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(トーマス:回想)
物心がついた時には、すでに母はいなかった。
産後の肥立ちが悪く、長く床に伏していたと聞かされている。幼い自分には「病に伏す母」の記憶すらない。
ほんの少しでいいから抱きしめてもらった記憶が残っていればと、大きくなってから思うことはあったが、実際には温もりを知らない。
長患いの後、流行り病にかかり、あっけなく命を落としてしまったのだという。
母の姿は写真でしか知らない。
美しく柔らか表情を浮かべる母。それでも、奇妙なことに寂しさはなかった。
――父がいたからだ。
大工をしていた父は、毎日働き詰めだったにもかかわらず、決して自分を孤独にさせなかった。
あの大きな背中。木材を担ぐたびに広がる逞しい肩。帰宅したときにまとっている木の香り。
どれもが、自分にとっては安心の象徴だった。父の存在があったから、自分は母を知らなくても、ひとりきりだと感じたことはなかった。
父が母の分まで、たくさんの愛情を注いでくれた。父こそが世界でいちばん頼もしく、尊敬すべき存在だった。
十三歳のある日、隣家に親戚の少女が引き取られてくると聞かされた。
彼女――ジャンヌは、幼くして両親を亡くし、親戚中をたらい回しにされた末に、あの家に身を寄せることになったらしい。
その夜、夕餉の席で父はぽつりと呟いた。
「気の毒にな……。早くに親を亡くした上に、あちこち渡り歩かされるとは。お前は歳も近いだろう、トーマス。気にかけてやりなさい」
父の言葉は絶対だった。
子ども心に「父に褒められたい」という気持ちは強かったし、なにより尊敬してやまない父の言いつけなら、どんなことでも守りたいと思った。
だから、自分はジャンヌに声をかけるようになった。
引き取られて間もない彼女は、あの家で家事を押し付けられ、理不尽に叱られ、幼いながらも虐げられていた。
そんな姿を目にすれば、自然と手を差し伸べずにはいられなかった。
あるとき、買い物の荷物を持たされていたジャンヌを見かねて一緒に運んだ。
帰宅して父に話すと、「よくやったな」と笑って褒めてくれた。その笑顔が嬉しくて、胸の奥が熱くなった。
もっと褒めてもらいたい――それもあった。
だがそれ以上に、「ジャンヌを守らなければ」という感覚が自分の中に芽生えており、使命のように根を下ろしていった。
最初のジャンヌの印象は「痩せていて、おとなしい子」だった。
声をかけても俯いたまま、小さな声で返すばかり。何を考えているのかよく分からない。
日を重ねるうちに、少しずつ表情が変わっていった。自分にだけは小さく笑ってくれることが増え、ぽつりぽつりと話すようになった。
言葉を交わす時間が増えるにつれて、「ただのおとなしい子」ではなくなっていった。
自分は父子家庭で育ち、幼い頃から近所の男の子たちと駆け回るばかりだった。
女の子の話題といえば「食べ物の好き嫌い」や「憧れの歌人」、あるいは「新しい髪飾り」のこと。
正直、興味が持てなかった。男子と木登りや泥遊びをしている方がずっと楽しかった。
――けれど、年頃になると事情が変わった。
いつの間にか、自分の容姿が女子たちの間で騒がれるようになっていた。
背が伸び、父譲りの体格が整い始めると、歩くだけで視線を浴びる。
それが妙に鬱陶しくて仕方なかった。噂話をされるのも、恋愛めいた視線を向けられるのも厄介で、余計に男友達とばかりつるむようになった。
けれど――ジャンヌだけは例外だった。
彼女は騒がしくない。余計な詮索もしてこない。隣にいても気を遣う必要がなく、息苦しさを覚えない。
父から「気にかけてやれ」と言われてきたこともあり、自然と手を差し伸べるのが習慣になっていた。
気づけば、彼女は「女子」ではなく【幼馴染】として、そばにいるのが当たり前の存在になっていた。
学園の最終学年を迎えたころ、父に成績表を見せる機会があった。
父は「立派だ」と目を細め、満足そうに頷いてくれた。だが自分は算術だけはジャンヌに負けたと正直に打ち明けた。
すると父は声をあげて笑い、「それでも充分だ」と言ってくれた。そしてジャンヌの名を口にし、真面目に感心していた。
「隣の娘たちは評判が悪いが、ジャンヌは違う。あの家に虐げられて気の毒な子だが、成績は良いし、しっかりした娘さんだ。算術ができるのなら、卒業後は都会の商会に勤められるかもしれないな。あの一家とは離れた方が幸せだろう」
父の言葉は、強く胸に刻まれた。
卒業後、自分は都会で職に就くことが決まっていた。不安と期待に揺れていた時期だったからこそ、父のその言葉が妙に響いたのだ。
――ならば、ジャンヌを誘おう。
一緒に都会へ行けたら。あの家から救い出してやれたら。
自分にとっても安心だし、ジャンヌにとっても新しい道が開けるかもしれない。
そう考えたとき、胸の奥に不思議な使命感と少しの勇気が湧いた。
そしてある日、思い切って彼女に声をかけることにしたのだった。
