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(トーマス:回想)
仕事を始めてから三ヶ月が過ぎたーー。
仕事を終え、部屋へ向かうとすでに明かりがついていた。
鍵を開けるまでもない。ジャンヌが合鍵で先に入っているのだろう。
ドアを開けると、やはり彼女がいた。
床には散乱していた衣服が片づけられ、流しには山積みにしていた食器がいつの間にかなくなっている。
二日前に放置したままの状態が、すっかり整えられていた。
(……助かるな)
声に出さずに胸の内で呟く。
俺がどうしようもなくズボラなことを、ジャンヌは知っている。
そして、文句ひとつ言わずに片付けてくれる。彼女のこういうところに、いつの間にか甘えるようになっていた。
台所からは煮込み料理の匂いが漂ってくる。香りだけで、今日が俺の好物だとすぐにわかった。
「ただいま!……お、良い匂い。今日はビーフシチューか?」
声をかけると、ジャンヌが振り向きもせず返してくる。
「もう出来上がったから、テーブル片付けてくれる?」
「ああ、わかった」
返事をしつつも、視線は自然とテーブルの上に向かってしまう。
そこには、一通の手紙があった。
花柄の便箋――ハルディからのラブレターだ。
無造作に置いてしまったせいで、ジャンヌに見られてしまったかもしれない。
「あのさ、テーブルの……読んだ?」
別に、気づかれたからといって困るわけじゃない。それでも、妙な恥ずかしさが胸をくすぐる。
まるで、身内にラブレターをもらったことを知られるような、居心地の悪さがあった。
思わず探るように問いかける。
「えー?何のこと?」
ジャンヌがとぼけるように答えた声を聞いた瞬間、胸のつかえがふっと軽くなった。
「いや、何でもない。ご飯にしよう!」
自然と笑みが戻り、配膳を始めた。
「ジャンヌ、今日もありがとう。君がいてくれて、本当に助かる」
口にすると、心からの言葉だった。
彼女は頬を赤くして下を向いたけれど、それに深い意味を見いだすことはなかった。
ジャンヌは俺にとって――家事を任せられて、愚痴を言わず一緒に飯を食べてくれる、気楽でありがたい存在。
恋愛感情なんて特別なものではなく、それ以上を望む気持ちもなかった。彼女がいることで毎日が確かに楽になっていた。
ソファに身を沈め、伸びをしながら思う。
「ほんと、ジャンヌが近くにいてくれて良かった。都会の人間って何考えてるかわからないし。ジャンヌだけだ、心開けるのは…」
言葉にした瞬間、ジャンヌが少しうつむいたのが視界の端に映った。
どうしてかはわからないけれど、きっと照れているのだろう。
俺にとっては冗談半分、感謝半分。
でも彼女にとっては――何か別の意味を持ってしまうのだと、この時の俺は気づきもしなかった。
***
入社して間もない頃ーー。
同期たちが「受付に、めちゃくちゃ可愛い先輩がいる」と休憩中に騒いでいた。
その場の熱に押されるように、トーマスも何気なく視線を向けた。
ふと、受付に立っていた女性――ハルディと目が合う。その瞬間、ふわりとした笑みを向けられ、トーマスは慌てて、ぎこちなく会釈を返した。
それ以来、出社すると決まって「おはよう、トーマス君」と声を掛けられるようになった。
一つ上の先輩であるハルディは、誰にでも分け隔てなく接しているはずなのに、不思議と自分に向けられる笑顔は特別に見えた。
トーマスは気の利いた返事もできず、いつも「はい」とか「そうですね」と相槌を打つばかり。
そんな不器用な様子を見て、ハルディが「ふふ、可愛い」と笑うものだから、余計に戸惑ってしまう。
可愛い――男である自分に向けられたその言葉は、まるで地雷のように胸に残った。
どういう意味なのか。冗談か、それとも本気か。考え出すと落ち着かなくなる。
休憩室での雑談も、相変わらずの流れだった。女子社員たちは恋愛話で盛り上がり、ふいに「トーマス君、彼女いるの?」と聞かれた。
「いません」と正直に答えると、案の定きゃあきゃあと騒ぎが起き、挙句「立候補したい」と冗談めかして言い出す子まで現れる。
男子社員からは「イケメンはそこにいるだけでモテるな」と笑いが起き、場は賑わった。当の本人にとっては、いつもながらの居心地の悪さでしかなかった。
そんなとき、ハルディが現れた。
「ふふ、皆の前で宣言するなんて……トーマス君が戸惑ってるじゃない」
女子社員たちはバツの悪そうな顔をして、それ以上のからかいをやめた。
その様子に安堵する間もなく、ハルディはすっと近づき、耳元で囁いた。
「……アピールするなら、こっそり、よね?」
俺の肩に軽く触れてから、何事もなかったかのようにその場を去っていく。
何を考えているのか、全く掴めない。
ただ一つ言えるのは――自分の心がどんどんハルディに乱されていることだった。
*
そんなある日のこと。
仕事を終えて外に出ると、雨が強く降っていた。傘を持っていなかったトーマスは、仕方なく走って帰ろうとした。
そのとき背後から、落ち着いた声がした。
「トーマス君、傘忘れたの?」
振り返ると、そこにハルディが立っていた。
「二本持ってるから、一つ使って」
そう言って差し出された傘と一緒に、小さな封筒を手渡された。
「返事は急がなくていいの。……よく考えてくれたら嬉しいな」
そう告げて向けられた愛らしい笑顔は、あまりにも眩しく、目を逸らすことさえできなかった。
帰宅して封筒を開くと、花柄の便箋に整った文字で一言だけ記されていた。
――好きです。付き合ってください。
その夜から、トーマスの頭の中は、ハルディのことでいっぱいになった。
