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食堂で同僚たちと席を囲んでいると、ふいに明るい声が響いた。
「私も、ここに一緒にいい?」
トレイを持ったハルディが近寄ってきて、ためらいなくトーマスの隣に腰を下ろした。
ハルディの肘が軽く触れ、思わずトーマスは身を引く。
「あ、ごめん」
「気にしないで」
大きな瞳を細めて、にこやかに返すハルディの微笑みに、胸が不意にざわついた。
やがて周囲の会話が盛り上がり、賑やかな笑い声が響く中――再び、ハルディの肘がトーマスの腕に触れた。
(……また、当たった)
慌てて手を引こうとしたその瞬間、横からクスッと小さな笑い声が聞こえた。
視線を向けると、ハルディが意味深な微笑みを浮かべている。
「……ふふっ、トーマスって可愛いね」
彼女の囁きは小さかったが、確かに耳に届き、心臓が一気に跳ねた。
「……」
トーマスは視線を逸らし、わざと無表情を装った。だが、胸の内は熱く、鼓動は速さを増していた。
周囲の誰も気づかない中、一人だけ――同期のアランが、そのやり取りを黙って見つめていた。
午後、設計図の前に座り、製図ペンを走らせていても、ハルディの肘の柔らかい感触がふと甦る。
線をまっすぐ引こうと集中しているはずなのに、ペン先がわずかに震えてしまう。
頭の中では構造計算や寸法の数字が並んでいるのに、その合間から彼女の笑みや囁き声が忍び込んでくる。
(落ち着け……今は仕事に集中だ)
自分に言い聞かせるが、図面の余白に咲いた小さな花柄模様が、どうしても彼女の便箋を思い出させた。
消しゴムで何度も消しては描き直し、気づけば定規を握る手に汗が滲んでいた。
トーマスの真剣な横顔に、通りがかった女性社員たちが思わず足を止めた。
「ねえ見て、あの集中してる顔……」
「やっぱり彼って素敵だわ」
「定規とペンを持つ姿まで、まるで絵画みたいじゃない?」
囁きはたちまち広がり、小さなため息やくすくす笑いが周囲に漂う。
中には手に持っていた布や書板で頬を隠しながら、赤らめた顔で見つめ続ける者までいた。
だが当のトーマスは、熱を帯びた視線には気づかない。定規とペンを握る手を止めず、必死に図面と数字に向き合っていた。
*
夕方。帰り支度をしていると、声を掛けられた。
「なあ、トーマス。帰りに食事でも行かないか?」
顔を上げると、そこに立っていたのは同期のアランだった。
短く刈り込んだ金髪に、背が高くがっしりとした体格。誠実さを漂わせる落ち着いた眼差しと、真面目な人柄で評判の男だ。
ジャンヌが食事を用意してくれているのはわかっていたが、せっかくの誘いを断るのも悪い気がして、トーマスは頷いた。
「……ああ、行こう」
心のどこかで――ジャンヌの料理は、明日の朝食べればいい。帰りが遅ければ、彼女も先に帰るだろうと考えていた。
近くの酒場に入り、木のテーブルに簡単な料理を並べながら、二人は互いの仕事の話や日々の出来事を語り合った。
「今日も一日、疲れたな…」
「だな。でも、こうして一息つける時間はありがたいよな」
「そうだな。俺もまだ覚えることばかりで手一杯だし、トーマスもきっと同じだろ?」
「ああ。設計の書類や図面の整理とか、まだ手順を覚えるのに精一杯だよ」
アランはがっしりした体格を生かしてテーブルに肘をつき、真剣な表情で話す。
「でも、こうして話すと少し気が楽になるな。新人だからこそ分かる苦労ってあるし」
「そうだな。もう、学生時代と違うし…仕事を覚えないと話にならないからなぁ」
二人の会話は自然に笑いも混ざり、穏やかに続いた。だが、アランの表情がふと真剣になった。
「ところで……一つ聞きたいんだ。お前、ハルディ先輩に狙われてないか?」
唐突な問いに、トーマスはグラスを持つ手を止めた。
「……な、何でそんなことを?」
声がわずかに震えた。動揺は隠しきれない。アランは苦笑しながらも頷いた。
「やっぱり、図星か」
「いや、別に…っていうか、どうして?」
トーマスは少し驚きながら答えた。
「そりゃ、同期として心配だからさ。実は俺、同期に彼女がいて聞いたんだ。ハルディ先輩の評判は、あまり良くないってね。仕事よりも恋愛に熱心で、狙った獲物は逃さないって話らしい」
アランはさらに言葉を重ねた。
「君、女性経験はあるか?」
「っ…!え?…ああ…、うん、まあ…」
トーマスの動揺は隠せなくなっていた。
「もし付き合う気があるなら、彼女を満足させられないと続かないぞ。
お前は仕事熱心で、期待されてる人材だ。だからこそ……色恋沙汰で駄目になってほしくないからな。付き合う気がなければ、この話は忘れてくれていい」
アランの言葉は、同じ新人としての率直な忠告だった。真剣な表情で見つめられ、トーマスは胸の奥がざわつくのを感じた。
「…ああ、分かった。気をつけるよ」
「うん。それでこそ、同期として安心できるってもんだ」
