彼女は唇に小さな笑みを貼り付け、黙々と洗い続ける。
――仕方ない
そう心の中でつぶやくのは、自分を守るための習慣だった。
幼い頃に流行病で両親を失い、親戚の家をたらい回しにされて育ったジャンヌ。
最後に辿り着いた叔父夫妻の家には、意地悪な姉妹がいて、彼女は日常的に理不尽な扱いを受けていた。
叱られ、命じられ、時に突き放されても、彼女は笑ってやり過ごす。笑顔という仮面は、痛みを隠し、心を守るための自己防衛だった。
ジャンヌは、赤茶色の髪を肩に垂らし、琥珀色の瞳を持っていた。華奢な体つきに、色白の頬。誰もが振り返る美貌ではないが、清らかで可憐な印象を漂わせていた。
「ジャンヌ?まだ洗濯してるのか?」
声をかけてきたのは、隣家に住むトーマスだった。
幼い頃に母を亡くし、大工をしている父と二人で暮らしている。
さらりとした黒髪に、すっと通った鼻梁、澄んだ碧色の瞳を持ち、背も高い。
平民でありながら、その整った容姿は人目を引かずにはいられなかった。
十三歳の夏、ジャンヌが叔父の家へと預けられたとき――すでに彼は、年齢以上の正義感と頼もしさを備えていた。
「手が真っ赤じゃないか。大丈夫か?」
「あ、トーマス……」
顔を上げたジャンヌの頬が、冷気で赤らんでいる。吐く息が白く揺れ、琥珀色の瞳がわずかに潤んで見えた。
昼近くになっても洗濯は終わらず、トーマスは眉を寄せて手拭いを差し出した。
「湯で洗えばいいのに。今、家から持ってきてやるよ」
「だ、大丈夫よ、トーマス」
「大丈夫なもんか。朝からずっと洗ってるんだろ」
「……なかなか減らなくて」
ジャンヌは視線を伏せ、従姉妹に押しつけられたワンピースを握りしめた。
「……ちょっと待ってろ」
トーマスはため息をつき、自分の家の裏手へ消えた。やがて戻ってくると、盥いっぱいのお湯を抱えていた。
「これを使えよ」
彼は出会った頃からジャンヌに優しかった。
幼い時に母を失った経験があるからこそ、同じように孤独を背負う彼女に同情的な上に、叔父一家に虐げられる姿を見過ごせなかった。
「ありがとう、トーマス……」
盥の湯気が白く立ちのぼる。
それを見ながら、ジャンヌの胸の奥にも静かに温もりが広がっていく。どんなに理不尽な日々でも、彼がいてくれる限り大丈夫――そう信じられた。
「なぁ、ジャンヌ。学校を卒業したら、どうする?」
「え……?」
この村では、男女や貧富の差に関係なく、皆が平等に学ぶことができ、ジャンヌも学校に通っていた。
今年、十八歳で最終学年となるジャンヌとトーマスは、春に卒業を控えていた。
ジャンヌは、特に算術に秀でており、成績はとても優秀だった。
「まだ、何も決めてないの」
叔父夫妻からは「近くで職を探し、これまで通り家事を続けるように」と言われていた。ジャンヌはそれ以上語らなかった。
「そうか。ジャンヌは算術が得意なんだから、都会の商会でも働けるだろうに」
トーマスは彼女の荒れた指先を見やり、低く呟く。
「……卒業したら、一緒に都会へ行かないか?」
「えっ……!」
思わず声を上げたジャンヌに、トーマスは淡々と続ける。
何をやらせても器用にこなし、文武両道で、学校の皆から一目置かれていた彼は、教師たちから進学を強く勧められていた。
しかし、幼い頃から大工である父の仕事ぶりを間近に見て育った彼は、その背中に憧れを抱いていた。
木材の香りや、図面が形になっていく過程に心を奪われ、次第に建築設計の道を志すようになったのである。
その夢を叶えるために、すでに都会の会社への就職も決まっていた。未来を見据える彼の横顔は、少年の域を超えた確かな決意を宿していた。
「この家にいても……辛いだけだろ?」
ジャンヌがどれほど不遇な扱いを受けているか、彼は誰よりも理解していた。だからこそ、ただ純粋に彼女を救いたいと願った。
「……そうね。トーマスが一緒に行ってくれるなら……私、踏み出せる気がするわ」
「よし!そうと決まれば、明日先生に相談するんだな」
にっと笑うトーマスの横顔に、ジャンヌの頬は熱く染まった。彼女は十三歳のあの日から、ずっと彼に恋をしていたのだ。
一方で、トーマスにとってジャンヌはあくまで幼馴染であり、守るべき友達に過ぎない。
淡い友情の中で自然に振る舞うその姿が、ジャンヌの瞳には――誰よりも頼もしい英雄のように映っていた。
(この想いが届かなくてもいい。彼のそばにいられるだけで、私は幸せ……)
そう心の中で呟いたジャンヌは、笑顔を取り繕いながらも、胸の奥に小さな痛みを抱きしめていた。
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