仕事を始めてから三ヶ月が過ぎたーー。
仕事を終え、部屋へ向かうとすでに明かりがついていた。
鍵を開けるまでもない。ジャンヌが合鍵で先に入っているのだろう。
ドアを開けると、やはり彼女がいた。
床には散乱していた衣服が片づけられ、流しには山積みにしていた食器がいつの間にかなくなっている。
二日前に放置したままの状態が、すっかり整えられていた。
(……助かるな)
声に出さずに胸の内で呟く。
俺がどうしようもなくズボラなことを、ジャンヌは知っている。
そして、文句ひとつ言わずに片付けてくれる。彼女のこういうところに、いつの間にか甘えるようになっていた。
台所からは煮込み料理の匂いが漂ってくる。香りだけで、今日が俺の好物だとすぐにわかった。
「ただいま!……お、良い匂い。今日はビーフシチューか?」
声をかけると、ジャンヌが振り向きもせず返してくる。
「もう出来上がったから、テーブル片付けてくれる?」
「ああ、わかった」
返事をしつつも、視線は自然とテーブルの上に向かってしまう。
そこには、一通の手紙があった。
花柄の便箋――ハルディからのラブレターだ。
無造作に置いてしまったせいで、ジャンヌに見られてしまったかもしれない。
「あのさ、テーブルの……読んだ?」
別に、気づかれたからといって困るわけじゃない。それでも、妙な恥ずかしさが胸をくすぐる。
まるで、身内にラブレターをもらったことを知られるような、居心地の悪さがあった。
思わず探るように問いかける。
「えー?何のこと?」
ジャンヌがとぼけるように答えた声を聞いた瞬間、胸のつかえがふっと軽くなった。
「いや、何でもない。ご飯にしよう!」
自然と笑みが戻り、配膳を始めた。
「ジャンヌ、今日もありがとう。君がいてくれて、本当に助かる」
口にすると、心からの言葉だった。
彼女は頬を赤くして下を向いたけれど、それに深い意味を見いだすことはなかった。
ジャンヌは俺にとって――家事を任せられて、愚痴を言わず一緒に飯を食べてくれる、気楽でありがたい存在。
恋愛感情なんて特別なものではなく、それ以上を望む気持ちもなかった。彼女がいることで毎日が確かに楽になっていた。
ソファに身を沈め、伸びをしながら思う。
「ほんと、ジャンヌが近くにいてくれて良かった。都会の人間って何考えてるかわからないし。ジャンヌだけだ、心開けるのは…」
言葉にした瞬間、ジャンヌが少しうつむいたのが視界の端に映った。
どうしてかはわからないけれど、きっと照れているのだろう。
俺にとっては冗談半分、感謝半分。
でも彼女にとっては――何か別の意味を持ってしまうのだと、この時の俺は気づきもしなかった。
***
入社して間もない頃ーー。
同期たちが「受付に、めちゃくちゃ可愛い先輩がいる」と休憩中に騒いでいた。
その場の熱に押されるように、トーマスも何気なく視線を向けた。
ふと、受付に立っていた女性――ハルディと目が合う。その瞬間、ふわりとした笑みを向けられ、トーマスは慌てて、ぎこちなく会釈を返した。
それ以来、出社すると決まって「おはよう、トーマス君」と声を掛けられるようになった。
一つ上の先輩であるハルディは、誰にでも分け隔てなく接しているはずなのに、不思議と自分に向けられる笑顔は特別に見えた。
トーマスは気の利いた返事もできず、いつも「はい」とか「そうですね」と相槌を打つばかり。
そんな不器用な様子を見て、ハルディが「ふふ、可愛い」と笑うものだから、余計に戸惑ってしまう。
可愛い――男である自分に向けられたその言葉は、まるで地雷のように胸に残った。
どういう意味なのか。冗談か、それとも本気か。考え出すと落ち着かなくなる。
休憩室での雑談も、相変わらずの流れだった。女子社員たちは恋愛話で盛り上がり、ふいに「トーマス君、彼女いるの?」と聞かれた。
「いません」と正直に答えると、案の定きゃあきゃあと騒ぎが起き、挙句「立候補したい」と冗談めかして言い出す子まで現れる。
男子社員からは「イケメンはそこにいるだけでモテるな」と笑いが起き、場は賑わった。当の本人にとっては、いつもながらの居心地の悪さでしかなかった。
そんなとき、ハルディが現れた。
「ふふ、皆の前で宣言するなんて……トーマス君が戸惑ってるじゃない」
女子社員たちはバツの悪そうな顔をして、それ以上のからかいをやめた。
その様子に安堵する間もなく、ハルディはすっと近づき、耳元で囁いた。
「……アピールするなら、こっそり、よね?」
俺の肩に軽く触れてから、何事もなかったかのようにその場を去っていく。
何を考えているのか、全く掴めない。
ただ一つ言えるのは――自分の心がどんどんハルディに乱されていることだった。
*
そんなある日のこと。
仕事を終えて外に出ると、雨が強く降っていた。傘を持っていなかったトーマスは、仕方なく走って帰ろうとした。
そのとき背後から、落ち着いた声がした。
「トーマス君、傘忘れたの?」
振り返ると、そこにハルディが立っていた。
「二本持ってるから、一つ使って」
そう言って差し出された傘と一緒に、小さな封筒を手渡された。
「返事は急がなくていいの。……よく考えてくれたら嬉しいな」
そう告げて向けられた愛らしい笑顔は、あまりにも眩しく、目を逸らすことさえできなかった。
帰宅して封筒を開くと、花柄の便箋に整った文字で一言だけ記されていた。
――好きです。付き合ってください。
その夜から、トーマスの頭の中は、ハルディのことでいっぱいになった。
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