【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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(トーマス:回想)


 仕事を始めてから三ヶ月が過ぎたーー。

 仕事を終え、部屋へ向かうとすでに明かりがついていた。
 鍵を開けるまでもない。ジャンヌが合鍵で先に入っているのだろう。

 ドアを開けると、やはり彼女がいた。
 床には散乱していた衣服が片づけられ、流しには山積みにしていた食器がいつの間にかなくなっている。

 二日前に放置したままの状態が、すっかり整えられていた。

(……助かるな)

 声に出さずに胸の内で呟く。
 俺がどうしようもなくズボラなことを、ジャンヌは知っている。

 そして、文句ひとつ言わずに片付けてくれる。彼女のこういうところに、いつの間にか甘えるようになっていた。

 台所からは煮込み料理の匂いが漂ってくる。香りだけで、今日が俺の好物だとすぐにわかった。

「ただいま!……お、良い匂い。今日はビーフシチューか?」

 声をかけると、ジャンヌが振り向きもせず返してくる。
「もう出来上がったから、テーブル片付けてくれる?」

「ああ、わかった」
 返事をしつつも、視線は自然とテーブルの上に向かってしまう。

 そこには、一通の手紙があった。
 花柄の便箋――ハルディからのラブレターだ。

 無造作に置いてしまったせいで、ジャンヌに見られてしまったかもしれない。

「あのさ、テーブルの……読んだ?」

 別に、気づかれたからといって困るわけじゃない。それでも、妙な恥ずかしさが胸をくすぐる。
 まるで、身内にラブレターをもらったことを知られるような、居心地の悪さがあった。

 思わず探るように問いかける。

「えー?何のこと?」

 ジャンヌがとぼけるように答えた声を聞いた瞬間、胸のつかえがふっと軽くなった。


「いや、何でもない。ご飯にしよう!」
 自然と笑みが戻り、配膳を始めた。

「ジャンヌ、今日もありがとう。君がいてくれて、本当に助かる」

 口にすると、心からの言葉だった。
 彼女は頬を赤くして下を向いたけれど、それに深い意味を見いだすことはなかった。

 ジャンヌは俺にとって――家事を任せられて、愚痴を言わず一緒に飯を食べてくれる、気楽でありがたい存在。

 恋愛感情なんて特別なものではなく、それ以上を望む気持ちもなかった。彼女がいることで毎日が確かに楽になっていた。

 ソファに身を沈め、伸びをしながら思う。

「ほんと、ジャンヌが近くにいてくれて良かった。都会の人間って何考えてるかわからないし。ジャンヌだけだ、心開けるのは…」

 言葉にした瞬間、ジャンヌが少しうつむいたのが視界の端に映った。

 どうしてかはわからないけれど、きっと照れているのだろう。

 俺にとっては冗談半分、感謝半分。
 でも彼女にとっては――何か別の意味を持ってしまうのだと、この時の俺は気づきもしなかった。


***


 入社して間もない頃ーー。

 同期たちが「受付に、めちゃくちゃ可愛い先輩がいる」と休憩中に騒いでいた。

 その場の熱に押されるように、トーマスも何気なく視線を向けた。

 ふと、受付に立っていた女性――ハルディと目が合う。その瞬間、ふわりとした笑みを向けられ、トーマスは慌てて、ぎこちなく会釈を返した。

 それ以来、出社すると決まって「おはよう、トーマス君」と声を掛けられるようになった。

 一つ上の先輩であるハルディは、誰にでも分け隔てなく接しているはずなのに、不思議と自分に向けられる笑顔は特別に見えた。
 トーマスは気の利いた返事もできず、いつも「はい」とか「そうですね」と相槌を打つばかり。

 そんな不器用な様子を見て、ハルディが「ふふ、」と笑うものだから、余計に戸惑ってしまう。

 ――男である自分に向けられたその言葉は、まるで地雷のように胸に残った。

 どういう意味なのか。冗談か、それとも本気か。考え出すと落ち着かなくなる。

 休憩室での雑談も、相変わらずの流れだった。女子社員たちは恋愛話で盛り上がり、ふいに「トーマス君、彼女いるの?」と聞かれた。

「いません」と正直に答えると、案の定きゃあきゃあと騒ぎが起き、挙句「立候補したい」と冗談めかして言い出す子まで現れる。

 男子社員からは「イケメンはそこにいるだけでモテるな」と笑いが起き、場は賑わった。当の本人にとっては、いつもながらの居心地の悪さでしかなかった。

 そんなとき、ハルディが現れた。

「ふふ、皆の前で宣言するなんて……トーマス君が戸惑ってるじゃない」

 女子社員たちはバツの悪そうな顔をして、それ以上のからかいをやめた。

 その様子に安堵する間もなく、ハルディはすっと近づき、耳元で囁いた。

「……アピールするなら、こっそり、よね?」
 俺の肩に軽く触れてから、何事もなかったかのようにその場を去っていく。

 何を考えているのか、全く掴めない。
 ただ一つ言えるのは――自分の心がどんどんハルディに乱されていることだった。



 そんなある日のこと。
 仕事を終えて外に出ると、雨が強く降っていた。傘を持っていなかったトーマスは、仕方なく走って帰ろうとした。

 そのとき背後から、落ち着いた声がした。

「トーマス君、傘忘れたの?」
 振り返ると、そこにハルディが立っていた。

「二本持ってるから、一つ使って」
 そう言って差し出された傘と一緒に、小さな封筒を手渡された。

「返事は急がなくていいの。……よく考えてくれたら嬉しいな」
 そう告げて向けられた愛らしい笑顔は、あまりにも眩しく、目を逸らすことさえできなかった。

 帰宅して封筒を開くと、花柄の便箋に整った文字で一言だけ記されていた。

――好きです。付き合ってください。

 その夜から、トーマスの頭の中は、ハルディのことでいっぱいになった。

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