アランの誠実さと配慮に、トーマスは安心しつつも、同時にハルディのことを意識せずにはいられなかった。
「私も、ここに一緒にいい?」
トレイを持ったハルディが近寄ってきて、ためらいなくトーマスの隣に腰を下ろした。
ハルディの肘が軽く触れ、思わずトーマスは身を引く。
「あ、ごめん」
「気にしないで」
大きな瞳を細めて、にこやかに返すハルディの微笑みに、胸が不意にざわついた。
やがて周囲の会話が盛り上がり、賑やかな笑い声が響く中――再び、ハルディの肘がトーマスの腕に触れた。
(……また、当たった)
慌てて手を引こうとしたその瞬間、横からクスッと小さな笑い声が聞こえた。
視線を向けると、ハルディが意味深な微笑みを浮かべている。
「……ふふっ、トーマスって可愛いね」
彼女の囁きは小さかったが、確かに耳に届き、心臓が一気に跳ねた。
「……」
トーマスは視線を逸らし、わざと無表情を装った。だが、胸の内は熱く、鼓動は速さを増していた。
周囲の誰も気づかない中、一人だけ――同期のアランが、そのやり取りを黙って見つめていた。
午後、設計図の前に座り、製図ペンを走らせていても、ハルディの肘の柔らかい感触がふと甦る。
線をまっすぐ引こうと集中しているはずなのに、ペン先がわずかに震えてしまう。
頭の中では構造計算や寸法の数字が並んでいるのに、その合間から彼女の笑みや囁き声が忍び込んでくる。
(落ち着け……今は仕事に集中だ)
自分に言い聞かせるが、図面の余白に咲いた小さな花柄模様が、どうしても彼女の便箋を思い出させた。
消しゴムで何度も消しては描き直し、気づけば定規を握る手に汗が滲んでいた。
トーマスの真剣な横顔に、通りがかった女性社員たちが思わず足を止めた。
「ねえ見て、あの集中してる顔……」
「やっぱり彼って素敵だわ」
「定規とペンを持つ姿まで、まるで絵画みたいじゃない?」
囁きはたちまち広がり、小さなため息やくすくす笑いが周囲に漂う。
中には手に持っていた布や書板で頬を隠しながら、赤らめた顔で見つめ続ける者までいた。
だが当のトーマスは、熱を帯びた視線には気づかない。定規とペンを握る手を止めず、必死に図面と数字に向き合っていた。
*
夕方。帰り支度をしていると、声を掛けられた。
「なあ、トーマス。帰りに食事でも行かないか?」
顔を上げると、そこに立っていたのは同期のアランだった。
短く刈り込んだ金髪に、背が高くがっしりとした体格。誠実さを漂わせる落ち着いた眼差しと、真面目な人柄で評判の男だ。
ジャンヌが食事を用意してくれているのはわかっていたが、せっかくの誘いを断るのも悪い気がして、トーマスは頷いた。
「……ああ、行こう」
心のどこかで――ジャンヌの料理は、明日の朝食べればいい。帰りが遅ければ、彼女も先に帰るだろうと考えていた。
近くの酒場に入り、木のテーブルに簡単な料理を並べながら、二人は互いの仕事の話や日々の出来事を語り合った。
「今日も一日、疲れたな…」
「だな。でも、こうして一息つける時間はありがたいよな」
「そうだな。俺もまだ覚えることばかりで手一杯だし、トーマスもきっと同じだろ?」
「ああ。設計の書類や図面の整理とか、まだ手順を覚えるのに精一杯だよ」
アランはがっしりした体格を生かしてテーブルに肘をつき、真剣な表情で話す。
「でも、こうして話すと少し気が楽になるな。新人だからこそ分かる苦労ってあるし」
「そうだな。もう、学生時代と違うし…仕事を覚えないと話にならないからなぁ」
二人の会話は自然に笑いも混ざり、穏やかに続いた。だが、アランの表情がふと真剣になった。
「ところで……一つ聞きたいんだ。お前、ハルディ先輩に狙われてないか?」
唐突な問いに、トーマスはグラスを持つ手を止めた。
「……な、何でそんなことを?」
声がわずかに震えた。動揺は隠しきれない。アランは苦笑しながらも頷いた。
「やっぱり、図星か」
「いや、別に…っていうか、どうして?」
トーマスは少し驚きながら答えた。
「そりゃ、同期として心配だからさ。実は俺、同期に彼女がいて聞いたんだ。ハルディ先輩の評判は、あまり良くないってね。仕事よりも恋愛に熱心で、狙った獲物は逃さないって話らしい」
アランはさらに言葉を重ねた。
「君、女性経験はあるか?」
「っ…!え?…ああ…、うん、まあ…」
トーマスの動揺は隠せなくなっていた。
「もし付き合う気があるなら、彼女を満足させられないと続かないぞ。
お前は仕事熱心で、期待されてる人材だ。だからこそ……色恋沙汰で駄目になってほしくないからな。付き合う気がなければ、この話は忘れてくれていい」
アランの言葉は、同じ新人としての率直な忠告だった。真剣な表情で見つめられ、トーマスは胸の奥がざわつくのを感じた。
「…ああ、分かった。気をつけるよ」
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