物心がついた時には、すでに母はいなかった。
産後の肥立ちが悪く、長く床に伏していたと聞かされている。幼い自分には「病に伏す母」の記憶すらない。
ほんの少しでいいから抱きしめてもらった記憶が残っていればと、大きくなってから思うことはあったが、実際には温もりを知らない。
長患いの後、流行り病にかかり、あっけなく命を落としてしまったのだという。
母の姿は写真でしか知らない。
美しく柔らか表情を浮かべる母。それでも、奇妙なことに寂しさはなかった。
――父がいたからだ。
大工をしていた父は、毎日働き詰めだったにもかかわらず、決して自分を孤独にさせなかった。
あの大きな背中。木材を担ぐたびに広がる逞しい肩。帰宅したときにまとっている木の香り。
どれもが、自分にとっては安心の象徴だった。父の存在があったから、自分は母を知らなくても、ひとりきりだと感じたことはなかった。
父が母の分まで、たくさんの愛情を注いでくれた。父こそが世界でいちばん頼もしく、尊敬すべき存在だった。
十三歳のある日、隣家に親戚の少女が引き取られてくると聞かされた。
彼女――ジャンヌは、幼くして両親を亡くし、親戚中をたらい回しにされた末に、あの家に身を寄せることになったらしい。
その夜、夕餉の席で父はぽつりと呟いた。
「気の毒にな……。早くに親を亡くした上に、あちこち渡り歩かされるとは。お前は歳も近いだろう、トーマス。気にかけてやりなさい」
父の言葉は絶対だった。
子ども心に「父に褒められたい」という気持ちは強かったし、なにより尊敬してやまない父の言いつけなら、どんなことでも守りたいと思った。
だから、自分はジャンヌに声をかけるようになった。
引き取られて間もない彼女は、あの家で家事を押し付けられ、理不尽に叱られ、幼いながらも虐げられていた。
そんな姿を目にすれば、自然と手を差し伸べずにはいられなかった。
あるとき、買い物の荷物を持たされていたジャンヌを見かねて一緒に運んだ。
帰宅して父に話すと、「よくやったな」と笑って褒めてくれた。その笑顔が嬉しくて、胸の奥が熱くなった。
もっと褒めてもらいたい――それもあった。
だがそれ以上に、「ジャンヌを守らなければ」という感覚が自分の中に芽生えており、使命のように根を下ろしていった。
最初のジャンヌの印象は「痩せていて、おとなしい子」だった。
声をかけても俯いたまま、小さな声で返すばかり。何を考えているのかよく分からない。
日を重ねるうちに、少しずつ表情が変わっていった。自分にだけは小さく笑ってくれることが増え、ぽつりぽつりと話すようになった。
言葉を交わす時間が増えるにつれて、「ただのおとなしい子」ではなくなっていった。
自分は父子家庭で育ち、幼い頃から近所の男の子たちと駆け回るばかりだった。
女の子の話題といえば「食べ物の好き嫌い」や「憧れの歌人」、あるいは「新しい髪飾り」のこと。
正直、興味が持てなかった。男子と木登りや泥遊びをしている方がずっと楽しかった。
――けれど、年頃になると事情が変わった。
いつの間にか、自分の容姿が女子たちの間で騒がれるようになっていた。
背が伸び、父譲りの体格が整い始めると、歩くだけで視線を浴びる。
それが妙に鬱陶しくて仕方なかった。噂話をされるのも、恋愛めいた視線を向けられるのも厄介で、余計に男友達とばかりつるむようになった。
けれど――ジャンヌだけは例外だった。
彼女は騒がしくない。余計な詮索もしてこない。隣にいても気を遣う必要がなく、息苦しさを覚えない。
父から「気にかけてやれ」と言われてきたこともあり、自然と手を差し伸べるのが習慣になっていた。
気づけば、彼女は「女子」ではなく【幼馴染】として、そばにいるのが当たり前の存在になっていた。
学園の最終学年を迎えたころ、父に成績表を見せる機会があった。
父は「立派だ」と目を細め、満足そうに頷いてくれた。だが自分は算術だけはジャンヌに負けたと正直に打ち明けた。
すると父は声をあげて笑い、「それでも充分だ」と言ってくれた。そしてジャンヌの名を口にし、真面目に感心していた。
「隣の娘たちは評判が悪いが、ジャンヌは違う。あの家に虐げられて気の毒な子だが、成績は良いし、しっかりした娘さんだ。算術ができるのなら、卒業後は都会の商会に勤められるかもしれないな。あの一家とは離れた方が幸せだろう」
父の言葉は、強く胸に刻まれた。
卒業後、自分は都会で職に就くことが決まっていた。不安と期待に揺れていた時期だったからこそ、父のその言葉が妙に響いたのだ。
――ならば、ジャンヌを誘おう。
一緒に都会へ行けたら。あの家から救い出してやれたら。
自分にとっても安心だし、ジャンヌにとっても新しい道が開けるかもしれない。
そう考えたとき、胸の奥に不思議な使命感と少しの勇気が湧いた。
そしてある日、思い切って彼女に声をかけることにしたのだった。
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